web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

マイと居待月を見る病院の夜

 どのくらい時間がたったのか、わからなかった。
 目を開けると、白い天井が見えた。水かげろうはない。いつのまにか寝てしまったらしい。しかし、よく見ると、いつも寝起きしている部屋の天井ではないことに気がついた。消毒薬の匂いもする。
 はっとして声を上げると、「あら、気がついたのね」と声がして、シュウイチの真上にマスクにサングラスをした顔が現れた。マスクにイルカのイラストが描いてある。

 「つ、鶴田さん……」

 シュウイチが顔をあげようとすると、頭がぐらっと揺れる感覚がして、背中に鈍い痛みが走った。

 「動かないで。そこのあなた、先生を呼んで」鶴田さんがシュウイチの体越しに反対側に呼びかけた。しかし、反対側から返事はない。
 「そこのあなた!」鶴田さんがもう一度大きな声を出すと、反対側から「うわーっ」と悲鳴のような声が上がった。鴨志田の声だ。
 「はっ、すみません。私としたことが不覚にも寝落ちしてしまったようです。どうやら夢を見ておりました。大人になってからはめったに夢など見なくなったのですが、いまのはたしかに夢でした。この年になってもまだ夢を見てもいいのですね。なんというか目が覚めたような気がします……」
 「ごちゃごちゃいってないで、さっさと先生を呼んできなさい!」
 「はっ、はい!」鴨志田は鶴田さんを見て、それからシュウイチを見ると立ち上がって出ていった。
 「覚えていらっしゃる?」鶴田さんがいった。
 「ここは?」
 「病院よ。あなた階段から落ちたのよ」
 「落ちた……」

 シュウイチは記憶をたぐり寄せようとした。雨の降りしきる風景が浮かんだ。そうだ。あのとき踊り場に鶴田さんがいて、ぼくとなにやら話をした。そのあとは、そうだ、鴨志田がやってきたのだ。でも、なんで鴨志田が? そうか、鴨志田がスマホの引き取りにやってきて家に上がったんだ。その鴨志田が帰ろうとして玄関にやってきた。そのときにもみ合いになった。どうして? そうだ。鴨志田がスマホを引き取って帰ろうとするので、引き留めた。だが、そのあとは思い出せなかった。

 「それにしても、よかったわ。あんな落ち方したから、びっくりしたのだけど、先生の話では頭は大丈夫らしいわ」
 「私はどんなふうに落ちたんですか?」
 「あの方、名前なんておっしゃるのかしら?」
 「鴨志田さんです」
 「その鴨志田さんといっしょに落ちたのよ」
 「鴨志田さんと?」
 「床が雨で濡れていて滑りやすかったから。こんど管理組合に滑り止めをつけるよう要望書を出しておくわ」
 「鴨志田さんは大丈夫だったんですか」
 「そう、あの方、あなたの上に落ちたの。あなたがクッションになったから無事だった。運がいいわね」
 「そうですね……」
 「でも、あなただって運がよかったのよ。あなたが落ちて動かなくなっていたとき、あたくし、イルカの癒やしのマントラを耳元でずっと唱えていましたの。すごいパワーのある言葉ですの。頭にも異常がなかったのは、そのおかげよ」
 「はあ……」

 鴨志田といっしょにやってきた医師の話によると、打撲などがあるものの、CT所見では脳にとくに異常は見られない。ただ、軽い脳震盪があるようなので経過観察のために一日だけ入院しなさいとのことだった。
 「南アルプスの山で滑落しかけたことがあります。あの日も今日みたいな雨が降っていました」鴨志田がいった。「野生の勘というやつでしょうか。すかさず体が動いて、手にふれた蔓にしがみついたんです。なんとか体を支えることができて、後ろを見ると、あとほんの数メートルで千尋の谷でした。生きた心地がしないとはああいう状況ですね。仮に、あの場にいたのが、私でなく亀山様だったら、こうして無事でいられることはなかったでしょう。亀山様は運がよかった」

 鴨志田の話はやっぱりよくわからない。だいたい、人をクッション代わりにして助かったのに、それについてなにかいうことはないのか。鴨志田は意に介している様子もなく、カバンから水筒を取り出すと、どこからかもってきた紙コップに注いで、自分で飲みだした。
 「まだ、温かいです。みなさんもいかがですか。特製ブレンドの中国茶です。健康にいいんですよ。紙コップもあります」
 「あら、健康にいいんですの? あたくしもいただきたいわ」鶴田さんがいった。
 「どうぞどうぞ」
 鴨志田が紙コップを並べた。カップの内側と外側に目盛りがついている。外側には名前を書く欄がある。
 「これって検尿用のカップじゃないですか!」シュウイチがいった。
 「さあ、あっちにいっぱいあったものですから」
 鴨志田は気にせずカップに茶を注いだ。明るい黄色の液体から湯気が立っている。
 「サハラ砂漠で、水筒のキャップがゆるんで気がついたら水が漏れてなくなっていたことがあります」」鴨志田がいった。
 「サハラ砂漠?」
 「はい!」鴨志田が屈託のない笑いをうかべていった。
 「あの、アフリカの……」
 「正確には北アフリカです」
 「……」
 「話を続けますね。そう、水がなくなってしまったんです。ものすごい日差しで、あたりには草一本生えておらず、のどがどうしようもなく渇き、このままでは命が危ないと判断して、やむなく自分のおしっこを飲みました。あのときも、こんな湯気が立っていました。でも、もちろん、ちゃんとした検尿カップなんてありません。いつも使っているアルミのカップで飲むしかありませんでした。そのあと偶然通りかかった遊牧民のおかげで九死に一生を得ました。あの経験があったからこそ、いまの私があるといっても過言ではありません」

 シュウイチがぽかんとしていると、「あら、あたくしもお小水飲んだことありましてよ」と鶴田さんがいった。
 「おや、それは奇遇ですね」鴨志田がいった。
 「飲尿療法というのがありますの。お友だちに健康にいいって勧められて、あたくししばらくやっていましたの」
 「ほう、それはそれは。効果あるんですか?」鴨志田が興味深そうに聞いた。
 「体はこわさなかったから、きっと効いていたんだと思います」
 「ほう、それはそれは」鴨志田が感心してうなずいた。

 ーーそれって効いていたわけじゃないだろ……。
 「でも、あたくし、もっとすごいもの飲んだことありますの」
 「ほお、何でしょう?」鴨志田が体を乗り出した。
 「イルカのお小水ですの」
 「イ、イルカの……」さすがの鴨志田も言葉に詰まった。「でも、なんでまた……」
 「それは長い話になりますから、いつかまた。でも、これが、ものすごくしょっぱいんですの。びっくりしましたわ」
 「しょ、しょっぱいんですか?」
 「そうですの。海の水くらいしょっぱいんですの。それにくらべれば、人のお小水なんて真水みたいなものですわ」鶴田さんは検尿カップの中国茶をごくりと飲んだ。
 「あらおいしい。お小水とどっちが健康にいいのかしら」
 「そりゃ、このお茶を飲んで出たお小水にまさるものはないでしょう」といって鴨志田が笑った。
 「あら、鴨志田さんたら」鶴田さんもマスクをした口に手を当てて笑った。
 頭が痛くなってきた。階段から落ちたせいではない。

 「あのう、疲れたんで少し休みたいんですが」とシュウイチはいった。「それで鴨志田さん、例のAIのスマホなんですが、どうなりましたか?」
 「あ、あれですか。亀山様のお気に召さないようでしたので、引き取ってまいります。ほかのモニターの方を探します」
 「その件ですけど、考え直していただけますか」
 「と申しますと?」
 「いや、ちょっと気が変わって、モニターを引き受けてもいいかなと……」
 「お気を遣われなくてかまいません。私の方こそ、亀山様に無理なお願いをして深く反省しているところです。今回のことはその報いといってもいいかもしれません」
 「何ですか、それ!」
 「モニターって何かしら?」鶴田さんがベッド越しに身を乗り出した。
 「おやりになります?」鴨志田が鶴田さんを見て含み笑いをした。
 「鴨志田さん、私やりますから」シュウイチは二人を遮るように上半身をがばっと起こした。「最初のお話しどおり、私がモニターやります!」
 そういったあと、急に視界が暗くなり意識が遠のくのがわかった。急に体を起こしたせいかもしれなかった。シュウイチはふたたびベッドに倒れ込んだ。

 夜の病室。窓際のシュウイチのベッドに、カーテンの隙間から月明かりがさしている。サイドテーブルの上に置かれたスマホの画面が呼吸でもしているかのようにぼんやり明るくなったり、暗くなったりを繰り返している。そのリズムはかたわらで寝ているシュウイチの寝息に同期している。
 スマホの画面が赤く光ったとき、シュウイチが大きないびきをかいた。自分のいびきでシュウイチはふいに目が覚めた。
 シュウイチはカーテンの隙間に目をやった。雨はとうにやんでいた。満月を数日過ぎて欠け始めた月が中天にかかっている。そのときシュウイチはベランダのカメのことを思い出した。

 ーーカメはどうしているのだろう。カメもこんなふうに夜中にふいに目が覚めることがあるのだろうか。そんなとき月が出ていたら、首を上げて月を見たりするのだろうか。
 そのときサイドテーブルの上でほのかに明滅する光に気づいた。鴨志田が送ってきたスマホだった。
 ーー鴨志田が置いていってくれたんだ。
 シュウイチは穏やかに呼吸するスマホを手にした。どこにでもありそうなシンプルなデザインのスマートフォン。その呼吸する画面をしばらく見つめていた。鴨志田のいうことはいつもよくわからない。わからないというより、かなり怪しい。本当にただの不動産屋なのだろうか。AIのモニターというのも、よくわからない。だが、それをいうなら、カメの世話をすればタダ同然で団地に住めるということからして怪しい。モビーダックとか、トータス・リコールとか、もうわけがわからない。
 AIなんて情報を吸い取られるだけだ。だが、吸い取られて困る情報が自分にあるとは思えない。だったら、逆に、 それを利用してあっちの情報を探ってやろう。でも、シュウイチがモニターを引き受ける気になった理由はそれだけではなかった。カメと赤いコートの浦島太郎が、荒川をさかのぼってやってくる荒唐無稽な動画を目にしていたとき、久しぶりに胸の中に沸き立つものを感じたからだった。

 お手洗いに行こうとシュウイチは起き上がった。サンダルをはいて、カーテンを引いた。そこは4人部屋で、ほかのベッドもカーテンに覆われていた。中がほのかに明るんでいるのは、スマホでも見ているのだろう。
 用を足してベッドに戻ると、ふたたびベッドに横になった。
 そのときサイドテーブルのスマホがパッと光って、
 「ひどい目にあいましたね」と声がした。

 ーーえっ?
 画面にナースの格好をしたアニメの女性が映っている。どう見ても、怪しげな有料サイトの広告だ。なんでこんなのが。
 画面をシャットダウンしようとすると、
 「ちょっと待ってください、あなたシュウイチさんでしょ?」とアニメのナースがいう。声もアニメっぽい。
 どういうことだ。鴨志田が個人情報を有料サイトに流したのか? いぶかっていると、「トータス・リコールから参りましたマイです。マイは漢字だと〈大盤振る舞い〉の〈舞〉です」といった。
 「お、おおばんぶるまい?」

 ーーどんな字を書くんだ。
 「わかりにくかったらごめんなさい。〈店仕舞〉の〈舞〉です」
 「みせじまい?」
 「最近の人は漢字を知らないのね。〈獅子舞〉の〈舞〉。これならわかります?」
 「あ、あの〈舞う〉という字。で、そのマイさんが何の用ですか」
 「何の用って、会社から行くようにいわれたから来たんです。シュウイチさんがモニターを引き受けたからって」
 「ということは、例のAIですか」
 「例のかどうかはわかりませんが、AIです」
 「思っていたのと、ずいぶんちがいます」
 「そうですか」
 「だいたい、なんで看護師なんですか。怪しすぎますよ」
 「病院バージョンです。アバターなのでいくらでも変えられますけど。いやならドクターにしましょうか。詳細をいっていただければ、たとえば50代男性泌尿器科医、離婚歴ありというのも可能です。その場合、名前は舞蔵になります」
 声が途中から野太い中年男性に変わった。
 「前のままでいいです」思わず声が大きくなった。
  隣のベッドの方から咳払いが聞こえた。シュウイチは声をひそめた。
 「夜遅いんですよ。なんでこんな時間に出てくるんですか。ていうか、AIなんですよね。AIってことは、何か用があるときに、応えてくれるっていうアレじゃないですか。Hey, Siriとか、オッケーなんとかとか、ああいうのとちがうんですか。えーと、ちょっと待ってください」
 シュウイチはスマホを持って病室の外へ出た。暗く静まりかえった廊下の先に小さな談話スペースがあった。灯りはついておらず、大きな窓から中天にかかる月が見えた。その月に向いたベンチに腰かけ、シュウイチはイヤホンをつけた。

 「ええと、なんでしたっけ。そう、だいたい私AIなんて興味ないんですよ」
 「興味をもっていただかなくても問題ありませんから、ご安心ください」画面の中のマイが無表情にいった。
 「人間らしくないな……」
 「よくいわれます……」
 「いったい、モニターって何なんですか。トータス・リコールって、なにが狙いなんですか?」
 「わかりません」
 「わかりませんって、AIなんでしょう? 隠しているんですか」
 「隠しているわけではありません。AIだって、わからないものはわからないんです」
 「うーん、鴨志田の、いや鴨志田さんの話では、新しい対話型AIのモニターという説明で、結局よくわからなかったんですが、AIもわかっているわけではないのか。なんなんだろう」
 「隠していることもあります。だれだって秘密はあります。それはわざわざいう必要のないことです。でも、トータス・リコールの目的がなにかってことは、私もわからないんです」
 「ということは、自分が何のために作られたのか、わからないということですか。機械だからしょうがないのか」
 「では、シュウイチさんは、何のために生まれてきたのかわかっているんですか」
 「……」
 「すみません、興味なくてもかまいませんが、AIではなくて、マイと呼んでくださいます? 人と話すときに『おい、人間!』なんて呼ばれたら、あまりいい気はしないですよね」
 「……そうですね、失礼しました。そういうところAIぽくないですね……」
 「シュウイチさん、AIについてどんなイメージをもってます?」
 「どんなって……あまりいいイメージないな」
 「いいイメージがないって、たとえばAIが人間の仕事を奪うとか、ですか?」
 「……」

 シュウイチは思い出した。元はといえば、シュウイチが仕事をやめたきっかけはAIだった。
 「職場にAIが入ってきたんだ」シュウイチは窓の外の住宅街の明かりを見ながらいった。「介護関係の仕事をしていたんです。介護の仕事って、一生懸命やろうとすると、いくらでもやれることがある。だから過剰労働になりがちで、疲れ切ってやめる人も多くて、人の入れ替わりが激しい。でも、患者からすれば、せっかく親しくなったスタッフがしょっちゅう入れ替わるのは、けっこうなストレスなんだ」
 「そうなんですね」
 「そこでAIが導入された。人が変わっても、患者のデータを申し送りできるようにということで、それはいいと思うんだけど、やりかたが極端だった。患者にチップをつけて病歴とか家族構成、性格や口癖などの情報を集め、それをスタッフで共有できるようにした。さらにスタッフが入れ替わっても、入れ替わったことに気付かれないように、コスプレをさせれられ、名前を与えられ、それを演じるようにいわれた」
 「それって、ディズニーランドみたいですね。ミッキーマウスの中の人は入れ替わっても、ミッキーマウスは変わらない。アバターになりきるということですね」
 「そう、それを要求された。話す内容もケアの仕方もAIの指示で行う。人が入れ替わっても、同じレベルのケアができるというのが会社の言い分なんだけど、本音はコストカットさ。話題にはなったけど、仕事はちっとも面白くなくなった。ディズニーランドで働きたいわけではなかったからね。……こんな話、AIにしても仕方ないけど」
 「AIじゃなくて、マイです」
 「あっ、そうだった。すみません、マイさん」
 シュウイチは窓の向こうの月を見上げた。
 「なにを見ているんですか?」
 「月です」
 シュウイチは画面を窓の外に向けた。
 「居待月ですね」
 「いまちづき?」
 「月齢17日目の月をそう呼ぶんです。月の出が遅いから、焦らず、すわってのんびり待っていなさい。そのうちに出てくるから、というような意味です」
 「へえ、さすがAI」
 「マイです」

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる