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哲学探究3 永井均

第6回

自己意識、再論(1)世界は実在しない

 

Ⅰ 「私」の指示するものの無媒介的現前

 

1 今回は、前回の落穂拾いというわけではないが、段落12の注*で予告した自己意識の問題を、ダン・ザハヴィの『自己意識と他性』(法政大学出版局)の冒頭部の議論を根源的に批判するという形で論じたい。タイトルに「再論」とあるのは『世界の独在論的存在構造 ――哲学探究2』の第7章でも「自己意識」を論じているからである。今回は、ザハヴィもまたそう言っている、おそらくは一般的にも言われていると思われることを、ザハヴィの文章自体を実際に引用しつつ論じることになる。

2 『自己意識と他性』の第1章は「私」と題されている。この「 」は引用に際して私が(引用であることを示すために)付したものではなく、もともと原文にあるもので、その章では「私」という語について論じられるということを意味している。ザハヴィは現象学系の哲学者ではあるのだが、まずは現象そのものというよりはそれを指す語の使われ方について論じ、そのような(いわば言語哲学的な)方法の限界を示したいという狙いが含まれている。それにもかかわらず私には、彼の議論は最初から、むしろいわば語のもつ力への過度な屈服と譲歩が含まれており、「私」とは何か(この「 」は語ではなく、逆に事象としての「私」そのものを指すための「 」である)という問題へ接近する途を見失っているように思われるのである。

3 議論は、次のような例から始まる。宝石箱に入っている宝石を指して「これ」と言うとき、宝石箱はじつは空っぽかもしれない。「これ」という指示代名詞は「体験的に現前している何かを指示するのではない」(15頁)からである。それと対比的に、「「私」ではそれは異なる」として、次のように言われている。

〝「私」と言うその人格は、その現実存在を保証するだけではなく、「私」と口に出したとき「私」の指示するものの無媒介的、体験的現前、デカルトの直観を確証する論点もまた保証するのであり、そのために、「私はいま現実存在していない」という立言は自己矛盾的であり、内的に一貫性がないのである。〟(15頁、強調は原文)

「人格」と訳されているもとの語はpersonであるから、この文はより平易に「「私」と言うその人は、……」と訳されてもよいような、きわめて単純明快なことを主張している。ところでしかし、この主張は正しいだろうか。正しいとも正しくないともいえると私は思うが、それ以前に、私にとって何よりも意外に、そして不思議に感じられるのは、著者は分析哲学者ではなく現象学者であるので、問題を言語がどうなっているかには帰着させずに、あくまでも主体の意識事実の側から考えようとしているにもかかわらず、問題設定のこの端緒において、この文を言う人が自分なのか他人なのかという根源的な区別を、少しも考慮に入れていないという点にある。しかし、「私」という問題は――その語のではなくその事象そのものの問題は――そもそもその区別の問題なのではなかろうか。だから、この区別を考慮に入れずにこの問題を論じるということは、そのような論じ方ができると信じているということは、そもそもの最初から問題の真の意味を見失っているということなのではなかろうか。この「無媒介的、体験的現前」の実例は、なぜか現実には一つしか存在しない! という驚くべき事実が、そして(現在は)なぜか現実に一つは存在している! というもっと驚くべき事実が、やすやすと飛び越えられてしまっているわけである。私の用語を使って言うなら、もともとヨコ問題であるはずの問題を、最初からタテ問題に置き換えた形で論じてしまっている、ということである。

4 それでは、その区別を立てたうえでこの問題を検討してみよう。私自身が「私は……」と言う場合、たしかに、その現実存在は直接的に保証されている。それが誤認であったり妄言であったりして、じつは現実存在していないというケースは100パーセントない、といえる。なぜなら、そこに存在する「無媒介的現前」によって「私」という語ははじめて確証され、そこで定義されるからである。したがって、「「私」と口に出したとき「私」の指示するものの無媒介的、体験的現前、デカルトの直観を確証する論点もまた保証する」ともたしかにいえるし、「そのために、「私はいま現実存在していない」という立言は自己矛盾的である」ともたしかにいえることになる。 

5 他人が「私は……」と言う場合はどうだろうか。その現実存在は直接的に保証されているだろうか。前回の議論が正しければ、その人において直接的に保証されている場合とそうでない場合とがありうることになる。私自身が「私は……」と言う場合、それが誤認であったり妄言であったりする可能性はなかったが、他人がそう言う場合には、誤認である可能性については微妙**だとしても妄言である可能性は間違いなくあることになる。ここで妄言というのは根拠を欠く発言という意味である。したがってこの場合には、人の形をした生き物が口から「私は……」と言葉を出しているのだが、その語が意味するような「私」はじつは現実存在していない、ということがありうるという意味になる。その場合、その「私」は、その口からその音を発している人の形の生き物自身を指してはおり、したがって「私」という語のもつ別のある意味においては正しく使用され、正しく「私」を意味している、といえてもよい。しかし、その人(または人に似た何か)には、(哲学の世界でよく使われる表現を使うなら)「自己意識」がなく、また(前回に私が独自の意味で使った表現を使うなら)「クオリア」が、つまり(私自身の表現で言うなら)「しかなさ」がない***。だから「私」が指すものはじつは現実存在していない、といえることになる。「私」という語がそこではじめて確証され定義されるはずの「無媒介的現前」がじつは存在していないからだ。したがってこの場合、「「私」と口に出したとき「私」の指示するものの無媒介的、体験的現前、デカルトの直観を確証する論点もまた保証」されていない。それゆえ、「私はいま現実存在していない」という立言は自己矛盾的ではなくなり、その口から出る「私はいま現実存在していない」という発言は真理を語っている場合がありうることになる。 

*これは、その人においてなのだからもう私においてではない、とは言わずに、その人における「私」の存在と非存在を、それでもしかしあくまでもヨコ問題として、論じることができる、ということを意味している。

**私でないものを間違って私であると認知することはありえなくないが、それができるなら、そこでそれを認知している主体としての私もまた存在していることになるので、その構造をどう評価するかという問題が生ずるからである。

***つまり、前回に規定された意味におけるゾンビである。 

6 これに反論して、「人格」と訳されていたpersonという語の意味を強く取り、そうしたことは「人格」には起こらないのだ、「人格」とはそういう意味の語なのだ、と主張することは可能ではある。しかし、その場合にも同じことがいえるだろう。他者の場合、外からは人格であることの基準を満たしているように見えてじつはそれを満たしていないことがありうる、と。それを人格ゾンビと呼ぶとすれば、前段落で述べたのと同様に、彼らはその音が出る口の付いた身体(および口から出る発言のある意味的なまとまり)を指して「私は……」とか「私の……」とか言うことはできる。しかし、彼らはわれわれの意味での(つまり「しかなさ」としての)クオリアを欠いているので、(そうするための基盤自体を欠くがゆえに)自分がそう言っていると思ってはいない。その場合、第4回の段落5で導入した図解を使って言うなら、〇△◇□▽のうち□が「私」でありうるのは、それに付いている口からその語が出るからにすぎない。いいかえれば、その「私」は□という身体とそれに付随するものだけを指す。□に■性はないからである。 

*「言う」という語が適切かどうかは別にして、ともあれそういう音をその口から出して、そのことによってある特定の事実をだれかに伝達することができる。 

7 この人格ゾンビたちには(ゾンビであるにもかかわらず!)全体としては意識があってもかまわない。いや、問題の意味が先鋭に明らかになるという意味ではあったほうがよい。ただし、それは皆に共通の(すなわち数的に一個の)意識であらねばならない。もし私秘性によって区切られた複数の意識があったならば、外部から見ればそれぞれに「とって」付きの、それぞれの内部から見れば「とって」なしの、「しかなさ」が存在することになって、ここで要求されている「人格」の概念を満たしてしまうからである。私秘性によって区切れていない一つの意識であれば、その全体に対して私秘性によって区切れた別のもう一つの意識の存在を想定しないかぎり、それは結局のところはたんに物理的なはたらきと同種の何かにすぎず、とくに「意識」と呼ぶべき特段の理由はない。しかし、そうであるならば、彼らの一人(?)がわざわざ言葉を使って「私」という語によってその口の付いた身体(あるいはその身体の感覚器官から得られた情報等々)を区別して指す意味がありうるだろうか。ありうるだろう。たとえば、彼らの外部にわれわれ人間が存在しており、人間たちにそこで起こっている心的な事実を伝えるために、である。複数個存在する個体の一つが、その意識システムの外に存在する者に、その個体に起こる何ごとかを伝達するために、自分を指して「私が……」と発語することは、それらがじつは全体を包括する一つの意識しか持っていなくても、したがって指されている個別的な「私」などじつは存在しなくても、十分に機能を持ちうるであろう。 

*人間が「それが起こったとどうしてわかったんだ?」と問うと、彼らの一人が「私がその場ではっきり見ました」と答え、人間が「右手の手首に痛みを感じているのはだれ?」と問うと、別の一人が「私です(=私は右手の手首に痛みを感じています)」と答える、といったことが有意味になされうるだろう。有意味にとは、「私」という語のもつある一つの機能を十全に使用して、ということである。 

8 しかしもちろん、彼らの一人一人(それぞれの身体という意味での)は人格ではなく、「私」という語の持つもう一つの別の(じつはそちらこそが本質的である)意味においては、自分を「私」として指すことはじつはできない。その意味においては、彼ら(各々)には意識がないともいえる。それでも、彼ら(全体)には意識があるともいえる積極的な理由があるのは、彼らがたとえば外部に存在するわれわれ人間に対して、自分(たち)をまとめて「私」と呼ぶこともできるからであり、その時においてのみである。その際には、彼らにわれわれが与えた意味での「クオリア」が、すなわち「しかなさ」が生じ、「私」という語はそれを(じつのところはそれだけを)指していることになるからである。そのことによって、他の「私」と対比して現実の「私」が、つまり彼らにとっての〈私〉が(だから外から見れば《私》が)捉えられたことになる。この「私」には誤認(誤同定)の可能性がない。いま論じているのは、前回の区別に従えば②の問題だが、彼らの立場からはそれは①の問題となり、そうなるということを理解していなければ、この問題を理解することはできない。だから、少なくともある可能世界において成立する①の問題を理解していなければならないのだが、しかし、それができるためには、さらにまずは現実世界における現実の〈私〉の存在を理解しており、そこから(そこから出発して)問題の本質を抽象することができていなければならない。(こう語る際にもすでに、〈私〉や「現実」には二重の意味が与えられざるをえないが、それはつねに避けられない。)

 

Ⅱ 対象としての用法と主体としての用法

 

9 『自己意識と他性』の続く記述は、この問題をウィトゲンシュタインによる「私」という語の二種の用法――対象としての用法と主体としての用法――の区別に結びつけて説明している。「私」の対象としての用法とは、その人(「私」を使う人)を外から観察してそうであることがわかる、「私は足が汚れている」「私は体重が減った」「私は目が青い」といった用法である。主体としての用法とは、その人(「私」を使う人)の自身の視点からのみそうであるとわかる、「私は悲しい」「私は寒く感じる」「私は地球が平らだと信じている」といった用法である。対象としての用法の場合、その人が「私」として捉えたものがじつはその人自身ではなく他者である、という誤りの可能性がある。隣にいる人の足が汚れているのを見て、それが自分の足だと誤認し、「私は足が汚れている」と思うことがありうるからだ。(体重の場合なら、隣で体重を測っている人の体重計の目盛りを見て、同様の誤りを犯すことが可能である。)これらを「誤同定による誤り」と呼ぶ。「私」の対象としての用法においては「誤同定による誤り」が起こりうるわけである。これに対して、主体としての用法の場合、その人が「私」として捉えたものがじつはその人自身ではなく他者である、という誤りは起こりえない。もし悲しければ、悲しいのは必ずその人自身である。(何かを信じている場合も、何かを思い出している場合も、何かが見えている場合も、何かを味わっている場合も、すべて同じことが言える。)ここには誤同定による誤りが起こる可能性そのものがないのだ。だから、だれもが暑く感じる室内で誰かが「私は寒く感じる」と言ったなら、「本当にあなたは寒く感じるの?」と驚いて問うことは有意味でありうるが、その場合でも「本当にあなたがそう感じるの?」と驚いて問うことは無意味である。 

*驚いて問うことは有意味であるとはいえ、最終的には第一人称の権威は確立しており、当人が寒く感じていることがそうであることの最終根拠であることに変わりはない。また、この例文は、ここで論じている問題そのものとは関係ない、日本語における「は」と「が」の使い分けの例文ともなっている。 

10 「私」の二種の用法のこの区別は、哲学の世界で問題なく正しいものとして受け入れられているように見える。たしかに語られているかぎりのことは正しいともいえようが、そうであるのはマクタガートが抉り出そうとして奮闘したのと同じ種類の矛盾がそこに内在しているからだという、そこに食い込んでいるより重大な事実が見逃されてしまえば、真の哲学的問題は取り逃がされているといわざるをえない。「私」という語に二種類の用法が存在するのは、「私」という語を使う人間の側に二種類の人間が存在するからではないか。二種類の人間とは、主体としての用法の「私」が現実にあてはまる人間と、主体としての用法の「私」が現実にはあてはまらない人間、の二種類の人間である。もっとくわしく言えば、主体としての用法の「私」が指し示すものから出発してそれが(なんと驚くべきことに!)対象としての用法の「私」としても指されうる者でもあることを後から習得する側の人間と、対象としての用法の「私」が指し示すものから出発してそれが(なんと驚くべきことに!)主体としての用法の「私」をも使用する者でもあることが後から習得される側の人間、という二種類である。すべての人間にのっぺりと対等にこの用法区別が当てはまる(だけである)ようには、現実の世界は出来ていない。だれも、人間たちを等しく並列的に眺めて、そのどれにもこの用法の区別を同様に当てはめていく、というような仕方でこの区別の意味を理解することはできない**。語の用法の区別は、じつのところは、この存在論的事実の側から出発して(それを基盤にして、それに何らかの操作を加えることによって)理解する以外には、そもそも理解する方法がないのではなかろうか***。 

*ここの「から」は問題提起のための強意を含む。これはいわば(時間論における私の用語を使って言えば)A事実の存在からA変化が派生的に成立するという非常に強いA系列主義(むしろA事実主義)の立場に立った言い方となっている。しかし、A事実の存在はA変化が成立するための不可欠な条件ではあるが、A事実だけからA変化は作り出せるわけではないのと同様、私である人と私でない(他人である)人が存在しているという事実は、「私」の主体としての用法と対象としての用法の区別が成立するための不可欠の条件ではあると思うが、それだけでこの用法区別が作り出せるわけでもない。さらにもう一つの問題点は、じつは「今(現在)」は、先鋭に理解された場合には、「私」とは違って、「対象としての用法」がない。今(現在)はつねに移り変わるので(今であることから独立に)それを指せるような身体性を持たせることが原理的にできないからである。しかし、たとえば「今」を「今日」に変えれば、今日はその日が今日であることとは独立の身体性をもつことができるので、「対象としての用法」で使用することも可能となる。その場合には、「今日は……」と発言して、それがじつは(誤同定をしていて)今日であるその日以外の日を指していることが可能となる。そして、(ここで話をもとにもどせば、)語としての「今日」がそのように使い分けられるのは、端的に間違えられない成分を現に「無媒介的に」もつ端的な「今日」と、もともと間違えられているかもしれない(がそうであるかどうかはもう/まだ決してわからない)、「無媒介性」のない「今日」との、二種類の「今日」が現に存在している「から」だ、とここで私は言っていることになる。

** このような点は、直前の注*で述べた時間における「今(現在)」についても(したがって「今日」についても)そのまま当てはまる。

***ここでは、注*を付けた箇所の「から」に少し限定を加えているといえる。また、ここで言っていることは客観的事実として言えることなので、累進図でいえば最上段は登場する必要がなく、(どこを取ってもそこが最上段になるという仕方での)累進構造そのものが不可欠であることが理解されればそれで十分である。(しかし、最上段ぬきにこの意味での累進構造だけを取り出して理解するということがそもそも可能であるかは疑問ではあるが。) 

11 もちろん、私も私以外の人も「私は悲しい」「私は寒く感じる」等々と言う。しかし、「「私」の指示するものの無媒介的、体験的現前」が成立しているのは私自身の場合だけであろう。すなわち、私の口(私が何かを言おうとするとその口が開いてそこから言葉が出る――と少なくとも私が思っている――という意味での私の口)から言われる場合、あるいはむしろ、そう言おうとする場合だけであろう。それ以外の口から出る「主体としての用法」の「私」は、先に妄言でありうることを指摘したが、それだけでなく誤同定の可能性もありうる。段落7の注*で例示した「私が……見ました」や「私は右手の手首に痛みを感じている」には、じつは別の個体(の眼)が見ている(いた)とか、じつは別の個体が右手の手首に痛みを感じている、といったことが問題なく起こりうるからである。すなわち、誤認の可能性がある(間違えることができる)のだ。このとき重要なことは、それでもこれらは心的(主観的)事実ではあるので、主体の側には誤認(誤同定)の可能性が開けているにもかかわらず、その主体に現れている現象の側には誤認の可能性が開けてはいない(つまり第一人称権威が立派に成立している)と見なしうる点である**。すなわち、「私は右手の手首に痛みを感じている」と思うのであれば、その「私」の側には誤同定の可能性があっても、そこに痛みを感じていることの側には、すなわちその主観的な痛さの存在そのものの側には、疑う余地がないのだ***。ごく普通に「甘く感じられれば甘い」「赤く見えれば赤い」の原則が成立するわけである。 

*これは、われわれがだれでも、たとえば左足の人差し指に感じた感覚を隣の中指に感じた感覚だと誤認しうるのと同じことである。違う点は、それぞれの指に自分を「私」として指せる口が付いている点である。この場合も、「私」の側が誤りうるにもかかわらず、いかなる感覚であるかにかんする第一人称の権威は存在しつづけ、そちらの側は誤りえない。また、あたりまえのことではあるが、それらの個体をそれぞれ□△▽◇などで表すとすれば、たとえば□に付いた口が「私が□ではなく△だったら……」などと言うことには意味がない。「私が△だったら……」は、たとえば「□の位置で感じられている感覚が△の位置にあったなら……」といった意味になり、それはもちろん有意味である。■や▲の存在が考えられないような世界では、誤同定の可能性から免れる方途は存在しない。

** そう見なしうる理由は、現象の側の誤りえなさはヨコ問題における「しかなさ」に由来するものではないからである。それゆえ、それは「しかなさ」の欠如から影響を受けない。現象の側の誤りえなさは、そもそもヨコ問題ではなくタテ問題であって、現象の背後にあってそれがそのように現象していると見なしうる本体(外界の実在のような)が想定されない(あるいは想定する必要がない)場合に生じる事態である。「しかなさ」と対比して表現するなら、本質的な「見かけ存在」性に由来する誤りえなさである。(だから、この事態を「第一人称の権威」のように表現するのは本当は不適切で、むしろ「主観性の権威」のように表現するほうが適切である。)

***「私が……見ました」のほうは過去形なので、記憶違いという通常の場合でも起こりうる別の問題が絡むため、あまり例がよくない。しかし、これを現在形にして、「私が……見ています」という発言で考察すれば、ここで述べたのと同様に、誤同定の可能性があることがわかる。この場合も、見えている現象の側には誤りえなさを認めることができる。すなわち、もしピンクの象が見えているなら、じつは何も見えていない可能性も、じつは青い馬が見えている可能性も、100パーセントない。あるのはむしろ、その顔についている眼で見たと思っている(ゆえにその顔についている口が「私が……」と発語している)のとは別の顔に付いている眼がそれを見ている可能性のほうだけである。 

12 心的(主観的)事実であって、それゆえ生起している現象の側には不可謬性が認められるのに、なぜ主体の側には誤認(誤同定)の可能性があるのだろうか。それは、この場合、現実に感じる身体、現実に見える目が、並列的に複数個存在しているからである。そこには「しかなさ」がないから、並列的に(対等に)存在している複数の候補のうちのどれに起こっているのかを間違える、ということが起こりうることになる。逆にいえば、通常の場合に誤同定の可能性がないのは、心や意識の存在が必ず「しかなさ」の形式を取るため、これではなく他でありうるという可能性の空間がそもそも開かれないからである。

13この事態は、通常のものごとの区切られ方のように、世界の内に(非常に堅固で変更不可能な)区切りが実在している、というような種類の事態ではありえない。そういう仕方では、いかにしても「しかなさ」は生じえない。そうではなく、まずは、ただそこからのみ世界が初めて開かれるきわめて特別の唯一者が存在しなければならない。その意味での「しかなさ」がまずあって、そのきわめて特殊なあり方を(ただそれだけを)範型(モデル)にして、そのあり方を他者にも認めるという第二の、これまたやはり驚嘆すべき手続きに入っていく、という手順がとられねばならない。それゆえ、このやり方で区切られた他者相互の区切れ方は、世界内の通常の事物の区切れ方に従った上で、そこに「現実にはただそこからのみ世界が初めて開かれるきわめて特別の唯一者」と「現実にはそこから世界が開かれてはいない通常の複数者」とのあいだに存在する根源的な差異と同種の差異を読み込むことで作り出されねばならない。そういうやり方で作られるのであるから、他者どうしが本当にそのように区切れているかどうかはじつは決してわからない。本当にそのように区切れていることもありうるが、本当はそうなっていない場合もありうるはずである**。 

*この文の最初のほうの「まずは」の前に、「一方では世界内に実在する通常の心の一つにすぎないはずなのに、他方では現実には」という文を挿入する必要があるのだが、それはここでの議論の筋道からすれば、後から付け加えられることになる。そうすると、この独在性という端的な事実を概念的に把握できる理由の側は謎となる。どちら側から進んでもここにはあり方の矛盾が残る。

**だから、他人が見かけ上に何人いても、本当に何人いるかは決してわからないことになる。他我にかんする懐疑論としては、この懐疑論こそが最も本質的だと私は昔から感じており、ときにそう表明もしてきたが、なぜそうであるのか、その意味するところはあまり理解されていない。(この論点に関連するさらなる問題は、なぜここで他者間の区切られ方にかんしてこのような実在論的な立場を取るべきなのかという問題だが、それは直接的には論じられていないとはいえ、このところ数回の議論において間接的には答えられており、さらに以下の段落でも間接的に答えられることになる。) 

14 他者どうしが本当はそのように区切れていない場合もありうるとはいえ、本当にそのように区切られている場合も十分に想定できる(通常そう想定しているとおりに)ので、他者が「私」を主体としての用法で使うことはもちろん完全に有意味である。しかし、それは自分の場合と同じこと(形式としては同型のこと)があちらでも起こっているという仕方で捉えることによって以外にはそもそも理解不可能であろう。これはもともとがヨコ問題なので、あちら側に存在する別の「しかなさ」を作り出す方法はこの方法(ヨコのものをタテにする方法)以外にはありえないからである。「私」の主体としての用法を他者に許容する世界像を作り出すには、ヨコ的事実に基づいてタテ的事実を(超越論的に)構成する以外の方法がないと思われる。

15 しかし、もし現実にそのように区切れているのだとすれば、そのことから別の問題が持ち上がると感じる人も多いはずだ。だれとだれとのあいだにもそのような開闢的な断絶が存在するなら、そこに高次元の並列性が成立し、その高次元で並列的に複数存在する独在性と、それらのうちでさらに唯一現実に存在する独在性との区別が生じることになるが、その違いはいったいいかなる根拠によって生じるのか、と。これは、時間の問題でいえば、各時点における現在(過去において本当に現実に存在した現在と未来において本当に現実に存在するであろう現在)と、現に現実に存在している現在との区別に対応する。

16 この区別の問題は、過去において本当に現実に存在したのか、未来において本当に現実に存在するのか、という懐疑論的な問題とは別の問題である。そちらの問題の答えがどうであれ、この問題(時間の問題でいえば各時点における現在と現実の現在との違いの問題)はやはり存在しつづけるだろう。しかし、本当は存在しない場合には、いま提起されている存在論的問題が従来の懐疑論的問題に吸収されてしまうということが起こりうる。私である人と私でない人(他人である人)の二種類の人の存在という存在論的に興味深い問題が他人のほうはゾンビかもしれないという(実際にそうでありうる)さして興味深くない問題と混同され同一視されてしまうからである。だから、その意味ではむしろ、他人たちも想定通りふつうにその仕方で区切れて存在していたほうがよいのだ。そのほうがその場合にもなお問われうる存在論的問題に焦点が当てられやすいという意味において。

17 前々段落で提示したように、だれとだれとのあいだにも開闢的な断絶が存在するという高次元の並列性が成立するとすれば、そこで提示したように、その並列の外部からさらに唯一現実に存在する開闢者の存在の問題が提示されざるをえないとはいえ、それとは別に、その高次元性の本質からして、並列性はその内部からも破壊されざるをえない。なぜなら、高次元において並列的な世界開闢者たちはみなすでにして、その外部からいきなり無理由に介入するはずの唯一現実に存在する開闢者の概念的な反復であるのだから、すでにその想定の段階において、並列的なあり方を拒否するという意味を内に含んでいなければならないからである。世界そのものは客観的に存在しているとしても、その表象のされ方はそれぞれが他を圧して完璧に唯一的であるというあり方をせざるをえない。それだからこそ、それらはみな誤同定の可能性を概念的・絶対的に免れることができるのである。すなわち、世界は本質的に分裂的なあり方をしていざるをえず、しかもその分裂の意味そのものが概念的と現実的の二様の意味を帯びざるをえないことになって、したがってまた誤同定の不可能性のもつ意味もじつは二種あることにならざるをえないはずである。私が私を意識するとき、この二種の誤認不可能性が輻輳していることになる**。 

*「世界は事実としてここからしか開けていない(そういう世界しか事実として与えられていない)。そして、開けそのものであるそういう(変な)人が現実に一人いる。(そして、世界は、原理的にも、そういうあり方しかできない。)」というように。 

**これは「デカルトの二重の勝利」(『世界の独在論的存在構造』の第6章の表題)に対応しているであろう。

18 だから、この状態はそれを外から眺めて一枚の絵に描けるようにはできていない。そういう意味では、世界は実在しないといえる。ただしこれは、マクタガートが時間は実在しないと言ったその意味に於いてである。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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