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名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

マイ、疾走す

「カメのまぶたって、下から上にむかって閉じるんですね」
 ベランダで甲羅干しをしているカメを、マイは、いや正確にはあひるの身体をまとったマイがじっと観察している。

「ふうん、顔をなでるときは、手の甲を使うんだ」
 マイは感心したように声を上げた。
 カメの方は、突然現れた機械じかけのあひるにびっくりしたのか、初めのうちこそ頭と手足を引っ込めていた。だが、この物体は自分に害を及ぼさないと理解したのか、それともたんに関心を失ったのか、数時間もたたないうちに、以前と同じように甲羅干ししたり、頭をだらんと床に垂らして無防備に昼寝したりするようになった。
ベランダにはときどきスズメやヒヨドリが水槽の水を飲むためにやってきた。カメが水槽の中にいるのに水浴びしていくヒヨドリもいた。ヒヨドリにとってカメは眼中にないようだった。それはカメにとっても同じだった。
 一方、マイの様子は変化した。スマホの中にいたときは、話しかけたときだけ受動的に反応するスマートスピーカーのようだったマイが、動ける身体や動かせる目を得たことで行動的になった。
しばらくベランダでカメを見ていたマイは、部屋の中に入ってくると、あたりをうろうろと歩き回っていたが、突然、パタパタと音を立てて、居間の奥へと小走りしていった。

――けっこう早く走れるんだ。
 シュウイチが感心してつぶやいた。
 マイはキッチンの奥の壁で方向転換すると、また足をパタパタさせながらあわただしく走ってきた。サッシのところまで来ると、また方向転換してキッチンの方へ向かって走っていく。キッチンとベランダの間の直線距離にして7、8メートルをパタパタと3回往復すると、玄関へつうじる扉の隙間をすりぬけていった。
 それからまもなく玄関の方からマイの声がした。
「シュウイチさん、これなんですか?」
「これ?」

 シュウイチが立ち上がって玄関に向かった。マイは巨大な壺を見上げていた。
「あ、これは壺だよ」
「そのくらい、私にもわかります。景徳鎮風の壺、100年くらい前のものと思われます。でも、なぜここにあるんですか」
「さあ、最初からここにあったんだ」
「ふつう玄関の正面に、こんな大きな壺は置きません。じゃまです」
「じゃまだけど、動かさないようにっていわれてるんだよ」
「だれがいったんですか」
「不動産屋の鴨志田さん。この部屋のオーナーに動かすなっていわれているんだってさ」
「オーナーってどんな方ですか」
「知らない。鴨志田も、いや鴨志田さんも知らないらしい」
「それって変ですね」

 あひるの姿のマイがいった。
「うん」
 たしかに変だ。変ではあってもいまのところ、とくに支障はない。もともと変な取り決めでここに入ったのだし、変なものでもそれが日常になると慣れていくもので、しだいに疑問も抱かなくなっていく。それに入院したり、カメが逃げたりしたこともあって、玄関の壺など気に留めなくなっていた。

「シュウイチさん、カメがいます!」
「えっ?」
「ここです。この壺の底の方です」

 マイの「くちばし」の指している先を見ると、カメの図柄が描かれている。
「ほんとだ」
「ここにもいます」

 マイがサイドボードの上の翡翠のカメに首を向けた。
「あそこにも」

マイは壁にかかった水墨画にくちばしをむけた。そこにもカメが描かれていた。
シュウイチはうなずくと、バスルームに向かいドアを開けた。四本の足のある黄金のバスタブがマイの視界に飛び込んできた。
「これは?」

マイがバスタブを見るのは初めてだった。
「もしかして、カメですか?」
「うん」

マイはしばし黙っていた。それから、シュウイチに顔を向けると、
「オーナーの人物像について推測されることがあります」といった。
「へえ、どんなこと?」
「オーナーはカメに興味があるようです」

 シュウイチは頭をがくっと下げた。
「正解の可能性は70パーセント以上です」とマイがいった。

 シュウイチが居間に戻ろうとすると、マイがさらにいった。
「推測されることが、もう一つあります」

 シュウイチがふりむいた。
「オーナーは美術品や骨董に興味があるようです」

 シュウイチはため息をついた。

「鴨志田の話を聞いているみたいだ……」シュウイチがつぶやいた。
「そうなんですか。鴨志田さんもカメと美術品や骨董品に興味があるんですか! もしそれが事実なら、オーナーと鴨志田さんは兄弟かもしれませんね」
「いや、そういう意味じゃない。それに鴨志田さんはオーナーに会ったことがないといっているんだ」
「会ったことがないというと、幼いときに生き別れた兄弟である可能性も考えられます。可能性は2パーセント以下ですが、ゼロではありません」
「ゼロだよ!」シュウイチがいった。

 そのとき玄関の呼び鈴が鳴った。
 ドアスコープの向こうに立っていたのは鴨志田だった。
「また、あなたですか」

 シュウイチがドアを開けると、鴨志田が口を切った。
「亀山様、マイさん、ご無沙汰しております」
「昨日会ったばかりですよ」
「そうでしたね、失礼しました。ところで、私の話が出ていたようですね。聴覚が鋭いのでドア越しに聞こえてしまいました。私もカメや美術品には興味がないわけではありませんが、オーナーと生き別れた兄弟だったとは思ってもみませんでした。でも、言われてみると、私の父はほうぼうに女性がいたと母から聞いているので、異母兄弟がいてもおかしくありません。ただ兄もそういう立場上、弟に会いたくても名乗りづらいという事情があるのでしょう。私は、まったく気にしませんが、私に似てシャイなのでしょう。そんな兄の思いは尊重したいと思います……」
 シュウイチが話をさえぎった。
「それで鴨志田さん、今日はなんですか」

 そのとき突然マイがドアの隙間をすりぬけて外へ出た。
「あっ、マイ!」

 鴨志田がふりむく間もなく、マイは階段をゴムマリのように転げ落ち、踊り場で方向を変え、さらに階段を転げ落ちると、起き上がって道路へ飛び出しパタパタと勢いよく走り出した。
シュウイチと鴨志田もあとを追って下に降りた。マイはすでに20メートルほど先を本物のあひるさながらに腰を左右にふりながら走っていた。
「どうなってるんですか! 故障ですか」
 シュウイチは鴨志田にたずねた。
「さあ、カメにならって、逃げ出したのかもしれません」
あひるの両脚は回転するように小刻みに動き、加速していく。シュウイチがあとを追い、あえぎながら鴨志田がつづく。
「どうしてあんなに速いんです?」
 しかし息の上がった鴨志田にはしゃべるゆとりがない。辺境を歩きまわっているというわりには体力がないな、とシュウイチは思った。
マイがどうして突然走り出したのか。どこへ向かっているのか。シュウイチにも鴨志田にもわからなかったが、なにか異常が起きたらしいことはたしかだった。
畑へと続く道をあひるのマイは疾走していく。このままだと畑の手前の交差点に差しかかる。交差する車線はトラックの往来が激しく、信号は押しボタン式だ。でも、マイにボタンが押せるとは思えない。
 交差点の手前でマイに追いつかなくてはとシュウイチは懸命に走った。こんなに本気で走ったのはいつ以来だろうとシュウイチは思った。しかし、マイとの距離はなかなか縮まらない。
――家庭用のスマートスピーカーだろ? いったい、どんなモーターついてんだ? トータス・リコール社、なに考えているんだ。

 交差点が近づいていた。マイまでの距離はあと5メートルほどだった。
「マイ、止まれ!」シュウイチが叫んだ。
 しかし、マイは止まらなかった。ちょうどトラックの車列が交差点に差しかかるところだった。そこにあひるのマイがスピードをゆるめず突進していく。確実にぶつかるタイミングだった。
――危ない!

 シュウイチは思わず目を伏せた。衝突の瞬間を見たくなかった。
 ところが、衝突音もしなければ、クラクションも、急ブレーキの音もしなかった。気がつけばトラックは走り去り、道路の向こう側にマイの後ろ姿が見えた。
――あれ?
 よくわからないが、ぶつからなかったらしい。
 シュウイチがほっとして交差点を横断しようとしたとき、マイの動きが止まっているのに気がついた。そして次の瞬間、マイの、正確にはあひるの体が横にパタリと倒れた。

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著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

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