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名なしのカメはAIの舞に興味がない 田中真知

シュウイチとカメ、イルカ団地に入る

 鴨志田の運転するクルマは町を抜け、畑の広がるエリアに入った。平坦な畑に菜の花が咲き、その向こうに給水塔らしき高い塔が立っている。塔を囲むように十棟あまりの五階建ての建物がかたまり、側面の外壁に古びた絵が描かれている。少し先に土手が伸び、青葉を茂らせた桜並木がつづいている。

「いいところでしょう。少し前まで桜が満開でした」

 クルマを運転しながら鴨志田がいった。

「畑の真ん中にあるんですね」
「築50年になるんですが、当時は近くに駅ができる予定で、このあたりを街のセンターにする計画だったんです。ところが、その後の調査で洪水浸水想定区域に指定されてしまって計画は白紙に戻り、おかげで静かな自然豊かな環境が守られているわけです」
「洪水浸水想定地域……」
「ご心配は無用です。まだ洪水になったことはありませんから」
「そ、そういうことでは……」
「ここから団地の入口です」
 立ち並ぶ団地の側壁に描かれているのはイルカの絵だった。ジャンプしているものや、泳いでいるものなど、それぞれの棟にちがうポーズで描かれているが、いずれも色あせ、ペンキも剥げかけている。

「なんでイルカが描いてあるんですか?」
「この団地、通称イルカ団地っていうんですよ。登記上はちがうんですけど」
「どうしてイルカなんですか?」
「昔、土手の向こうの川でイルカが目撃されたことがあったんです」
「土手向こうの川って、ここって海からずいぶん遠いですよね?」
「ええ、東京湾から泳いで来たみたいです。しばらくこのあたりに住みついて、テレビで取り上げられたりして、見物に来る人もけっこういたようです。そのうちいなくなったんですけど、それがきっかけで外壁の塗り直しのときに余っていた積立金を使って、イルカの絵を描くことにしたんです。町おこしのつもりもあったんでしょう。当時はイルカのTシャツとかも売ってました。そのあとイルカは来ていませんけどね」
「なんでイルカ、こんなとこまで来たんですかね」
「さあ、迷い込んで、うろうろしているうちに、たまたまこの川につながる支流に入り込んでしまったんでしょうね。人間も似たようなもんですよね。好きこのんで選んだわけではないのに、なんとなく気がついたら、こんなところまでたどりついてしまった、みたいな。この団地に住まわれている方もそんな方が多いですね」
「……」
「いえ、亀田様、いや亀山様のことなんかではまったくございません!」
「いいんですよ。住民はどんな方たちなんですか」
「いろいろですね。高齢の方が多いですね。できて間もない頃に結婚して入居され、そのまま住み続けている方もけっこういるようです。まあ、いよいよとなったら、近くに介護施設と清掃センターもありますので、老後の心配も、遺品の処分も問題ありませんから、ご安心ください」

 鴨志田はクルマを団地の一角に停めた。鴨志田はクルマを降りると、「こちらの棟になります。『ホ』の201ですから二階です」といって歩き出した。

「ホ?」
「1号棟とか2号棟とかではなくて、イロハ順なんです。亀山様、カメちゃんを忘れないでくださいね」というと先に立って階段をのぼっていった。

 二人がドアの前に着くと、鴨志田が鍵を開けた。
 明かりがつくと、シュウイチは思わず「わっ!」と声を上げた。目の前に人間の背丈ほどもありそうな巨大な壺が立ちはだかっていた。どこかの美術館で目にした中国の景徳鎮あたりの壺によく似ていた。両側の壁には山水画や水墨画や書の掛け軸がぶらさがり、木製のサイドボードの上にはカメをかたどった翡翠の像をはじめ、骨董めいた置物がひしめいている。
 しかし、もっとも目を引いたのは、壺の向こうにある分厚い扉だった。幾何学模様の複雑な透かし彫りが施された木製の扉で、周囲を丸い鉄の鋲が縁どっている。

「奥がリビングになっています。その前に、洗面所をご案内しましよう。壺を倒さないように注意なさってください」
「なんで、こんな大きな壺が正面に……」
「ラグジュアリーですよね。こちらから迂回してください」

 鴨志田とシュウイチは壺を避けながら洗面所に向かった。

「こちらがトイレです」

 トイレの扉も玄関正面にあったのと同じような幾何学模様のある木製の扉だった。
 鴨志田が扉を開けると、中には便器があった。ただし、便器の表面に青い染付で風景画のような絵が施されていた。

「伊万里焼です。もちろんウォシュレットもついています。日本にただひとつしかありません。ラグジュアリーです」
「これを使うんですか」
「もちろんです、遠慮はいりません。つぎはお風呂をごらんください」

 風呂場の扉は曲線を描いた金属フレームに色のついた磨りガラスがはめられていた。扉を開けると、狭い風呂場には不釣り合いな黄金のバスタブが目に飛び込んできた。バスタブは楕円形で底に四本の足がついている。洗い場がほとんどない。

——これに入るのか……。

 戸惑ったシュウイチが顔を上げると、鴨志田がすかさず「ラグジュアリーです」といってうなずいた。

「これがなんだか、おわかりですよね」
「バスタブですね」
「もちろんです。なにをかたどっているのか、おわかりでしょうか」

 シュウイチは黄金のバスタブにふたたび目をやった。バスタブの片側にくぼんだ突起がある。入浴のときに頭をのせられそうだが、この部分が動物の頭部に見えなくもない。

「もしかして、カメですか?」
「そうです、カメです! 黄金のカメです!」

 鴨志田は満足そうにうなずいた。
 風呂場の壁には風景画が描かれていた。雪をいただいた山が見えるが、銭湯絵のような富士山ではない。山裾の平原にゾウやキリンなどの動物が群れをなしている。カメはいない。

「私は、キリマンジャロではないかとにらんでいます」鴨志田がいった。
「キリマンジャロ?」
「アフリカでいちばん高い山です。高さは五八九五メートルです」

 鴨志田が得意げにいった。

「どうやって覚えたか、知りたいですか?」
「はっ?」
「ゴーヤが九個と覚えるんです。五八が九五、覚えやすいでしょう。子どものときから語呂合わせで歴史の年号や山の高さや川の長さを覚えるのが得意だったんです。その特技がいまの仕事にも生かされています」
「そうですか……ところで、こういうのって、オーナーの趣味なんですか?」
「さあ、オーナー様にはお会いしたことがないので、なんとも。連絡も契約も代理人をつうじて行っておりますので、オーナー様がどういう方かは私どもも存じ上げていないのです。ただ、私のにらんだところ、高尚な芸術的趣味を持っていらっしゃる方であることはまちがいありません」
「代理人って、どういう方なんですか」
「それがですね、大口の不動産取引専門の代理店がありまして、その中でもトップクラスで、海外物件も多く手がけているところがあるんです。そんな大手が、なぜ私どものような小さな会社と、しかも築五十年の解体寸前の古団地、失礼、半世紀の歴史を誇る昭和の文化遺産との契約にかかわるのか正直申し上げて意外だったんですが、そこの契約担当の方が代理人を務めてくださっています。ここだけの話ですが、その方、なんと亀井様と申しまして、偶然かもしれませんが、ここでも、カメつながりで驚きました。亀井様にオーナーがどういう方かうかがったのですが教えていただけませんでした。もちろん、私が亀井様の立場だったら同じことをしたでしょう。口がかたいからこそ、この業界で生き延びてこられたわけです。ところがですね……」

 鴨志田がさらに話そうとするのを無視して、シュウイチはリビングにつうじる木製の扉の方に向かった。鴨志田がすばやくシュウイチの前に回って、観音開きの重厚な扉を押すと、扉は意外なほどスムースに開いた。
 玄関や洗面所とは対照的にリビングはシンプルな空間だった。得体のしれない骨董品で埋まっているかと思いきや、低いソファと木製のアンティークのテーブルと椅子が二脚、それに本棚くらいしかなかった。リビングは八畳ほどだが、ものがないので広く見える。その奥にも部屋があり、一人暮らし、いや、一人とカメ一匹には十分すぎる広さだった。

「こちらがリビングで、こちらがキッチンです。食器棚の食器やカトラリーはご自由に使ってくださってかまいません。冷蔵庫もあります。カメちゃんは入れないでくださいね。冬眠しちゃいますから」

 シュウイチはキッチン横の錠前のかかった古い扉に気がついた。リビングに通じる扉より小さいが、同じく木製でアラベスク模様の象嵌細工が施されている。ここのオーナーは扉にこだわりがあるのかもしれない。

「その扉の奥がオーナー様の私物が保管されている部屋です。そこは鍵がかかっていますので立入禁止ということでお願いします。あとは自由に使ってくださってかまいませんが、そこの本棚に置いてある布に包まれた箱にもお手をふれないようお願いします」
 上段のガラス戸の中に刺繍の施された布にくるまれた箱状のものがある。上部に白い紐がかけられ、巾着袋のようにすぼまっている。
「中身は私も存じ上げませんが、私はひそかに玉手箱ではないかとにらんでいます。どうしてかと申しますと、いや、これ以上は申し上げられません」鴨志田はそういうと南側のサッシを開けた。
「そして、こちらがベランダです。日当たりがいいので、甲羅干しが好きなカメちゃんはここで飼うのがいいでしょう。物置きに水槽やバケツなどが入っています。ご自分で好みの品を用意されてもかまいません。そのあたりはさしあげた本や雑誌をご参照ください。説明は以上になります。それでは契約書の方に署名と捺印をお願いいたします……」
 

 

 シュウイチが段ボール箱からカメを取り出したのは、鴨志田が帰ってしばらくしてからだった。急な展開に疲れたのか、ソファでうとうとしてしまい、気がつくと夕方近くなっていた。
 箱の中のカメは、不動産屋の事務所で見たときと同じように、甲羅の中に頭と四肢を引っ込めてじっとしていた。甲羅の左右を両手で持って持ち上げると、思っていたより重い。スーパーの棚で米の二キロ入りの袋を持ちあげたときよりずしりと来る。しかも、ひんやりと冷たい。
 ベランダは左右十メートルほどの幅だった。左奥には物置きが、右奥には隣戸に通じる仕切り板があり、手前の壁際にエアコンの室外機が二基並べて置かれている。植木鉢やプランターボックスなどが手すりの側に並んでいたが、水をやっていないせいか、どれも枯れていた。
 シュウイチは、ベランダの床にカメを下ろした。相変わらず甲羅に頭と四肢を引っ込めたままで、甲羅の格子状の模様がなければ漬物石のようだった。

——カメがある……。

 シュウイチの口から無意識にそんな言葉が出た。「カメがいる」より「カメがある」のほうがしっくりくると感じた。
 実際、いまベランダに置いたばかりなのに、それはまるで置き忘れられ、そのまま放置され、すでに場所の一部になっているかのようにさえ見えた。

——生きているのだろうか。

 シュウイチは甲羅の下の引っ込めた前肢の皮膚にそっとふれた。前肢が緊張して縮こまった。生きている。「ある」ものが、その瞬間「いる」ものに変わった気がした。
 目を上げると、畑の向こうの土手の上に傾いた太陽が見えた。鳥の群れが土手をかすめて飛んでいく。

 ——「いる」と「ある」のちがいは何なんだろう。太陽は、ある。畑も、ある。土手も、ある。鳥は、いるかんじがする。自分はどうなのか。ぼくは「いる」か、「ある」のか。
シュウイチは、いまはなんとなく自分は「いる」より「ある」に近い気がしていた。なぜそう感じるのかはわからなかった。

 シュウイチがふと下を見ると、いまさっきまでそこにあったカメがない。カメが「いない」ではなく「ない」。目を離したすきに、どこかに歩いていったのか。植木鉢やプランターボックスの周囲にはいない。エアコンの室外機の下をのぞくと、そこにカメが「あった」。

 カメなど飼ったこともなければ、興味もなかったし、そもそも、これがなんという種類のカメかも知らなかったし、なにを食べるのかも知らない。
 鴨志田に持たされた『カメの飼い方』をぱらぱらめくったところ、どうやらミシシッピアカミミガメというやつらしかった。昔、ミドリガメと呼ばれて、縁日やホームセンターで大量に売られていた外来種だ。小さいうちはかわいがられても、大きくなると性格が荒っぽくなるので川や沼に捨てられるようになり、そこで繁殖して数が増えすぎて生態系への影響が懸念されるようになり、いまでは自治体によっては駆除の対象になっているとのことだった。現在ミシシッピアカミミガメを飼っている人は、責任を持って最後まで飼うように注意喚起されているという。
 売れるからといってたくさん輸入する方もする方なら、買ったもののかわいくなくなったから捨ててしまう飼い主も飼い主だ。増えすぎたから駆除するなんていうのも勝手な話だとシュウイチは思った。それに比べれば、ここのオーナーは見上げたものだ。引っ越しても飼育放棄せず、人を見つけて飼い続けようとしているのだから。
 ところで、「最後まで」とは、いったいいつまでなのだろう。『カメの飼い方』には、平均寿命は20年から40年とある。ずいぶん幅がある。鴨志田は20歳くらいだといっていたが、そうだとしたら、人間でいえば40歳くらいだろうか。うら若き乙女というより妙齢の独身女性といったところだ。
 『カメの飼い方』によると、これは半水棲カメというやつで、寝たり餌を食べたりするときは水の中だが、石の上で甲羅干しをしたり、歩きまわったりするのも好むという。水槽に入れておけばいいというものではないらしい。
 物置きには、鴨志田がいっていたように、バケツやプラスチック製のコンテナが入っていた。異なるサイズの箱型のボックスコンテナがいくつかある。オーナーはこれを水槽に使っていたのだろうか。サイズがいくつもあるのは、カメの成長に合わせて買い替えたからだろうか。一番サイズの大きいのは、いわゆるトロ箱というやつで側面に40リッターと書いてある。これが直近のものだとしたら、これを使えばよさそうだ。物置きには川原に転がっていそうな平べったい大きな石もいくつかあった。
 とりあえず、40リッターのトロ箱をベランダに出し、中に大きめの石を入れた。それから台所でバケツに水をくみ、台所とベランダを何往復かしてトロ箱を水で満たした。注いだ水が縁から溢れ出すのを見て、かけ流しの温泉のようだと思った。シュウイチは室外機の下からカメを引っ張り出すと、そっと水槽の中に置いた。カメは頭と四肢を甲羅の中に引っ込めたまま、すうっと水の中に沈んでいった。いまカメは水の中にあった。揺れる水面にカメをのぞきこむシュウイチの顔があった。
 部屋に戻ると、シュウイチはテーブルの紙袋に気づいた。中身は、鴨志田の不動産屋の社名入りタオルだった。鴨志田が挨拶のときの粗品用にと置いていったものだった。

「こういう時期ですので挨拶はお隣さんと上下くらいでいいと思います。感染を恐れて、応対に出ない人もいると思うので一筆挨拶を添えてポストに投函でもいいでしょう」と鴨志田はいったのだった。
 その紙袋をもって、シュウイチはリビングの扉を開け、巨大な壺を迂回して玄関で靴を履いて外へ出ると、お隣の呼び鈴を押した。表札はない。しばらく待ったが返事はない。もういちど呼び鈴を押した。一分ほど待ったが、やはり返事はない。
 しかたなく、上の階へ行った。表札に「鶴田」と書かれたドアの横の呼び鈴を押すと、軽やかなチャイムの音が鳴った。「はいはいはいはい」と快活な女性の声がした。

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著者略歴

  1. 田中真知

    あひる商会CEO、作家、立教大学講師。慶應義塾大学経済学部卒。エジプトでの8年にわたる滞在経験や中東・アフリカの旅を扱った著書に『アフリカ旅物語』(北東部編・中南部編、1995年、凱風社)『ある夜、ピラミッドで』(2000年、旅行人)『孤独な鳥はやさしくうたう』(2008年、旅行人)『美しいをさがす旅にでよう』(2009年、白水社)『旅立つには最高の日』(2021年、三省堂)など。1997年、イラク国際写真展にて金賞受賞。アフリカのコンゴ河を丸木舟で下った経験をもとにした『たまたまザイール、またコンゴ』で第一回斎藤茂太賞特別賞を受賞。

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