web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

哲学探究3 永井均

第8回

 

独在性の問題と「私」の主体としての用法との関係

 

Ⅰ ザハヴィとシューメイカーの差異にマクタガートの書き換えによって生じる差異との同型性を見て取る

1 今回はまず、予定どおり最初に、前回の最後のほうで提示したダン・ザハヴィとシドニー・シューメイカーの差異を、第三回の「落穂拾い1」で論じたマクタガートによる「現在である」の「現在において現在」への書き換えによって生じる差異と対比して考察することにする。

2 ザハヴィの「なぜなら、私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実であると知っているのでなければ、私は、それが私によって内観的に観察されるという事実によっては、内観される自己を私自身として同定することはできないからである」という主張が、第2回の段落12で指摘され、第3回の段落3で再引用されている、「最上段が直々に関与してくる場合」に対応しており、そこで続けて言われている「この「私」は二義性(両義性)を免れることができない。……、同じ一つの表現で、私自身にだけ(すなわち累進図の最上段においてだけ)成立する事態と、だれにでも(すなわち累進図のどの段階においても)成立する事態とが、重なって二重に表現されてしまうからである」がここでもそのまま妥当する。第二回の段落12に付けられた注*では「その結果、私自身にだけ成立する事態のほうがだれにでも成立する事態と同化されて「語りえぬもの」となる」と言われているが、それもそのまま妥当する。

3 「私」について成り立つこの構造は、マクタガートが『時間の非実在性』第54段落において「この論文の執筆」は「現在であり、未来だった、そして過去になるだろう」を「現在において現在であり、過去において未来であり、未来において過去である」へと書き換えた際に「現在」に起こったことに対応している。書き換え以前の表現では、端的な現実の現在において(すなわち累進図の最上段において)成立する事態だけが問題にされていた。すなわち、現にその論文を書いているマクタガートがまさにその現在だけを指して「現在である」と言っていた。これはザハヴィが「私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実であると知っているのでなければ、私は、それが私によって内観的に観察されるという事実によっては、内観される自己を私自身として同定することはできない」と言っているときに起こっていたことと同じことである。彼もまた、ただ自分自身のことだけを念頭に置いて、まさにその私だけを指して「事実である」と言っていた。

4 しかしマクタガートの場合、それが「現在において現在」と書き換えられた後では、それはどんな出来事もそれが現に起こっている時においては(その意味での「現在」においては)「現在」であるという(言葉の意味の上から自明な)ことが言われてしまっており、したがってまた「この論文の執筆」も一般に「現在」において(すなわちその言明が発せられているその時点において)書かれている論文のことを意味することになった。これに対応するのが、シューメイカーによる同じ事態の捉えなおしである。「現前呈示された対象はφであったという意識は、すでにその対象を自分自身として同定していたのでなければ、ある人にその人自身がφであったとは告げないだろう」の「すでにその対象を自分自身として同定していたのでなければ……」は、ザハヴィの「私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実であると知っているのでなければ……」の一般化され・概念化され・形式化された変形版であり、マクタガートでいえば「どんな出来事もそれが現に為されている時においては現在である」ということのほうに対応している。そうしたことが先行して成立していなければならないとされているのだが、それはすでにして、あくまでも一般な真理であるにすぎない。

5 これに続けてシューメイカーは、「そして、ある人が自己知をすでに持っていたのでなければ、すなわち、これが自分自身であると示すために取られた、現前呈示された対象のどんな特性であれ、その人だけがそれらの唯一独自の所有者であるという知をすでに持っていたのでなければ、その対象を自分自身として同定することはできないであろう。」と言っている。これもまたもちろん、あくまでも一般的真理にすぎないのではあるが、その主張根拠はどこにあるのかと、すなわち、この「すでに持っていた」のでなければならない「自己知」や「唯一独自の所有者であるという知」はどこから得られたのかと問われるなら、答えは「しかなさ(独在性)」によって、しかありえないだろう。すなわち、シューメイカーのような一般的な主張は、ザハヴィのような一般的でない主張に、すなわちその一般的でなさこそを根拠にした主張に、差し戻されることによって正当化されるほかはないはずである。

6 にもかかわらず、マクタガートについて論じた際に指摘したような「端的な現在についてだけ成り立つ事態のほうはどの現在においても成り立つ事態の側に吞み込まれて「語りえぬもの」となる」という事態が、「現在」を「私」に替えて、ここでもまた起こらざるをえない。すなわち、答えはそれしかありえないといま言った、そこへと差し戻されることによって正当化されるほかはないといま言った、その「しかなさ(独在性)」は、どの自己においても成り立つ事態の側に吞み込まれて「語りえぬもの」とならざるをえないのだ。問題は、この二つの事態が同時に起こるということに、いわば同じ一つのことであるということに、あるだろう。

7 何がマクタガートの場合にこの変化を引き起こしたのかといえば、それは「現在である」の「である」に「現在において」の意味を読み込み、むきだしの現在からそのむきだし性を奪ったことが、であるとされていた。だが、むきだしの現在からそのむきだし性を奪い、そこに「現在において」を付け加えたとはつまり、言い換えれば、むきだしの存在の代わりに反省的自己意識を付け加えたこと、ということでもある。どんなに根源的であるといわれても、それはたんに最も根源に存在する反省性でしかありえない。実際、そこから出発することはできないのだと主張したはずのザハヴィが、直後に自分のその主張と同じ主張をしていると見なして引用したシューメイカーの文章では、すでにそうなっている。ザハヴィは「私がそれは私の内観の対象だと知っているのでなければ、すなわちこの内観をおこなっているのは事実私であると知っているのでなければ、……」と言っていたのに、シューメイカーは「ある人が自己知をすでに持っていたのでなければ、……」と、それを書き換えているのだ。マクタガートの書き換えと同じことが、いわばやはり知らぬ間に、なされていることになる。ここに同型性を見て取ることが重要である。

8 このことはまた、第三回の段落5において指摘した次のような事態にも対応している。「たくさん人間がいる中に、なぜか一人だけ私である(すなわちむきだしの意識である)という特殊なあり方をした人間が存在している、という端的な事実に驚いた後に、そのことをみんなに語ろうとして、謙虚にあるいはやむをえず、「私にとっては」と付け加えてしまえば、それで捉えていた事実は一瞬にして消え去ってしまう。」シューメイカーは、すでにそれを付けてしまっていることになる。私にとっては私がであるなら、そういう反省性を付加してしまうなら、ある人にとってはその人がであるのと同じことになってしまうだろう。すると問題は、当然、ある人のその人自身との関係性の問題に変わってしまう。そこに通常の関係とは異なる自己関係性という特殊な関係性を認め、その特質を探るという方向の議論が、そこから始まることになる。つかんでいたはずの(myやmeのイタリックによる強調によって示された)問題はいつのまにか雲散霧消し、ヨコ問題はいつのまにかタテ問題に変形されてしまう。前回の段落17での言い方を借りれば、A事実から出発していたはずの問題がいつのまにかA変化から出発する問題にすりかえられるのだ。

Ⅱ それなのになぜ他人もまた「主体としての用法」を使えるのか

9 しかしそれなら、他人は「私」を「主体としての用法」で使用することは不可能なのか。ある意味においては、まさにそうなのである。それだから、その人は他人なのだから。他人が「主体としての用法」を使って、それが理解されるというのは、かなり捩じれた世界像が前提されているだろう。なぜなら、用法のこの差異(を可能ならしめている根源的な事実)に基づく以外に、自分である人と自分でない(他人である)人とを識別する方法は存在しないはずだからだ。もっと素直な言い方をするなら、この事実――自他のこの差異――から出発する以外に、用法のこの差異を理解する方法は存在しないからだ。まずは、そのことを深く納得し、心に留めていただかなければならない。すなわち、この問題は決定的にヨコ問題であるという事実を、である。一人の人間の自己意識の実在的構造をどんなに深く細密に探ってみても、用法のこの差異を可能ならしめているものをそこに発見することはできない。しかし、問題はそこで終わるのではなく、そこから始まるのだ。なぜなら、もしそうであるなら、なぜそれは一般的な「用法」の差異たりえているのか――言い換えればなぜ他人もまた(他人なのに!)「私」を「主体としての用法」で使い、それが(なんと!)みんなに通じているのか――、その仕組みが謎と化すはずだからである。この謎を解くには、先に「捩じれた世界像」と言ったその「捩じれ」がどう成立するのかを見なければならない。

10 しかし、結果的に見れば、答えはまったく簡単なことだ。自分と他人の違い、すなわち自分である人と自分でない人との違い、この一つのことに二つの意味があるということである。一つの意味では、自分である人と自分でない(他人である)人とのこの区別は相対的(相関的)である。だれでも、その人自身にとっては自分であり、他の人から見れば他人である、ただそれだけのことである。このことはそれ自体としては自明の真理なのだが、問題はじつはそれに徹することはできないという点にある。それに徹すると、この世界はそれぞれの人にとってそれぞれの人が自分であるだけの相対的・相関的な世界となり、そのようにたくさん存在している(それぞれの人にとってそれぞれの人が自分である)人たちのうちどれが唯一の(つまり非相対的な)自分であるのかがわからなくなる(言い換えれば唯一の自分は存在しなくなる)からである。もちろん、そんな(端的に自分であるような)人なんか存在しない平坦な世界(すなわちそれぞれの人にとってそれぞれの人が自分であるだけの世界)は問題なく可能である**。それが問題なく可能であることを、だれでも問題なく理解できるはずだ。ということは逆にまた、現実に与えられている世界の現況は、なぜかそういう平坦なあり方をしてはいないということを知っている、ということでもある。しかし、事実としては現在、多くの人々のうちに端的に――その意味で相対的・相関的にではなく絶対的に――私である人が存在しているのだとすれば、それはそこでいったい何が起こっているということなのだろうか。すでに述べたように、これはじつは謎である***。ともあれここに、自分と他人の違いについての、第二の、相対的(相関的)でない意味があることがわかる。それが「私」の主体としての用法を可能ならしめているのだろう、という予想が立つはずだ。

*これは、時間の場合でいえば、どの時点をとってもその時点におけるその時点が今(現在)であるだけで端的な今(現在)というものが存在しない場合に相当する。そのような場合を想定すると時間は経過しなくなる(すなわち存在しなくなる)とマクタガートは言っていた。対して、意識的存在者にかんしては、この私が生まれてこなくても人称的組織そのものが瓦解するわけではないだろう。

**時間の場合にはこれが不可能だというわけである。しかし、意識的存在者の場合だって、すべては端的な〈私〉から開かれるというあり方でしかありえないではないか、と考えられるかもしれないが、たとえそうであってもそのことが時間の場合のように人称組織の概念の内にすでに組み込まれているわけではないだろう。端的な今の存在が時間概念をはじめて可能ならしめるというような意味においては、端的な私の存在が人称組織の存在にとって概念的に不可欠なわけではないだろう。これは説得力のある見解だともいえるが、逆に考えることもできると思う。もしそれが存在しなければおよそ時間の経過ということが考えられないような端的な今(現在)とは、じつは概念的な端的な今(現在)のことであって、必ずしもこの今のことではないのではあるまいか、と。端的な現実のこの今が存在しない過去や未来(やたんなる想定上の時間)にも、そこに時間が経過する以上、そういう概念上端的な今(現在)の存在は不可欠ではなかろうか。だからといってそこに現実のこの今が存在しなければならないわけではないだろう。そういう意味においては、現実のこの今などはどこにも存在しない時間というものも(普通の意味での時間として)十分に考えられるはずである。それはつまり、A変化は不可欠だがA事実は不可欠ではないということである、といえないこともないが、しかしA変化ということが起こるためには(概念上)A事実の存在が要請されるはずだ、ともいえるだろう。そう考えると、時間の場合と人称の場合の構造はかなり似てくるともいえ、どちらにおいても、そうした概念上の〈私〉や〈今〉さえも必要ないと考えれば、B系列的な世界像になる、と考えることができるであろう。B系列的世界像というものをそう捉えると、そこでは「私」の主体としての用法は成立せず、そのことに並行的に「今」の場合の主体としての用法に相当する用法(すなわち特定の時点を指示しないがゆえに誤同定の誤りが起こりえない用法)は不可能になる。おそらく、そういう用法の余地がなければならないことと端的なA事実の存在の可能性は支え合っており、お互いを見えなくさせているように思う。極めて重要なことなのに注で書いてしまったためにさらに注を付けることができないが、これが「独我論は語りえない」ということの真の意味だ、という注をここに付けたいところである。さらにもう一つ注を付けられるなら、人間以外の動物は、ここでの語り方を使うなら、B系列とA事実だけでA変化に相当する(つまり「私」の主体としての用法を可能ならしめる)もののないありかたをしているのではないか、と思う。ともあれどの場合でも端的なA事実は、後から当然存在すべきものとして奇跡的に入り込んでくるという(矛盾を含んだ)あり方をしているように思われる。

*** 「謎」と言う場合、私は現実に〈私〉である自分自身の存在のことしか考えていない。なぜこんな(後から奇跡的に入り込んできた)異様なものが(現在は)存在しているのか、そしてなぜこいつがそれなのか、と。このまったく異例なあり方をした変なもののあり方を形式化・一般化して、あなた(がた)もこの形式を取って存在しているんでしょ?と尋ねるとき、だから、世界は三重のあり方で現れることになるだろう。第一はもちろん、なぜかすべてがそれに対して存在しているところのこの〈私〉、第二に、なぜか形式的にそれと同じあり方をしているとされることになる《私》たち、第三に、まったくのっぺりした相対的=相関的な「私」たちとしての諸々の自己意識的存在者、である。時間論用語でいうと、それぞれA事実、A変化、B関係にあたる。

11 第二の、相対的(相関的)でない意味がある? それが「私」の主体としての用法を可能ならしめている? どうしてそんなことがありえようか。たしかに、第一の(相対的=相関的)意味が表現しているような世界像では捉えがたい異様な事実が存在する、とならいえるかもしれない。しかし、そうだとしてもそれは少なくとも意味(にかんする事実)ではあるまい。むしろそれは言語的意味が設定する枠組みでは捉えられない、それに逆らう事実だ、というべきものではなかろうか。言語的意味としては、自己と他者の区別はあくまでも相対的(相関的)であり、そういう「意味」しか伝達できない。すなわち、永井の口から出る「私」は永井を指し、菅の口から出る「私」は菅を指す、といった相対的(相関的)な伝達機能しかない。「私」の主体としての用法の場合でもその点に変わりはないだろう。私が寒さを感じて(つまり、相並ぶ同類が存在しない、それだけが唯一的に存在する場が「寒い」という語で表現すべきだと教えられた状態で満たされて)口から「私は寒い」と言えば、永井が寒いという事実が伝わる。その仕組みの外に、相並ぶ同類が存在しない、それだけが唯一的に存在する端的な場としての〈私〉が存在するとしても、すなわち、そちらのほうが真実で、相対的=相関的に伝わるほうの「現実」はじつは作り物であったとしても、相対的伝達機能しか持たない言語によってはその事実を伝えることはできない。もしあえてそれをおこなおうとすれば、この相対的(相関的)伝達だけが可能なこの平板な世界の中にそういうふうに表現可能なきわめて特殊な生き物が実在するという主張の形をとるしかないことになるだろう**

*また私が、私とはじつは相並ぶ同類が存在しない、それだけが唯一的に存在する端的な場のことなのだ、という現に与えられた真実を素直に語れば、永井という人がそのように信じている(変わったことを信じていると思われるか、当たり前のことを信じていると思われるかはともかく)という事実が伝わる。


**『世界の独在論的存在構造』では、唯物論的独我論者になるということをその典型例として提示した。しかし、もちろん唯物論(物理主義)という点にとくに重要性があるわけではない。重要なのはあくまでも、通常の平板な世界像の内部で伝達できる事実の範囲内でそれをはみ出る事実を表現しようとすればそのような形を取るしかない、という点である。

12 しかし、もしそうであるならば、なぜそのことを――いままさに私がそれをしているように!――他者に伝達できるのだろうか。そういう事実があるということを、ただ私(平板な世界像の内部では永井均を指す)にだけ起こっていることとしてだけでもなく、読者(それぞれを別々に捉えたこれを読んでいる方々を指す)にだけ起こっていることとしてでもなく、ある特殊な種類の一般論として伝達できるのはいかにしてなのか。これを問うことがすなわち、「私」の主体としての用法が一般的に可能であることの根拠を問うことともなるはずであろう。

*この特殊な種類の一般論の特徴は、平板な(自己については相対的=相関的にしか語れない)世界像の内部における諸々の存在者の持つ属性についての一般論としては語れない、ということにある。そういう枠組みを超越して、むしろ逆に平板な世界をそこからはじめて開始する唯一の原点であるという性質のものの一般化というような種類の一般化である。

13 いかにしてなのかと問われるならば、たとえば以下のような方法によってである、と答えることができる。以下で述べることは、私が実際に「教育的に」おこなっていることであるが、本質的にはこれと同じことが表立って「教育的」にではなくても為されているに違いない。まず第一に、第4回の段落5で導入したような図を使うことによって、である。図3で表現されるような世界のあり方を図2で表現されるような世界のあり方と対比して提示することによって、だ。これはつまり、なぜか現実に世界がそこから開けている唯一の原点が存在しているような世界(すなわち中心をもつ世界)と、そのようなそこから世界が開けている唯一の原点などはどこにも存在していない世界(すなわちのっぺりした世界)とを対比して、現状が前者であることを語っている。この対比は世界のあり方の抽象的な対比にすぎないのだが、これを提示された人はだれでも、中心をもつほうの世界を現実の世界のあり方と捉え、そのさい必ず自分自身をその中心(そこから世界が開けている原点であるというあり方をした例外的な存在者)として捉える。言い方を逆にすると、自分自身をその中心(そこから世界が開けている原点であるというあり方をした例外的な存在者)と見なすことによって、この図の図としての抽象的意味をも同時に理解する。すなわち、この図の意味はその例外的存在者を自分と同一視することによってしか理解できないのだが、そのようにしていったん意味を理解した後ではそれを抽象的に理解することもできるのだ、ともいえて、それは真理の一面ではあるのだが、それとは逆に、まずは抽象的な理解が可能だからこそ、そこで成立した概念的把握を即座に現状に当てはめて、この中心(例外的存在者)とはすなわち自分自身のことだと理解できるのだ、ともいえるわけである。ともあれ、ここで哲学的に重要なことは、この原初的理解の段階で、形式的・概念的理解と直接的・実質的理解との二重性・二義性がすでにして生じていること、そして生じざるをえないことである

*もしかすると「哲学的に重要なこと」と言えるかもしれないもう一つの点は、この問題・この事態は、言葉を使って他者に伝えることはきわめて困難なのだが、図を使うことによってかなり容易に伝わるのだが、それは何故か、という点である。これはこれで独立に考究すべき重要な論点だとは思うが、ここで一点のみ暫定的な所見を述べておくなら、語るにせよ書くにせよ言葉を用いると、とくに「私」や「自分」という語を含む場合、語られた内容と発話者との内的関係が払拭しがたく残り続ける、ということが挙げられる。これに対して、図で表した場合には、黒塗りなどによって事柄それ自体を完全に抽象的に表現できるのである。そのことによって、この現実世界のあり方から切り離して、さしあたってそれとは無関係な形で、問題の本質だけを伝達することができるわけである。

14 そして第二には、この二種の世界の対比を、現在と現在以外のとき(過去や未来)との対比に重ねることによって、である。この説明は、図による第一の説明方式の上に重ねて提示してもよいが、必ずしもその必要があるわけではなく、それとは独立につまり言葉だけでおこなうこともできる。なぜか世界がそこから開けている奇妙な人間が現実に存在しているこの状況を、人間あるいは意識的存在者はふつうにたくさん存在しているにもかかわらずそんな奇妙な人間は(まだあるいはもう)存在していない過去や未来の状況と、言語表現によって対比することができるのだ。なぜこちらは言葉によってもなしうるのかといえば、それはおそらく同時点に存在しているその文の発話者の存在は、それが語っている内容にさほどは影響を与えないからであろう。そんな者の存在は無視して、聞いた(読んだ)瞬間に自分自身のことが言われていると捉えることができるようだ。とはいえ、語り方によっては発話者の存在が邪魔になって問題の理解の障害となることもあるので、この説明方式は図による第一の説明方式に重ねて使う場合が最も強力である。

15 そうすると、この第二の対比を重ねる以前の、図による第一の対比は、純粋に様相的な(すなわち、この現実世界とある種の可能世界との、すなわち現実と可能性との)対比であったことになる。とはいえ、この純粋に様相的な対比にも二種類の理解の仕方があるだろう。この対比は要するに〈私〉が(正確には《私》だが)存在するかしないかの対比なのだが、後者の場合(すなわち存在しない場合)には二種類の理解の仕方がありうるからだ。一つの理解の仕方では、その世界は現実世界で私であるその人物そのものが存在しない世界である(第二の対比における過去や未来の世界がそうであるように)。もう一つの理解の仕方では、その世界は現実世界で私であるその人物も存在してはいるのだが、その人はなぜか他の普通の人々と同じあり方をしており、世界がそこから開けているなどといった特異なあり方はまったくしていない世界である。

16 このことが考えられること、ありうることであると理解されるためになされる思考実験が、私が二つに分裂した場合を考える、分裂の思考実験である。分裂の思考実験はこの論脈においてはじめてその真価を発揮するといえる。私が(記憶を始めとするその心身の内容をまったく変えずに)身体的に二人の人間に分裂したとき、質的に(ほぼあるいは本質的には)同一である二人の人間のうち、なぜかその一方が〈私〉であったなら、もう一方は他人であるほかはない(あるいは少なくとも他人であることができる)。この思考実験からわかることは、なぜかその人が〈私〉であるという事実は、記憶を始めとするその人の心身に成立するいかなる事実にも基づいて成立していない**、ということである。すなわち、なぜか〈私〉である、だけなのだ。まさにこの事実から、「そういう特異なあり方をした人はいるのだが、その人は現実世界で私である人とは別の人である」という場合もまた考えられる、ということが導かれる***。また、そもそもだれかが現実に〈私〉であるということ自体に人物的な(=その人物が身体的・精神的にどのような人であるかに基づく)根拠がないということを前提にして考えるなら、前段落において二つに分けた前者の場合にも、すなわち「その世界には現実世界において私である人物そのものが存在しない」場合にも、じつは同じことが問題にされていたということになるだろう。そして、最初からそのように理解されていたという可能性も十分にありうることである。

*今さら言うまでもないことではあるが、〈私〉であるとは世界が現実にはなぜかそこから開けている人という意味である。その体だけが殴られると現実に痛いとか、その体だけがなぜか動かせるとか、その種のことを加えてもよい。他人とはそれ以外の普通の人のことである。

**このようにだれかが現実に〈私〉であるということには人物的な根拠がない(=その人物がしかじかの身体的・精神的なあり方をしているからその人物は私であるといえるような身体的・精神的内容が存在しない)のは、〈今〉の成立に出来事的根拠がない(=どのような出来事が起こっているからそれが現在だといえるような事柄が存在しない)のと同様である。

***もちろん実際にはそう簡単ではない。ここからいえることは、現実世界で〈私〉である人がその人であるまま(すなわちpersonal identityを維持したまま)〈私〉でなくなること、あるいはもともと〈私〉でないこと、が可能であるということだけであるから。しかし、これがいえるだけでも大変な一歩が踏み出されているとはいえよう。

17 そのように考えられるならば当然、そこから世界が開けているというような特異なあり方をした人物が存在しないのではなく、存在してはいるのだが、現実世界でそうである人物とは別の人物である、という場合も考えられることになるだろう。存在しない場合の第二の解釈は実質的にはこの可能性をも含意していたと解することもできるだろう。〈私〉であるという事実がそうである人のもついかなる属性にも関係なく成立するなら、誰が〈私〉であってもよいことになるからだ。独在論という問題が「なぜ他の人ではなくこの人が〈私〉であるのか」という疑問から始まる問題なのだとすれば、それはこの形で問われるのが最も適切でしかも本質的であるはずだろう。しかし、そうとばかりはいえない。ここでは通常、存在するのかという問題と誰であるのかという問題は重なってしか起こりえないからである。伝統的な用語を使うなら、これは実存の問題と本質の問題ではあるのだが、しかし通常の場合とは異なり、この場合には実存と本質とは相即不離の関係にあらざるをえないのだ。いや、そんなことはないだろう、たとえ必然的に存在するのだとしても誰であるかは確定していないということもありうるだろうし、逆に必然的に誰かではあるのだとしても存在はしない(たとえば親が妊娠中絶するといった外的理由で)ということもありうるではないか、と問われるかもしれないが、ここではそうではないだろう。ここで問題になっている存在者は、その人物は存在していてもそれは存在しないこともできるということと、その人物ではないとしてもそれは別の人としても存在することができるということが、同一の問題として現れるような、そういう問題なのであり、言い方を変えるならば、なぜか存在しているという驚きとなぜかこの人であるという驚きとが同じ驚きであるような、そういう種類の問題なのである。

18 まさにこのことこそが、一方では〈私〉の存在の奇跡性と、他方では一般的な「私」の主体としての用法の可能性(すなわち第二の、相対的=相関的でないほうの意味)とを、一挙に与えることになるだろう。〈私〉はその存在に根拠がないのだから、存在するならばそればいわば単なる奇跡のような事態であらざるをえず、また存在に根拠がないとは他の何とも本質的には繋がっていない(ともあれなぜか「それだけが現にある」というあり方を本質的にしている)ということであるから、そこで成立する「しかなさ」が「私」の主体としての用法における「誤同定の不可能性」の根拠にもなっている(したがってまた第二の、相対的=相関的でない意味を形成している)のは当然のことであると考えることができる。すなわち、ここには存在の奇跡性と結合の偶然性が繋がって存在しており、言い方を変えるなら、個々の結合の偶然性のうちにも存在の奇跡性が概念化された形で保存されている、といえるわけである。

19 翻ってこのことは分裂の思考実験のような思考についてもいえるのではあるまいか。かりにこの思考実験の帰結とその哲学的含意を、もっぱら知的に・客観的に理解できたとして、それができただけでは、なぜか現在は現実に〈私〉が存在しているという真に驚くべき事実が理解されるとは限らないであろう。いや、そうではなくむしろ逆に、そもそも〈私〉の存在という実存的な驚きを介することなしに、分裂の思考実験の哲学的含意を理解することが可能なのであろうか、と問うこともできるだろう。これは大きなそして非常に重要な疑問である。分裂の思考実験それ自体は客観的に理解できる一般論なのではあるが、それは自分の実存のあり方を参照することなにしには理解できないようなあり方をしているのではなかろうか。おそらく、他人の「私」の主体としての用法を理解できるということの内にも、実のところはこのことと同じ仕組みがはたらいているに違いないと思う。独在性の問題の直接的な理解ぬきに一般的な「私」の主体としての用法(における誤同定の不可能性)の可能性の根拠を理解するはできないだろう。しかしまた逆に、分裂の思考実験のような知的・客観的な理解をまったく欠いては〈私〉の存在の最終的な奇跡性の意味も理解しがたいのではないかと思われる。

20 なぜそのような矛盾した事態が可能なのかといえば、実をいえばここでもまた図で描くのが最もふさわしい(のだが私の画力があまりにも乏しいために描けない)事態が生じている。描かれるべきその図を文章で記述して終わりにしよう。まずは中心をもたないのっぺりした通常の世界像から出発しよう。しかし実は、その内部に在るとされている人間たちのうちの一人がその世界そのものを(というかおよそすべてを)はじめて開いているという異様なあり方をしていることに気づく(一体こいつは何だ?)。すると世界像に歪みが生じ、いびつな世界像が出来上がる。ここまでにもすでに矛盾があるともいえはするが、次の第三のステップがより巨大な(しかしなぜか整合的ともいえる)高度な矛盾をそこに持ち込む。それはこの異様さを一般化してみんなに分け与えるというステップである。第二ステップまでは一つの図に描ける(という意味では矛盾していない)が、この第三ステップはもはやどうしても一つの図には描けない。なぜなら、異様な突出者は一つしかないという当初の真実と、それと(本質的には!)同じものが複数個存在しているという別の真実が共存しなければならないからである(どなたかこの事態をたとえば立体的な図とかあるいは動的な図とかで描いてみてください!)。この第三ステップが完成すると、世界はある意味では再び中心を欠くあり方に舞い戻ることになる(誰もが同じように中心なのだから)。とはいえこれは、第一ステップの平坦(のっぺり)さとは平坦(のっぺり)の意味が違うだろう。実のところは共存できない種類の作られた平坦さだからだ。この第三の世界像を認めたとしても、現実にはそのどれかから開ける視点しかありえず、その一つが現実であるならその他はじつは非現実であるほかはない、というあり方が認められて(通常は「現実」という語そのものは実は存在しないほうの全体を平坦に見渡せる見方のほうにイデオロギー的に割り当てられはするが)も、しかし、それは必ず各人と相対的(相関的)に存在する主観性という問題に矮小化されることになる(すなわち「……とっては」付きに)。あたかもその意味での主観性と客観性との(あるいはこれを解釈し変えて精神と物質との)対立が主要な対立軸であるかのようなイデオロギーが瀰漫することになり、その奥底に隠れている遥かに重大な独在性と主観性との真の矛盾対立が隠されてしまう。しかし、ときにその空隙を突いて現れてくる問題があり、その一つがいまここで問題にしている、相対的(相関的)でない、すなわち「……とっては」の付けられない主観性の問題としての、「私」の主体としての用法の問題、とりわけその誤同定の不可能性の問題である。これは、もしこの独在性と主観性との「絶対矛盾の自己同一」的な関係を一枚の絵に描けるなら、いっきにその意味が理解されるような問題であると思う。

21 以上述べたことと本質的に同じことがふたたび時間にかんしても反復適用されるうること等々、この議論はまだまだ続きがありうるが、今回はすでして長くなりすぎているので、一応ここまでに。

バックナンバー

著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

閉じる