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鳥の歌、テクストの森 髙山花子

石牟礼道子と鳥(2)──奇跡の鳥、使いの鳥

 
4 『椿の海の記』から『あやとりの記』へ

 

(前回の記事:第2回「石牟礼道子と鳥(1)──空を飛ぶ鳥、啼かない鳥」) 

  こうやって見てゆくと、『苦海浄土』以降の石牟礼にとって、鳥は特別でありながら、鳥の歌声はほとんど描かれていないことが思われる。さらに、興味深いのは、石牟礼が自分自身の幼少期をあざやかに描いている、みっちんと呼ばれる少女の世界でも、鳥の声じたいは、そこまで聞こえず、むしろ、歌の中にその形象が歌われていることである。

 

『椿の海の記』(1976)

 

 『椿の海の記』は、晩春の不知火海の沿岸の岬の描写から始まる。そこでは、磯椿に目白を中心に鳥が来て鳴いている様子がさりげなく書かれている。四歳のみっちんと彼女を取り巻く日常生活であらわとなってゆくのは、父親の亀太郎や兄たち家族だけでなく、漁師をはじめ海の仕事をしている者たちや、さらには流れ者たちの暮らす「とんとん村」で交わされる、海や畑や山とともにある水俣方言のゆったりとしながらにぎやかな会話の世界である。そしてなによりも、不意に「……この世の無常の音がする」[1]とつぶやく目の見えない祖母のおもかさまとともにいることで、この世界の無常や際限のなさや、狐の子になることを自覚する場面さえある、ふわふわとしたみっちんの心模様が、妖怪たちのイメージも纏いながら現れる。

  注目したいのは、たとえば、「五位鷺が、ギャッギャッと啼いて渡って」[2]、狐になっていたみっちんが人間の姿に戻っていることをたしかめる場面である。たしかに鳥が鳴くのだが、この作品では、次のように、正月に早春賦が歌われることが書かれている。

 

春は名のみの風の寒さや
谷のうぐいす うたはおもえど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず[3]

 

さらに、おもかさまの歌う歌の中に、鳥の歌が詠まれていることが目立っている。

  冬の朝早くに、みっちんが、お湯の沸く音のあいまに聞くのは、おもかさまがぶつぶつと歌うこんな歌である。

 

あめ鳥や
あめ鳥や
たちばな舟は 往たかえ
たちばな舟は 来たかえ
あめ鳥や
かぐめ鳥
寒かろえ[4]

 

似た歌は、おもかさまが青海苔を掬い上げるために冷たい水俣川に入るときにも唄われる。

 

あめ鳥や 往たかえ
地蔵さまん 雪かぶりゃ
遠かばえ
山ん上んいっぽん道さね
往ったかえ
草履の緒のひっ切れの
泣きよるばえ
海の上ん道や
知っとるかえ[5]

 

それから、終盤に、近くにやってきたサーカスの楽隊の歌声が風に乗って運ばれてくるなか、みっちんが叔母とともに蓬を摘むときにも、次のように、叔母は鳥を唄っている。

 

空にさえずる鳥の声
峰より落つる滝の音
大波小波とうとうと
ひびき絶えせぬ……[6]

 

みっちんもつづいて「空にさえずる鳥の声……」と繰り返すのだが、実際にそのような鳥の歌じたいはあまり描かれていない。

 

『あやとりの記』(1983)

 

  1983年に福音館書店から出た『あやとりの記』もまた、石牟礼が子供のときの自分が主人公となったと思しき物語である。これは、ですます調で書かれた児童文学である。かっし、かっし、と雪の上を馬の蹄の音が近づいてくる場面からはじまるこの物語は、主人公の女の子みっちんが、祖母のおもかさまから、「ここはな、八千万億、那由他刧の世界ばえ」[7]と語りかけられるように、人間や人間でない生命たち、あるいは事物たちが、「自分の物語を囁き交わ」[8]すようなにぎやかな世界が舞台になっている。

  この作品は、色々な声に溢れている。ひとではない地上の気配たちが、「天の祭ぞう」[9]と歌ったり、あるいは、女の人たちの歌う「人のこの世は長くして/変わらぬ春とおもえども」[10]という御詠歌が聞こえてきたり、おもかさまがお経のようなつぶやきを始めたり、さらには、おぎん女と呼ばれるひとが、狐の言葉で「曼珠羅華」と唄うように──。

  このなかで、片足しかなく、川の近くで馬と一緒に暮らし、川の衆たちの精と噂される仙造やんが現れる。みっちんが彼と一緒にいるときに、彼の姿をみて、みっちんが次のように三光鳥の現れる呪文を唱える場面がある。

 

しゅり神さんの
黒べこ 黒べこ
三光鳥や 西むいた
三光鳥や 西むいた[11]

 

三光鳥は、「陽ぃさまとお月さまと、星さまの光を受けて生まれる鳥」[12]と説明されており、みっちんは畑をあらす黒べこと呼ばれる狸がこの呪文を唱えると、狸は鳥に憧れているために歩いてゆく、と祖母のおもかさまから聞いていたという。そのときは実際に狸がいたわけではなく、みっちんがただ仙造やんの裸姿をみて黒べこの姿を思い出したから、その呪文を唱えてみただけだったという。だが、このようにさりげなく三光鳥は、神話上の鳥でもない実際に生息している鳥であるのにもかかわらず、特別な鳥として歌われている。

  おなじく第5章の「ひかり川」で、おもかさまが、人間より位のよい衆があちこちにいると述べ、みっちんに耳を澄ますよう言いかけると、段々とみっちんにイメージとして見えてくるのは、流れ仏様、それから、雁である。二人は、このようにやりとりをしている。

 

「それから、なんの見ゆるかえ」
「雁の鳥の」
「ああ、雁の鳥じゃの」
「陽ぃさまの沈まる方に、飛んでゆきよる。なにしに飛んでゆきよるとじゃろう」
「いろいろ、便りをことづてにゆきよるとじゃろ」[13]

 

このあと、みっちんは、「おもかさまも、雁の鳥やら、あめ鳥に、便りばことづてると?」と聞くと、彼女は「いろいろなあ」と答え、宛先を「位の美しか衆に」と答える。ここからは、おもかさまが、人間ではない存在である衆に、鳥をメッセンジャーとして頼りを伝えていると語っている姿が浮かぶのである。

  つづく第6章「ぽんぽんしゃら殿」では、みっちんとヒロム兄やんのやりとりがメインになる。渚の近くで、みっちんを狐の子とよぶ婆さまに、小舟に乗るにはどうすればよいのかをみっちんが聞き、教えてもらったあと、陸の上で、芒の広がる中で、舟を漕いでまっていると、得体のしれないぽんぽんしゃら殿と呼ばれる、埃まみれで裸足で傷だらけの姿のものの唄う声が聞こえてくる。

 

るるるるるんるん るるるるるんるん
ひちりきひちりき しゃららららーら

人のゆくのは かなしやなあ
鳥のゆくのは かなしやなあ
雲の茜、の かなしやなあ[14]

 

ここでもぽんぽんしゃら殿によって歌われるのは、飛んで去ってゆく鳥の姿である。『あやとりの記』では、お互いの魂が入れ替わったり一緒になったり、みっちんが狐の子ととても近しい存在になったり、「魂だけにならないと聞こえない」[15]にぎわいが描かれている――しかし、とくに鳥の歌は聞こえない。唯一、最終章の「迫んたぁま」では、姿はなく、声しかない「迫んたぁま」に、よい唄を聞かせてくれ、と頼むと、鶏の鳴き声を聞かせてくれる話が出てくるくらいである[16]。それくらい、幼い頃の幻想的な風景のなかでも、鳥は空を飛んで、ひとではないものたちと交感したり、空を飛んでゆく姿を刻まれている。

 

 5 『天湖』

 

 そうしたなかで、もっとも鳥の歌が静けさのなかに凛と冴え渡って聞こえるのは、『天湖』(1997年)という作品だろう。

  『天湖』は、九州のとある村をモデルにしていると思しき、ダムに沈んだ天底村を、かつてそこに祖父が住んでいたことが縁で、東京で音楽家として活動をしている柾彦が訪れる物語である。柾彦は、東京の喧騒のせいで失った自分自身の作曲家としての耳の感性を、聴覚を取り戻そうとして、この村を訪れている。かつて国立劇場で古楽を聞いた際に、柾彦はこの世の果てから聞こえてくるかのような体験をした。その残響を回想しながら、湖の底にも太古の音の余韻が残っていないか、と夢想しながら、湖の近くの村人たちと交遊を進める。

  柾彦は、都会で耳をやられてしまったときのことを、次のように考える。

 

僕らは、自然には存在しない塩素化学合成物質などを食べて生きているバクテリアのように、こんな騒音をも含めて、すべての都市的不協和音にも馴らされながら生き残るのだろうか。/そうは言っても、音という音は凶器に近かった。鋼鉄を身に鎧って地上を走る乗物たち、電車も長距離トラックも普通乗用車も大量殺戮の予備兵器だ。僕は耳から先にやられてしまった[17]

 

そのような「凶暴化した都市」[18]の騒音を、柾彦が、まだ紅葉前の湖畔で思い返していると、「列を組んだ雁が七、八羽、湖の上をよぎって行った。水辺で鳴き交わす鳥の声も聞こえる」[19]という風に、人工湖のほとりに鳥たちが集って歌っている情景が浮かんでくる。

  別のシーンで、村人と、ダムの水は底のほうしか流れないため、沖の宮の方角とされる西方浄土には流れつかない、といった話をしているときにも、「昏れてゆく水辺で、鳥の鳴き声や羽音が聞えていたが、月の光が増してくるにつれ、その声もくぐもって聞えなくなった」[20]とある。このように、『天湖』の湖畔は、鳥で賑わっている。

  注目したいのは、森で柾彦がふくろうの声を聞くことで、はじめて世界で声というものが生まれる原初のとき——声の起源——に想いを馳せることである。ひなと桃というふたりの女と、森の中に入り、祖父の故郷のことを柾彦が考えていると、「遠い森の奥から水の上を渡って、響きのくぐもった声が聞えた」[21]。それがこうぞう鳥、ふくろうの声だった。

  そして柾彦は、「森が抱いているのか、王者のようなあの鳥を。そうか、ここは声というものが生まれるところかも知れないぞ」[22]、「たぶん世界という者の意味は、たとえばここに沈んだ村の、どこかの岩に咲いていた苔の花に宿っているのではないか。人の胸に思いが満ちて、はじめて声になった時のように」[23]と想像力を膨らませてゆくのである。

  山々は一貫して静かに描かれており、そうして、こうぞう鳥の声が再び聞こえる。やがて、湖のまわりは「くぐもった声を出す鳥たちの、秘めやかな声」[24]でいっぱいで、遠くからは、潮騒のように、夜風が樹々の間を抜けてゆく音なのではないか、という音も聞こえる。さらには、仏壇用の澄んだ(かね)の音が聞こえてくる。

  それから、地元に住む桃が、「やあ ほうれ やあ 盆の十六夜 月の花 散る 散る 花の宵ぞかし」[25]と歌い、おひなも答える。

  あとの方でも、百舌(もず)と知らない鋭い声が聞こえたりするなど、そのほとんどを初めて柾彦は体験したのであろう。まだ暗い夜明けに鶏が鳴いているのを、柾彦が東京と引き比べて驚く描写も見られる。名前のわからない無数の鳥たちが飛び立ったり、(みぎわ)の遠くに白鷺がやってきたりする湖畔の情景は、深々とした森に囲まれ、ひそやかに鳥に彩られている。

  『天湖』でも、おひなや桃が唄う歌のなかに、鳥が現れる。

 

白鷺よ
白鷺よ
夜なく 鳥は
花 降らせ
水の臥床の
姫の名は
沖の宮
青貝姫と申すなり
山の神なる
おん名といえば[26]

 

この歌を聴きながら、柾彦は、昔、語られた説話を聞いていたことを回想し、祖父の世界や、求めていた今様の輪唱を、虫の声とともに聴き始める。

  そのように、鳥の歌の響き渡る湖畔と森で、柾彦は耳の感性を取り戻し、新しい聴覚を得るのである。鳥の声音の美しさや囀りについては、抑制のきいた描写をしてきたと思われる石牟礼は、古の人たちのいまはもう失われてしまった声音を探し求めるテーマとともに描いた、都会の音楽家を主人公とするこの物語で、ふくろうの声をキーとしていた──彼女にとって、この鳥の声が単に日常の風景の中で聞こえてくる快いものには留まらず、人間の棲まうこの世とは異なる時空と橋渡しをするような、きわめて大切な音であったこともしめしているだろう。

  『天湖』と同年に発表された『水はみどろの宮』(1997)は、爺さまと暮らす7歳の女の子、お葉が犬と共に山に暮らし遊ぶ物語である。描かれている風景はみっちんの見た世界と似ているのだが、石牟礼をモデルにはしているだろうと思われつつも、ずいぶん離れた架空の人物としてお葉は創られており、この作品でも、鳥が何度かはっきりと啼いている。そして、興味深いことに、お葉の声が、鳥の声に重ねられるのである。

  草の茂みに犬のらんを探すときには、こんな風にウグイスの声が描かれている。

 

鶯の声が聞こえる。まだひな鳥だ。舌がよくまわらない。ホウホウと声を出しかけて、やっとホチョホチョと鳴く。ホウホケキョと鳴いているつもりらしい。
「だめじゃあ、おまえ、ホケキョじゃあ」
お葉は、どこかの藪の中で小さなくちばしをあけているひな鶯に向ってそう言う。お葉はひな鶯の声が好きだ。爺さまがこういうからである。
「ほら、ホチョチョホチョチョと鳴くが、ひなの鶯じゃ。お葉も赤子のとき、ああいうふうに、泣きおった」
「うそじゃ」
「ほんとじゃ。お葉が泣くとき、あのひな鳥も鳴きよったでのう。お葉、ほら、鶯ぞ、ホウチョチョ、ホウチョチョ、鳴きよるぞ。よか声ぞ。そういえばな、いっとき泣きやんで聞いて、また泣きよったぞ、赤子のとき」[27]

 

そのあとで、ひな鶯が最初はホウホケキョとは泣けず、舌が回らずに鳴くこと、鳴き方がだんだんうまくなることが書かれているが、そのようなまだうまく鳴けないホトトギスの声が赤ん坊のときのお葉の泣き声と似ているとされる。

  別のところでは、おノンという猫の泣き声が、坊さまによって、「ありゃあ何の声じゃろう、猫とも思えん。まるで迦陵嚬伽(かりょうびんが)じゃ」[28]と、この世にはいない極楽の鳥の鳴き声に似ているとされる場がある。

  その後、幻想的で異界めいた場面ではあるが、お葉がいなくなったはずのおノンと十三夜の夜に再会するとき、月光に照らされた森の広場で「みゃおーん」と啼くその声は、「柔かい透きとおった天来の妙声」[29]と呼ばれる。みっちんは、坊さまが極楽の迦陵嚬伽の声を持ち出したときを回想しつつ、「森の中のものたちが溜め息を洩らしたのもむりはない」[30]と木の精たちの様子を描写する。

  この作品にも、こうぞう鳥、ふくろうが現れる。それは、おノンが乳をやる赤ちゃん猫の鳴き声を、梟婆さんが聞くという場面で、その梟婆さんは、こう歌うのである。

 

去年 ほうほう
去年 ほう
ゆく年ゃ
寒む 寒む[31]

 

こんなふうに『水はみどろの宮』では、猫がしゃべったり、梟が同じく答えたり、それから、杖が現れておノンと会話をしたりする。久しぶりに杖と再会して別れると、こんなことが起こる。

 

しばらくすると、景色も定かでない森のあちらこちらで、くぐもった木霊に似た声が聞こえてきた。

去年 ほうほう
去年 ほう
ゆく年ゃ
寒む 寒む[32]

 

このように、ふくろうのおばあさんの歌った歌を、杖が繰り返すのである。

  『天湖』と『水はみどろの宮』では、人間の声音が、本当のところ、鳥の声に通じていること、さらには、古の音を探ってゆくと、この世のものとは思えない美しい鳥の啼き声のような妙音があるはずなのだという世界観が玲瓏と見えてくる。鳥を神聖なものと結びつけている石牟礼の筆致は、1990年代の2作品で、そのような声音を希求し、森の中で耳を澄ませてゆく情景の創作を深めたように思われる。

 

6 むすび  『アニマの鳥』に向かって

 

  これまで、『苦海浄土』3部作と、1970年代以降の詩作、ついで、自伝的側面の強い『椿の海の記』と『あやとりの記』、それから1990年代に書かれた『天湖』と『水はみどろの宮』の鳥の形象をたどってきた。振り返ると、石牟礼にとって、鳥は身近で慣れ親しんだ動物ではあるが、どこか人間の世界とはかけ離れたところにいる存在として、ピンポイントのように抑制の効いた描写がされていることが見えてきた。

  『苦海浄土』での非人間的な鳥、空を飛ぶ撃つことのできない鳥、浮浪者に神々しさを認めさせる鳩、みっちんがおもかさまから聞かされる歌に唄われる鳥たち。そして、『天湖』と『水はみどろの宮』に出現する鶯やふくろうの歌声──くみとれるのは、幼年期に伝え聞いた歌に唄われる鳥が、実際に具現化して生き生きとその美しい声を響かせるのが、最後の2作なのだといえるのではないだろうか。

 

奇跡の鳥、使いの鳥——『アニマの鳥』

 

  そのようにさまざまな鳥を追った上で、連載時は『春の城』と題され、最初に本として出版された際には『アニマの鳥』と題名を変え、再び『春の城』という題にされた、天草の乱を主題とした作品に目を向けてみたいと思う。

  これは、キリスト教を信仰する者たちが、救い主であるキリストの受難を思いつつ、自分自身もまた、現世では助からないと考え、そのかわり、それぞれがもつ霊魂である「アニマ」の救いがもたらされると信じて、殉教してゆく物語である。天草四郎は、信者たちに、アニマの国を説いている。

  「アニマの鳥」が現れるのは、第6章「御影」にて、士郎が祭壇にて黙想をする場面である。そこで、女童たちがこのような歌を歌う。

 

わが目の曇りいかにせん
涙も涸れて(おも)うかな
なぐさめ深き大切の
人には遠く離れられ
鳥も通わぬ境かや
せめてアニマの使い鳥
とくと心に聞きわけて
千里の空をゆけぞかし[33]

 

それから、四郎が奇跡を起こす。聖画像の前に進み、そこにある小箱を供物台に乗せて、開いて黄金の十字架を取り出す。それをモチの木の枝に架けたあと、このようなことが起こる。

 

みんなの方に向き直り、彼は歌の最後の二行を口にのぼせて、おもむろに右の手を彼方に向けてさし伸ばした。するとその掌の上にふうわりと白い羽毛がふくらみ、生きた鳩になって会衆を見廻しながら首をかしげた。
「それ」
四郎が声をかけた。何が起きたのかわからないまま口をあけている善男善女の上を、鳩はゆっくりひと回りして御堂の外へ飛んで行った。
「アニマの鳥! アニマの鳥!」
子どもたちがいっせいに指さし、足踏みしながらあと追うように澄んだ秋空を見あげた[34]

 

このように、「アニマの鳥」とは、自分の生きているこの世ではもはや救われることのない「アニマ」を運んで行ってくれる使いとされ、それが四郎の手から生まれた鳩として描かれている。

  四郎は、アニマの鳥を「われらごときものたちを救いの国へ導く鳥にござり申す。(…)命のきわに放たれしアニマの鳥はここ宮津の空を舞うておりまする」[35]と人々に説く。

  そうして彼は、(はる)の城に籠城する。

  一揆に際して、みなで死ぬことを覚悟しながら、人々は、どのように生まれ直すのかを考えたりする。アニマの国へは舟でゆくのだと生死の境を覚悟した老女が考えたりしている。

  その城へと向かう無数の舟たちの様子は、「鳥が飛び立ってゆくような印象であった」[36]と書かれ、そこで海と空、舟と鳥のイメージは重ねられている。

  物語の終盤では、死を覚悟している人たちが、鳥にことづけをするエピソードが現れる。そのように考えると、鳥は、人の言葉を、あるいは、言葉ならざる思いを、次の世にまで越えて運んでゆく力を持つ存在として、石牟礼にとってそばにあったように思えてならない。

 

[1] 池澤夏樹編『日本文学全集24 石牟礼道子』河出書房新社、2015年、74頁。

[2] 同上、136頁。

[3] 同上、104頁。

[4] 同上、152-153頁。

[5] 同上、158頁。

[6] 同上、235頁。

[7] 石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火』第7巻、藤原書店、2005年、13頁。

[8] 同上、18頁。

[9] 同上、19頁。

[10] 同上、23頁。

[11] 同上、159頁。

[12] 同上、160頁。

[13] 同上、166頁。

[14] 同上、207頁。

[15] 同上、209頁。

[16] 同上、236頁。

[17] 石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火』第12巻、藤原書店、2005年、41頁。

[18] 同上。

[19] 同上。

[20] 同上、60頁。

[21] 同上、78頁。

[22] 同上、79頁。

[23] 同上。

[24] 同上、80頁。

[25] 同上。

[26] 同上、264頁。

[27] 同上、262-263頁。

[28] 同上、325頁。

[29] 同上、388頁。

[30] 同上、389頁。

[31] 同上、366頁。

[32] 同上、370頁。

[33] 石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火』第16巻、藤原書店、2013年、295頁。この歌にもとづいて、作曲家の佐藤岳晶が「アニマの鳥」というカウンターテナーのための曲を創っている。

[34] 同上、297頁。

[35] 同上、300頁。

[36] 同上、469頁。

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著者略歴

  1. 髙山花子

    1987年、北海道生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。現在、東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任助教。声や歌、音響をめぐる思想史、表象文化論。著書に『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、論文に「声が歌になるとき——『苦海浄土』の音響世界」『石牟礼道子の世界をひらく/漂浪(され)く』(東アジア藝文書院、2021年)、共訳書にモーリス・ブランショ『文学時評1941-1944』(水声社、2021年)などがある。

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