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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

楽園のジレンマ__彼岸はどちらの側にあるのか? (3)


 今回はまず「有」と「無」の意味するところについて書いてみたいと思う。「そんな簡単な言葉の意味なんて、わざわざ書いてもらう必要なんてないよ」という意見が大半だろうとは思うが、普段、日常的に当たり前に使っている基本的な言葉の概念であればこそ、その本当の意味を探っていくのは案外難しい。

 たとえば僕が突然「無い」と言い出したら、それを聞いた人はどう思うだろうか? 普通は「え、無い? 無いって何が無いの?」と聞き返してくるだろう。中には「うん、うん、お金が無いんだね。分かるよ」と言ってくれる親切な人もいるかもしれない。
 しかし、僕が何も指し示さず、ただ「無い」とだけ言い続けたら、ほとんどの人は混乱するか、僕のことを気がふれたと思うんじゃないだろうか。

 これは「有る」という言葉に関しても同様で、普通は具体的に何が有るのかを指定しないと、この言葉は意味を成さない。
 たとえば机の上に鉛筆があって、それが「有る」という場合なら話は簡単だ。ほとんどの人が「有る」という言葉の本来の意味に沿って、具体的な鉛筆のイメージを思い浮かべることができるだろう。
 そして、実はこれは「無い」という言葉に関してもまったく同じなのである。「無い」という場合、普通は何が無いかを指定する必要があり、それが証拠に、先の鉛筆を例にすると「机の上にあったはずの鉛筆が無い」とでも言えば、ほとんどの人は納得してくれるはずである。

 これを元に、「有」と「無」についてよく考えてみると、鉛筆が「有る」といっても「無い」といっても、一見まったく正反対のことを言っているように見えて、両方ともその限定されたものに関する存在状態の変化を指し示しているだけで、結局はその対象の存在を前提としている、という点では同じ意味の言葉だということが分かるわけだ。
 一本の棒があって、その一方の先端には「有」があり、もう一方の反対の先端には「無」という言葉がある、といえば分かりやすいだろうか?

 ではその「有」「無」の両者をつなぐ、その一本の棒とは何かと問えば、それは当然、先の例の通り「限定」ということになるはずである。こう考えてみると、世間一般で思われているイメージと違って「有」と「無」は、実は「限定」に関する状態変化のうち、それぞれの極端を示すという点においては違うが、その本質はまったく同じ意味の言葉なのだということが分かる。
 僕らは普段「無い」という言葉が出てくると、限定された何かの「有」の反対の状態を思い浮かべてしまう。それがどのような限定であるかというのは、説明される文脈によって、あるいはそれを読み解く人によって、あるいはその時代、文化によって違ってくるとは思う。しかし「無い」と表現されてしまうと、その無い対象が何であるかを、ほとんど自動的に、つまりは無意識のうちに限定して、その限定された何かが「無い」と考えてしまうのだ。

 では通常の意味における「有」と「無」をいったん離れて、その両者を生み出す大元の「限定」そのものを外してしまったら、そのあとにはいったい何が残るだろうか?
 この場合、言語上「限定が無い」と表現することは出来る。出来ることは出来るが、しかし、具体的に何かを「無い」と表現する場合と違って、実は普段使いの日常会話で使っているような「無」という言葉とはまったく違った意味が出てくるということに気が付かないだろうか?
 限定された何かが「無い」のではなく、そもそも「有る」という状態であるか、それとも「無い」という状態なのかを決定せしむる当体である「限定」そのものが、その最初の段階から「無い」ということを表現しているからだ。

 こう書くと「いや、今お前はちゃんと、限定が無いと言ったじゃないか。無い対象を<限定>としてるじゃないか」と反論されそうだ。しかしこれが言葉というものの難しいところで「限定が無い」ということがどういう事態なのか、それを言語的にいくら表現出来たとしても、人の頭の中で実際にその表現の対象として何かを思い浮かべることが出来るかというと、原理的に絶対に無理であることは明白だろう。

 人が観念として頭の中で思い浮かべることが出来るあらゆる事象は、結局のところ何らかの「限定」が元になっている。もちろん、完全完璧に定義された「限定」ばかりではないだろう。しかし、いかにあいまいであろうと、そもそも何らかの限定、あるいは輪郭、もしくは何らかの濃度の差がないもの、他との違いがないものを、僕らは観念として心の中に思い浮かべることが出来ない。
 つまり「限定」を外すということは、言語を言語たらしめているその根本原理ともいうべき、対象化による限定作用そのものを外せと言っているに等しく、本当ならその状態が何を意味しているのか、具体的に思い浮かべること自体が不可能なはずなのである。
 少なくともその限定が外れた状態を観念で思い浮かべることは絶対に無理なので、本来なら単純に通常の言語空間で使用している「有」の反対側にある「無」と同列に扱うことができないはずなのだ。

 僕は当初、ずっとこの「限定」という言葉を使って、この問題に向き合ってきたが、唯識論に興味が出てきて調べていくうち、僕が「限定」という言葉で捉えてきたことが、仏教の中では「分別」という言葉で表現されている、ということに気が付いた。

 前回、僕は『「空」を観念として実体視する』ことで虚無主義に陥る、という趣旨のことを書いた。少々わかりづらかったと思うが、この場合、虚無主義に陥る人とは、通常の意味の「無」を「何らかの限定」であると見ぬけず、その「限定された何か」を不在の形で実体視続ける人のことを指している。
 見てきたように「無」という言葉は、何らかの限定があって、その限定された何かが不在であるという状態を意味する言葉だから、誰かが仮に虚無主義に陥っているなら、その人の心の中には、その「限定された何か」が不在の形で実在し続けていることになる。
 つまり、プラスの形で存在(何かの現存)しようと、その反対のマイナスの形で存在(何かの不在)しようと、その対象の「限定(としての何か)」はその人の心の中に変わらず存在し続ける、ということになるのだ。
 言い換えると、何かの限定の不在を意味する「無」と、限定そのものを外した場合の「無」は一見同じ「無」であるように見えるかもしれないが、意味する状態はまったく違うのである。

 子供のころ、理科の授業とかで、太陽光を三角プリズムを通して虹色に分ける実験をしたことがあるという人も多いと思う。その実験を例に説明すると、虹色に分かれた光の状態、赤・オレンジ・黄・黄緑……と七色に分かれたスペクトルを、通常の分別(限定)された色がある状態とすると、通常の「無」では「赤色が無い」とか「黄色が無い」という具合に、分別(限定)された対象の特定色の不在を意味するが、その分別(限定)自体を最初から外した状態の「無」とは、プリズムを通る前の白い光(太陽光)の状態ということになるだろう。
 これは実験を例にとった例えだから、それなりに理解しやすいと思うが、実際には自分の心の中にある、限定(分別)を生み出す心的機構を外してみる、なんてことは簡単にできそうもない。

 ということで、僕が昔、この問題に向き合っていてどうしてもわからなかったのが、この限定(分別)を外した状態が具体的には何を意味するのか、ということだったのだ。
 それは単純に何も無い、という虚無主義を意味しないし、じゃあ逆に最後に何かが残るのかというと、その後に残った何かが簡単に分かるようなら、あるいは単に何かの不在を意味するなら、その時点でそれは「限定」されたもの、ということになってしまって前提と矛盾してしまうからだ。

 

 パンガン島のビーチを散策しながら、僕はこの問題に向き合っていたことを思い出す。実はこの当時、僕はこの問題をひそかに「靴ひも理論」と呼んでいた。
 パンガン島のようなところに来ると、誰でもある種の解放感を感じることができる。しかし、その解放感というのは、普段、靴のひもをきつく縛って窮屈な思いをしている人が、そのひもを外すときに感じるようなものじゃないかと感じていたからだ。

 一般にリゾート滞在には、日常生活の様々な束縛、圧迫感から解放されるがゆえの解放感があると思う。また、それとは逆に、長旅に疲れてほっと一息つく沈没地として、疑似的な日常生活に戻るがゆえの解放感というのもある。 
 僕の場合、最初の旅を終えて日本に戻り、仕事を始めたときにも解放感があった。だが仕事ばかりを長く続けていると、今度は仕事が束縛に感じられ、何もかも放り出してまた旅に出たくなったりする。

 前回書いた通り、長旅を続けていると、刺激はあるが、その強い刺激自体が緊張に感じられたり、疲れてしまって移動を休んでパンガン島のようなところに「沈没」したくなることがある。そんな風に落ち着くことのなかにも、日常に戻るときのような解放感を感じることができるわけだ。
 日常生活であれ、旅であれ、どちらをとっても、反対のものから解放されるがゆえの解放感を感じる、という点に変わりはない。ということは、この解放感は、それを感じるためには何らかの反対状態が前提として必要だということになってしまう。そして両者は、状況によってそれぞれ束縛になったり解放になったりする。
 つまり、この問題の根底には「有」と「無」の問題のように、観念そのものが作り出す「相対的二元性」がありそうなのだが、僕はその二元性の先にあるものが何であるかが分からず、どうやってこの壁を打ち破ればいいのかを探っていたわけだ。

 もっとも、この当時はまだ、この「束縛」と「解放」の本質を、前述の「有」と「無」のように対比させて正確に理解していたわけではない。「有」と「無」が同じものであるのと同様、「束縛」と「解放」も同じものであるという理解が得られたのは、そしてその先に「限定」を外すことによる本当の意味での、もうひとつの「解放」があるのだろうということ、そしてそれがいわゆる真の「幸福」の意味でもあるということに気が付くのは、もう少し後のことになる。
 そしてこの理解は、「旅」という言葉にも、通常の移動の延長のような「旅」と、移動も定住も両方内包するような、より本質的な「旅」というものとの違いがあることを示唆している。

 

 


 最近のことはよく知らないが、当時のパンガン島には、やっと電気が着き始めた原初の村みたいな素朴さがあった。
 同じバンガローに滞在していると、3日、いや2日もあればやることがなくなってくる。あとは千葉さんの船に乗って釣りに出るか、サオとバトミントンやカードゲームをやるくらいだ。もちろん、それはそれで楽しかったが、前にも書いた通り、その楽しさは僕が最初の旅で感じたものとは違ったものだった。

 僕にとってパンガン島の滞在は、最初は取材旅であったはずだが、いつの間にかある種の「日常」のようにもなっていた。日常だから退屈だったかというとそうではなかったが、一応は旅の一部なのだから、目を見開くような驚きに満ちた発見があったかというと、そういうわけでもなかった。

 たとえばバンガローと船着き場との間に、村のおばちゃんがやってるような小さな屋台(といっても移動しないが)があって、そこで外食するのもささやかな楽しみになっていた。
 日本の都市部みたいに数えきれないほど外食の選択肢があるわけでもなく、24時間オープンのコンビニがあるわけでもない。

 バンガローのメニューはどれも外国人向けにアレンジされていて、それはそれで不味くはなかったが、屋台のクイッティオ(ベトナムのフォーのような米粉麺)や、もち米と焼き鳥みたいな素朴な地元民向けの料理は、毎日食べても飽きがこないという意味で、僕にとっては特別な料理になっていた。
 宿ではバケツを借りて自分で洗濯したりもしていた。ほかにやることがないから、意外にそんな小さな日常行為もちょっとした楽しみになっていた。
 南の島ということで自然環境や気候は日本とは違ったし、仕事(取材)もしてるのかしてないのかよくわからないというか、まあ、何もしてなかったが、そこでは旅をしているというより、何もない日常をのんびり過ごしている感のほうが強かったのだ。

 あれこれ思い煩うことを離れて、実際に手を動かしてすごす「日常」は、心理療法でいうところの森田療法のような癒し効果があったのかもしれない。

 

 この当時の状況を思い返すと、いつも一緒に思い出すちょっとした小話がある。有名な小話なので知っている人も多いと思うが、改めて紹介しておこう。

『とある米国の投資家(億万長者)が、メキシコの小さな漁村を訪れた。その漁村で漁を終えたばかりの漁師の船をのぞいて見ると、なかなか活きのいい魚がたくさん獲れていた。
 「いい魚ですね。これだけ獲るのにどのくらいの時間がかかりますか?」と投資家が声をかけた。
 「まあ、これくらいなら3~4時間もあれば獲れるさ」と漁師が答えた。
 「でもまだ日が高いし、もうちょっと漁を続けるんですよね?」と投資家が続けて質問した。
 「いや、家に戻って家族とのんびり過ごすよ。妻と寝ころびながらシエスタを楽しみ、午後にはギターでも弾きながら子供と戯れたり、夕暮れを眺めながらワインを飲んだり。まあ、あとは寝るだけだね」と答える漁師。
 しかし、それを聞いた投資家は急にまじめな顔になって漁師にアドバイスをはじめた。
 「もったいない! もっと漁をすれば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買えるでしょう。そうなれば人を雇って、もっと大きな利益がでるのに!」
 漁師はそれを聞いて肩をすくめた。
 「家族で食べていくにはこれで十分なんで。第一、そんなにカネ儲けしてどうするんです?」
 投資家はあきれるようにアドバイスを続けた。「いいですか。その金を元手に、次は都市部のレストランを顧客にして直接魚を卸すんです。そうすれば利益率も高くなってさらに大きな利益が出る。そうしたら、この小さな村から出て、その後はニューヨークに行って漁業会社を立ち上げるんですよ」
 「ふーん、で、そのあとはどうするんです?」と漁師。
 「もちろん、その企業をIPO(新規株式公開)させて巨万の富を手に入れるんですよ!」
 どうだ、というように勝ち誇った笑みを浮かべて投資家が答えた。
 「億万長者か。でも、そうなったらどんな良いことがあるんです?」
 と漁師は最後まで納得しようとしない。
 「もちろん、そうなれば悠々とリタイヤできるでしょう? 海辺の町のビーチで家族とのんびりシエスタを楽しみ、ギターでも弾きながら子供と戯れ、ワインを傾けながら妻と会話を楽しんだり、のんびりした生活を送れますよ!」
 それを聞いた漁師はこう答えた。
 「それなら今の生活と変わらないな!」』

 

 千葉さんが過ごしたパンガン島でのセミリタイア生活は、漁師が過ごした日常的なものだったのだろうか? それとも米国の投資家が富を手に入れた後に過ごすべきとした、贅沢な引退生活だったのだろうか?
 僕はまだ若かったし、リタイアしにパンガン島を訪れたわけではなかった。この地上のどこかに楽園があるとは思っていなかったし、そのような楽園を探していたわけでもなく、いくらパンガン島がすばらしい場所だといっても、そこが楽園だとまでは思っていなかった。

 では千葉さんにとってのパンガン島生活はどうだったろうか?
 正直にいうと、僕の目には漁師の日常と投資家のリタイヤ生活の両方の立場が混在していたように見えた。

 余談だが、最近は若い人の間で「FIRE(ファイア:Financial Independence, Retire Early)」といって、ある程度のお金をためて、その資金を元手に早期リタイアすることが一種のブームになっているのだそうだ。
 FIREでは年間支出の25倍の資産を蓄え、その資産を株式などに投資し、あとの後半生は、その運用益で生活していくことを目指すのだという。
 その場合、たとえば年収400万円の人だと、半分を年間支出にまわしていたとして、FIRE実現に必要な資産は5000万円になる。
 運用益は投資額の年間4%が目安だそうで、5000万円の投資なら運用益はちょうど最初の年間支出と同じ200万円になるという計算だ。 

 振り返ってみると、千葉さんは時代に先駆けていち早くFIRE的なことを実践していたわけで、投資家(というのも変だが)としての側面もあった。
 もしかしたら金村氏がタイに投資して、その事業で生活したいというようなことを言っていたのも、千葉さんの影響が多少なりともあったのかもしれない。
 いや、その後、日本と東南アジアの経済格差を利用して「外こもり」を始めたのも、金村氏なりのFIRE術で、金村氏もそれなりに時代に先駆けていたのかもしれない。
 漁師の日常のように、千葉さんは好きな釣りができる毎日を堪能していた。一方で、千葉さんには投資家がリタイヤしたときのような野心家の側面もあったように思う。

 千葉さんは、若いときに公務員になったものの、すぐに人間がダメになる、といって欧州まで旅して自分の可能性を探した人である。
 僕にはその千葉さんが、単純にのんびり隠居することが人生の幸福と思っていたとは思えなかった。千葉さんに、何か島で釣りをしてのんびり過ごす以外の、人生の目的のようなものが他にあったのかどうかまでは知らない。
 しかし、もし、そういう事がなかったとしたら、千葉さんは内心、そろそろ島に引きこもったリタイヤ生活に不満を持ち始めていたのではないだろうか?
 前回書いたインドで仏教を普及させようとした八木上人の話をしてくれたときに、本当はそのような生き方にあこがれているような感じがしたからだ。


 ところで、パンガン島にはもう一人、漁師タイプでもなく投資家タイプでもない、もうひとつのタイプの日常を過ごす日本人の旅人がいた。以前、同業者のF氏の主催する飲み会で再会したことがあると書いたS氏だ。
 金村氏と初めてパンガン島を訪れた翌年だったか、今度は一人で島を再訪したときにパンガン島でS氏とまたまた再会する機会があったのだ。
 実はS氏には、その昔、バックパッカーとしてパンガン島を訪れた際に付き合うようになった島の女の子がいて、ちょうどこの頃、その娘とついに子供ができて結婚したというのだった。「女の子」と書いたが、実際、その娘はS氏が結婚した当時、たしかまだ10代後半くらいだった。一方、S氏は30台半ばくらいだったはずだから、年の差は少なくとも15才は開いていたはずだ。
 僕がそのことを知ったのはまだ日本にいたときで、何かの機会(確かまたF氏の飲み会)でパンガン島の千葉さんの話をすると、S氏も千葉さんを知っていて、僕がまた島を再訪するつもりだと言うと、S氏もその時期は島にいるから現地で会おう、ということになったのである。
 S氏はパンガン島に常住していたわけではないが、島にいるときはその妻の実家で過ごしていた。
 
 もちろん、その飲み会で結婚報告がされたときは、旅仲間から、やれ「犯罪者」だの「変態」だの「ロリコン」だのと、暖かい祝福の言葉がかけられたのは言うまでもない。


 旅をしていると、ときどき本当に世間一般の常識からは考えられない生き方をしている人に出会うことがある。
 いまでこそFIREで早期リタイアを目指すのは珍しくないのかも知れないが、90年代後半で実際にセミリタイアした千葉さんも、必要最低限の労働だけして、残りの時間を海外で過ごすという「外こもり」をはじめた金村氏の生き方も、それぞれ十分にユニークな生き方だったといえるだろう。

 S氏のように海外で、それもパンガン島のような田舎の島で現地の女の子とできちゃった婚をするのは、さすがに今でも眉をひそめる人が多いのかもしれないが、2000年代に入ると、そういう事例は社会現象的ニュースになった記憶があるから、S氏の生き方も時代に先駆けていたのかもしれない。
 やはり、旅を通して文化的条件付けによる洗脳が解けると、発想が柔軟になるということなのかもしれない。

 だが僕がここで本当に書きたいのは、そのように既存のレールを外れたり、束縛を離れたりして解放されることが本当の幸福なのか? ということだ。もちろん、ここでいう解放とは、通常の二元的相対性を元にした束縛からの解放のことを指している。
 僕としては、パンガン島の生活は楽しかったが、前述した「靴ひも理論」によれば、それは日本での束縛的生活なりが前提にあって、旅であるか日常であるかはともかく、それから解放されたことによる一時的なものに過ぎなかった。

 明らかに、通常の意味での解放は、何か人生の目的地のようなものではなく、目指すべき彼岸でもなかった。
 なるほど「解放されている状態」というのは、よりよく生きるうえでの前提条件ではあるかも知れない。FIRE的な生き方は、人生の目的地が休息の側にあるなら合理的だし、そもそも、のんびりした時間を持てないほど働かなくてはいけない人生が良い人生とも思わない。

 自分もできれば経済的自立のもとに、好きなときに休息できるFIRE的リタイヤ生活にあやかりたいとは思う。
 しかし問題は、解放されて自由になったとして、さて、そのあとをどう生きるべきかということで、そこにこそ真に人生の問題があるように思えたのだ。

 旅でも海外生活でも、それが日常生活的になって退屈や束縛を感じるようになれば、その反対の通常の社会生活が恋しくなるのは目に見えているわけで、輪廻にも似たこの往復運動を脱すことができるような、相対的ではない、本当の意味での「解放」による幸福を感じることのできる「理解」を、僕は探していたのだ。

 

 僕がこの相対的二元性というか、ものごとを対立的に見る見方の根本的な間違いに気が付いたきっかけは、あるとき「集中力」の強化について試行錯誤していたときだった。
 僕らは普段、何気なく「集中力」という言葉を使っていて、例によって例のごとく、その意味するところをあまり深く探ろうとはしない。「集中力」なんて、どう見ても深く考えるほどの難しい言葉ではないし、そこに珍重すべき特別な概念があるようにも思えないからだ。
 僕が最初にこの言葉に目を向けたのも、それほど深い意図があってのことだったわけではない。

 しかし、あるとき、僕らが普段「集中力」として認識しているこの能力は、実際には実在しないのものなのではないか、ということに気が付いた。
 いや、もっと正確に言うと「集中力」と呼ばれる能力は存在していることはしているが、それは本来なら「集中力」という名の下に呼ばれるべきではなく、まったく違う名で呼ぶべき能力ではないのか、と気が付いたのだ。

 なぜ僕は、その能力が名前通りには実在しないと思ったのか? 仮にそのとおりだとして、そのことのどこが問題なのか? 
 実はこのことを理解することが、そのまま相対的二元性を突破することのヒントになるのだが、長くなりそうなのですべての謎は最終章で説明することにしようと思う。
 なお、このままだとあまりにも不親切な気もするので、ちょっとだけヒントを書いておくと、僕らが普段「集中力」という名の下に呼んでいるこの能力は、正確には「排除力」と呼ぶべきものである、とだけ書いておこう。こう書いておけば、特に説明しなくても、分かる人には分かるように思う。

 

 さて、旅の話を続けると、S氏はバンコクにいる間に教室に通ってタイ語の勉強をしていたし、日本で仕事をして稼いだ金を、島の妻の実家に入れたりして、将来的にはパンガン島でなにか店を持つとか、事業でも起こそうという希望をもっていた。

 ところがその何年か後にパンガン島を再々訪したときには、島にS氏のいる形跡はなくなっていた。
 妻とその家族から突然、離婚を突きつけられたのである。
 「S氏の元奥さんなら、こないだ山の方のお寺で掃き掃除してるのを見たなぁ」
 千葉さんはそう言って離婚の事情をちょっとだけ説明してくれた。

 なんでもS氏の元奥さんはS氏がいない間に地元の若い男と不倫をしていたらしい。しかしそれですぐ離婚に至ったとか、その若い男と再婚したとかいうわけでもないらしく、S氏の元妻は、自分の業を反省して、今はお寺で謹慎しているらしいということだった。

 その浮気が離婚の直接の原因というわけでもないようだったが、詳しいことはそれ以上聞かなかったのでよく分からない。
 S氏は決して裕福ではないが、それなりにちゃんと仕送りしていたし、まじめにパンガン島での定住生活を夢見ていたようだったので、先方からの突然の離婚要求という、ちょっと理不尽で意外な幕引きには驚かされた。

 90年代も最後半になると、金村氏の姿も島で見かけることはなくなってきた。彼が世に出るきっかけになった「ジミーくんバスマップ」が売れるようになり、雑誌とかにも寄稿するようにもなって、すっかりパンガン島から足が遠のいているということだった。

「金村氏は相変わらず女の子に声かけてるみたいだね」
 千葉さんがふと、そんなことを言ったことがある。

 金村氏のその当時の近況は、人づてに千葉さんにも伝わっていたようで、僕が一度だけバンコクで再会したときは、すっかり有名人になっていて、常宿のテラスハウスには、バスマップの評判を聞きつけた学生さんたちが情報とアドバイスを求めてひっきりなしに会いに来るような状態になっていた。

 もっとも、会いにくる学生さんが若くてかわいい女子なら親切に対応するが、男子学生だとけんもほろろの対応をするみたいで評判は芳しくなかった。僕も実際にその現場を一度だけ見かけたことがあったが、思わず「あんな対応して大丈夫?」と心配になって聞いたことがあったくらいだ。

「そうみたいですね。でも女の子誘って、うまく行くことあるんですかね?」
僕がそう答えると、

「うまく行くことなんてあるわけないだろう。ここに来たときだって、あいつ、星空見せながらあれが南十字星、とかやってたけど、振られてたし。相変わらずだよ」
と千葉さんはそう言ってカッカッっと笑っていた。

 千葉さんのように昔から金村氏を知っている身からすれば、あいつは子供みたいな無邪気なところがあるから仕方がないな~という感じで、遠くから生暖かく見守っている感覚だったのだと思う。

 僕もそれほど頻繁にパンガン島を訪れていたわけではなかったが、取材でアジア方面に出かける用事がある場合は、時間が許す限り島を訪れるようにしていた。

 

久しぶりのバンガローの雰囲気は、より普通のリゾートに近づいていた。一泊千円に満たない格安バンガローではあったが、宿泊客はそれぞれ自分の世界を堪能していた。例えば1枚目はかなり年配の老人だが、一人で長期休暇を楽しんでいたようで、自分の小屋を貝殻や更紗生地で飾り付けていた。日本では、この年代の老人が若いバックパッカーに交じって一人でこんな田舎の無名リゾートを旅するというのは想像しづらいかもしれないが、東南アジアでは割とよく見かける光景だったと思う。

  

 そんなこんなで、2000年代に入ってから久しぶりに島を訪れたときのことだ。
 いつものようにフェリーを降りてバンガローを目指す途中、滞在中の昼食をいつもお世話になっていた屋台の前を通り過ぎようとすると、僕を目ざとく見つけたその屋台のおばちゃんが何やら声を掛けてきた。

 「チバサン、○×△!」
 この屋台は地元向けの店だったこともあり、おばちゃんは英語ができない。後半、何を言っているのかよく分からなかったが、手振りでバンガローのほうを指していたので、何か千葉さんのことを伝えようとしているということだけは分かった。千葉さんの身に何かあったらしかった。
 何があったのかは分からなかったが、なんとなく胸騒ぎがして歩を早めた。このときの訪問は確か2003年で、前回の訪問から2年近く経っていたと思う。具体的にどこがどう変わったか、すぐには分からなかったが、宿の様子になんとなく違和感を感じた。

 たどり着いてみると、僕を迎えてくれたのはスースーだった。いつもだったらすぐに姿を現すサオを見かけないことにも気が付いたが、とりあえず空いている部屋を打診して千葉さんのことをたずねた。

「千葉さんは居る?」
 僕が真っ先にそうたずねると、衝撃の答えが返ってきた。

「チバサン、デッド」

「……えっ!」
 このときスースーは英語で確かに「デッド」という単語を使った。僕は自分の聞き間違いかと思ってその単語を何度か聞き返した。

 死んだ? どうして、、。

 スースーの説明によると、千葉さんは、さかのぼること1年くらい前(だったと思う)に、癌にかかって亡くなったのだという。
 ショックだった。最後に会ったときはあんなに元気だったのに。いや、待てよ、そう言えば最後に会ったとき、千葉さんは首の根元あたりに腫瘍ができてたっけ。そうだ、前回の帰り間際、その腫瘍を「癌だよ」と千葉さんは冗談ぽく言っていた。じゃあ、あれは冗談ではなかったのか!
 僕はそのとき、本当に癌なら病院に行くだろうと思っていて、てっきり、まだしっかりした診断が出ていないのかと思っていた。とりあえず病院に行くように言って帰国したが、このときになって、やっとその記憶がよみがえってきた。
 なんであのきと、もっと心配してあげなかったのか。後悔の念が胸を突いた。

 千葉さんが住んでいた小屋を訪れると、そこには生前に使っていたものは何もなくなっていて、廃墟のように空っぽになっていた。

 

千葉さんが常泊していた小屋は廃墟のようにして残っていた。スースーはバンガロー全体の再開発を考えていたようで、この小屋だけをわざわざ先に立て直す気はないようだった。

 

 バンガローの様子は確かに以前とは違っていた。それは千葉さんの不在のせいだけではなく、よく見ると一部、新しいマッサージ専用の小屋ができていたり、設備が微妙に変わっていたことも原因だった。

 そして何より、いつも明るい笑顔で迎えてくれたサオの存在も無かった。

「サオは?」
 スースーに訊くと、はっきりした事情は濁す感じで、ここを出て行って今は別の店で働いている、としか答えなかった。
 このとき、バンガローにはたしか、かなり年配の西洋人男性と、同じく西洋人の中年女性、子連れのカップルと、年配の日本人男性が一人泊まっていた。
 いつも見かける欧州からの常連たちの姿もなかった。そのほとんどは明らかにサオ目当てだったので、サオが居ないならここに泊まる理由もないということらしかった。

 ちょっと呆然自失ぎみにバンガロー内を散策してみたが、千葉さんもサオもいないとなると、僕も特にここでやるこことがないことに気が付いた。
 年配の日本人は、それまで見かけたことの無い人だったが、しんみりとハンモックに揺られている様子に、もしかしてと思い声をかけてみた。
 案の定、その人は千葉さんの生前の友人で、名前は聞き忘れたが、千葉さんを弔う目的でここに来ていた人だった。
 その人の案内で、僕は千葉さんの墓参りをした。

 千葉さんが亡くなると、そのまま島の住民はタイ仏教式の葬儀をあげてくれ、寺の一角にお墓も造ってくれたのだという。
 観光客はあまり訪れない島民の居住地のほうにあるお寺で、バンガローからバイクで20分程度のところだったと思う。そこには日本のように墓石が立てられているわけではなかったが、確かに千葉さんの生前の小さいパスポート用の写真が、遺影代わりに置かれていた。

 

千葉さんの葬儀の様子を収めた写真をコラージュしたもの。想像していたよりちゃんとした葬儀だった。
次の2枚はお墓の写真。日本の墓所とは大分違って、言われないと墓所とは気が付かなかった。

 

 このとき案内してくれたその千葉さんの友人とは、どんな話をしたかほとんど覚えていない。普通なら、生前はどういう付き合いでしたかとか、パンガン島にはよく来るんですか、とか社交辞令的な会話があるものだが、このときはそれさえなかったと思う。
 
 よく、急な訃報に実感がわかない、ということことを言う人がいるが、このときもまさにそんな感じで、その墓前の遺影(といっても小さなパスポート写真だが)を見ていても、ショックはあったが、千葉さんが居なくなったという実感はわかなかった。
 千葉さんの不在は、不在の形でたしかに僕の心の中に残っていたからだ。自分でも無意識のうちに、千葉さんの墓前で、その不在の臨在という感触を確かめようとしていたのかもしれない。


 サオの居場所を探すと、町の中心から少し離れたところにあるブティックのような店にいることが分かった。
 サオがその店のオーナーなのかということまではよく確かめなかったが、以前、よくバンガローに顔を見せていた北欧出身の男と一緒だった。結婚したわけではないとも言っていたが、事実婚のようで、一緒にその店を運営しているようだった。

 サオがなぜバンガローを出たのか、その事情は意外なものだった。サオとスースーは、長年一緒にムーンライトバンガローを運営してきたはずだったが、あるとき、スースーは契約上は自分がオーナーであると主張して、サオの権利を認めなかったのだという。
 
 そういえば、スースーはマッサージ小屋を新たに作っていたし、千葉さんロスでしんみりしている僕におかまいなしに、設計図を広げて将来バンガローを大きく近代的なものに改築していく計画も語っていた。ということは、その将来計画からサオは外されたということなのか。
 二人の間に何があったのか、本当のところは分からない。しかしあんなに仲がいいと思っていた二人がこんな形で別の道を歩むようになっていたとは意外だった。
 無常は世の常とはいえ、こんなにも急に周りの人の人生がめまぐるしく変わっていくのを見せつけられると、悲しいという以前に、自分だけが時の流れに取り残されているようにも感じられて、それが妙に空しかった。

 

久しぶりに見るサオは少しだけ疲れて見えた。ブティックは彼氏とその友人のたまり場にもなっていて、とても繁盛しているようには見えなかった。この頃にはインターネットが普及していたから、店のHPでも作るよう勧めた覚えがある。「人生に色んな疑問があるから、南の島の女の子からの疑問を書いたHPを作ろうかしら」と言っていた。

 

 宿に戻って冷静に考えてみると、千葉さんは自分が癌であることを知っていたはずであることにあらためて気が付いた。サオやスースーももちろん、周りのタイ人たちも知っていたはずだ。それをなんで治療しようとしないでそのまま放置したのだろう。
 千葉さんは妙に迷信深いところもあったから、そもそも病気に抗う気がなかったのか、あるいは自害するつもりでそのまま放置していたのか。世界中旅をして、やるべきこと、やりたいことはすべてやったので、この世での満足が空しいことを悟って彼岸を目指すつもりだったのか。
 今となっては真相は分からないが、もしもそうなら、僕は千葉さんに生きることを諦めるべきではない、と言いたかった。今なら、彼岸は「生」の向こう側にあるわけではない、と付け加えることもできただろう。

 その夜、なんとなく同じ宿に泊まるもの同士、そして生前の千葉さんを知るもの同士、千葉さんの友人と杯を酌み交わした。しかし、そこでも沈黙のほうが雄弁だった。あんなにしんみりした晩酌は記憶にない。
 沈黙の間奏を背景に、僕はただ、自分の中でひとつの時代の幕がゆっくりと降りていくのを感じていた。

 

 最後にパンガン島を訪れてから、もう20年近くが経とうとしている。2004年にカオサン近くのテラスハウスが閉鎖して、そこを常宿としていた金村氏とも会う機会がなくなっていった。

 風の噂に、カオサンから離れたアパートを借りて相変わらず日本とタイを行き来していると聞いていたが、あるときから日本に住む母の看病のため、タイでの外こもりを卒業して日本で暮らしているとも聞いた。
 しかし2016年、ふと見たネットニュースでその突然の訃報を知った。急性骨髄性白血病だったという。享年54歳、まだ十分若かった。その生き様には毀誉褒貶あったようだが、根は純朴でいいヤツだった。彼の魂の安らかならんことを祈りたい。

 S氏は妻との離婚後、南インドを訪れ、ラマナ・マハリシ(マハルシとも表記)という聖者の教えに傾倒していったようだ。彼はまだ存命のようなので、そのうちまたどこかで会う機会があるだろう。

 

僕は旅に出た最初の頃は、できるだけ客観的なドキュメントを撮ろうとしていたように思う。前にも少しだけ書いたと思うが、僕にとって写真とはあくまでもドキュメント(記録)なのだ。しかしデジタルで写真を撮るようになる頃から、どうせ主観と客観は分けられないんだから、ドキュメントが純粋に客観的かどうかなんて気にしてもしょうがないと思うようになった。ということで、最近は過去の写真も自分の心に映った「心象ドキュメント」として蘇らせている。ここに載せたのは、僕の目を通して見た、そんなパンガン島の心象風景だ。

 

生前にもっと千葉さんの写真を撮っておくべきだった。いろいろ探してみたが、やっと1枚だけ、遺影代わり使えそうと思った写真があったので最後に載せておこうと思う。

 

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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