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女に産土はいらない 三砂ちづる

公衆衛生

 2020年に始まった新型コロナパンデミックは、現在原稿を書いている2021年夏の今も、まだ終息には遠く、日本国内もまだコントロールできている状況にない。日々、ニュースで、医療が逼迫することについて危惧されているが、なぜ、医療が逼迫するのか、と、思う向きも少なくないと思う。都市部にいれば、病院はたくさんあるようにみえる。ベッド数もあるのではないのか。感染状況はよくないとはいえ、欧米と比べれば、桁違いに少ない重症者の数なのに、なぜ、収容できるベッド数がない、といわれるのか。

 実際、2018年の日本の人口1000人当たりの病床数は約13床と、OECD加盟国平均4.7床を大幅に上回っているという。精神科病床が多い、という日本独特のかなり深刻な事情はあるにせよ、ベッド数自体は、あるようにみえる。それでも、医療が逼迫すると言われるのは、それらのベッド数を把握し、適切に振り分ける、日本の「医療制度」に何らかの問題があるのではないか、と、考えるに至る、と思う。現行の医療法では、それぞれの医療機関がどのような医療を提供するか、指示や命令をする権限は、都道府県にはないことになっていて、民間病院に行政介入できる余地はもともと小さいのだという。つまりいくら数はあっても、トップダウンに新しい感染症にベッドを割くような、把握も介入も、元々、大変難しい状況になっている。そんな中、今は、医療の逼迫を避けるべく、新しい仕組みを作りながら、現場が連絡を取り合い、がんばっておられるのである。

 たしかに、「医療制度に問題」、は、あるのだが、なぜそれが問題なのかもわかりにくいだろう。日本は国民皆保険制度のもと、医療は整っていて、みんな望めば医療サービスが受けられる、という先進国ということになっているし、また、その実感も確かにある。患者のレベルからすれば、困った時に医療が受けられるから、何がいけないの、と、問題の所在自体がよくわからない。この国は、みんなそれぞれ仕事がふりわけられると、とりわけ医療や介護の関係者はほんとうに個人のレベルで誠心誠意がんばるので、制度に少々問題はあれど、いろいろなことが、どうにか、できてしまう。そうしてさらに、日本の医療制度と公衆衛生の、何が課題で、何が問題なのか、みえにくくなる。

 たとえば、私自身は、国際保健と呼ばれる公衆衛生の中でもとりわけ格差の多い国々における健康事象を扱う分野の仕事もしているので、アフリカとかラテンアメリカから日本にやって来た各国の医療関係専門家に日本の医療システムについて説明する機会がなんどもあった。そこで、いつも、海外からやってきた人に日本の医療のシステムは甚だわかりにくく、十分な説明が必要であることを感じていた。

 たとえば、世界中、ほとんどの国で「公立の医療サービス」と「私立の医療サービス」というのは別ものである。多くの国において、国として国民の健康をまもるためにシステムとして持っているのが公立、すなわちパブリックな医療サービスであり、そういうパブリックな医療サービスのことこそが「医療制度」そのものであり、「私立」つまりはプライベートな医療サービス、というのは、一般国民のためのものではなく、お金をたくさん出して、特別な医療を受けたい人のためのものであったり、外国人で高い海外医療保険を払っている人がその医療保険を使って使うようなものであり、そもそもその国の「医療制度」とは関係のないところにあるものだ。だから、ふつう、日本にやって来た海外の医療関係者は、日本の病院もおおよそ、そうであり、「国公立の病院はタダか、安くて、国民の健康に資するためのもの」であり、「プライベートの病院は高価で、金持ちが行くためのもの」と思うのは当然なのだ。そこを、いやいや、我が国には国民皆保険制度というのがあって、国立だろうが県立だろうが私立だろうが、どの病院に行っても払うお金は一律で3割、タダではないが、どの病院に行くか、も、自分で選べるのである、というと、海外の人は、なんとなく、ぽかん、としている。

 もう少しわかりやすく言おう。私たちが具合が悪くなって病院にかかりたい、と思う時、行きたい病院は、どこでも行くことができるし、かかりたい「科」も自分で選ぶ。小さな近所のクリニックに行っても良いし、直接、高度医療を扱う大学病院に行くこともできる。直接大学病院などに紹介なしに行くと、数千円、余分のお金をはらわなければならないが、それでも、直接行くこともできるのである。そのように、自分で行き先の病院を選ぶ時、そこが国公立であるか、私立であるか、気にしていないと思う。近所であったり、評判が良かったり、新しくなって綺麗だったり、良い先生がいそうだったりして、何となく選ぶのである。そもそも、近所の小さなクリニックに行こうとすると、そこにあるのは、「国公立」のクリニックではなく、開業医さんのクリニックである。わたしたちはそのようにして、パブリックな施設でもプライベートの施設でも、どこにいっても、公的な医療保険である社会保険か国民健康保険かの保険証を提示して、同じくらいの支払いになるから、あまりどこの病院に行くか、をお金の上では考えないで、選んでいるのである。

 日本中どこの病院でも医院でも行きたいところに行けるわけで、しかも診療科、というか何科の専門診療をうけるか、ということまで、最初は自分でだいたいこの辺だろう、と目算を立てて、適当に受診しているのである。患者個人が選べていい、と思うかもしれないが、これは逆に言えば、「医療制度」という点から言えば、その地域の住民の医療サービス受療状況は、誰にも把握されていない、ということでもある。誰がどこにどの程度の医療を受けに行っているかは、医療保険の診療報酬明細(レセプトというが)から判断するくらいしか方法がない。

 よくわからないかもしれないので、具体的なよその国の例として、イギリスの国営医療制度NHS(National Health Service)をあげてみよう。一昔前、「ゆりかごから墓場まで」といわれる充実した医療福祉制度を誇っていたイギリスでは、今も基本的に医療はすべて無料であり、NHSが提供する。住民は全て地域でプライマリーケア(第一次レベルのケア)を担う、GP(General Practitioner:あえて、家庭医、と訳そう)のもとに登録されていて、どこか具合が悪くなると、そのGPのところに行く。GPのレベルで9割がたの病気は解決できると言われている。GPが判断してさらに専門医療が必要である、ということになってはじめて、専門病院を受診することになるので、個人個人が勝手に専門病院に行くことはできない。日本のシステムに慣れていると不便だと思うかもしれないが、世界的なレベルではプライマリーレベルでまずは患者を見るシステムが整っていて、それが二次医療、三次医療と積み上げられて行くことが、「医療システム」というものである。そういう意味で、日本の医療制度は特殊なのである。

 

 いっぽう、「公衆衛生」は、集団の健康をあつかう分野で、2020年の新型コロナパンデミック以降、“有名”になった。有名にはなってしまったが、一体何をやっているのか、感染症対策をやることなのか、と思われたりしているであろう。公衆衛生は集団の健康を扱う分野であるが、そもそも健康上の問題を個人の問題ではなく、公的問題と捉える。コミュニティの参加や地域組織との連携を重視し、広範なサービス提供と様々な社会活動によって、個人と社会の健康を維持、促進しようとする、総合的アプローチである。理念として、健康の問題を公的な課題と捉え、住民の自治の精神によってなりたつもの、といわれており、それは、1980年代に登場したプライマリー・ヘルス・ケア、New Public Health Movement、ヘルス・プロモーションなどの、概念をくみこみ、世界中で80年代に進展していくのであるが、結局そういう公衆衛生の理念は、日本に根付いているとは言いがたい。

 公衆衛生のキモは、「コミュニティの参加」とか「住民の自治」とか、「様々な社会活動との連携」といっても、なんだか、絵空事にきこえるのではないか、はいはい、そういうこと、よくききますね、といった感じの・・・。健康や医療、というものが、住民の参加とか自治とかに関わる、というのはどういうことか、その理念は、この国で考えてもピンとこないのではないのか。公衆衛生の理念に根差した住民の参加、とは、たとえばブラジルがやってきたことをみると、イメージがわくと思うので紹介してみよう。

 ブラジルは今回の新型コロナパンデミックで、世界トップクラスの感染者と死者を出しているし、貧富の格差が大きすぎるし、とにかく、問題が多すぎる、と思われているが、世界有数の工業国でもあり、1980年代、軍事政権を脱して新憲法を作った時に、医療と教育は国民の権利であることをうたっている国でもある。すべての「公的医療」は無料であり、その公的医療をつくるのは、「住民自身」である、というシステムを、ともあれ、つくりあげているのである。まず、住民たちは、それぞれの住んでいるコミュニティでリーダー、女性リーダー、ほかコミュニティを代表するメンバーをえらんでコミュニティー・ヘルス・カウンシル(保健委員会、とでも言おうか)という委員会を作る。そこで、自分たちは具体的にどういう医療サービスを望んでいるのか、を話し合う。それぞれのコミュニティー・ヘルス・カウンシルの代表は、市のヘルス・カウンシルに集い、その市のレベルでどういう医療サービスを望むのかを決める。その代表が集まって州のヘルス・カウンシルをひらき、さらに一年に一度、ブラジル全州の代表が集まって国の、つまりは、フェデラル・ヘルス・カウンシルを開催する。このフェデラル・ヘルス・カウンシルが、ブラジルはどういう国営医療サービスを行うか、決定して行く。決定されたことを、実行して行くのが保健省(日本でいう厚生労働省)の仕事である、というわけだ。機能しているかどうかは別にしてもこのようなボトムアップの住民参加のシステム自体はあり、集団の健康、すなわち公衆衛生はコミュニティの組織的な活動のつみあげなのである。日本で、自分たちがどういう医療サービスを望んでいるのか、話し合ったことがあるだろうか。話し合っても、それが直接厚生労働省に影響を与える、ということが考えられるだろうか。公衆衛生の住民参加の理念、というのはそもそもこういうものを言うのであるが。

 

 「医制」すなわち医療制度にも問題があり、公衆衛生の理念も根付かない。それでも日本は、1960年代に確立された国民皆保険制度がよく機能していて医療が発展しているから、いいんじゃないの、ということになっているし、先述したが、結局医療現場の各自の「がんばり」もあるし、なんとなく、状況はつつがなく回っていってしまうのである。

 なぜ日本に公衆衛生が根付かないのか、ということについて、行政学者の小池治は「制度変化と“ディシプリン”――公衆衛生行政を事例に」という論文[1]で、日本の医療の現在の制度を、「公衆衛生よりも基礎研究を重視する文化、臨床こそ医師の本分と考える文化、地域医療よりも個人の医業を優先する文化、そして公衆衛生の役割を感染症や食中毒の予防など狭義の衛生行政に限定する文化」などで構成されている、と記し、そのようになった起源は戦前から遡り、明治期の数々の遺産によるのだ、という。

 小池はまず、戦前期の「衛生警察の遺産」を挙げる。コレラ等の伝染病に対処するため、府県の警察部門が衛生行政を担当する「衛生警察」の体制が構築される。一般の人々は、衛生行政を権力的な取り締まり活動と同一視するような意識構造を心の中に埋め込んでしまうことになる。こういう構造から、住民の参加と、民主的な自治衛生という本来の公衆衛生の理念は育つことができない。次に、挙げられるのが「医学ディシプリンの遺産」。明治政府は医学をドイツから学ぶことにした。ドイツ医学はいわゆる基礎医学を重視するので医学界では今も、基礎研究、すなわち、患者を直接みる臨床ではなく、実験室で研究を行うようなウィルス学や遺伝子に関する研究が重視され、大学に残る優秀な医師はそのような実験を前提とした基礎研究をする、と思われており、公衆衛生は隅においやられている、という。さらに、小池が三つ目に挙げるのが「自由開業医制の遺産」である。開業を支える自由主義のディシプリンを公衆衛生より上位に置いて、健康は患者と医師の個人的な関係、すなわち臨床に還元されるものとし、疾病の背景にある社会問題やそれに対する公的責任はミニマム化されるというのだ[2]

 小池は、それらの“遺産”を説明するために、日本の公衆衛生の歴史的経緯を4つの時期に分けて、たどっている[3]

 まず、明治維新後、1870~1905年の時期が公衆衛生前史の時代と言え、公衆衛生行政の基本が形成されていった。先述したように内務省はコレラ等伝染病対処のため「衛生警察」の行政体制を構築していき、文字通り、トップダウンな取り締まりと伝染病対策は同一である、という印象を一般に強く残した。同時に、医師に自由開業を認めて全国に病院診療所を設置する施策は、すでにこの時点で始まっている。江戸時代から医者は個人開業していたわけだから、その頃から受け継いだものと言えるだろう。この時期にすでに開業医の優先事項は開業の権益確保であり、公衆衛生、社会的な医療推進には抵抗するようになっていた、と記されている。医学教育は、ドイツ医学の影響を受けて基礎医学重視なので、エリート医師は基礎研究に向かう。エリート医師も開業医も、結局誰も公衆衛生に関心を払わない。

 次に1905年から終戦時1945年までは、公衆衛生萌芽期であった。大正時代にはアメリカのロックフェラー財団が全世界に公衆衛生の考え方を広めようとして、世界のあちこちに公衆衛生校を建てていた。日本もそのターゲットとなるものの、実はロックフェラー財団は、日本の公衆衛生校設立には当初そんなに熱心ではなかったという。というのもその時代、日本の医学は随分と進んでいる、と欧米から見られていて、実際にレベルが高かったのである。北里柴三郎、志賀潔、野口英世らが上記に挙げたような基礎研究の分野で大活躍して世界にも名を知られていた。こんなに基礎研究が進んでいるなら、まあ、公衆衛生校を作らなくても、いいんじゃない?もう?という感じだったらしい。

 明治維新直後の1869年に、ドイツを範として医学教育を行うことが決定したのち、多くのドイツ人医学者、教育者が現在の東大医学部に当たる東京医学校で教鞭をとり、森鴎外、北里柴三郎らもこの時期にドイツに留学し、コッホらの元で学んでいる。北里柴三郎はコッホがコレラ菌を同定した翌年1885年にコッホの研究室で研究を始めているのだから、本当に世界最先端にいたのである[4]。1918年から1920年くらいにスペイン風邪が流行するが、パスツールやコッホの働きから約30数年後、原因であるウィルスはもちろん同定されていなかったが、スペイン風邪のワクチンも日本でつくられていたくらいである。

 結果として、ロックフェラー財団は資金を提供し、国立公衆衛生院が1938年に設立されるが、公衆衛生院は専門大学院ではなく、衛生技術者養成機関という位置付けであった。欧米には、もともとパブリック・ヘルス・スクールと呼ばれる公衆衛生大学院が設立されてゆき、良い意味でメディカル・スクール、つまりは医学校、と切磋琢磨していくのだが、この時すでに、日本では公衆衛生院はできたものの、専門大学院として機能することはできていなかったのである。

 また、この時代に、政府は全国にヘルスセンター(保健所)を設置する計画を立てたが、医師会の反対から保健所で診療を行わないことになり、保健指導と衛生行政を所管する国の行政機関と位置づける[5]。つまりは、現在あるような保健所、に、なったのである。国際水準では、上記のイギリスの例のように、プライマリーケアの臨床を担う家庭医のいるヘルスセンターが公衆衛生の役割を担う、というふうになっているところが多い(つまり住民は具合が悪くなったら、ヘルスセンターに行く)のだが、日本は医師会、つまりは、開業医を主とする団体からの反対があって、ヘルスセンター(=保健所)において、公的なプライマリーケアの臨床を始めることができなかったというのだ。この戦前の決定が現在にまで、日本の公衆衛生のあり方、つまりは、保健所のあり方に大きな影響を与えているという。

 次に戦後、1946年から1980年代は公衆衛生展開期、といわれる。敗戦と同時にGHQにより新しい公衆衛生行政が確立され、全国の保健所が整備され、全国の医学部に公衆衛生講座ができていく。先述のように、公衆衛生院がパブリック・ヘルス・スクールの役割を果たして大学院大学となっていれば、状況は違ったのであろうが、そうはならなかったため、公衆衛生は、ここで医学部の一講座に過ぎない、ということになってしまい、医学部の講座ハイアラキーの底辺に置かれてしまうのである。

 公衆衛生は、集団の健康を相手にする分野であるから、医学部卒業生のみならず、他の医療職種、社会科学、人文科学、数学などを専門にしていた人たちが集まって学ぶ。この時期に公衆衛生が医学部の講座ハイアラキーに置かれてしまったため、現実に日本では、長く、公衆衛生を専門として学ぶ「学校」が存在しなかった。国立公衆衛生院は、厚生省の専門技術者養成、という位置づけになり、大学院として学ぶ場にならなかったのである。私自身も1980年代、公衆衛生を学ぶことを志したが、結果として、欧米に行くしかない状況になり、ロンドン大学衛生熱帯医学校に留学する。

 2000年を過ぎてから、日本国内でも公衆衛生校設立が始まり、東京大学、京都大学、九州大学などに公衆衛生校ができるが、まだまだ卒業生の数が限られる。日本では現在も、公衆衛生をかなり専門的に学んできた人の多くはアメリカやイギリスの公衆衛生校で学位をとった人が多いのである。2020年の新型コロナパンデミックで、突然、公衆衛生、疫学専門家が必要とされるようになり、2020年3月初頭、厚生労働省新型コロナウイルス対策本部クラスター対策班を率いる先生方から、日本中の公衆衛生、疫学研究者に「ボランティアで厚労省に助けに来てほしい」という緊急メールが回ったのだが、そのメールはハーバード大学公衆衛生校の卒業生、ロンドン大学衛生熱帯医学校の卒業生のメーリングリストを中心に流されていたことは、記憶に新しい。若くて機動力のある人たちが、馳せ参じて、すぐに定員オーバーの状態になった、と聞いている。再度書くが、日本は、その現場でそれぞれの人が、本当に懸命に働くので、「なんとかなる」ようになっていくのである。

 話を戻すと、1961年に国民皆保険制度が発足して医療機関が発達していくと、全国に作られた保健所をはじめとする公衆衛生関係機関は早々に縮小の対象となってしまう。その後、医療の専門分化の中、公衆衛生は改革のターゲットになっていった、と、小池の論文では語られている[6]

 そして1990年代から現代に至る公衆衛生転換期が訪れる。地方分権の時代となり、地方分権は自治体の権限を強化するものであったのに、公衆衛生部門では、規模はますます縮小されていく。2000年をすぎると、保健所は自治体統合による現象が進み、1994年に825あった保健所は、2006年に535、2010年には494と半分近くに減ってしまう。そのうち、県設置のものは1994年に625あったのが、2010年に372となっているのである。そのように縮小された公衆衛生部門で、パンデミックへの対応は無理と言うものであろう。こちらも無理な状況の中、現場の方々が懸命に働いて、なんとか支えておられるのだ。このような保健所統廃合に体を張って反対された方が存在した和歌山県では、保健所の数を減らさず、連携強化もして、新型コロナパンデミック対応が優れていた、と報道されている[7]

 ああ、公衆衛生。

 

 

[1] 小池治「制度変化と“ディシプリン”――公衆衛生行政を事例に――」横浜法学24巻1号, pp.21-86, 2015.

[2] 小池前掲書.

[3] 小池前掲書.

[4] 岩本愛吉「傳染病研究所の系譜から見た日本の感染症対策略史」モダンメディア 64 巻 5号 [通巻 750号記念特集 1], pp.3-11, 2018.

[5] 小池前掲書.

[6] 小池前掲書.

[7] NHKラジオ 読むらじる 大越健介の現場主義  “のど元が熱いうち”に考えておきたいこと コロナの中・長期的課題” 放送日:2021年1月14日  https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/my-asa/Fh-bmFig9p.html  閲覧日:2021年7月15日

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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