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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

望月登美子さん――文(le style)はひとなり  

 

 

望月さんは美学の大先輩で、なにくれとなくお世話になってきている。年齢差は16歳、わたしにとっては姉のような存在だ(独りの姉は20歳違いなので、普通にそう感じて違和感はない)。旧制の大学の最後の頃のご卒業だが、東大が女子学生を受け入れるようになったごく初期の入学者で、女性の美学者として草分け的存在だ。

 

その人生、終戦とともに新しく開かれた可能性に恵まれた反面、なお残る古い慣行に縛られたこともあったはずだ。フェミニズム全盛のいまなら、望月さんは間違いなく強い脚光を浴びていたと思う。美学説についてはあとで素描するが、その知性には呆然とさせられるところがある。まず外国語の能力。竹内敏雄編『美学事典』では、ソヴィエト・ロシア関連の項目をすべて担当された。当時ロシア語の読めるひとは、美学の世界では稀有だったと思う(いまでもそれは変わっていない)。望月さんの論文には、近代諸語や古典語のほかにペルシャ語の引用まである。外国語嫌いのわたしには驚異だ。さらに驚かされたことがある。今のわたしぐらいか、あるいはもう少しあとのことかもしれない。人間ドックのような検診を受けておられたが、そのメニューのなかに認知症の検査があった。二年目のこと、その担当医師に向かって「昨年、先生はこうおっしゃいました」と言ってそのきまり文句らしきことばを逐一繰り返して聞かせ、凹ませてしまった。

 

わたしが望月さんの知遇を得たのは、跡見学園女子大学の講師室でのことだった(講師室とは、非常勤講師が集まる大部屋のことである)。跡見短大の教授だった望月さんは、そこにも出講してらして、新米教師のわたしは同じ曜日の同じ時間帯に同室する、という機会に恵まれた。この講師室は陽光のなかに思い出される。隣に学長室があり、中世和歌の専門家だった伊藤嘉夫学長は、休み時間にはこの講師室に出てらした。そこで飛び交う会話はさながらアカデミックなサロンのようだった。その輪のなかの花形は望月さんと樫村治子さんだった――この講師室のことを書こうと思っていて、突然、樫村さんのことが記憶によみがえってきた。50年ぶりのことだ。NHKの女子アナの草分けで(ラジオ時代)、『私の本棚』という名著の朗読番組で知られた有名人だった。跡見では朗読法を教え、盲人のために本を朗読して録音テープに起こす、というヴォランティア活動をされていた。――さらに藤平春男さんがいらして、持参された蔵書の地の部分に、書名が墨書されているのをわたしが見つけると、ニヤリでもニコリでもない小さな笑みを浮かべられた。寡黙な方だった。

 

よく覚えていることがある。山本正男さんのことばとして教えてくださったものだ。《おにぎりはね、梅干しだけではだめなんです。白いご飯があるから美味しいのです。授業も同じです》という至言である。こころにすぐに響いた。駆け出しの教師として、むずかしい授業しかできないことを実感していたからだ。ただ、智慧のことばを頂いても、おいそれと実践できるわけではない。その白米の部分こそ経験を積んではじめて披露できるような性質のものだ。また、ある学生がダンスの発表会に来てくれというので、会場にゆくと、望月さんと一緒になった。学生のために時間を割いたことに感心してくださった。そのような機会を重ねるうちに、あるとき手相を観て下さった。望月さんの手相は西洋流のもので、洋書から学習されたとのことだった。手相()は、相手のためというより、ご自身の習得された手相の流儀がどれほど当を得たものであるかを確かめるため、というようなものと見えた。望月さんによれば、それまで観たなかで最も立派な手相は、渡辺護先生のものだったそうだ。わたしについては、文科的であるだけでなく理科的でもあるとお見立てくださったことで、わたしを喜ばせた(手相にこのようなことが書き込まれているものだろうか、と今にして思わないでもない)。

 

跡見の講師室以前にも望月さんを存じ上げていたと思うが、パーソナルな関係はこの部屋から始まったので、その空間の明るく平和で知的な雰囲気が、わたしの望月さんの人格像を彩っている。一言で言えば、生き方にもことばにも凛とした女性という印象である。その著作には、特に女性を感じさせるところはない。望月さんの書かれた文章のなかで、女性的と思うのは次の一文だけだ。これは望月さんの唯一の著書である『エステティカ――やさしい美学』(1985年、文化出版局)のあとがきである。謝辞を除いた全文を挙げよう。

 

冬の夜は長い。この夜の長さが、原稿を書きすすめるよすがとなった。しかしそのせいもあって、秋の終わりにひきこんだ風邪は、いつまでたってもなおらなかった。声がでなくて、講義も満足にできない日々がつづいたが、その分、ことばは原稿にむかってほとばしっていったように思う。いつもはみつけ次第つみとってしまう薔薇の蕾を、この冬はひとつだけのこしておいた。原稿を書きおえた朝、凍てつく窓外の蕾の枝を()った。大輪の冬の薔薇は、色も香りもなく、暖かい室内で、ほわほわとひらいたが、たちまち堕ちた白鳥のようにうなだれてしまった。

 …………

薔薇は散り、原稿は多くの人々の手と工程にはぐくまれて、本としての新しい生命をあたえられようとしている。風邪は――まだなおらない。

 

短い。「あとがき」はやり終えたという解放感からつい饒舌になって、達成にいたる経緯をあれこれ語りたくなる空間だ。ところが、ここで望月さんが語っているのは風邪と冬の薔薇だけだ。ひらがなの多い美しい文章のなかで、「薔薇の蕾」は漢字で書かれている。象徴的な意味を尋ねたくなるが、差し控える気持ちも動く。全体にみなぎる抑制の風が、そうさせる。この抑制こそ、その意味を問うべきものかもしれない。それは、望月さんの「こわさ」である。先ずは、強いの意味でのこわさ、そしてそれをみとめたとき「怖さ」が生まれる。小学生のときか、高等女学校の生徒だったときかは分からない。望月さんには家庭教師がつけられていた。その大学生(多分)が彼女を「登美子ちゃん」と呼んだことを、「わたくしはゆるしませんでしたの」と悪戯っぽい笑顔でおっしゃったことがある。その「ゆるさない」は「許さない」というより「赦さない」に相違ない。おそろしい。

 

その「こわさ」はわたしも経験している。親しいお付き合いは長く続いていた。お宅の近くに行ったときには電話して喫茶店で歓談しただけではない。誕生日にはカードを頂いていたし(怠け者のわたしは、望月さんの誕生日を伺ったが、一度もお祝いを申し上げたことがない)、ヴァレンタインの日には、多くの「ボーイフレンド」とともに、東大ブランドのチョコレートを頂いた。わたしは土地の果物などをお送りしていたが、あるときやんわりと謝絶のことばを返され、じきに回線は切れて取り付く島もなくなった。

 

上記『エステティカ』のまえがきによれば、その著作の最初の構想は「美学小径」というなかば自伝的なものだったが、初学者のために斯学の「正道」を示すべきと思い直した、という。読者として想定された人びとのなかには、当然跡見の学生たちがいるだろうが、文化服装学院と文化女子大学のデザイナー候補生たちも忘れてはいけない。望月さんはながく非常勤講師としてそこの教壇に立たれ、この本も学院の出版局から刊行された。国際的なデザイナーを多く輩出し、かれら彼女らは望月さんの教え子だった。どなただったか記憶は定かでないが、そのなかのおひとりを「○○クン」と呼んでらした。かれらに世界的な名声をもたらしたのは強烈な個性だが、個性の発揮は自然になされるものではなく、その表現への確信に依拠したものだ。望月さんの美学がその確信を支えたと考えるのは愉しい。あとで素描するが、望月美学にはそのような強さがある。どのようにしてその美学を形成されたのか、それを語ってくださるはずだった「小径」の方は、少し遅れて「美学への道なき道」というエッセイとして公表された(『学士会報』1988年4月号)。何分、著作サイズが短篇サイズに切り詰められているので、失われたあちこちの小径の記述を惜しむ気持が残る。

 

このエッセイが語っているのは、1939年、1942年、1945~46年、1948年の出来事だけである。最後の年は東大入学の年で、この「道なき道」の当座の到達点である(つまりあくまで「美学への道」であって「美学の道」そのものは黙説されているにすぎない)。そして最初の1939年とは、望月さんが「美学とかいうもの」の存在を初めて知った記念すべき年である。すなわち『吾輩は猫である』の迷亭先生とは、日本で最初の美学の教授だった大塚保治である。漱石を読み、この人物の専門とする学問を百科事典で調べようとしたのは、美学の何たるかを知らなかったからだが、高等女学校1年の12歳、早熟だ(わたしに「ビガク」という専門科目の存在を吹き込んだのは、高校3年の森山蓉二君だった)。美学への本格的な関心に触れるのは、1942年、1945~46年の記事である。望月さんは生まれ故郷の広島で、高等女学校から女子専門学校に進み、国文学を専攻していた。文学への関心と美学が結びついた次第は、1942年、書店の店頭で手にした一冊の本との出会いの記述に窺われる。教学局編纂『日本諸学振興委員会研究報告(藝術学)』という論文集である(調べてみると教学局とは文部省の外局だそうだ)。今なら、絶対に町の本屋さんに並ぶようなものではない。この本のあちこちに「美学」の文字があり、立ち読みで印象に残った断片的な言葉にひかれ、望月さんはこれを購入し、家で熟読された。それどころか、戦火を越えてこれを大事に保管され、このエッセイにもその購入価格を記し、幾つかの文を引用されている。東京大学美学科の受験につながる強い関心を得た機縁であったことと思われる。では、それはどのような問題意識だったのだろうか。しかし、望月さんの筆は淡々として、こころに受けた衝撃のようなものは語られていない。立ち読みしたところには、後の京都大学教授井島勉さんの文も引用されているが、竹内敏雄先生の「文藝学における様式の概念」から、美学上「様式」とは「精神の骨相」あるいは「個性の法則」とされている、という言葉が引かれている(望月さんの手相観は、おそらくこの「精神の骨相」に通じている)。そのあとで、自宅での熟読個所としてはただ1か所、つぎのような趣旨の部分が紹介されている。《日本の文藝は思想性こそ乏しいものの、世界観的な生活気分のようなものは豊かで、その様式の内的生命、根源的な力となっている。「まこと」「幽玄」「あはれ」「さび」などの美的概念も、世界観的な理念として作品の内面形式を規定している》。竹内先生の学風としてわたしが理解しているのは、厳密な論理性、学説全体の構築性であるので、直観的な洞察をしめしたこの言葉(というより思想)には、新鮮な印象を覚える。望月さんは、これが「後に連なる印象として残った」としめくくっている。つまり、この論集が重要なのは、竹内先生のこの思想ゆえであり、それは望月さんの「美学の道」を規定するものとなった。「世界観的な生活気分」に目がゆくが、望月さんを捉えたのは「内的生命」という概念だったかもしれない。

 

望月さんを美学と結んだ直接の動機は「あはれ」だった。1946年、女子専門学校の卒業論文としてこのテーマを選ばれた。当然、大西克礼の『幽玄とあはれ』(1939年)が重要な参考文献となった。望月さんが東大に入学された年は、大西先生の東大における最後の年だった。助教授だった竹内先生に、望月さんは深く傾倒され、「わが師父」(『エステティカ』「序」)と呼ばれるほどだ。その献身的な敬愛の深さに触れることなしには、彼女の肖像は点睛を欠く。次のことを公表するには、本来お許しを頂く必要があるかもしれないが、いまはそれもかなわないので、一方的にお許しを乞うことにしよう。暴露というような性質のものではないし、すでに歴史的事実として、すくなくとも美学を学ぶ人びとが共有すべき事実と言うこともできよう。竹内先生は歌人でもいらした(うろ覚えだが、「小竹茂」という筆名だったかと思う。姓の方は確かだ。先生が一時居住され、わたしの本籍地でもある町の名だ)。そして、亡くなられる前年『審美歌篇』(1981年)という歌集を私家版として出版された。先生の当初の構想では、そこに私情を詠みこんだうたが多く含まれていた。望月さんは、そこに取り上げられ、かつ存命である人びとのことを思い、それらを除くことをつよく求められた。「それらは必ずわたくしが出して差し上げます」とおっしゃって、諫められた。そして、その約束は、先生の生誕100年の2005年に『虹ひととき』として果たされた、『審美歌篇』と同じデザインの姉妹編として。望月さんが制作されたこの歌集は、この年、竹内先生を偲ぶ美学科同窓会(これも望月さんの発案だった)の参加者に配られた。多くのひとが感ずることと思うが、『審美歌篇』に比べて『虹ひととき』はうたごころが豊かな歌集である。

 

竹内先生のひととなりに対する敬愛だけでなく、望月さんはその美学説にも深い尊敬の念を懐いてらした。『エステティカ』は「故竹内敏雄先生の学風に基づく正統的な美学の道をしめす」ものだった(「序」)。たしかに、目次に示された論の構成は、竹内美学を踏襲している。この本を副題のままに「やさしく」読めば、竹内先生の主著『美学総論』(1979年、弘文堂)をやさしくリライトしたものかと見える。著者の意識において、このモデルに倣おうとしたのは真実だったろう。しかし、この本は難しく読むべきものだ。そこに望月さんの「精神の骨相」を読まなければならない。そう読んで初めて、望月美学の精髄に触れることができるし、語られなかった美学志望の動機も見えてくる。著者自身、著作の焦点が何であるかを語っている。すなわち、これは美学の諸問題を網羅したものではなく、「とくに美的主体と美的対象とのかかわりの問題」に重点を置いている(「序」)。だが、これとても特に個性的なテーマとは見えない。

 

慧眼の士ならば、そこに直ちに個性的思想を読み取るだろう。わたしには助けが必要だった。望月さんは多作ではないが、数篇の珠玉の論考がある。特に、「詩と原像――キーツ小論」(今道友信編『藝術と解釈』、1976年、東京大学出版会)、「詩と想像」(同『藝術と想像力』、1982年)、「精神医学と美学」(同『講座美学』第5巻《美学の将来》、1985年)などに照らして初めて、その精神の骨相は見えてくる。問題意識の中心にあるのは、美というかたちでの世界との出会い方である。想像力も解釈もこの出会いをつくる精神のはたらきである。論文に示された想像力の定義は、そのまま『エステティカ』にも繰り返されている。想像力とはすなわち、「主体が、自己の意識をも含めた所与の上に、独自の・・・意味や心像(イメージ)を投企したり、これらを自由に変形したり結合したりする力動的な心的生産力である」。考え抜かれた定義で、異論の余地などあるまい。この「自由な生成の体験」によって生み出されたものであるがゆえに、写実的な風景画さえ仮象であり、その仮象性は積極的な意味を与えられ、強調される。しかし、「独自な意味やイメージ」(「意味」が先に来ることに注意したい)を投影しうるためには、「精神」は既に独自な世界を具えていなければならず、その世界はさまざまな経験とともに「生成」されてゆくだろう。これはとりわけ藝術作品の制作者において起こることだが、望月さんは観賞者の「解釈」もそれと構造的に似たものであると言う(そこで「追形成、追創作」が語られる)。ひとが世界に向かい合い、そこで生きるという関係から出発して考えるがゆえに、素材、形式、内容、感情等々、美学の基本的なモチーフについて、つねに対象的な契機(あるいは側面)と精神の側の契機・側面が区別して論じられている。これは他に類を見ない独自の捉え方である。

 

望月さんの立論の原点は、「ミュトス」(神話、或いは物語)と「ロゴス」(「真理」を標榜する理性的認識)の乖離と、一度失墜した「ミュトス」が、文藝や藝術において別種の真理として復権するという大きな精神史にある。その非ロゴス的な真理の典型として「エディプス・コンプレックス」やユング的な「原型」が挙げられているが、一層一般的なかたちで、永遠と時間の瞬間的スパーク体験が語られている。「時間が永遠になることはない。しかし永遠が時間の中に到来することはある。それは真に充たされた瞬間としての時であり、キルケゴールはこれを〈時の充実〉とよんだ。このような瞬間――永遠が実現された現在――こそ、客・主間の極限的な緊張関係において、もっとも充実した完成度の高い美がたちあらわれる瞬間であろう」(『エステティカ』 もとは「詩と原像」において、キーツの《ナイチンゲールに寄せるオード》に即して語られた)。「やさしい美学」としては難解かもしれない。これをさらに噛みくだいて言い換えることができるだろうか。敢えて試みるなら、目の前が開けたような、啓示的な体験のことだ、と言えるかもしれない。それは日常性のなかで「きわ立った異質の瞬間」であり、まれな体験である。それは瞬間の出来事でなければならない。論弁的に、言い換えればロゴス的に説明できるようなものではないからだ。また、歴史的時間の方も、単なる受け皿のようなものではなく、呼びかけに対する応答の意味をもち、作り手や観賞者の資質が問われる。そこでこれをわたしは「スパーク」と呼んだのだが、望月さんはその触媒となるべきものの必要性を強調する。たとい、マッチ売りの少女の擦るマッチのような些少なものでも、物質的なものがなければ永遠は降臨しない。特に、質料的なものが想像力を刺戟する力をもつ。精神を頂点に置き、土のようなものを最下層に置く存在の序列を顚倒させる見方さえ示されている。キーツとともに望月さんが愛好するのは、オマル・ハイヤームの壺作りの詩だ。そこでうたわれているのは壺に成形される粘土だが、その粘土のなかに詩人は、亡くなった父祖や王者らの肉体の変容したすがたを見ている。

 

これは望月さんが美学者としての道を歩んで形成していった思想である。しかし、美学を志されたとき、既にいかほどかこれに通じること、すなわち永遠なるものとの出会いのようなものを経験しておられたのではなかろうか。少なくとも、そのようなものを希求しておいでだった。木幡さんの肖像のなかで、「美意識」が中核的な問題だったことを見ている。それは、いまわれわれがなじんでいる用語法とはやや異なり、美の体験を通しての人格形成をつよく意識したことばだった。同じ意味合いでの同じ言葉遣いが、望月さんにも見られる。あの困難な時代を生き、美学を志した人びとにとって、美の体験が稀なもので、どれほどかけがえのないものだったかが窺われる。

 

1945年、広島女子専門学校2年生だった望月さんは、水島の飛行機工場に勤労動員されていた(その時の寮生活の様子は、『水島の春 ある女子動員学徒の手記 故稲毛恒子遺稿』という私家版の冊子に描かれている)。そこでは、監督士官の「日本精神注入棒」の脅しが見張っていたが、寮では「軟弱な歌を特に心をこめて歌った」。公休日には倉敷に出て大原美術館を訪ねられた。コッテの『老馬』を見つけ(当時の技術水準のものではあるが)複製とのあまりの違いに驚かれたという――ペルシャ語を引用するあの原典主義(それは大西先生の流儀で、それへの反抗が「やさしい美学」だというが、学術論文ではそのマナーに忠実だった)に照らすと、論文のなかで言及されている美術作品はどれもオリジナルの体験によるもののように思われる。例えば、アンドレア・デル・サルトの『最後の晩餐』におけるユダの表情の読み取り(「ユダと魔女」、『服飾美学』第11号、昭和57年)。望月さんは世界中を旅して回られたから、当然、各地の美術館を巡行された。――やがてその虱だらけの寮は空襲にあい、女学生たちはあちこちの寺に分宿されるようになり、工場までの通勤距離が伸びた。「美学への道なき道」から次の一節を引用したい。

 

通勤途上の見はるかす緑の水田は満々と水をたたえ、田の面田の面に空と雲とを映していた。豊葦原の瑞穂の国の七月は、夜はもとより、夜明けも夕暮れも、光も風も美しかった。逆に大原美術館のあの閉ざされて人工的な美の宝石箱が、贅沢で不健康でうとましくすら思われることもあった。

 

ここに、あの「ミュトス」と「ロゴス」の相克から説き起こし、ひとと世界の交感を描く望月美学の原点があるように思う(それにしても何という美しい文章か)。わたしが望月さんの論考のなかで、最も愛する一篇、『20世紀日本美学論文集』のようなアンソロジーが編まれるなら、是非そこに収録してほしいとおもっているのは、「風景美学の研究――自然との交感」(『跡見学園短期大学紀要』第27号、1991年1月)である。おそらく定年退職される直前に書かれたもので、わたしの知る限り、最も後期の著作である。美学入門以前の「豊葦原の瑞穂の国」体験と、そのキャリアのほとんど締めくくりのようなこの論文は円環状につながる。末期の目で見た自然美論(藤村操から始まりオマル・ハイヤームも、もちろん西行も出てくる)は、美しく、深く、こわい。ここに簡単に紹介することはできない。インターネットで公開されているので、ここまで読んでくださった方々には、是非、その本文をお読みいただきたい。

 

上の引用文が描いていたのは、昭和20年7月の情景だった。それからひと月後、誰もが知るあのすさまじい破壊的爆撃が広島を襲った。望月さんの実家は市の中心部にあり、家族の安否を尋ねて爆心地に入り、二次被爆に遭われた。ここまでは誰かに教えられて知っていた。しかし、そのときの詳細をお訊ねするのは憚られたし、ご自身はどこでも語っておられない。美しさと悲惨さは隣りあわせだ。

 

この肖像の仕上げには、望月さんの「フモール」に触れなければなるまい。フモールという語は聞きなれない、という向きも少なくないだろう。ユーモアに相当するドイツ語だが、美学者たちはユーモアとは異なる独特な意味合いが「フモール」にはある、と主張している(わたしはこの違いを検証したことがない)。その意味合いとは、世界に対するイロニー的な距離感をもった諧謔の精神とでも言うことができよう。単なるジョークではなく、その根底に世間とまじわらない超脱的な意識、あるいは世界観のあるもののことである。望月さんはお茶目だ。論文には見られないが、エッセイにはその口吻が散見する。一例を挙げれば、飛行機工場への動員について、「動員がもっと続いていたなら、卒業時には学業はお粗末でもおそらく腕のいい板金工に仕上がっていたにちがいない」と、おっしゃる。始めにも書いたが、社会が変わり学問への道が開けた。しかし、変らなかったところもあった。その後の境遇をどう思ってらしたのだろう。研究を続けられて、立派な論考を残されながら、学界では前に出ようとはされなかった。そのユーモアは生来の気質によるところもあろうが、フモールの色合いをもったものだったのではなかろうか。

 

あるとき、東大美学科卒を自称しながら、わたしの知る限り、どの先輩とも交際のないという不思議な人物がいることに気づき、お訊ねしたことがある。調べたわけではないが、学歴を詐称した大学教師が、日本中には相当数いるのではないかと思う。公募の際、応募に必要な書類として卒業証明書のようなものを要求されないことが珍しくないし、要求されても、外国の無名の大学卒の場合だと、書類の偽造は容易だろう。この人物の件とは別に、ある身近な人間関係についてもお訊ねしたことがある。学歴詐称を容認しておられるわけではないものの、無害な昔話の脚色については、よい仕事をしておいでなのだからそれでよい、とおっしゃって、わたしの好奇心をたしなめられた。これが「世間」に対する望月さんのスタンスだ。

 

お会いして別れるとき、望月さんは、さようならではなく、「ごきげんよう」とおっしゃるのがつねだった。宝塚風と思っていたが、跡見学園のすでに廃れかかった流儀だそうだ。それを望月さんは好んでらした。

 

――忘れるところだった。「肖像」について望月さんは次のように書いてらっしゃる。これはこの『スヴニール』全体のエピグラフとして掲げたいと思う。「肖像(portrait)は、特定の実在人物をその個別性において特徴づけ、それが「誰」であるかを識別しうる形で表現する。肖像は、原像=現存在の徴表としての根源的な形相である」(『エステティカ』)。

これはまさにわたしの志すところである。ただし、すこしあとで次のようにも指摘しておられる。「藝術作品としての肖像は、作家の個人様式に規制され、外貌の肖似性とはうらはらに原像の性格よりもむしろ作家の性格が反映されることがよくある」。藝術家の場合、それは名誉だろう。拙文は藝術性を志向しているわけではない。だから、このことはわたしが自戒するところである。本篇について、こわい望月さんはどうおっしゃるだろうか。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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