web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

イルカの家のチヨ

「支払いはすませました。さあ、行きましょう」
 退院するシュウイチを鴨志田が迎えに来たのは、その翌朝だった。
 夕べ、あまり眠れなかったので、もうすこし横になっていたかったシュウイチだったが、鴨志田はおかまいなしだった。
「治療費はモビーダック社の保険部門に請求しますので、ご心配なく」
「保険?」
「そうです。亀山様はモビーダック社のクライアントですから、ちゃんと保険でカバーされます。大船に乗った気持ちでいてください。もし、亀山様がAIモニターを断わっていたら自腹になるところでした。亀山様は本当に運がいい」鴨志田が満足そうにうなずいた。
 シュウイチはゆっくりベッドから足をおろして立ち上がった。少しめまいがして、思わずベッドに手をついた。
「大丈夫ですか?」背後から声がした。
 シュウイチがふりむくと枕元のスマホの画面でアニメのナースが心配そうな顔をしている。
 シュウイチがそれに答えようとすると、「大丈夫です!」と鴨志田がいった。

——なんであんたが答える?
「亀山様なら大丈夫」鴨志田が大きくうなずきながらいった。
「あなたに聞いていません。シュウイチさんに聞いたんです!」ナース姿のマイがいった。
 鴨志田は画面を覗き込むと、「これはこれは。トータス・リコール社のAIさんですね。ナースなんですね! いまの亀山様にぴったりです」
 鴨志田が満面の笑みを浮かべた。その無神経な物言いにいらっとして、シュウイチは鴨志田をにらみつけた。
「ふざけんなよ!」怒鳴ったのはマイだった。「だいたい、あなたがシュウイチさんの上に落ちたのよ。あなたが怪我しなかったのは、シュウイチさんのおかげなのよ! 元はと言えば、みんな、あんたのせいなのよ。わかってる? どうなの鴨志田!」

 マイの手厳しい口調にシュウイチは驚いた。だが、それこそまさにシュウイチがいいたいことだった。鴨志田は笑いを顔に貼りつけたまま一瞬固まった。
「いやー、これは失礼しました。いまいわれて私、はっきりと理解しました。私の重みのせいでそこまでつらい思いをされていたとは不肖鴨志田、不徳の致すところ、まことに忸怩たる思いです。冬の間筋トレをつづけていたので、筋肉がついて亀山様に負担をかけてしまいました。これを機に不退転の決意でダイエットに励みます。よくわかりました。申し訳ございません」
 そういって鴨志田は頭を下げた。鴨志田がなにもわかっていないことだけはシュウイチにもよくわかった。

 鴨志田はシュウイチのわずかな荷物をもって先に病院の玄関へ向かった。シュウイチは顔を洗い、服を着替え、そのあとを追った。
「そういえば、なんで鴨志田がぼくの上に落ちてきたってこと知っているの?」
「見ていましたから」
「見ていた?」
 スマホの画面が動画再生の画面に変わった。画面の中に階段や踊り場、鴨志田やシュウイチ、そして鶴田さんらしき断片的映像が入れ代わり立ち代わりぐるぐる流れ、何かゴスンとぶつかる音や鶴田さんの「あらまあ」という声が聞こえた。シュウイチが落ちたときの映像だった。スマホは鴨志田が手にしていたのだろう。再生が終わると、画面にまたナース姿のマイが現れた。
「こんなことまで記録しているんだ。最近のAIってすごいんだね。でも、本当にびっくりしたのは、さっきマイが鴨志田にぴしゃりといったこと。あれは爽快だったなあ。マイって、あんなこといえるんだ。AIって聞かれたことに答えることしかできないと思ってたから……」
「やっとマイと呼んでくれましたね」ナース姿のマイが目を細めて微笑んだ。

 玄関へ近づくと、クルマの中から手をふる鴨志田の姿が目に入った。
「亀山様、こちらです!」
 近づいていくと、助手席にだれか乗っているのに気づいた。サングラスにイルカ柄のマスクをつけている。鶴田さんだ。
「退院おめでとう! たいへんだったわねえ」
「鶴田さん……どうしたんですか?」
「迎えに来たのよ」そういうと、鶴田さんはスプレーをとりだして、開いた窓からシュウイチに向けてシュッ、シュッ、シュッと入念に吹きかけた。
「団地の前の道で偶然、鶴田様と会ったんです。亀山様を迎えに行くと申し上げたら、ぜひごいっしょしたいとおっしゃるので、いっしょに参りました。こんなに気にかけてもらえる亀山様は本当に運がいいです」
「そうよ」鶴田さんもうなずいた。「あなた運がいいわ」
「はあ……」

 シュウイチが後部座席に乗ると、クルマは走り出した。住宅街を抜けると下り坂になり、道の片側には雑木林が広がっている。どのあたりなのか、土地勘のないシュウイチにはわからなかった。
「先に見える大きなイチョウの木があるあたりでとめてくださる?」鶴田さんが前方を指さして鴨志田にいった。
「かしこまりました」
「そこで用事があるんですか?」シュウイチがいった。
「ええ。あなたもいっしょにいらっしゃい」
「なんでしょう?」
「来ればわかるわ」

 クルマが停まると鶴田さんが先に降りた。雑木林の少し奥に平屋の古い一軒家がある。鶴田さんの知り合いだろうか。
「あの、申し訳ないんですが、まだ体調がすぐれないので、今日のところは先に帰りたいんですが」シュウイチがいった。
「だから来たのよ」鶴田さんが振り向いていった。
「えっ?」
「体調をよくするために来たのよ。安心しなさい、すぐ終わるから」

 仕方なくシュウイチも車から降りた。
「あの、恐縮ですが、私もごいっしょしてよろしいでしょうか。私も階段から落ちまして、体調が万全というわけではないので」鴨志田がいった。
「もちろん、かまいませんわ」
「ありがとうございます。私、こう見えても内気で繊細なもので、なにかとストレスをためやすいんです。先日鶴田様が亀山様に治療のようなものを施されているのを拝見して、これは鶴田様はなにか特別な能力をお持ちなのではないかとひそかに読んでいました。私、勘だけは鋭いんです。と申しますのもですね……」

 鴨志田がしゃべっている間に、鶴田さんは戸の脇の呼び鈴を押した。中から「どうぞ」という声がした。鶴田さんが戸を開けると、玄関の奥に20畳ほどの日当たりの良い広間が見えた。年配の女性が5、6人、椅子にすわったり、座布団にすわっていたりして、談笑したり、編み物をしたり、ぼんやりたたずんでいたりした。
「ここはどういうところなんですか」シュウイチが鶴田さんに聞いた。
「私たちの家よ」
「家?」
「そう、住んでいる家ではなくて、ふるさとみたいな家。私たちはイルカの家とも呼んでいるわ」

 見ると、広間の女性たちはみなイルカ柄のマスクをしている。

「みなさん、いらっしゃい、愛してます」

 いちばん奥ですわっていた老齢の女性が両手を胸に当てて頭を下げた。つづいて鶴田さんも同じように「愛してます」といって胸に手を当てて頭を下げた。さらに広間にいたほかの女性たちが「愛してます」と唱和して胸に手を当てて頭を下げた。
 鴨志田もそれにならって胸に手を当て「みなさん、私も愛してます!」といって頭を下げた。すると、女性たちが「愛してます」と声を合わせた。あっけにとられているシュウイチに鴨志田が目配せした。

「あ、みなさん、はじめまして、亀山といいます。鶴田さんの近所に住んでいて、鶴田さんにはたいへんお世話になっています……」

 みな頭を下げて、胸に手を当てたままだった。シュウイチは観念した。
「……愛してます」
 シュウイチが小さな声でいうと、みなも鴨志田も「愛してます」と唱和し、それから拍手が起きた。鶴田さんは、シュウイチと鴨志田に椅子にすわるよううながした。
 奥にすわっている女性が目を伏せたまま、杖を手に立ち上がった。小柄だが、立ち姿はしっかりとしている。白くなった髪をお団子のように束ねて頭の上にのせ、細かい刺繍のほどこされたえんじ色のガウンを羽織っている。

「イルカの家へようこそ! 私はチヨと申します。亀山さんのことはマユミさんから伺いました。災難でしたね」
「マユミさん?」
「私、下の名前マユミなんですの。申し上げませんでしたっけ。」鶴田さんがいった。
「もうひとりの方は、なんとおっしゃいましたっけ」チヨがいった。
「あ、鴨志田と申します。不動産屋で亀山様のお住いのお世話をしております。もしお売りになりたい物件などございましたら、私どものほうへ御用命ください。それはさておき、先ほどチヨ様がおっしゃっていたイルカの家とはどのようなものなのでございましょう」

 チヨは椅子に腰を下ろすと話しはじめた。
「鴨志田さん、とおっしゃいましたね。鴨志田さんがいつからこちらにおられるのか存じませんが、いまから40年以上前に、あちらの川にイルカが現れたことがあったんです。当時は大きな話題になって、わざわざ遠くからイルカを見に来る人たちもおおぜいいました。私もその一人でした。今日はお見えになっていない方もいますが、ここに集う方たちの多くは、あのとき、ここの川でイルカを見た人たちです。そして、イルカとの出会いをきっかけに、人生が変わった人たちなんです」
 チヨが言葉を切った。まわりの者たちがうなずいた。
「あのう、人生が変わったって、いいことがあった、ということですか」シュウイチがいった。
「かならずしも、そうとはかぎりません。たとえば、私などは視力を失いました。ここでイルカを見て、まもなくのことでした」

 シュウイチがチヨの顔を見た。目を伏せていたのではなく、目が見えなかったのだ。
「でも、目が見えないことが不幸とはかぎりません。そのことを学んだのもイルカからです。この話をすると長くなりますので、今日はやめておきましょう。それより、マユミさんがあなたを見てやってくれとおっしゃるので、それをすませましょう」
 チヨは杖を手にふたたび立ち上がった。となりの女性に手を引かれて、シュウイチの方へ近づいてくる。シュウイチが椅子から立ち上がろうとすると、チヨの手を引く女性が制した。
 チヨはシュウイチの正面まで来ると、杖を女性に渡し両手をシュウイチの頭の上にかざした。手はかすかに震えていたが、それが加齢による症状なのか、そうでないものなのかはシュウイチにはわからなかった。チヨは手をかざしたままぶつぶつと何やら唱えていた。手かざし治療のようなものかもしれないとシュウイチは思った。

「終わりました」
 ものの1分くらいだった。思いのほかあっけない。
「えーと、いまのは、何ですか」シュウイチがいった。チヨはふりむくと「お祈りです」と一言いうと、手を引かれて自分の席へと戻っていった。
 椅子にすわるとチヨは「来てくださって、ありがとうございました。今日は帰って休んでください。愛しています」といった。
 そのとき鴨志田が立ち上がった。
「あのう、階段から落ちたのは亀山様だけでなく私もなんですが、ひょっとしたら私も知らぬ間に大きな傷を負っている可能性がないとはいえないかもしれないのですが。私はその、人知を超えた神秘的な力が存在することについてはオープンマインドを自負しておりまして、そのことははっきり申し上げておきたいと思いまして」
チヨや他の女性たちも鴨志田のいったことがよくわからないようだった。そこでシュウイチが「鴨志田さんもお祈りしてほしいそうです」と翻訳した。すると、チヨが「鴨志田さんには必要ありません」といった。
「そうですか。ただ、私は繊細なもので心の傷を追っている可能性もなくはないと……」
「心の傷もありません。大丈夫です。愛しています」チヨがいった。
「……そうですか。安心いたしました。怪我の功名でしょうか。ちょっとちがいますか。はははは」鴨志田がからからと笑った。

「いやあ、驚きました。あれはイルカを信じる宗教のようなものなんでしょうかね。ナイジェリアへ行ったとき、村でヘビが崇められていたことがありましたが、イルカはなかったですねえ」
 ハンドルを握る鴨志田がいった。鶴田さんはイルカの家にまだいるというので、クルマには鴨志田とシュウイチだけが乗っていた。
「ところで、あのチヨさんという方のお祈り、亀山様、なにか感じられましたか。こう、なにか光が見えたとか、そういうのはなかったですか」
「いえ、とくに」
「そうですか。私なら繊細なので、きっとなにか感じていたと思います。かえすがえすも残念です。亀山様はじつに運がいい」

 鴨志田にいったとおり、チヨの手かざしを受けたとき、シュウイチはなにも感じなかった。けれども、チヨのおかげではないかもしれないが、病院を出たときに残っていためまいはいつのまにか消えていた。
 そのときシュウイチはマイのことを思い出した。あのイルカの家のことについてマイと話してみたいと思った。

 クルマが団地に着いて鴨志田が去ったあと、シュウイチはポケットに入れていたスマホを取り出した。だが、どうすればマイを呼び出せるのかわからない。これまでは、いつのまにか現れてきたからだ。

「ヘイ、マイ!」シュウイチは呼びかけてみた。
 反応はない。
「オーケー、マイ」
 やはり反応はない。
 しかたなくドアを開け、靴を脱ぎ、部屋に上がった。天井では水かげろうが穏やかに揺れていた。
 ふいに、さきほどのイルカの家でのあいさつを思い出し、何の気なしにつぶやいた。

「愛してます……」

 そのときスマホの画面がぱっと明るくなって、「そういうのやめてください。セクハラです」とマイがいった。
「聞こえていたの……」
 マイに話しかけたわけではなかったが、弁解するまもなかった。
「他人に、いきなりそんなふうに話しかけないでしょう。礼儀を持って接することって規約に書いてあります。お読みになりましたか」
「いえ、すみません」
「あとで送っておきます。読んでおいてください」
「……はい」
「で、どういうご用件でしょう」
 シュウイチはサッシを開けてベランダに出ていた。水槽をのぞきこみ、それからエアコンの室外機の周囲や植木鉢の間などを見回した。
「カメが……」シュウイチがいった。
「カメがどうしたんですか?」

「カメが、ない」

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる