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鳥の歌、テクストの森 髙山花子

石牟礼道子と鳥(1)──空を飛ぶ鳥、啼かない鳥

 

1  石牟礼道子と人間との距離

 

にんげんはもういやふくろうと居る[1]

 

  いくつもの鳥を印象的に描いている作家に、生涯、熊本で執筆活動をした石牟礼道子(1927-2018)がいる。上の俳句は、石牟礼が作ったもので、彼女はまるで「ふくろう」と不思議な関係をとり結んでいるようだ。そのまま受け取ると、人間であることはもう嫌だ、人間といることはもう嫌だから、わたしはふくろうと共にいる、共にいよう、といった心が詠まれているだろうか。

  「祈るべき天とおもえど天の病む」[2]という彼女の詩句が入っているこの句集『天』(天籟俳句会、1986年)には、他にも「ふくろうのための彼岸花夜さり摘む」[3]というように、ふくろうを詠んだ句が現れる。句集の中では、鬼や神といった人間とは異なる存在が頻出し、逢魔ヶ原(おうまがはら)と呼ばれる怪しい場さえも情景として浮かんでくる[4]。そうした妖かしの世界と橋渡しをする存在であるかのように、ふくろうが神妙に現れている。

  石牟礼道子については、熊本県水俣市で発生した公害事件、メチル水銀による水俣病を描いた『苦海浄土』の作者として、言葉を奪われた患者たちの声をフィクションとして聞き書きした書き手として、その名を聞いたことがある人が多いかもしれない。

  石牟礼は、谷川雁や森崎和江、上野英信が1958年に筑豊に立ち上げたサークル村の活動に参加していた。炭鉱女をはじめとする社会の底のほうにいる人々について「聞き書き」する手法に触れる前後に、息子の通院をきっかけに、当時、原因がわからず「奇病」と呼ばれていた病の患者たちを知り、雑誌『サークル村』にルポルタージュ「奇病」を掲載するに至った。

  急速な近代化と日本の高度経済成長の負の側面があらわとなってくる1960年代、1970年代、激しくなる環境問題や公害訴訟の一連の動きのなかに、石牟礼と彼女が水俣病を描いた『苦海浄土』はたしかにあった。

  しかし、じつのところ、サークル村での活動をのぞいても、彼女は『苦海浄土』第1部を発表した1969年以前から、短歌をはじめとする少なくない詩作を行っており、1970年代以降も、中篇小説から長篇小説、さらには新作能の台本など、多様な作品を残している。

  そのような石牟礼が上にあげた句を創った背景には、鳥をはじめとする動物たち、さらには、植物たちへの眼差しがあふれていることはもちろん、「人間」と括られる存在に対する距離感や絶望、それに伴う自分自身の孤独感があるのだと思われる。

  ここでは、まず、『苦海浄土』を中心に、石牟礼の詩作でどのように鳥が現れているのかを概観し、作品としては、主に『天湖』(1997)を見てゆきたい。

 

2 『苦海浄土』に現れる鳥

 

  『苦海浄土』を読んでゆくと、椿の海と呼ばれる不知火海沿いに住まっていただろう水鳥たちや、鶏卵のために飼育されていたチャボたち、1970年代以降に書かれた第2部、第3部では、舞台になる東京のカラスや鳩たちの存在に気がつく。

  『苦海浄土』では、まだ病気の原因がよくわかっていなかった頃から、魚を食べていた猫たちが地面に頭をつけて踊るように死んでゆく様子が、ときには医学的な資料の引用とともに描かれている。このように、動物の中ではとりわけ魚と猫についての記述が目立つ。

  しかし、漁師がボラの取れなくなった話をしている場面で鶏の飼料について共に語られたり、第3章「ゆき女きき書」で汚染された小魚を餌にしていた水鳥たちが海辺で臨死状態になっている様子が描かれたりするなど、鳥もまた、たしかに作品の世界に存在していたことがわかる。

  「岩蔭や海沿いにつづく湧き水のほとりで、小魚をとってくう水鳥たちが、口ばしを水に漬けたまま、ふく、ふく、と息をしていて飛び立つことができないでいた。子どもたちが拾いあげると、だらりとやわらかい首をたれ、せつなげに目をあけたまま死んだ」[5]という文章からは、水鳥たちにも水銀毒が及んでいたことが思われる。水俣湾の海岸の渚には、鳥たちの死骸が落ちていて、腐臭が漂っていたという[6]

 

鳥の子に重ねられる杉原ゆり

 

  第5章「地の魚」には、「ミルクのみ人形」と名付けられた、胎児性の水俣病患者、杉原ゆりと、その両親が描かれている。

  4歳の頃、ゆりは「カラス ナゼナクノ カラス ハ ヤマニ カアイ ナナツ ノ コガ アルカラヨ」とうたっていたが、いまはもう歌うことはない。作品の冒頭でも、発話しない子供たちの四肢の異常について、「硬直して鳥のようになったかぼそいその手足」と描かれていたが、このゆりも、母親から「死んで干あがった、とかげのごたる。そして鳥のごたるよ」[7]と言われている。母親は次のように語る。

 

うちはときどきおとろしゅうなる。おとろしか。夢にみるもん、よう(よく)。磯の岩っぴらの上じゃのに、鳥の子が空からおちて死んどるじゃろうがな。胸の上に手足ば曲げてのせて、口から茶色か血ば出して。その鳥の子はうちのゆりじゃったよ。/うちはかがんで、そのゆりにいいよったばい。何の因果でこういう姿になってしもうたかねえ。生まれ子のときは、どうぞ、手の指足の指いっぽんも、欠けることなしに生まれてきてくれい、きりょうは十人並みでよか。どうぞ三本指にはなってくれるな……[8]

 

ここからは、四肢異常の水俣病患者の子供が、鳥の子にたとえられ、そして、落下して死んでしまうイメージと重ねられる悲観的な思考がみてとれる。この節では、もう話すこともなく、歌うこともなくなったゆりには、魂すらなくなってしまったことが、親の間で嘆かれ、会話されている。

  そうした中で、我が子を木や草に重ねるゆりの親は、木や草にも魂はある、という話をするのである。そして、木や草ていどの魂ならば、彼女にもやどっているのではないか、と考えようとするのである。

  さらに、いったんは悲観的に鳥の子とゆりを重ねたあと、母親は「ゆりが草木ならば、うちは草木の親じゃ。ゆりがとかげの子ならばとかげの親、鳥の子ならば鳥の親、めめずの子ならばめめずの親——」[9]というふうに想像力を広げてゆく。

  直後、夫に諌められて、「鳥じゃろと草じゃろと。うちはゆりの親でさえあれば、なんの親にでもなってよか」[10]と彼女は言うのだが、一連のやりとりからは、人間から遠く離れた動物として、鳥や植物が想起され、かつ、それらは病に冒された子供たちと結ばれていることがわかる。

 

田上義春には撃てない鳥

 

  2000年代に至るまで未完であった、『苦海浄土』第2部「神々の村」でも、水俣病患者の子供たちが鳥のように描かれている場面がある[11]。おしめが取れない子供たちが、おもらしをしてしまって小母(おば)さんに叱られるときは「逃げ場のない小鳥たちのように、それぞれの姿態のまま、子どもたちは、小さく小さく、かすかなものになって、息をする」[12]と書かれている。

  「渚に落ちる鳥の死骸をも拾いあげ」[13]る描写も見られる。石牟礼とおぼしき、視力を失いつつある年老いた「わたし」が、渚に打ち寄せられている塩化ビニールの袋を、「白く汚れた水鳥」に見間違える場面もある[14]

  第2部は、チッソ株主総会に、水俣から一行が参加し、練習を重ねた御詠歌を歌うことによって、もう戻ってくることはない死者たちの思いをぶつけるシーンがクライマックスとして劇的に描かれている。

  訴訟派とそうではない人たちが補償をめぐって分離し、水俣の人たちが分断されてゆく痛ましい様子が伝わってくる物語なのだが、このなかに、田上義春という、海ではなく、陸を漂浪(され)いている患者が登場する。

  彼は、兎を獲ったり、養蜂をしたり、チャボの雛を育てたりしており、兎については、山の魚というのだ。「義春さんな、鳥も撃つと!」と言われると、彼はこう答える。

 

いや、うんにゃ、鳥なあ、あやつは飛ぶけんなあ……。あやつは予告なしに飛んではってくけん、ありゃダメじゃ。/こっちの腰も坐りきらんうち、ひゅう——ち飛んではってく。あいつは撃ちきらん。ありゃ水俣病の人間にゃむかん。飛ぶけん。/ま、分相応ちゅうことのあるけん、あきらめとる。まあ、兎ぐらいが似合うとるな、俺共にゃ[15]

 

自分が育てている鶏とは違う、空を飛ぶ鳥は、撃ち取れない動物であると言われている。ほかに、犬を連れて狸を獲ったり、自在に山で生きている、そんなどこか山野の神々の世界からか漂浪(され)き出てくる、ある種の「向こう側」と結ばれている彼によっても、鳥は区別され、つかみとれない存在とされている。

 

鳩たちと交わる聖なる浮浪者

 

  雪の舞う東京に、水俣から石牟礼たちが移動してきた。そこで展開された東京での座り込みの場面、そんな会社とのやりとりが多く描かれる第3部「天の魚」では、漁師たちが烏賊を獲る際、「烏賊がな」という、桐の木でえびやイワシに形を似せて、鳥の羽根をつけたものを、海の中でひれのようにして泳がせる手法が語られて、水陸のイメージが重なってゆく場面もある[16]。ここで一番印象的なのは、第3章「鳩」にて描かれる、東京の鳥たちの様子である。

  漁師たちが皇居近くのお堀で水鳥や魚たちを見つけて嬉々とする場面がまず見つかるのだが[17]、テクストの中でまず焦点が当てられるのは、皇居前広場の楠木正成像の周りに集まる鳩たちである。そして、その鳩たちが集まる中に見られる、浮浪者である。

 

無数に空に散開したり地上に集まったりしている鳩たちの群の中にも、よくよくみていると、ひとつの方角を目ざして降りたり翔んだりしているものたちがいるのだった。/鳩たちがひとつの流れをつくって降りてくるその下に、ひとりの青白い浮浪者が、ベンチに腰かけていた[18]

 

それは、水俣から出てきた「わたくしたち」よりも若く見える、30前後の若者で、歩いて通り過ぎる人々からも、あたりにうずくまっている他の人間たちとも異なるあり方をしていた。「彼は不思議な、世にも恍惚としたまなざしの光で、無数の鳩たちをよびよせていた」[19]とあるが、それは、胸にパンを抱えており、それで鳩たちが彼の元に集まってくるからなのである。

  その後、しばらく、彼が抱えるパンをめぐって、空中から取っ替え引っ替え鳩たちが遊んでゆく様子と、空を見上げるその男についての描写が続くのだが、そうやって空を仰ぐ彼の姿に、筆者は「浄らかなおももち」や「聖なる深い苦悶」[20]を読み取り、鳩たちが彼に頬擦りしているようにさえ見てとっている。

  さらには、その男自身を無私のパンのようにさえも捉えるに至る。その姿からは、「親も兄弟姉妹も親戚も、友人とも上司とも、たぶんもう、縁が切れてしまっているのにちがいない。いるのはただただこのような広場に群れてくる鳩たちだけにちがいなかった」[21]と推察されるのである。

  『苦海浄土』を読み進めるにつれてあらわになるのは、水俣の彼の地で活動をする人たちにも、石牟礼を含めて、故郷を喪失した感覚があり、その感覚は、東京にまで出てきても、強固な寄るべなさとして持続しているということである。

  水俣にいるけれど、そこでは訴訟をめぐって、利権をめぐって、対立が生じている。かといって、連帯がうまくいっているかというと、そうではない。どこに行っても、行き場のない、漂浪の感覚が、ときに、船によって海を渡る流人のイメージとともに、付き纏っている。

  そうしたなかで、この鳩にパンをあたえる、他の浮浪者たちからも孤絶した若い男だけが、故郷の水俣にもいたような、魂の漂浪する人物と重ねられている。人間とではなく、鳥と交流し、鳥に愛されているかのような立ち振る舞いの持つ特異性が、見て取れるだろう。この男については、次のように書かれている。

 

気のふれた人間や、はくちといわれる人間や、故郷では神経殿といわれ、「魂の飛んで漂浪く」人間のたぐいに彼はぞくしていた。完璧に、生きながらこの世と断絶し、ゆくところのない人間として、たったひとりで彼はそこにいる。いや、鳩たちとともに。(…)それはたぶんわたくしたちに、ただのいっぺん訪れた、つかの間の聖なる時間だった。病人たちは鳩の舞う彼方の空を、自分の胸の中にひろげて持っていた。そのとき空は東京の空ではなく、ひとびとの、うちなる胸の中の天である[22]

 

  このように、座り込みのために水俣から来た一行が、東京にて唯一感じた清らかな時間が、この鳩としか交わらない男と共に、空を見上げたときであるのは、象徴的であるだろう。

  ここまで、『苦海浄土』第1部、第2部、第3部に描かれる鳥のイメージを見てきたが、杉原ゆり、田上義春、浮浪者の3人それぞれが、どこか人間離れしたものとされるときに、鳥との近しさや、鳥に対する独特の距離感が、描写のために用いられていることがわかった。それは、鳥が、他の動物とは、その形態と、とりわけ空を舞い飛ぶことから、区別されているからだと言えるだろう。

  汚染された魚を食べて死んでゆく水鳥や鶏とは別の、捉えがたい距離のある存在として、鳥のイメージが多く介在していることがわかる。

 

3  詩篇に描かれる鳥  空を飛ぶ鳥、啼かない鳥

 

  『苦海浄土』第3部「天の魚」には、「生死のあわいにあればなつかしく候/みなみなまぼろしのえにしなり」とはじまる序詩がつけられている。そのなかに、「ひともわれもいのちの臨終(いまわ) かくばかりかなしきゆえに けむり立つ雪炎の海をゆくごとくなれど/われよりふかく死なんとする鳥の()に遭えり」という一行がある。

  句集『天』でも、道子詩経としてエピローグに掲げられているこの詩の中で、いま死のうとしている「われ」は、自分自身よりも深く死のうとする鳥の瞳に出遭うのだと歌われている。石牟礼にとっての鳥のイメージがどのようなものなのか、詩篇からも探ってみたい。

 

「死民たちの春」 

 

  1971年に書かれた散文詩「死民たちの春」では、「生類のみやこ」を希求する心が書きつけられている。そこには、こんな言葉がある。

 

えしれぬ毒気にあてられて
素肌の毛穴をぜんぶ閉じたけれど
わたしは爪の先まで静かに裂ける
胸に隠していた小鳥よりも細いわたしの死者の骨が
可憐な音を立ててそのとき折れた
ひとことも啼けずに鳥のまなこになり
辛うじて生きていたが
秋の茜が海のかなたの天竺の空まで
耀い渡った夕ぐれに
うるうると人間のまなこにかえり
くわっと みひらいたまま
死んだ子どもだったのだよ[23]

 

春と夏のあわいの極みの季節に生類のみやこへ行けるのだと声がする。馬酔木(あせび)の音に、死にたくないと願う男の哀しみを感じて眠って目覚める。今度は5月の東京にいて、地面に向かって「にんげんよ」と小さく呼んでみたりする。そのような断片的なイメージの移ろいが歌われている。そのあとで生じた出来事が、上の言葉であり、最後、「常世の海底」が光り、「凶兆の虹」が日本列島にかかって、「死民たちの曼荼羅図絵」が漂うとされて、詩は終わる。

  そうして読み返すと、「わたし」は東京で、啼くことはない、見るだけの鳥となることで辛うじて生き延びた、ということが書かれている。

  「出魂」という、1974年に書かれた詩でも、鳥は啼かない。

 

奈落の天を
ひとすじの白虹となって
飛びつづけている鳥が
いま
絶命する

ひと声も啼かず
ひらこうとした
のみどの奥を
空と海とが
いれかわるあわいの
吹雪が
とおった[24]

 

啼くことなく絶命する鳥の、その死ぬ間際の喉の奥を、吹雪が通過してゆくという、海と雪とが混じり合う独特のイメージがここにも現れている。

  1989年に発表された「鳥」という詩では、蛇にとらえられた鳥が「じゅじゅう じゅう」と啼く光景が歌われている。

 

じゅじゅじゅう!
また鳥の声がした
その声しか出ない
そこまでしかひらかない咽喉(のみど) [25]

  

このあと、絶命するまでに、ほそぼそと、鳥が「じゅうっ」と啼く今際の声に、耳が澄まされてゆく。かつ、そのような声を出すことじたいが、鳥にとっては振り絞るように苦しいものであることが想像される。この詩と先の啼かない鳥に「なる」ことを重ねると、それは苦しみによって啼くことも厳しい状態が読み取れるかのようだ。

  もうひとつ、考えてみたいのは、石牟礼が、魚が「啼く」ことを描写している点である。ずっと最近の「満ち潮」という1995年発表の詩では、グチという魚が、唯一の啼く魚として詠まれている。そして、おもしろいことに、この詩の最後は、次の詩句で閉じられている。

 

五位鷺の啼く声を 海底で聴きました
潮は音もなく満ちてきて[26]

 

石牟礼は、無題の詩で、海底を歌う際、「(はびる)を生むかわりに/鳥よりも美しい(いお)たちを生み続けて」[27]と書くように、鳥と魚を双子のように思い描いているように思われる。

 

  『苦海浄土』第3部「天の魚」は、1971年12月に、チッソ本社社長室前で座り込んだ際の言葉、「港をへめぐる舟のまぼろしを見うるものたちはさいわいなるかな。この舟に、現世の金をもって、天の水と天の魚が積まれんことを!」から来ていると思われる。しかし、実際のところ、天は病んでいるだけでなく、「海底の修羅」(昭和50年代執筆、2017年発表)でも、天と海が入れ替わると歌われていたように[28]、空と海とがどこかで溶け合いながら、空でも海でも苦しみに声を絞り出すような、そのような鳥の姿が、どこかもっと別の時空の詩的な想像力さえも喚起する形で石牟礼の詩からは見えてくる——たとえば、アルチュール・ランボーの「永遠」のように。

 

第3回「石牟礼道子と鳥(2)――奇跡の鳥、使いの鳥」に続く)

 

[1] 石牟礼道子『句集 天』天籟俳句会、1986年、38頁。

[2] 同上、10頁。

[3] 同上、50頁。

[4] 「そこゆけばじき逢魔ヶ原 姫ふりかえれ」という句が収録されている。おそらくは妖かしのものたちと出会う原っぱのような場を示す、石牟礼独自の表現と思われる。同上、46頁。

[5] 石牟礼道子『苦海浄土全三部』藤原書店、2016年、137頁。

[6] 同上。

[7] 同上、202頁。

[8] 同上、203頁。

[9] 同上、207頁。

[10] 同上。

[11] 『苦海浄土』第2部は、藤原書店から全集が出版された2004年4月に完成版が公になったといえる。第2部は、作家の井上光晴(1926-1992)が主宰した雑誌『辺境』の第1次から第3次に1970年9月から1987年10月まで断続的に連載されたものが母体になっている。水俣から大阪のチッソ本社に巡礼団が乗り込む場面を最後まで書けなかったと推測される。

[12] 同上、298頁。

[13] 同上、311頁。

[14] 同上、327頁。

[15] 同上、373頁。

[16] 第3部は、雑誌『展望』の1972年3月号から1973年12月号まで掲載されたものである。当時の『展望』には、公害に関する記事や、水俣についてのドキュメンタリー映画を多く残すことになる土本典昭による寄稿も目立つ。この頃から、石牟礼は、「もうひとつのこの世」という新しい共同体像を思い描き、患者自身の作業所として水俣病センターを作る構想の中心にいた。

[17] 同上、710頁。

[18] 同上、795頁。

[19] 同上。

[20] 同上、796頁。

[21] 同上、797頁。

[22] 同上、799頁。

[23] 石牟礼道子『石牟礼道子全詩集』石風社、2020年、146頁。

[24] 同上、168-169頁。鳥を描くこの詩に類似した、創作ノートに残されている「夕刻(1971年11月1日付)という詩については、寺尾紗穂が同名の歌にしている(アルバム『北へ向かう』2020年収録)。石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火』第15巻、藤原書店、2012年、211-212頁。

[25] 同上、301頁。

[26] 同上、327頁。

[27] 同上、270頁。

[28] 同上、231頁。

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著者略歴

  1. 髙山花子

    1987年、北海道生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(学術)。現在、東京大学東アジア藝文書院(EAA)特任助教。声や歌、音響をめぐる思想史、表象文化論。著書に『モーリス・ブランショ——レシの思想』(水声社、2021年)、論文に「声が歌になるとき——『苦海浄土』の音響世界」『石牟礼道子の世界をひらく/漂浪(され)く』(東アジア藝文書院、2021年)、共訳書にモーリス・ブランショ『文学時評1941-1944』(水声社、2021年)などがある。

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