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女に産土はいらない 三砂ちづる

家事と幻想

 思い起こすのは、家事の記憶である。ひたすら家のこと、をやっていた記憶。いっとき、自分の年齢で言えば、だいたい、40代末から、50代半ばにかけての頃、自分の家と、別宅と、父の住んでいる家と、三軒の家の面倒を見ていたことがある。たった三軒であるといえば、たった三軒だ。逆に、一軒じゃなくて三軒もあるの、といえば、たくさんあるようにも聞こえる。面倒をみていたってどういうことか、というと、要するに家を機能するように私が仕切っていた、というべきであろうか。まあ、そんな難しい話ではなくて、覚えていることといえば、とにかく家を片付けて、掃除して、ゴミを出して、とにかくひたすらどの家でも動き回って働き続けていた、ということだった。別に掃除が好きなわけじゃないし、片付けが上手いわけでもないが、ただただ、掃除をし続けた。他に、掃除を得意とする人がいなかったから、それは私の仕事だった。その頃、私の人生の八割は掃除じゃないかと思うくらい、掃除をしていたのだ。人生、これ、掃除、みたいな・・・。その家に着けば、私のすることは掃除、だった。家族に言わせれば、そんなにやってなかったじゃないか、家はそんなにきれいじゃなかった、と言われるかもしれない。おそらくいわれるであろう。それは、私の能力の問題である。が、当時私の意識はひたすら、掃除にあったのだ。この三軒の家の掃除をしなければならない。これらの家を人が住めるように整えなければならない。まずは、掃除。自分の家と、別宅と、父の住んでいる家と。

 普通の勤め人家族だというのに、なぜ「別宅」があったのかというと、夫の憧れだったからだ。2015年に亡くなった夫は東京生まれの東京育ち。本人曰く、まだ長屋の続く下町だった頃の、代々木に育った。代々木小学校、外苑中学校に進んだらしいが、こういう小学校も中学校も、もう、存在しないのだそうだ。合併とか、廃校とか、で、自分の母校はおしなべてなくなっていったのだ、と、彼は言っていた。ドーナツ化現象とやらで、都心に住む人がどんどん減っていったからだ、というが、今はまた都心回帰も進んでいて、都心の方が保育園事情もよかったりするみたいだから、若い人たちは、埼玉とか千葉とか多摩地区とかじゃなくて、無理をしてでも都心に住む人が増えているようだ。彼の卒業した小中学校もまた復活するかもしれないが、まあ、そういうこともないのかもしれない。少子化で、子どもたちの数はひたすら減り続けているのだから。

 ともあれ、東京生まれの我が夫であった。東京の人にとって、伊豆か箱根かに別荘を買って週末を過ごし、定年後はそこでゆっくり過ごす、というのは、あるひとつの憧れの典型であるらしい。関西人である私には、その辺の感覚はさっぱりわからない。関西のお金持ちは、どこに別荘を持つのだろうか、と、あるとき考えてみたり、関西でそこそこお金持ちの知り合いに聞いてみたりしたが、なんとなく、はかばかしい答えがない。別荘文化、ということ自体、この国では、ひょっとしたら、ちょっと、東京特有のものなのかもしれない。東京に住み始めると、軽井沢や、伊豆や、八ヶ岳や、葉山や、東京から割と簡単に行けるところに別荘地がある、ということは、自分が持っていてもいなくても、いくらでも頭に浮かぶようになる。

 夫は定年を前にすること、あと5年くらいの時に、伊豆高原に別荘を買った。当時、勤め人であった夫の貯めてきたお金で買える程度の値段で、小さい別荘なら、伊豆高原で買えたのだった。一人で勝手に買いに行ったわけじゃなくて、一応、私も一緒に見に行った。大きな雪見障子のある和室と、小さな和室と、リビングダイニング。広いウッドデッキがあって、庭にはコケモモの木が生えていた。贅沢ではないけれど、十分に居心地がよく、温泉が出て、静かで居心地の良い家だった。購入後、夫は一ヶ月に一回くらい別荘で何日か過ごし、定年後は予定ではもっと長く行くつもりだったようだが、結果としてやっぱり月に一度何日か程度過ごしていた。私は子どもたちがまだ中高生だったし、仕事も忙しかったので、そんなに頻繁には、この別荘に行かなかった。

 団塊の世代どまんなか、大学ではヘルメットをかぶり、会社に入ってからも労働組合運動に専心し、フェミニストのお友達も多かった夫は、大変リベラルな人であり、家事を女がやらなければいけないとは、決して思っていなかった。そういう思想的バックグラウンドの人が別荘なんか買っていいのか、といわれるかもしれないが、そこはこの世代の憧れであった吉本隆明が、「文化生活」を望んで何が悪い、もしマルクス主義運動に意味があるとすればすべての大衆にそういう文化的生活を保障することにこそある、というふうに総括していたので、「擬制の終焉」を死ぬまでそばに携えていた夫には、矛盾はなかったのだと思う。学生時代ヘルメットをかぶっていた友人たちがなにもなかったかのように大企業に就職して年を経てエラいひとになっていったことにこそ、最後まで疑問も持ち続けていたのだが、彼にとっては汗水垂らして定年まで必死に働いた者が、伊豆高原に小さな別荘を買う、くらいは、許されていいことだったと思われる。

 ということで、男女は平等であり、家庭でもそのように振る舞うことを目指していた人だったから、家事をやる気がないわけではなかったし、やらないわけでもなかったし、実際、よくやっていたのだが、残念なことに、家事全般に関して、なにごとも、恐ろしく下手な人だった。食器も洗うが、洗った後の食器は平気で油汚れが付いている。洗濯物も干してくれるが、何の考えもなく、適当にしわも伸ばさずに干すし、てきとうにせんたくばさみをとめてしまうので、洗濯物は、大幅に型崩れしたり、しわくちゃになったりする。気づいたのだったら注意しないのか、といわれれば、まあ、しないこともなかったが、何か言うと機嫌が悪くなるので、機嫌の良さと関係性を尊重するべく、注意をやめたのである。掃除はその中でも一番の苦手だった。それでも、再度言うが、やる気がないわけでもないし、気持ち良くやってくれるというのはありがたいことなので、やってもらっていた。

 そういう夫が、一人で数日伊豆高原の別荘で過ごして、帰ってくる。私はいつもは行かないが、時折、一緒に行く。すると、私がやるべきことは、とにかく朝から晩まで別荘の掃除をする、ということになるのである。夫は、家族と暮らしている自宅では掃除をしてくれるが、そもそも掃除はしたくない人なので、別荘で一人でいるときはおおよそ、掃除というものをしていないし、やっていても掃除になっていない。私は掃除をしていない家にいるのは嫌だから、着くなり、せっせと、掃除を始めるので、別荘でゆっくりとした時間を過ごす、などということにはならなかったのである。夫も、私が別荘に行って、掃除ばかりしているのはあまり気に入らなくて、もっとゆっくりしたら、と言ってはくれるのだが、家が汚いままでいるのがいやなのは私だから、掃除をするしかなかったのであった。

 その後、夫はいくつか大病をして、別荘にも物理的に行くのが難しくなったので、結果として10年弱ほど使って、5分の1くらいの値段で売った。我々が買った時もそんなに高い時期ではなかったが、その後、けっこう長い不景気も続いて、別荘を買いたいなどという人はどんどん減っていって、小さめの別荘など買いたい人はいなくなったから、さっぱり売れなくなったのである。売りたいのにお金を払わないと他人の手に譲れない、などという別荘物件も少なくなかったころだったから、我が家の物件はまだ、マイナス、つまりはお金を払ってでも処分したい、などということにならなかっただけ良かったのかもしれない。そう思っていたけれど、2020年からの新型コロナパンデミックでオンラインワークが広がり、都心を出て別宅を持ちたい人もまた増えたというから、伊豆高原は活気づいているだろうか。そうだといい。とてもいいところだから。

 ともあれ、別荘を持っている間、そんなふうに別荘で掃除をし続けた。私は、別荘というのは、管理人を持つほどの余裕があって常に誰かが掃除しておいてくれるほどの状況でなければ、持たないほうがいい、と確信した。別荘の管理人を持つほどのお金がないなら、別荘は持たず、リゾート地や避暑地には、時折、お金を払ってホテルに泊まれば良いのだ。ホテルや旅館というところは数日行く私たちのために、普段から綺麗にしておいてくれるわけで、それがどんなにありがたい事か、身にしみたものである。

 

 関西で一人暮らしをしていた昭和2年生まれの父は、海の男だったこともあり、その世代にしては、一通りの生活上のことは自分でできる人で掃除もそれなりにやってはいたが、そこは、まあ、男性のやること(という言い方はまったく、ポリティカリーコレクトではないが、この世代の男について、他にいいようがない)で、四角い部屋を丸く掃く、の掃除で、拭き掃除などもしないし、認知症も始まってきたので、掃除が行き届かない。ひんぱんに関西に通って、父の家について、こちらも、さあ、掃除だ、とせっせと掃除をし続けたのである。

 とにかく、家で掃除、別荘で掃除、父の家に行って掃除。掃除フェーズの時期であった。掃除フェーズ・・・。そういう言い方をするのであれば、弁当フェーズもあった。とにかく家族がいて、食事を作るフェーズ。朝ごはんも昼ごはんも晩ごはんも作る。おおよそのお母さんのやっていることである。子どもたちが中学生とか高校生の頃がそのピークだった。作っても、作っても、ぺろっと食べてくれる人がいる。朝から一升飯を炊いていた。普通の炊飯器は五合炊きだが、男の子が二人いると、五合では足りない。我が家の当時の炊飯器は一升炊きのものだった。夜にタイマーをセットして朝一升飯が炊き上がる。朝ごはんを用意して、息子たち二人と夫と自分の弁当を作って、息子たちには部活の後に食べる大きなおにぎりも持たせるから、冗談でなく、朝、一升炊きの炊飯器は空になる。ちょっと前の人は、火から起こしてご飯を炊かなければいけなかったんだから、しかも家族が多かったんだから、ああ、なんと大変であっただろう、などとも考えたが、およそそれはひとごとで、当時は自分のことで十分に忙しかった。と書きながら、であるが、掃除フェーズに弁当フェーズ、家事をまじめにやって、私がんばりました、とか、言いたいわけじゃない。

 何が言いたいのかというと、家事のことしか覚えていない、ということなのだ。私は他に何をやったらいいかわからなかったのだ。今もあの頃、他に何をすればよかったのかわからない。私の周りに家族がいて、面倒を見る人がいて、面倒を見る家があって、そしてやるべき家事があった。だから、なりふりかまわず、ひたすら掃除して、食事を作っていた。三軒の掃除をしていたが、2013年に父は死に、2015年には夫も死に、掃除すべき家はしばらくは自宅の一軒だけになって、私の掃除フェーズは終わった。子どもたちも大人になって、弁当フェーズも終わった。今も家事は、やっているが、家族も減って、「掃除フェーズ」、「弁当フェーズ」とは比べ物にならない。

 

 家事というのは負担であって、女性を家にしばりつけるものであって、男性と家族と平等に分かち合うべきものであって、みんな、それをいやがっていて、やらなければやらないほどいいものだ、みたいなイメージで語られるようになってずいぶんになる。ある時まで、家事は確かに負担だったと思う。例えば、水汲みに行かなければ生きていけないような時代には。かまどで火を起こさなければ、料理も始められなかったような時代には。冷たい水で、全て洗濯は手洗いしなければならなかったような時代には。先年、訪れた沖永良部島では昭和40年代に水道が通るまで、水汲みは大変な仕事であったという。暗川(くらごう)と呼ばれる地下の水場に降りていき、水を汲み、家まで運ぶ。上り下りするに狭いところであるから、手では上手く運べないので、頭に水桶をのせて運ぶのである。水運びは、一貫して女の仕事であり、少女たちもその役割を担っていた。学校から帰ってきたらすぐに水汲み、という生活だった、と女性たちは話してくれた。

 で、今はそんな時代ではなくなった。おおよその場所で蛇口から水が出るし、スイッチを入れればお湯が沸くし。洗濯は洗濯機がやってくれるし。それはなんとすばらしいことか。家事はこれからもどんどん少なくなっていくだろう。なんでもAIがやるようになるのかもしれない。我が家の拭き掃除をロボットが担うようになって久しい。自動掃除機のほうは、父が使っていて、ちっとも綺麗に掃除しないので役立たずだな、と思っていて、手を出していなかったのだが、拭き掃除ロボット、ブラーバはその発売を待ってすぐに購入したくらい、気に入って使い始め、今も使っている。その後、自動掃除機ルンバも画期的に性能が良くなった、と息子がいうので、買ってみたらこちらも素晴らしくて、我が家の床掃除もロボットが担っている。

 それでも、世の中、家事が大変だという。分担しなければやっていけないという。おそらくそうなのであろう。汚れた皿は歩いて食洗機に入ってくれるわけではなく、洗濯機は乾燥までやってくれるものはあっても、洗濯物を畳んでくれるわけではない。どこまでいっても、生きていく限り、家事はあり、人の世話もあり、分担することは出てくるのであろう。家事の分担も、AI化も結構なことである。余裕のある家では、外国人労働者が家事を担ってくれるようにもなるのであろう。自分がやりたくないことを、外国人で家事労働のために自分の家族を置いて出てくる女性にやらせていいのか、いくら彼女たちにお金が必要だとはいえ・・・と私はずっと思ってきたが、欧米やシンガポールなどの先進的な働く女性たち(例えば国連で働いている人とか)にとって、そのへんは、自分のリベラルな政治姿勢と矛盾しないらしいので、ふーん、と冷ややかにみていたのだが、日本もそうなるのであろう。フェミニズムはその辺りの総括をお願いしたいものであるが、おそらく、女性の家事負担を軽減して社会進出を進める、というロジックでは、この外国人女性のハウスワークでさえ、社会進出、賃金労働への参加、ということで肯定されそうであることが、なんともいえない。

 

 たかが、家事、されど、家事。私はあの掃除フェーズ、弁当フェーズ、など、ひたすら家事をやっていた時のことを思い出すと、再度書くが、あれがなかったら、何をやっていたんだろう、と思うのだ。子どもたちとの暮らし、夫との暮らし、親との暮らし。その中で、私は家事をやらなければ、何をしていたのだろう。こちらももう一度書くが、がんばって家事をしていたのです、ということを別にいいたいのじゃない。私はこのそれぞれのフェーズに、家事をしなければ、家族のために、何をやっていたのだろう、と、ただ、思うのだ。

 女は家事に縛られなくて良い。子育てに縛られなくて良い。介護に縛られなくて良い。そういう具体的な、大変なことは肩代わりされていけばいい。そして、そして? その先には何があるのか? 縛られないで、何をするのか。お金を稼ぐ仕事だけをするのか。余暇を楽しむだけなのか。その中で、どうやって家族の関係を紡いでいくのか。

 家事をやらないで、そのほかに、何で愛情を表現するのだろう。愛情は、幻想である。家族を含む、すべての関係性は、幻想である。その幻想を、家事や子育てや介護、という一つ一つの暮らしの営みで、実体に変えていくことが、日々を暮らしていく、ということではないのか。それらからすべて自由になって、さて、女たちは、何をもって愛情という幻想を実体に変えられるのか。わたしは、自分がやったこと以外、なにか、この愛情という幻想を実体に顕現させることができたのかどうか、いまでもわからないのだ。

 

 森崎和江が1970年代に書いた、「髪を洗う日」[1]、という文章を思い出す。朝鮮半島出身であるが、すでに福岡に長く住み、日本人と家族を持っているミョンナムオモニの話である。彼女は主人の病気を治してもらいたくて、三年間、毎日、家の裏にある山のてっぺんのお薬師さんに参っていた、というのだ。朝早く起きて、主人と子どもにご飯だけ用意して、自分は食べないで、走って山に行く。行って、帰ると、どんなに急いでいても、2時間がかかる。そういうところに毎朝、毎朝、三年間登った。

 冬の朝5時ごろはまだ、真っ暗なのだが、登る。神様におまいりするのだから、からだをきれいにして、あがりたい。山の途中の川の水で、からだを「ふろ」して、つまりは、からだを川の水であらって、きれいにして、山に登って行く。神様はなにもいわないけれど、主人の体をなおさないといけないから、なおすためには、私の気持ちで、そうしたいから。暗い中は、こわいけれど、守られているのだから、大丈夫だ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら登った・・・。そのミョンナムオモニの言葉、日本語のことばのあわい、語り口は、誰よりも美しかった、と書かれている。

 

 「日本の人も言うじゃないですか。死んでも魂あるって。魂ありますけね。自分のことは死ぬるまで自分でやっていくと思ってね。神様には子供のこと孫のことだけ祈ります。・・・自分のことは言わんです。神様の前ではまだちょっと口に出らんですね。家帰って仏さんの前で、神様のほうむいて、私が生きるものなら、生きるだけ生きて、そして、死ぬるときはそろっと逝くごと、と。はははは」

 

 家族への愛情、家族との関係性、という幻想を、世話をすること、祈ること、によってこそ、暮らしという実体に、その愛情を顕現させて行く。幻想が、手触りのはっきりした、目に見える、暮らしの詳細として、目の前に現れてくる。家族の関係性というものが、あらわれてくる。そのことを思う時、いつもこのミョンナムオモニの語りが思い起こされる。

 「家事」と「育児」と「介護」・・・。これらを女性だけが担うべきだ、と今や、誰も考えていない。どんなに保守的な政治家であっても、こういうことは女の仕事だろう、などと口にすることは、今ではありえない。家庭の中でも、たとえそう思っていたとしても、もう、言ってはいけないのだ。でも家事と育児と介護、それらからすべて自由になって、それで、やることは何なのか。「仕事」、そう、それでもいい。お金を稼ぐ仕事。しかしそれとて、定年が待っている。定年後どうするのか。一人で暮らして一人で死ぬのか。それもいいが、自分の関わりがあった人との関係は最後まで切れることはない。切れることがないことが、またなにかの「家事」や世話をしたりされたりすることによって、形になっていくのではないのか。すべてにフェーズがあり、変わってゆく。その中で暮らしの手触り以外に確実なものがあるのか、暮らしを支える以外に愛を伝える方法があるのか。わたしには、よくわからないのである。

 

 

[1] 森崎和江コレクション「精神史の旅4 漂泊」藤原書店、2009

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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