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哲学探究3 永井均

第10回

シドニー・シューメイカーの洞察も独在性によって根拠づけられねばならない

 

1 ザハヴィが依拠しているもう一人の分析哲学者、シドニー・シューメイカーの議論についても、ここで私の観点から批評しておきたい。1968年にJournal of Philosophy, 65に掲載され、1984年に彼のIdentity Cause and Mind (Cambridge University Press)に収録された論文「Self-Reference and Self-Awareness(自己指示と自己認知)」をもっぱら対象とし、その論脈に沿って検討していこう。

*言及と引用はすべてこの論文からであり、先に前者の頁を、後に後者の頁を記す。 

2 出発点はもちろん、ウィトゲンシュタインに由来する「私」の主体としての用法と対象としての用法の区別であり、主体としての用法の場合の誤同定による誤りの不可能性である。シューメイカーはそれを「第一人称代名詞にかんする誤同定による誤りに対して免疫がある(immune to error through misidentification relative to the first-person pronoun)」と表現している。予めひとこと言っておくなら、私はこの定式化に対してすでに疑念を抱いている。免疫がある(immune)という比喩は外からの異物の侵入を防いでいるというニュアンスがあるだろうが、これはシューメイカーが誤同定を犯すことによって誤るということを異物が侵入してくることのように捉えていることを示しているだろう。この捉え方は根本的に間違っていると私は思う。話はむしろ逆でなければならない。何でも侵入して来れるのだが、そこへしか侵入して来れない(なぜならそもそもそこしか存在しないから)、というのが誤同定不可能性の真の意味でなければならないだろう。それと隣り合うものはそもそも存在しないため、隔てる鉄壁の壁のごときも不要なのだ。もしそうでなければ、すなわち異物が決して入って来れないだけであるなら、ただ互いに他と完全に隔絶されているというだけのことであって、それは誤同定が不可能であるということとは違う問題ではなかろうか。互いに他者と完全に隔絶されているというだけでは、そうした多数の孤絶体のなかのどれが自分であるかはわからないだろう。 

*どれもその内側からしか体験できないという条件がそこに付け加えられても、それら複数の内側のうちどの内側が自分である内側なのかは、それだけではやはりわからないだろう。複数個存在する私秘的体験群のうちどれが自分の私秘的体験群であるかはどのようにしてわかるのか。この問題が考慮に入れられていないかぎり、誤同定不可能性問題にはそもそも手がつけられていないといわざるをえない。問題提起者であるシューメイカーはじつはこの問題に手をつけていないと私は思う。 

3 シューメイカー自身の論述に戻れば、彼はこの「免疫」を以下のように解説している。まず「aはφである」という言明が「a」にかんする誤同定による誤りを犯すとはどういうことかといえば、話者はあるものがφであるということをたしかに知っているのだが、それがφであると彼が知っているそのあるものは「a」が指しているものなのだと(そこを)誤って考えているために、ただそのためにのみ、誤って「aはφである」と考えてしまう、ということである。ところでしかし、「私は痛みを感じている」という言明にかんしては「私」にかんする誤同定による誤りを犯しえない。話者はある人が痛みを感じているということをたしかに知っているのだが、その話者がそのある人が痛みを感じているやつだと知っているそのある人は「私」が指している(=「私」という語によって指されている)やつなのだと(そこを)誤って捉えているために、ただそのためにのみ、誤って「私は痛みを感じている」と考えてしまう、などということは起こりえない。これをシューメイカーは「絶対的免疫性」と呼ぶ。これに対して、「私はテーブルに面している」のような言明は、自分の目の前にテーブルが見えているような状況下においては、「私は視野の真ん中にテーブルが見えている」という絶対的免疫性をもつ言明から帰結するがゆえに、「付随的免疫性」をもつとされる。 

4 続けてシューメイカーは、やはり同定をともなわない指示が成立する「私」以外のケースとして、「これ(this)」を考察の対象とする。彼は「私が「これは赤い」と言える二つの場合を考えよう」(558頁、9頁)と議論を開始する。一つは、目の前にある赤い物を見ながら「これは赤い」と言うような場合であり、この場合の「これ」は話者が指すことを意図しているその物を指すしかないので、誤同定の可能性がない。もう一つは、それが赤いことを記憶しているある物を、それを見ずに(たとえば手で触れた感触で識別することで)「これは赤い」と言うような場合で、その場合の「これ」は話者が指すことを意図しているその赤い物とは別の物を指している可能性があるので、誤同定の可能性があるといえる。 

*論脈とは関係ないが一言。この原文はConsider two cases in which I might say “This is red.”であり、普通に読めばこの「私(I)」はシューメイカー自身を指すはずだが、こういう議論の場合には同時に「私(I)」一般をも意味することが意図されている。哲学書を読み始めて以来ずっと、私はこの種の例文に接するたびごとに強い違和感を感じ続けてきた。哲学者たちは、分析哲学者だけでなく現象学者でさえも、この同一視にひどく無神経なのだ。いまあなたが問うている問いの真の意味はまさにそこに(その無神経さの成立に)こそ隠されているのではないか、と問いかけたい気持ちを抑えられなかった。 

5 これに対して、「私」の指示には話者の意図が関与する余地がない、とシューメイカーは言う。この指摘に続けて彼は、にもかかわらず「これは赤い」の場合は、幻覚である場合のように、指示の失敗の可能性があるのに対し、「私」にはその可能性がない、と言う。この点についても異論がなくはないのだが、議論の本筋からは外れるのでそれには触れないことにするとして、さらに続けて彼は、時間が経過した場合、前者の「これ」には持続性がなく、「これは赤かった」とは言えない(言えば誤同定による誤りの可能性が生じる)のに対し、後者の「私」には持続性があり、そのまま(たとえば)「私はカナリアを見た」と言える(=そうしても誤同定による誤りの可能性は生じない)と言う。そして、それは「記憶に基づいてそう言われる場合には、同定を伴っておらず、誤同定による誤りの可能性がない」(559頁、10頁)からだ、と。これは重大な主張で、何故そう言えるのかは慎重に検討されねばならない。私の本格的な議論は次回以降に〈私〉の持続について論じる際に関連しておこなう予定だが、あらかじめ私見の一端を述べておくなら、記憶においては誤同定不可能な自己認知が、最初に出来事を体験した時点とそれを思い出す時点との二回起きるが、この二回において誤同定不可能性の意味するところがじつは異なっており、その二者の関係の仕方もそれ独自のものである(そこには構成的同定とでも呼ぶべき一種の同定が含まれているのではないか)という点が問題の本質だと私は考えている。 

*最初に出来事を体験した時点における体験はそれを思い出す時点では対象化されているのであるから、現に思い出す時点のそれとは異なり、その誤同定不可能性は直接的なものではなく(他者のそれと同様に)概念的なものにすぎないからである。 

6 ともあれシューメイカーは、ここまでの議論を踏まえて、これまでの多くの哲学者が暗黙のうちに前提してきた(と彼が見なす)ことを批判している。彼によれば彼らは誤って、同定を伴わない「私」による自己指示には「これは赤い」のような直示的指示が含まれているとみなしてきた。そう見なした上でさらに、「私」は名前でも偽装された記述でも直示的代名詞でもないことがわかってくると、主体としての用法における「私」はそもそも指示表現ではない、「私」は何も指示していない、という一種の無主体説に導かれることになる。これが彼らの錯誤だと彼は診断している。 

7 この点についてもしかし私は、シューメイカーのこの診断に賛同できない。哲学者たちが「私」をそもそも指示表現ではないとみなした理由はそんな些末な理由よるのではないと思う。それはむしろ、「これは赤い」の「これ」と違って、「私は寒い」等の「私」にはそもそも他のものとの対比が介在していない(がゆえに何か或る一つのものを他のものたちから識別して指してはいない)という事情に由来していたはずである。そもそもそれしかないもの、たとえば森羅万象を含むものという意味における「宇宙」を、それとして(他から区別して)指すことはできない。かりにもし実のところは他の宇宙というものが存在していて、それらの住人たちとも話ができるのだとしても、彼らもまた話せる相手として登場する際には必ず現に与えられている唯一のこの宇宙に登場するという仕方でしか登場できないのだとすれば、その唯一の自分の宇宙を他から識別された一個の指示対象とみなす必要はないどころか、そうすることは(根源的な意味では)不可能であろう。この種のあり方こそが「主体としての用法」における「私」に起きている原事実でなければならない。 

*他の宇宙の住人たちと話をする際には、彼らは私の住む宇宙を他の多くの宇宙たちから区別された一つの宇宙として理解するであろうし、私のほうは逆に、彼らもまた私と同様にそれぞれ一つしかない宇宙の住人として扱うであろう。そのような規約の成立がこの会話を可能ならしめるであろう。かくして今度は、約束事としての「主体としての用法」が成立することになるわけである。(ここで「宇宙」の比喩によって述べたことは、主体としての「私」の一般的用法の成立において実際に起こっていることである。)

 8 ふたたびシューメイカー自身の論述に戻る。たしかに、主体としての「私」の使用は何かを自己自身と同定することに基づいてなされるのではない。何かを自己自身と同定するには、次のいずれかが必要である。(a)自己自身についてのみ真であることを独立に知っている何かがそれについても真であることを発見すること。(b)自己自身に対してそれがもつ関係が、ただ自己自身だけがもちうるよう関係(例えば同じ場所にあるとか)であることを発見すること。しかし、これらはいずれも誤同定の可能性がある。およそ同定は誤同定可能性を必然的にともなうだろう。その可能性がないこと、すなわちそもそも同定が為されないことこそが、「私」の主体としての用法の特徴であった。そして、この事実から、「私」は何も指示していないという主張が生まれ、さらには「世界の中には存在しない」という主張ともなる。以後、シューメイカーはこの超越的自我説(とそれに類する見解)を批判していくことになるので、ある程度は彼の論脈に沿いつつ、そのつど問題点を指摘してゆき、最後に、それならやはりこうであらざるをえないではないか、という私見を提示したい。 

*湯浅正彦「自己知の根源性について――シューメイカーの心の哲学と超越論的自我論との接触」(湯浅正彦『超越論的自我論の系譜』晃洋書房、二〇〇九年、所収)においては、これは、「世界の内に」ではなくそれを超越して存在しているという理由で(おそらくはまた「超越論的自我」との対比も意図されて)「超越的自我」と呼ばれている。ちなみに湯浅氏のこの論文はシューメイカーの原論文のほぼ完璧な要約を含むので、原論文を読むのが面倒な方はこちらを読まれればそのかなり精確な議論展開を追うことができます。

 9 シューメイカーは言う。「たとえ私の「自己」が血肉をそなえた普通の人間であったとしても、だからといってなぜ、それは他者には接近不可能な仕方で私には接近可能であって、それゆえに、私に提示されたものがその特殊な仕方で――いわば内側から――提示されているとわかれば、それは私自身以外ではありえないとわかる、というふうになっていてはならなのか」(562頁、13頁)。「血肉をそなえた普通の人間」とは超越的自我(やそれに類するもの)ではないという意味である。そして、これは要するに、主体としての「私」の使用における誤同定の不可能性は一般的な意識の私秘性という事実からが導けるという主張である。段落2で「免疫」という比喩に関連させて語った表現をもういちど使うなら、これはつまり「異物が侵入してこなければ誤同定は不可能なのだが、事実として異物は侵入できない、ゆえに誤同定は不可能だ」と言っていることになる。これでは、なぜ多くの哲学者たちが超越的自我説(やそれに類する見解)を取らざるをえなかったのか、その理由がわかるはずもない。わからないことは批判することもできないだろう。段落2の注において指摘したように、複数個存在する私秘的体験群のうちどれが自分の私秘的体験群であるかはどのようにしてわかるのか、が問われねばならないのだ。しかし、じつはその答えはきわめて単純で、端的にそれが与えられているから、それしか与えられていないから、といったものであって、そうでしかありえない。なぜそれだけが現に与えられているのか、そもそもなぜそこにだけにその端的な「与え」が生起したのか、そのことに世界内的な理由を与えることはできない**。世界内的な理由は、すべての私秘的体験群が対等に自我であることしか説明できないからである。これがすなわち超越的自我説の成立根拠である。この意味での「私」は、その意味において、事実、世界の内には存在していないことになる***。これは、とても不思議なことではあるが、端的な事実である。

*このあり方は時間における端的な現在(今)のあり方と対照することで明瞭に理解されるはずである。どの時点もその時点にとっては現在なのだが、端的な現在はこの一つしか存在しない。まずはこの事実(すなわちA事実)こそが決定的である。その上で、どの時点もその時点にとっては(「とっては」付きの)「端的な現在」であるともいえるのだが、このどの時点もがもつ「(それ自身にとっては)端的な現在である」という性質は、じつは(端的に)端的な現在であるあり方を範型としてしか理解できないのだ。この事実の成立には累進構造の介入が不可欠であり、「私」にかんしても同じことがいえる。(段落7およびそこに付した注も、「宇宙」の比喩によってこれと同じことを問題にしている。)

**「私」にかんしてはそれ以前に、そもそもなぜそんな端的な「与え」が生起したのか、という問いがあるだろうが、そう問う場合にはむしろ、そもそもなぜ端的な「開け」が生起したのか、と問うほうがふさわしいだろう。その問いにももちろん、世界内的な理由を与えることはできない。世界内的には、そんな事実はそもそも存在しない(ただふつうに一人の人間が生まれ、その人にふつうに意識や自己意識が備わっていた、というだけのことである)からである。端的な今(現在)の存在については、もしそれがなければ時間そのものがなくなる、と考えられるならば、これと同じことはいえない。

***この、なぜかそれしか与えられておらず、なぜかそれがすべての出発点になっている、という「超越的」なあり方を範型として、それの概念化・形式化としてのみ、どの人もその人自身にとっては(「とっては」付きの)「超越的」なあり方をしており、それゆえに「私」の主体としての使用においては誤同定が不可能である、という世界像とそれにともなう語法の規約とが生まれることになる。

 10 彼はまた言う。「ジョンは髭面だという私の知覚的認知についての説明において本質的な部分をなすのは、私が知覚するその人の観察された諸性質が――私が知っている他のことと一緒になって――私にとって彼をジョンと同定するに十分である、という事実である。もしかりに私が痛みを感じているという認知にもこれと類比的な説明があるのだとすれば、その説明は、私は「内的感覚」によって、それのもつ観察された諸性質が私にとってそれを私自身だと同定するに十分であるような何かを「知覚」する、のでなければならないことになる。」(562頁、13‐4頁)。もしそのことが誤同定を不可能にするのだとすれば、それはつまり「知覚された自己が……私の内的感覚の対象であるという性質をもち、私自身以外のいかなる自己もその性質をもつことが(論理的に)不可能であり、その性質によって私はそれを私自身として不可謬的に同定できる」(562頁、14頁、強調原文)ということになるだろう。しかし、「ある自己をそれがこの性質をもつことによって私自身だと同定するためには、私は私がそれを内的感覚によって観察していることを知っていなければならないことになるが、この自己知それ自体は――私がその自己を私自身だと同定する根拠なのだからその同定に根拠づけられることはできないはずである。」(563頁、14頁、強調原文)。 

11 これはまったく彼の言うとおりだろう。この最後の引用文は彼の議論が私の考えに最も近づく箇所である。もちろん彼自身はそうは考えないだろうが、私がこの引用文を解釈するなら、それならばこの同定に基づかない究極の自己知はいかにして成立するのか、ということが次の問いとなり、その答えは、それしかなさ(独在性)によってでしかありえない、ということになる。「私自身(myself)以外のいかなる自己(self)もその性質をもつことが(論理的に)不可能である」とか、「ある自己(self)をそれがこの性質をもつことによって私自身(myself)だと同定する」といった言い方で、無限定のselfたちの内から特にmyselfを選び出すには、じつのところはそれしかなさ(独在性)に頼る以外の方法はありえない。だから、この同定に基づかない自己知が可能であるためには、本質的に並列的には成立しえない(すなわち他に同類がいない)というあり方が是非とも必要とされるのである。その上で、事後的には、他者における概念としての(あるいは信憑としての)誤同定不可能性が想定されることになり、その並列不可能性(同類のなさ)それ自体が並列され(その同類を持ち)、原初の誤同定不可能性もその一種として理解されるようになっていく。 

*とりわけ「……(論理的に)不可能である」の「論理」(と言われているもの)の正体が何であるかについては、『世界の独在論的存在構造』の終章の「「私秘性」という概念に含まれている矛盾」という節の議論をぜひ参照していただきたい。

 12 その後の彼の議論のすべてを追う必要もないと思うので、結論部(Ⅲ)のある議論を提示し、それに対応する私見を述べて彼の議論の検討を終わろう。彼は「私」が主体として使用される場合の述語の側に注目し、それを(ストローソンの用語とカスタネダの記号を合成して)「P述語」と呼ぶ。そして、「この種の述語は、それが例化**されていることを知ることはそれが自分自身において例化されていることを知ることと同じことである」(565頁、16頁)という特殊性をもつと言う。なぜそうなのか、そしてそうであるとなぜ誤同定が不可能になるのかについては、問いは提起されているにもかかわらず(565-6頁、17頁)答えが与えられてはいない。そして、議論はなぜか逆に、むしろこの事実を前提にしなければ説明できない事柄の探究のほうへと向かっていく。

*正しくは「P述語」だが、カスタネダの場合と同様の理由で米印を使う。

**「例化」はinstantiationの通例の訳語で「それの実例が提示される」という意味である。

 13 シューメイカーが言いたいことを一言で纏めてしまえば、主体としての「私」の用法の可能性を前提にしてはじめて、およそ対象について語る文(「私は白髪である」を含めて典型的には「ジョンは髭面である」や「この壁は黄色い」のような)が可能になるのであるから、「私は悲しい」のような主体としての用法の「私」を対象について語る文を理解する仕方で理解する(すなわちこの場合の「私」を「ジョン」や「この壁」に類するものと見なす)ことができないのはあたりまえのことだ、となるだろう。そのことを示すために彼は、P述語を含まない言語を話している言語共同体を想定し、議論の結論として、「何らかの述語を自己帰属できる人は、そのことによって潜在的にP述語を自己帰属できる」(566頁、18頁)ということと、「「この何々(this so and so)」という形の指示表現を正しく使える人は、そのことによって潜在的に「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を自己帰属できる」(566-7頁、18頁)ということを主張している。私はこの見解に賛同するが、それはまったくあたりまえのことではないか、と思う。 

*これらは要するに、自己同定に基づかない自己知を根底においてのみ、自己同定やそれに基づく自己帰属、一般的な知覚判断等々がはじめて可能になるのだ、という主張であるわけだから、私の解釈で言い換えれば、すべてはたんなる「それしかなさ」を根底に置いて、そこから出発するしかないのだ、と言っていることになる。もちろんそうなのだが、それはやはり驚くべきことだといえるのではあるまいか。 

14 すると問題はむしろ逆に、そもそもなぜP述語を自己帰属する文が公共的言語の文として可能で、なぜそれが通常の対象に述語を帰属させる文と同じ形を取りうるのか、にあることになるだろう。それを考察するためには、シューメイカーとはむしろ逆に、P述語しか存在しない(すなわち誤同定の不可能な主体としての「私」を主語とする文しか存在しない)言語を話す共同体を想定してみるべきだろう。その言語は(いかにして)通じうるのか。この問いに答えようとすれば、シューメイカーの場合とはいわば逆の過程を考えざるをえないだろう。これもやはりあたりまえのことだとは思うので、その結論だけを述べるならばそれはこうなるだろう。「P述語を自己帰属できる(と他者から認められる)人は、一般的に述語を自己帰属でき、かつ他者にP述語を帰属させる方法(させてよい規準)を知っている」ことが前提されており、また、「「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を自己帰属できる(と他者から認められる)人は、「この何々(this so and so)」という形の指示表現を正しく使え、かつ他者に「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を帰属させる方法(させてよい規準)を知っている」ことが前提されているであろう。なぜなら、もしそうでなければ、そもそも共通の「何々(so and so)」自体が成立せず、他者に何かを伝えかつ他者から何かを伝えられるということが、つまりおよそ言語が、そもそも成り立たないであろうからだ。これらはいずれも、P述語を含むような公共言語が一般的に成立するための条件であるはずである。 

15 さてしかし、ここで注目すべき事実は、与えられた世界は必ず(すなわちだれにとっても!)、P述語を自己帰属できる(すなわち誤同定が不可能な主体としての「私」を使える)がゆえに一般的に何らかの述語を自己帰属し他者にもP述語を帰属させられる人と、その逆に、一般的に何らかの述語を自己帰属し他者にもP述語を帰属させられるがゆえに、P述語を自己帰属できる(と認められる)人との、二種類の人間が存在している世界である、という事実であり、また、「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を自己帰属できるがゆえに「この何々(this so and so)」という形の指示表現を正しく使うことができ他者に「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を帰属させることもできる人と、その逆に、「この何々(this so and so)」という形の指示表現を正しく使うことができ他者にも「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を帰属させることができるがゆえに「何々を知覚する(perceive a so and so)」という形のP述語を自己帰属できる(と認められる)人との、二種類の人間が存在している世界である、という事実である。もちろん、それぞれにおいて前者が「私」であり後者が他者たちである。世界を神の眼から見るのでないかぎり、このような対比が存在しない場合は考えられない**。 

*しかし「神の眼から見る」というのは比喩であり、もしこれを文字どおりに取るならば、神でさえ、自分の眼から世界を見る以上、この対立の埒外に出てはいないし、出ることはできない。

** この事実には二重の意味があることは繰り返し語ってきたが、念のため、ここでもまた簡潔に確認しておこう。このように「私」がある意味で「超越的」であらざるをえないのは、世界構成の仕組みの帰結であると同時に、世界の現状(ここ数十年からせいぜい百年程度の)のもつ特殊な偶然的事実でもある。ここでは、話が「与えられた世界は必ず(すなわちだれにとっても!)……」と始められているという意味で、前者が語られているといえる。ちなみに、時間における「今」の場合には、この二種類の事実に相当する事実が(すなわちA変化とA事実とが)必ず合体して現れるので、いつが今であるかは偶然的であるとはいえ今が存在すること自体が偶然的とはいえない。

 16 そして、シューメイカーは最後にこう言っている。「「私」の「主体として」の用法を、他の種類の指示に似ていないがゆえに、神秘的なものと見なし、ひょっとすると指示ではないかもしれないと考えようとする傾向が存在している。……しかし、こうした傾向は、それらの他の種類の指示は「私」の「主体として」の使用を含むこの種の自己指示が可能であるがゆえにのみ可能なのだ、という点が理解されれば、もはや存続すべくもない」(567頁、18頁)。これはとんでもない誤りであろう。この依存関係が正しく理解されたならばそれで問題が解決されると見なすなら、それはつまり「私」の主体としての使用の可能性それ自体はいかなる解明も受けずにそのままただ前提されるということであるから、その神秘性は強まりこそすれ弱まることなどは、ましてや存続すべくもなくなることなどは、決してありえないだろう。むしろ、問題はやっとここから始まるのだ。 

17 まずは、小出しに提示してきた論点を一点にまとめよう。段落9で引用したように、シューメイカーは「他者には接近不可能な仕方で私には接近可能であって、それゆえに、私に提示されたものがその特殊な仕方で――いわば内側から――提示されているとわかれば、それは私自身以外ではありえないとわかる、というふうになって」いることが、すなわち誤同定不可能性の根拠となる、と考えていた。しかし、そうではないのだ。この主張は、「その特殊な仕方で――いわば内側から――提示されている」という描写がじつのところは何を語っているかを精確に考え抜いていない。まず第一に、もし「内側」と言うのであれば、この内側でない他の内側もあるはずではないか。なぜ他の内側たちではなく、この内側が私なのか。内側であるという捉え方だけでは捉えられていない問題がここにはあるはずなのだ。もし内側という捉え方にあくまでも固執するなら、そこでさらに、多くの内側たちの中から何らかの根拠によって一つの内側を選別し、それを私であるとして選出する、という意味での「同定」が、やはり必要になってしまうであろう。なぜそのプロセスが不要なのか、それこそが問題であり、その答えこそが誤同定を不可能たらしめている当のことであるはずだろう。つまり、この「特殊な仕方で」は決して「いわば内側から」と言い換えられてはならないのだ。もしそう言い換えるとすれば、「いわば」と譲歩せざるをえないその譲歩の内実こそがさらに精確に探求されねばならないのである。それゆえ、内側というような種類の単純な捉え方では捉えきれないは何かを捉えようとして「超越的自我」説やそれに類する諸説を提唱した人々は、少なくともシューメイカーのような無頓着な人々に比べれば、問題の真の意味を鋭利につかんでいたといわざるをえない。多くの内側たちの一つがなぜかそこからすべてが開闢する世界の唯一の原点でもある、という(驚くべき)事実を捉えるためには、すなわちある一つの内側のこの根拠なき選択をなんとか理解しようとすれば、もはやたんなる「内側」性ではなくむしろ「超越」性が要求されると考えられるのは当然のことだからである。 

*ところで、この「いわば内側」に示されている誤りは、いわばすべての主観性の哲学が共通に犯してきた誤りだといえる。すなわち、主体の成立における内側性(私秘性)と超越性(独在性)の混同の誤りである。(しかし、じつのところは前者は後者からいわばその超越性を平板化して作られた高度の構成物である疑いは濃いのだが。)

18 この同じ引用文には、「内側」の問題以外にも(結局は同じことだともいえるとはいえ)もう一つの問題が含まれている。それは、「私に提示されたものがその特殊な仕方で……提示されている」の「提示されたもの」の箇所で、これはつまり提示されたものの側の提示のされ方に特殊性があると言っていることになる。微妙な問題であるとはいえこれもまた非常に重要なポイントではあり、これもまたはっきりと誤りだといえる。シューメイカーが言うのは、所与の側の私秘性の問題であろうからだ。しかし、誤同定不可能の成立のためには、所与の側の私秘性は必ずしも必要とはされない。すなわち、所与の側に私秘性がなくても、すなわち誇張的に表現すればすべてが「丸見え」「ぶっ続き」であっても、誤同定は不可能でありうるのだ。 

*その逆に、所与の側に私秘性(=隔絶的各自性)があっても、そのうちのどれが自分であるかはそれだけでは決まらないのだから、それだけでは誤同定不可能性は成立しえない、ともいえはする。これはしかし、最も原初的な意味での(すなわちまだ規約に拠らない段階の)誤同定不可能性についてだけいえることで、意識の私秘性があたかも「論理的」真理であるかのように見なされるようになった段階ではすでにそうはいえない。その意味での意識の私秘性は独在性に基づく誤同定不可能性の概念化・形式化・一般化によって作られているからであろう。(第8回の最終段落の描けない図の議論を思い出していただきたい)。

 19 以上の二つの段落(段落17と段落18)で提示された問題に一気に答えるために、まずは時間における「今(現在)」の場合を考えてみてほしい。今(現在)についてもまた、誤同定による誤りを犯すことはできない。すでに起こったあるいはこれから起こる痛みを今起こっていると誤認することも、現に起こっている痒みを過去や未来に起こる痒みだと誤認することも、できない。何故であろうか。それは今しか存在しないからである。むしろ、その「しかなさ」のことを今(現在)と呼ぶのだ。だから、目に見える光景は必ず今生起している見えであり(たとえじつは過去の出来事の映像であっても)、聞こえる音も、感じる体感も、生起する思いも……みなその意味で必然的に今のそれでしかありえない。ところでこのとき今秘性というべきものがあるだろうか。かりにあるとしてもあらねばならないだろうか。われわれはおそらくかなり多くの場合、直前に感じたことを(直前なのだからもう今ではないと知りつつも)感じたままにありあり覚えているのではなかろうか。あまりにもありありと覚えているがゆえに今起こっていると錯覚するといったことは起こりえない。今と今でない時の隔絶は所与の側における隔絶(その意味での今秘性)を必要とはしないのだ。 

*しかし、現実には今起こっている出来事を何らかの根拠に基づいて過去や未来に起こる出来事なのだと誤認することや、過去や未来に起こる出来事を何らかの根拠に基づいて今起こっていると誤認することは、可能である。この差異はウィトゲンシュタインの「私」の主体としての用法と対象としての用法の差異に相当する。

 20 今と今以外の時の隔絶は所与の側の断絶と見るよりはむしろ「パースペクティヴの差異」と見るほうが適切であろう。「パースペクティヴの差異」とは廣松渉の用語である。彼は、私が前段落で「今」について述べたようなことを、「今」についてではなく「私」についても起こりうる(そして現に起こってもいる!)と主張した。彼は「拡大伸長した身体的自我」が他人の感覚を直接的に感じることができると主張するのだが、それはつまり私が前段落で「直前に感じたこと」について語ったようなことが自他の間にも起こりうる(そして実際に起こってもいる)という主張だといえる。その際に極めて重要なことは、彼の主張を文字どおりに認めて、所与の側における内容的な同一性を全面的に認めたとしても(すなわち他者の心の中が「丸見え」「ぶっ続き」であったとしても)なお、彼の言う「パースペクティヴの差異」によって、私と他者とは画然と区別されており、そこに誤同定による誤りの起こる可能性はやはりない、という事実である。廣松自身がこれを認めるかどうかは別にして(イデオロギー的理由で認めたがらない可能性は高いが)、そもそも誤同定の不可能性という問題それ自体が所与側にではなく(廣松風にいえば)パースペクティヴ側に存在する問題であることは疑う余地がないであろう**。 

*拙稿「大森荘蔵の何が画期的でしかし私はその何に不満を感じたのか」(『現代思想』2021年12月号)を参照されたい。そこで私は「共同主観性をどれほど広げてみても、そこにパースペクティヴの差異が認められる以上、この問題の介入から逃れるすべはない」(113頁)と言っている。そこに付けた注6も参照されたい。

**だから、その意味に於いて廣松渉はイデオロギー的に見れば自身の議論によってむしろ墓穴を掘っていることになる(そして、その議論が墓穴を掘ることになるという点こそが真に重要な点なのである)。しかし、何度も指摘してきたことをさらにもう一度言っておくなら、ひるがえってじつは私秘性という概念それ自体がこちら側から所与側に持ち込まれた概念であることもまず間違いのないところなのではあるが。

 21 それゆえ、誤同定の不可能性は異物の侵入不可能性によるものではありえない。今を捉え間違えることができないのは、そこで起こっている内容が他の今に起こっている内容と隔絶していて異時点からはいかにしても捉えることができないからではない。すなわち、それがただその「内側」だけから知られうるからなのではない。そうではなく、その内容にどの時点からの何が侵入してこようと、そんなことには関係なく、そもそも端的にそれしか存在しないから取り違えるということがそもそもありえないのだ。この事実は「今」と「私」の存在の仕方に共通であり、これこそが決定的な事実である。つまり、これは本質である以前に事実なのである。たしかに、現実の今ではない他の時点における今も、それぞれみな概念的には「端的なそれしかなさ」によって「今」でありえているのではあるが、そうでありうるのはやはりただ一つの端的に端的な今というものが画然と存在しているからであり、その存在の仕方を範型とする以外には他の時点における概念的に端的な今たちをそのようなものとして捉え理解するすべはありえないのである**。そして、驚くべきことに、実のところは「私」についても同じことがいえるわけである。 

*もしそうでなければ、われわれが知っている意味での時間は存在しえない、というのがマクタガートの第一の発見であり、にもかかわらずその存在には矛盾が内在している、というのが第二の発見であった。時制のみならず人称(person)にも本質的に同じことがいえるであろう。

**この事情に加えて「今」の場合は現実にいつが今であるかが変化していくので、問題はより複雑になりはするが、この変化を本文で述べたような概念化的反復の累進と捉えても同じ問題は生じる。ただし、いつが今であるかが変化していくというその問題それ自体にかんしても、さらにそのことが概念化され、形式化されうるので、A変化がつねに端的なA事実をともなっているわけではない。A変化は今ここで現に生じている端的な事実であるとともにおよそ時間なるものの概念でもあるわけである。(この点については拙著『存在と時間――哲学探究1』の第16章を参照されたい)。

 22 ところで湯浅正彦は先に言及した論文において、シューメイカーの議論を受け入れた上で、その線上にカントの(「超越的自我」と対比される)「超越論的自我」の哲学を位置づけている。「自己を対象として同定することなく知ること、すなわち非対象的自己知」こそが「カントがその超越論的哲学で問題にしていた「自己意識」」であり、その働きによって「客観的世界のうちで対象として指示される「物」であるとともに、指示する「者」でもあるような個別的な自我が成立するのである――しかもそれは、指示される対象の領域としての客観的世界そのものの成立と表裏一体なのである――」(162頁)と。これはもちろん仰るとおりであるとは思うが、しかし後者の引用文は超越論的な構成の働きの成果というべきことがらだろう。問題は、どこから出発してこの成果にいたるのか、ではなかろうか。もしそう問題が立てられたならば、超越的自我から出発して、でしかありえないと私は思う。カントを解釈してそう語ることも、もし『純粋理性批判』を超越的自我を客観世界内に位置づける作業として読めるなら、十分に可能だとは思うが、この際はむしろカント自身に対する疑念ともなりうるような形で、同じ問題を提起しておきたい。私の問いはこうである。「自己を対象として同定することなく知ること、すなわち非対象的自己知」の主体であることは、自分がそうであることと他者もまたそうであると認めることとでは、まったく違う仕組みが必要とされるのではあるまいか。そして、そのことの裏返しとして、こうも問えるのではあるまいか。「客観的世界のうちで対象として指示される「物」であるとともに、指示する「者」でもあるような個別的な自我」であることもまた、他者がそうであることと自分もまたそうであると認めることとでは、まったく異なる仕組みが必要とされるのではなかろうか、と。カントはもちろんシューメイカーらも、なぜかこの問いをまったく考えていないように見えることが私には非常に不思議である。 

*これは段落15で指摘した事態の言い換えである。そして、この問題に答えることがまた、段落14の冒頭で提起した二つの問いにも答えることになるのではないだろうか。

 23 最後に、この問題提起を、段落5の末尾に簡単に提起しておいた問題と暫定的にではあるが接合しておきたい。前段落で述べた私と他者(における私)との対比は、ほぼそのままの形で今と今でない時(における今)との対比と重なるであろう。私は(その段落5において)「記憶においては誤同定不可能な自己認知が、最初に出来事を体験した時点とそれを思い出す時点との二回起きるが、この二回において誤同定不可能性の意味するところがじつは異なって」いると書いたが、それはまさにそのことのゆえであった。それに続けて私は「その二者の関係の仕方もそれ独自のものである(そこには構成的同定とでも呼ぶべき一種の同定が含まれているのではないか)という点が問題の本質だ」と書いたが、この「それ独自性」はもちろんこれから検討しなければならない問題ではあるのだが、その持続的同一性の成立こそが「指示される対象の領域としての客観的世界そのものの成立と表裏一体」性を要求する(あるいは互いに要求し合う)とはいえるのではなかろうか。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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