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名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

赤いコートの浦島太郎

「ご心配には及びません」

 電話の向こうで鴨志田がいった。

「トータス・リコールのセキュリティは万全です。万が一にも亀山様のプライバシーが流出することなどはないよう、全社一丸となって鉄壁の守りを張らせていただきます。大船に乗ったつもりでご安心ください」
「安心もなにも、私AIとか興味ないといいましたよね」
「たしかに承っております。しかし、世界はもはやAI時代に突入していて、興味のあるなしにかかわらず、私たちの身の回りにはAIが網の目のように張り巡らされています。もはや時代の必然といわざるをえません。ところで、亀山様は泳げますか?」
「はっ?」
「亀山様、泳げますか?」
「泳げますけど、それが何の関係があるんですか?」
「さすが亀山様です。私も亀山様はきっと泳げるだろうと確信していました。そこで、ひとつうかがいます。もし海で泳げなかったら、どうなるでしょう?」
「えっ?」
「想像してください。泳げない人が海に投げ出されたらどうなるか」
「そりゃ、溺れるでしょう」
「そのとおりです。では亀山様は溺れたいですか」
「そんなわけないじゃないですか」
「ごもっともです。なぜ溺れないか。それは亀山様が泳げるからですね。泳げるというのはすばらしいことです。目を閉じると、私には大海原を亀山様がイルカのようにさっそうと泳いでいる姿が浮かんできます」
「切りますよ」
「失礼しました。あと1分ですみます。そうです、亀山様は泳げる。すばらしいことです。大海原で溺れずにすむ。泳げてよかった、そう思われますよね。しかし、そんな亀山様も最初から泳げたわけではなかった。泳げるようになりたいという一途な思いと努力の結果、いまの亀山様がある」
「あと40秒です」
「しかし、いくら亀山様が泳ぎが達者だとしても、それは昼間の穏やかな入り江や海水浴場でのことです。これがもし夜の嵐の海だったらそうはいきません。逆巻く波にもみくちゃにされて、上も下もわからず、息もできない。水を飲んでしまいどんどん苦しくなってきます。気の毒で私には見ていられません」
「あと30秒です……」
「失礼しました。先に結論を申し上げます。トータス・リコールのAIは亀山様が嵐の海で溺れないようにするためのかけがえのないパートナーになる。そう私は確信しています。イルカの亀山様をもってしても、嵐の海を泳ぎ渡るのは至難の業です。どんなに必死で水をかいても、思い空しく深い海の底へと呑み込まれていく。そんな亀山様を私は見たくありません。胸がつぶれる思いです」
「わざわざ望んで嵐の海になんか入りません。あと15秒です」
「でも、望んだわけでもないのに、気がついたら嵐の海に投げ出されている。人生とはそういうものではないでしょうか」
「……」
「トータス・リコールのAIはそんなときにカメのように亀山様を乗せて安全なところへ運んでくれる。そんなパートナーと申し上げれば賢明な亀山様ならご理解いただけましょう。こういう言い方は保険業界の方がよくなさいます。でも、保険は溺れている人に浮き袋を投げるようなものです。高額な保険であっても浮き輪が救命ボートになるくらいです。でも、トータス・リコールはちがいます。溺れていた人を竜宮城へ連れていってくれる。それがどういう意味か、もっとご説明したいところですが時間も押していますし、お客様との約束はどんなことがあっても守るのが私のモットーですので、これにて失礼いたします」

 鴨志田が通話を切った。
 目を上げると、天井で揺れていた水かげろうが消えていた、外を見ると、さっきまで晴れわたっていた空が一面雲で覆われ、遠くのほうで雷らしき音が低く響いている。見ている間に雲は折り重なって、厚く、暗くなり、稲妻が明滅して雲の輪郭を立体的に浮かび上がらせた。
 カメが水槽から頭を出して空を見つめている、いや、見つめているように見える。やがてぱらぱらと雨が落ちてきたかと思うと、たちまち雨脚が早まり土砂降りになった。風にあおられた雨はベランダや水槽にも吹き込んできたが、カメはあいかわらず外を見ている。
 鴨志田が送ってきたスマホの画面が、ソファの上で呼吸しているかのように明るくなったり暗くなったりしているのに気がついた。のぞいてみると暗い宇宙空間に浮かぶ地球が写っている。衛星画像などで目にしたことのある大気圏外からの画像だ。光を浴びた青い地球。
 シュウイチがスマホを持ち上げ画面にふれると、ふわっと明るくなり、つづいて低い振動とともに画像が動き出した。あたかも地球に帰還する宇宙船の窓からの眺めのように、地球がだんだん近づいてくる。
 なおも画面を見つめていると、画像は一面の大海原になった。鴨志田の顔が浮かんだが、すかさず脳内消去した。
 穏やかな真昼の海がぐんぐん近づき、海面をおおうさざ波が見分けられるほど降下したときだった。
 ふいに海中からなにか黒っぽいかたまりが浮上してきた。かたまりは波しぶきとともに海上に姿を現し、スマホがふたたび振動した。かたまりは一頭のカメだった。背中に人が乗っている。フードのついた赤いコートを着ていて表情は見えない。

 ――浦島太郎? 

 水面に現れたカメは白波を立てて海上を突き進んでいく。視点はふたたび遠ざかり、しばらくするとカメの姿は白い光の点に変わり、その進む先に陸地が見えてきた。その海岸線の輪郭には見覚えがあった。そうだ、房総半島だ。見ていると、光の点は房総半島と三浦半島に囲まれた湾、つまり東京湾へとすべりこんでいった。
 点は徐々にスピードを落とし、蛇行しながら湾の奥へと向かい、たくさんある河口の一つに入り込むと、川をさかのぼり始めた。それにともないふたたび画像の視点が低くなって、光の点は消え、視界はカメと赤いコートの浦島太郎を斜め後ろから見下ろすような画角に変わった。両岸にはビル街や橋など都会の風景が広がっている。前方に東京スカイツリーらしき塔も見える。バーチャル3D映像なのだろうが、とてもリアルだ。
 カメの進行方向左手に巨大な緑地帯が見える。シュウイチが顔を傾けるとそれに応じて画角が変化する。どうやら皇居らしい。しかし、皇居にしては建物の形がちがう。どう見ても城に見える。

――江戸城か!

 皇居がかつての江戸城の敷地にあることはシュウイチも知っていた。いまは存在しない江戸城がバーチャル空間の中に描かれているのだった。
 川は北西にむかってなだらかに進路を変えていく。先ほどから見えていた東京スカイツリーが近づいてくる。そのスカイツリーの中ほどに巨大なカニのハリボテがついていて、アシとハサミを不器用に動かしている。どこかで見たことのある風景だ。下に「カニざんまい」という文字が見える。
 実際のスカイツリーにこんなものはついていない。プログラム設計者のサービスなのか、冗談なのかわからない。川の両岸に現れる風景は、たしかに現代の東京だとわかるのだが、どこかずれていた。大通りにひしめくクルマのうち10台に1台は派手なイラストと電球で飾られたデコトラだった。工場地帯の上空にはハチマキを巻いたタコのバルーンがあがっていた。高層ビル街の屋上には巨大な招き猫が置かれている。秋葉原を思わせる電気街のようなものも現れたが、その入り口には明治神宮にあるような巨大な鳥居があり、そのたもとにも招き猫がいる。
 新宿らしき風景の中に家電量販店があった。屋上では鯉のぼりがはためき、電飾の看板には日本語で「楽しいすべての安いもの」という文字が見える。いいたいことはわかるが、不自然な日本語だ。その下の通りは歩行者天国になっていて、路上でおおぜいのお相撲さんがならんで四股を踏み、その振動が伝わってくる。お相撲さんはみなマスクをしているので、映像がつくられたのは最近なのだろう。
 川のルートもよくわからなかった。河口からさかのぼってしばらくは荒川かなと思ったが、明治神宮の鳥居や新宿のような風景が現れるところを見ると、実際の地形に忠実なわけではないらしい。
 設計者はまちがいなく日本人ではない、少なくとも、日本で育った人間ではないとシュウイチは思った。このプログラムそのものが日本人をターゲットにしたものではなさそうだ。外国人がイメージする日本らしさをなぞった外国人向けのものかもしれない。
 カメはさらに川をさかのぼり大きな橋を超えた。堤防の向こうには住宅街やマンション、畑も目につくようになった。埼玉県に入ったらしい。
 しばらくすると、思いがけないものが現れた。近所の清掃センターの煙突だ。団地のベランダから見えるやつだ。
 カメはスピードを落とすと煙突の見える堤防の下で止まった。浦島太郎が岸へ飛びうつり、堤防の斜面を上りはじめた。カメも上陸して後ろからついてくる。
 堤防の上で浦島太郎があたりを見回している。激しい雨がコートを濡らし、裾から幾筋もの水が流れ落ちている。実際の天気とシンクロしているらしい。浦島太郎が見つめる先に見覚えのある建物があった。畑の向こうに小さく見えているのはイルカ団地だ。

――こっちに向かっているのか!

 そのとき一瞬風にあおられてフードがまくれ、肩まで垂れた黒い髪をしてマスクをつけた顔が見えた。浦島太郎はすぐにフードをかぶり直し、さらに傘をさした。コートと同じく赤い傘だ。

――あれ?

 マスクをしていたし、雨に煙ってはっきりしなかったものの、ちらりとのぞいた目は女性だったように見えた。背が高いし、なにしろ浦島太郎なのだから男だと思っていた。
 傘をさした浦島太郎とカメは畑の間の農道を歩いている。浦島太郎はしばしば立ち止まって、カメが追いつくのを待って、また歩く。
 思わずシュウイチはベランダに出た。吹き込む雨に打たれながら、スマホの画面と、目の前の実際の風景を見比べた。
 ひょっとしたら、そのあたりに赤い傘が見えるのではないかと思った。もちろん、冷静に考えれば、そんなことはありえないとわかっていた。
 それでもシュウイチは畑の方角に目をこらした。あのあたりだろうか。雨脚はやや弱まったものの、あいかわらず雨は激しい音を立てて降り込め、舞い上がった水煙で畑のあたりは一面白っぽく霞んでいる。それでもシュウイチは久しぶりにわくわくしながら、その水煙に霞むあたりを見つめていた。

 呼び鈴が鳴ったとき、シュウイチはまだベランダで外を見つめていた。
 なんどかくりかえし呼び鈴が鳴って、やっと気づいたシュウイチは急いで玄関へむかった。浮き彫りの施された木製の中扉を押して、景徳鎮風の巨大な壺を迂回して、玄関のドアノブをひねった。
 いつもなら、いきなりドアをあけるようなことはない。呼び鈴を鳴らすのは訪問販売、不用品収集業者、宗教の勧誘くらいだったから、いつもは居留守を使うか、インターホンで対応して引き取ってもらっていた。
 しかし、このときはインターホンにも出ず、思わずドアノブをひねってしまった。もしかしたら、赤いコートの浦島太郎とカメが、濡れそぼって立っているのではないか。すこし考えれば、そんな想像は明らかに非現実的であるとわかるはずだが、このときのシュウイチは冷静になる暇もなく、気がついたらドアを開けていた。

「おはようございます!」

 そこに立っていたのは濡れそぼった鴨志田だった。スーツの上着の裾から雨粒を滴らせている。

「なんだ、鴨志田さんですか……」
「ええ、鴨志田です。どなたか来られる予定だったんですか」
「いや、べつに……」シュウイチはとっさに打ち消した。「それで、なんの御用でしょう。さっき電話で話したばかりですよね」

 すると、鴨志田は向き直り、「亀山様、ちょっとだけお時間よろしいでしょうか」といった。

「はい」

 玄関先に立ったまま話を聞こうとすると、鴨志田がいった。

「いや、ここでけっこう。わざわざ上がらせていただかなくても大丈夫です。私は濡れるのにも、冷えるのにも慣れていますから。若い頃、秩父の山で雨に降られたことがあります。岩穴に避難したのですが雨がやまず、夜になってしまいました。寒くて眠くなってきたのですが、ここで眠ってしまったら死ぬと思い、必死で眠らずに一晩過ごし、その経験があったからこそ今の私があります。お心遣い、感謝いたします。お気持ちだけで十分です」
「わかりましたから、どうぞ上がってください」

 シュウイチは鴨志田にタオルを渡し、下に足ふきマットを敷いた。

「では、お言葉に甘えまして」

 鴨志田は靴を脱いで、足ふきマットの上に乗って靴下を脱ぐと、タオルで服の水滴をぬぐった。
 居間に入った鴨志田は「突然お邪魔させていただいたのは、ほかでもありません。私、先ほどの電話のあと、深く反省いたしました。これは亀山様にお会いして、きっちり謝罪しないわけにはいかない。そういうわけで、思い立ったが吉日とすぐさまかけつけたしだいでございます」というと、深々と頭を下げた。

「どういうことでしょう」
「例のトータス・リコールのAIの件です。あれを引き取りにまいりました」
「えっ?」
「亀山様のためと思って出過ぎた真似をしてしまいました。亀山様があんなにいやがっているのに、これは亀山様のためになることなんだと私は自分に言い聞かせ、泣く泣く断腸の思いで亀山様を説得し、トータス・リコールを送らせていただきました。それもひとえに亀山様が溺れないように、という一途な思いからの行為であって、けっして我が社とトータス・リコール社の関係を深めて将来のビジネスに活かそうなどという打算からではございません。それだけは信じていただきたいと思います」

いつのまにか、鴨志田はソファに腰かけると、カバンから水筒を取り出し蓋を開けた。

「あ、これは、私が愛飲している中国茶です。菊の花やクコの実やゴボウやナツメなどをブレンドしたもので健康にいいんです。一杯いかがですか」
「いえ、けっこうです」
「健康にいいんですよ。申し訳ないんですが、コップをひとつお借りできますか」

 シュウイチはキッチンからガラスのコップをとってきて、ソファテーブルに置いた。鴨志田が茶を注ぐと白い湯気があがり、コップの内側の縁が白く曇った。茶を一口飲むと、鴨志田は続けた。

「でも、先ほどの電話の後、気づいたんです」

鴨志田は残りのお茶を一気に飲んだ。

「私の高校時代の先生が、授業のときに、こうおっしゃったんです。『人には幸福になる権利があると同様、不幸になる権利もある。それを認めるのが真の自由というものだ』と。あの電話の後、天啓が下ったかのように、突然、その言葉を思い出したのです」
「そのことと私が何の関係が……」
「ともかく、これ以上亀山様のお心を煩わせるのは、私どもの本意ではございません。トータス・リコール社には私の方から説明し、ほかのモニター候補者を探しますので、AIはこの場で引き取って帰ります」
「ちょっと待って下さい……」

 シュウイチがそういいかけたとき、テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホの画面がパッと光ったかと思うと、女性の声がした。

「やっと着いた。団地ってみんな同じに見えて、ほんと、わかりづらい。よくこんなところ住んでるわね」

 シュウイチは目を見開いてスマホの画面を見つめた。カメといっしょに歩いていた「浦島太郎」が、うつむいて傘の水滴を払っている。背後に玄関ドアの外の踊り場が映っている。そのとき浦島太郎が顔を上げた。フードとマスクの隙間からのぞく目が、シュウイチの目と合った。

「まさか……」シュウイチがつぶやいた。

 鴨志田が声をかけようとしたときには、シュウイチはすでに玄関へ向かっていた。景徳鎮風の壺につまずき、サンダルをあべこべにつっかけて、シュウイチはおそるおそるドアを開けた。30センチほど開けたところで、なにかやわらかいものにぶつかる感触があった。ドアの向こうをのぞくと、フードのあるコートを着たマスク姿の女性がお尻を押さえていた。ただし、そのコートの色は黄色だった。

「急にドアが開くからびっくりしたわ」

 聞き覚えのある声だった。スマホから聞こえた声ではない。女性が顔を上げると、イルカの柄のマスクが目に入った。上の階の鶴田さんだとわかった。手にホウキをもっている。

「鶴田さん! ここでなにを……」
「階段掃除よ」といって鶴田さんは手にしたホウキを示した。「亀山さん、どこか行かれるの?」
「いえ、その……」

 シュウイチはあたりを見回した。踊り場には鶴田さん以外、だれもいなかった。外ではあいかわらず雨が降りしきっていた。

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著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

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