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GEIDO試論 熊倉敬聡

GEIDOとしての経済へ(2)――マネーの生態学的転回に向けて:マラルメからブロックチェーンへ

 

芸術から瞑想へ

 

 全能なる「ほとんど無」に、無意識の深奥から取り憑かれてしまった人間たちが、それをなぜか限りなく増やそうと血で血を洗う競争・闘争を世界中で繰り広げる経済システム=資本主義。この人類史的異様さに早々に気づき、そのさらなる拡大を阻止し、さらにはその構造的自壊を煽り、それを「止揚」するオルタナティヴな社会システム、国家を創ろうとした数多くの思想家・活動家たち。彼らは、いわゆる「社会主義」、「共産主義」社会の創造を目指したが、それは、例えばロシア革命前後の政治的アヴァンギャルドと文化的アヴァンギャルドの奇跡的な共振を短期間もたらしたものの、たちまちの内に、むしろ〈原国家〉による剥き出しで野蛮な再切断による復讐に会い、みるみるうちに超コード化され、そのオルタナティヴで革命的な流動性の息の根を止められた。そうして、「国家社会主義」や「社会主義共和国連邦」などといったイデオロギー的に換骨奪胎した空疎な呼称とともに、ファシズムがヨーロッパ、さらには非欧米諸国をまで蹂躙することになる。

 なぜ、社会主義ないし共産主義による資本主義の「止揚」はかくも無惨な結果に終わったのか。その理由を探る諸説はもちろんあるが、私は最も大きな理由の一つとして、その「止揚」を、単に政治・社会・経済制度の変革だけでなく、「心」の変革にまで及ぼすだけの精神性が涵養されていなかったことにある、と見ている。かくも人類の心の奥深くまで沁み渡ってしまった〈金=原国家〉の全能なる輝き。その無意識的眩暈から目覚め、祓い、心を解き放つには、単なるイデオロギー教育といった「意識」の操作・啓発だけでは到底不可能だった。一方、マラルメは、その〈金=原国家〉の悪魔払い、そしてもう一つの「真正なる」輝きを人類にもたらす「務め」を果たす者こそ、〈詩人〉であると考えていた。

 

まるで、別な名誉(鋳貨の放つ光もその一部だ)を目指して、いかにも、閃光が力を振るっているかのよう――少なくとも、ある人物が、一人離れて、吟味し、理由を尋ね、光が追ってこないかどうかみるために、可能な限り、逃げなくてはならぬ。自らを賭した実験者は、かくして、真正なるものを打ち立てる。かくの如き場合、すなわち、あいだに群衆をはさまず、直に自分から神〔=金〕に働きかけるとき、残滓たる貨幣を通して、神に、エッセンスたる思考を認めさせる以外、何かやり方があるだろうか。――そうすれば、皆は、その人物の花押の押された掟のもとで気兼ねなく行動することができるだろう。

この務め―― 

誰のもの――
〔…〕
〈詩人〉、ないし純粋なる作家が、才能は措いて、その仕事を受け持つ。
〔…〕
欠かすことのできぬ、一握りの共通の金属〔=鋳貨〕は、それで生きていくことを考えるより以前に、職業上、聖なる軽業師〔=詩人〕として、自分の芸を成し遂げる、つまり、金の狡智を試練にかけるのに役立つのだ。註1

 

 マラルメ自身、その「務め」のために、〈書物〉(Le Livre)という、人類を〈金=原国家〉から解放し、それが無意識の中で抑圧していた「真正なるもの」のもう一つの輝きを人類にもたらす〈詩〉であると同時に〈演劇〉でもあるような一大プロジェクトを企てていた。私は、マラルメの死後、わずかに残された二百枚余りのメモ、そして『ディヴァガシオン』に収められている諸テキストから、そのプロジェクトを不完全ながらも、先述の博士論文、そしてさらに修士論文註2で再構成してみた。が、マラルメ自身、そのあまりの思想的・美学的遠大さゆえ、そして何よりも彼自身の尚早の死により、そのプロジェクト、〈詩人〉の「務め」(「火曜会」という、マラルメが主催し、当時のヨーロッパの芸術的選良が集った、いわばこのプロジェクトの潜在的「準備室=サロン」註3、そして〈書物〉の一「試作品」ともいうべき『骰子一擲』を除き)をほとんど実現することなく、この世を去ってしまった。

 はたして、マラルメが言うように、この「務め」は〈詩人〉だけが果たすべきものなのだろうか。私には、次第にそう思われなくなってきた。確かに、「ヨーロッパ」という文脈の中にしかいなければ、〈金=原国家〉からの心の解放は、詩を含めた「芸術」という精神的作業に求める他ないだろう。しかし、はたして芸術は、マラルメ以降、マラルメが企図していたような心の解放、そしてもう一つの光輝の到来を実現しえたのだろうか。前著『藝術2.0』で詳述したように、私には、その作業が中途に終わったどころか、逆に昨今では、〈金=原国家〉の最も従順な(しもべ)にさえ成り果てている様を、アートマーケットの空前絶後の盛況の中に見たのだった註4

 では、「芸術」以外に、〈金=原国家〉から真に解放される営為はあるのだろうか。その営為こそ、瞑想なのではないか、と私はある時気づいた。なぜなら、瞑想とは、あらゆる「業」、無意識の固着から、心身を脱−執着する、「解脱」する、とりわけすぐれた技だからだ。

 そこで、私は、瞑想を始めた。その体験、苦悩、悦びを、『汎瞑想』という小論註5に綴ったりした。さらに、瞑想という心身の変革を、自らの孤立した実存の探究に終わらせることなく、真に新しい経済、社会の在り方に理論的に接続するために――ちょうどマックス・ウエーバーがプロテスタンティズムを、資本主義を生んだエートスと捉えたように――、『瞑想とギフトエコノミー』註6なる著作で、両者の共創作用を考究した。その理論的冒険の詳細は、同書に当たってもらうとして、ここでは、まず、そうした瞑想とギフトエコノミーの理論的探究と同時並行して実践していた「ギフトサークル」というワークショップの仕組みと意義について語りたい。

 

ギフトサークル

 

 「ギフトサークル」とは、アルファ・ローが2000年代初頭に考案し、その仲間たちがアメリカ西海岸を中心に広めていったとされるワークショップである。やり方は、ごくシンプルだ。一部屋に10〜20人程度の人が円く座る。そしてまず、各自が今必要としているモノ・コトなど(「Needs」)を一つ二つ順番に言っていく。次に、今度は、各自が今他人(ひと)に贈りたいモノ、してあげたいコトなど(「Gifts」)をやはり一つ二つ順番に言っていく。そして最後に各々のNeedsとGiftsがマッチしたら、当事者同士が連絡先などを交換し、後日実際に贈ったり贈られたりする。

 この、一見ごくシンプルなワークショップを、私なりの「瞑想とギフトエコノミー」の文脈の内で徐々に変奏し、各地で(京都、東京、上田、前橋、鈴鹿など)実践していき、その経済的・思想的意義を見出していった。以下、改めて、本論「GEIDOとしての経済」において、その意義を再確認するために、日常的な資本主義的「交換」と比較して論じたい。

 日常の経済活動において、資本主義的交換は、主に「生産」と「消費」の場面で行われる。まず、「生産」の場面では、生産者は、あるモノかサービスを社会のために生産するのと引き換えに、何がしかの貨幣を受け取る。が、資本主義社会では多くの場合、生産者が生産するモノないしサービスは、その人が「今ここ」で本当に作りたいモノ、やりたいサービスではなく、逆に生活に必要な何がしかの貨幣を得るために、本来の欲望に反して不本意に行っているものであろう。

 そうして、自らの欲望に反して不本意に行った生産活動と引き換えに得た貨幣を、その者は、今度は「消費」の場面で、自分の生活に必要なモノ・サービスを得るために、それと引き換えに支出する。その時、その者が買うモノやサービスは、一見自分が「今ここ」で欲しているモノでありサービスであるように思われる。がしかし、はたして本当にそうと言い切れるだろうか。そのモノやサービスを欲する――と自分が思い込んでいる――欲望は、実は前もって様々なメディア、とりわけ広告産業によって作られ、消費者の心に仕込まれた「欲望」なのではないか。フランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールがその消費社会論で鮮やかに描き出したように。そしてもちろん、その「欲望」を直接的・間接的に(広告などを使い)作り出した企業が、消費者の支払った貨幣の幾ばくかを利益として取得するのである。

 この資本主義的交換に比して、ギフトサークルにおいて起きていることはどう違うのだろうか。そこでもやはり、人と人の間に、モノやサービスのやり取りが生じる。サークルの中で、各々の人は、自分が今欲しているモノ・コトを表明する。その「欲望」は、サークルが「カジュアル」に進行される場合には、ほんの思いつきであったり、あるいは資本主義的消費と同様、何らかの「広告」によって前もって刷り込まれた欲望かもしれない。しかし少なくとも、私は、このワークショップを実践していく過程で、徐々に瞑想を取り入れていき、各自Needsを表明する前に、数分程度だが瞑想の時間を設け、しかるのちに自分が「今ここ」で(単なるカジュアルなNeedsではなく)本当は何をしたいか、あるいは他人(ひと)から何をしてもらいたいか、本心に直に問いかけて、場合によってはなかなか言語化しづらい〈欲望〉を、舌足らずでもいいから何とか言葉で(場合によってはイラストなどで)表してもらい、伝えてもらうよう促した。また、Giftsの方も、同様に、しばし瞑想の時間をとったのちに、今ここで本当は他人に何をしてあげたいか、何を贈りたいか、心に深く問うてもらい、その心奥から湧いてくる〈欲望〉を伝えてもらうようにお願いした。そして、実際、ある人の何かを受けとりたい〈欲望〉と、何かを贈りたい〈欲望〉――両者の一方が表明されていず潜伏していてもよい――が共鳴すれば、そこに現実的なモノ・コトの、人から人への移動が生じる。だが、その「移動」は原則的に一方通行であり、「ギヴ・アンド・テイク」、「交換」ではない。それは、他人から受けとりたいという〈欲望〉と、他人へ贈りたいという〈欲望〉がたまたま出会った、まさに一期一会に他ならない。もし、ある人が何かを贈りたいと思っても、それを受けとりたい人が今ここのサークルにいなければ、また逆に、何かを受けとりたい人がいても、それを贈りたい人がいなければ、決して起こりえない、それは一期一会である。九鬼周造が『偶然性の問題』で闡明した「偶然性」の核心――「偶然性は『この場所』『この瞬間』における独立なる二元の邂逅として先端の(あやう)きに立って辺際なき無に臨むものである。」註7――こうした純粋な偶然の邂逅という、唯一無二の出来事が生起する、そうした場がギフトサークルなのである。

 私は再三、前著『藝術2.0』以来、GEIDOの要諦の一つは、「いびつなV」が歓待しあう「いびつな○」にあると述べてきた。ギフトサークルもまた、まさにその「いびつな○」の一つのヴァリアント、「経済的」なヴァリアントと言えよう。

 

聖なる経済学

 

 私は、ギフトサークルを調べる途上で、チャールズ・アイゼンシュタイン著『聖なる経済学』註8に出会った。この本は、私のギフトエコノミーと瞑想との共創関係への探究を後押ししてくれるヴィジョン、提案、問題提起に満ちていた。

 この書の狙いをまず確認しよう。序文註9は次の一文で始まる。「本書の目的は、マネーと人間の経済を、宇宙に存在するあらゆるもの同様、聖なるものにすることである。」しかしながら、現在、マネーは「俗なる」ものの最たるものとみなされている。「聖なる経済学」は、したがって、現在のマネーの在り方を根底から覆すような変容をもたらし、新しいマネーと経済、そしてそれに伴う人間のアイデンティティの変貌をもたらすものになるだろう、とアイゼンシュタインは宣言する。

 ところで、彼によれば、3000〜4000年前から、神々は、湖、森、川、山などから天空へと移り住み、全能の〈神〉となって、この世の全てに介入し、君臨してきた。ところが、現在では、皮肉なことに、この全能の〈神〉に最も似ているのがマネーなのである(マラルメとドゥルーズ&ガタリの〈金=現国家〉を思い出そう)。今やウオール・ストリートというオリンポス山の高みにいる「宇宙の主人たち」(=トレーダー)は、文字通り、山を動かしたり、川の流れを変えたりして、世界を意のままにしているのである。だから、アイゼンシュタインは、世界を、まだ物質と霊性が分離していなかった古の時代に戻したい、俗なる貨幣に聖性を取り戻させたいと言う。

 ところで、「聖なるもの」とは何だろうか。それは、彼によれば、二つの側面、すなわち「唯一性」と「縁起性」をもつと言う。「聖なるものあるいは聖なる存在とは、特別で、唯一で、他に類のないものである。したがって、それは、限りなく貴いものであり、他に代えがたいものである。〔…〕唯一なものでありながらも、聖なるものはまた、それを作りなすあらゆるもの、それが依ってきたったもの、そして森羅万象のマトリックスのなかでそれが占める場所と分かち難く結ばれてもいる。」だから、聖なるものは、より根源的な世界、唯一なるすべてのものが縁起している世界への入り口であり、そのしるしなのである。

 本書が描き出す「聖なるマネー」、「聖なる経済」とは、森羅万象の唯一性と縁起性を具現するマネー・経済であり、人々のギフトを人々の必要につなげる媒介となるマネー・経済に他ならない。

 そして、アイゼンシュタインは、序文をこう終える――こうしたヴィジョンは、あまりに理想主義的で実現不可能ではないかと、私の「頭」はささやくが、でも「私の心は、こうした美しい経済・社会が実現可能だということを知っている。〔…〕私たちはこんなにも傷みつけられているからこそ、聖なる世界を希求するに値するのだ。」

 確かに、「理想主義的」と言われても仕方のないほどの、ある種希望に満ちた記述である。そして、やや安易な「伝統回帰」的記述や、逆に「黙示録」的記述が散見されることも否定できない。さらに、この最後の一文にあるように、(おそらく「ヨーロッパ」的知性では、知的論述に使うのを大いに躊躇われるであろう)「美しい」という形容詞の使用も(「正しい」と並んで)以後頻繁に行われる。こうした論述方法の弱点を抱えながらも、なお、『聖なる経済学』は、資本主義を超える“もう一つの”経済・社会と精神性をつなぐ、いたって示唆的な提案、ヴィジョンを数多く提示してくれる。本論では、この浩瀚な書の全貌を紹介することはできないが、「GEIDOとして経済」と強く響きあう特にその第2部と第3部の諸部分に焦点を当て、以下検討してみたい。(ちなみに、第1部は「分離の経済学」という副題とともに、これまでの貨幣と経済の歴史と問題点、そして資本主義的文明=「分離」の時代・物語の危機について主に語る。)

 

「思春期」から「成人」へ、「分離」から「再結合」へ

 

 アイゼンシュタインは、現代を、何よりも人類が成熟するための「試練」の時代、「思春期」から「成人」へと変容する時代と捉える。終わりなき「成長」、「上昇」の物語から、「定常」、「脱成長」の物語へ、「分離」の時代から「再結合」の時代へと、人類が「イニシエーション」の試練を経験しつつある大変容期であると見る。

 

私はこの物語を「〈人類〉の〈上昇〉」と呼ぶ。それは、終わりなき成長の物語であり、そして今日我々が使用しているマネーのシステムこそがこの物語の具体的現れであり、そのシステムこそが自然の領域を人間の領域に変換することを可能にし推進してもいるのである。その物語は、何千年も前、人類が火を飼い慣らし、道具を作り始めた時に始まった。以後、その物語は速度を増して行き、人類は、動物や植物を飼い慣らすためにこれらの道具を用い、野生の世界を征服し、世界全体を自分たちのものとした。そして、その物語は、〈機械〉の時代に栄光の絶頂に達し、完全に人工的な世界を創造し、自然のあらゆる力を動員し、人間は自分たちが自然の主人であり占有者であると思い込んだ。そして今や、この物語が終焉を迎えつつあるとともに、それが正しい物語ではなかったという認識が動かし難いものになってきた。〔…〕人生が思春期で終わることがないように、文明の進化もまた成長の終焉と共に終わるわけではない。我々人類は、思春期から成人へと移り変わるように、変容の真っ只中にいる。註10

 

 「成長・上昇」の時代・物語はまた「分離」のそれでもある。人と物とが分離し、人と人とが分離する。人間は己が終わりなき成長のために自然を征服し陵辱し搾取する。人間と人間とは己が富を他者よりもそして今の自分よりも少しでも増やさんがために競争し闘争する。その時代・物語の中では、マネーは何よりも「高利貸しのマネー」であり、「私の分が増えればあなたの分は減り」、豊かさとは富を「貯め込む」ことに他ならない。

 それに比して、「再結合」の時代においては、豊かさは富を振る舞う「気前よさ」にあり、「あなたの分が増えれば、私の分も増える」のであり、人と物、人と人は互いに分離する代わりに、各々の唯一性において再び縁起しあい、その縁起の媒体こそが「聖なるマネー」の使命となる註11

 アイゼンシュタインは、この再結合の時代における「聖なる経済・マネー」の実現を、単なる理想主義的な夢物語に終わらせることのないよう、先進的事例や実験を参照し、あるいは批判しつつ、具体的な「ロードマップ」を描き出そうとする。そのマップは、以下の七つの視点から描かれる。1)マイナス金利通貨、2)経済的地代の廃止と資源の枯渇への補償、3)社会的コストと環境的コストの内部化、4)経済とマネーのローカリゼーション、5)社会的配当、6)経済の脱成長、7)ギフト文化とP2P経済学。

 これら七つの要素は、様々な撚り糸が一枚のタピストリーを織り上げるように、「聖なる経済」という物語を織り上げていくだろう。それは「新しい〈人々〉の〈物語〉であり、究極的には、我々人類は〈地球〉のパートナーでありたいという願いの現れであり、森羅万象がそれぞれ唯一性において縁起しているという精神的な気づきであり、それこそが私が『聖なる経済学』と呼んできたものの根底をなすのである。」註12

 

マネーの変容

 

 ところで、現代、すなわち人類の「思春期」から「成人」への大変容期にあって、マネーもまた大きな変容を遂げていく。おそらく、アイゼンシュタインは、人類がこの「イニシエーション」を経て「成人」となった暁に実現するであろう真に「聖なる経済」においては、もはや(ギフトサークルのように)マネーという媒介は必要でなくなり、ギフトのみが人と人、人と自然との間を絶えず循環するというヴィジョンをもっている。しかし、それまでのトランジション=イニシエーションの時期においては、(既存の)マネーが「聖なる」それへと過渡的にメタモルフォーゼすると捉えている。例えば、この過渡期=変態期にあって、アイゼンシュタインも言うように、投資(investment)の意味・在り様も当然変容する。

 投資=investmentは、語源的には(ラテン語の「in(中に)」、「vest」(服)に由来する)、「服を着せる」ことを意味するように、マネーにもどんな服を着せるかで、investmentの意味合いも大きく変わりうる。今日まで、人々は、自らの富を増やし蓄積するために投資してきた(マネーに「資本主義」的な服を着せてきた)が、マネーには全く違う「服」を着せることもできる――すなわち、私腹を肥やすためでなく、自らの余剰の富を他者にシェアするため、ギフトするために用いる=投資することも可能なのだ。その「聖なる投資」の相手は何も人間に限らない。マネーは森を丸裸にする伐採機材を購入することにも使えるが、同じマネーを森の保全のためにも使えるのだ。前者の投資がマネーの「創造」(マネーがマナーを生む)だとすれば、後者のそれは、マネーの「破壊」(マネー自体の「蕩尽」)となろう。アイゼンシュタインは提唱する――自然的・社会的・文化的・精神的コモンズを守り修復するために、マネーを投資=破壊せよ、と註13

 アイゼンシュタインはまた、聖なる経済に向けて、マネーは、プラスの金利を纏いつづけるものから、金利を脱いでいく、すなわちマイナス金利のマネーへと移行していくであろうと説く。自然界のあらゆるものが劣化し腐敗し朽ち滅んでいくのに対し、これまでマネーだけが、あたかも自然界の法則から免れているかのように、劣化も腐敗もせず、その「超自然的」な定在を保持するのみならず限りなく増やしてきた。しかも、その超自然的な定在の増殖・蓄積のために、自然界を搾取し凌辱してきた。これからのマネーは、自然の森羅万象同様、「腐り」、「滅んでいく」ものでなければならないだろう。つまり金利がマイナスになる、価値が減る、自らが自らを滅していくようなマネーとなるだろう。アイゼンシュタインは、この「腐るマネー」の先駆者シルビオ・ゲゼルの「フリーマネー」や、他の歴史的事例を援用しつつ、この「腐るマネー」=マイナス金利マネーの可能性を探る。

 ある一定期間使わなければ価値を減じていくならば、人々は決して退蔵することはありえず、むしろいち早く使う、すなわち自分のマネーを他者に渡そうとするだろう。そうすれば、マネーは、人と人とを分断し、金利の蓄積へと向かう代わりに、人から人へと絶えず流れ循環していく、再結合=縁起の媒体となりえよう。それは、究極的には、「私の富はあなたの富」というメンタリティ、すなわち「ギフト」の精神を育むことになろう、とアイゼンシュタインは見てとる註14

 人類の「変態」期にあって、マネーはこれまでとは全く違う「服」を身に纏い、というよりむしろ「服」を脱ぎ捨てつつ、自らを「腐らせ」、「滅して」いきながら、ついには「マネー」なき経済、純粋に「ギフト」のみで成り立つ経済、すなわち真に「聖なる経済」が到来するであろう、とアイゼンシュタインは予告する。なぜなら、マネーには、それがいかに他の「服」を着ようと、あるいは「腐ろう」と、「計量化」してしまうという宿命があるからだ。ところが、人間にとって幸福をなすほとんどの事は本質的に「計量化」できない、「質的」なものである。マネーは(いかに美しい服を着ようが腐ろうが)マネーである限り、その幸福の価値を「数量」的にしか表現できない。だから、真に「聖なる経済」は、究極的にはいかなる種類のマネーも介在しないような経済、純粋なギフトエコノミーとなるであろう、とアイゼンシュタインは予言する。しかし、そこまで行くには、まだまだ経なければならない道程がいくつかある。その中でも、私から見て最も独創的と思われる、一つの仮説・ヴィジョンを次に検討してみたい。

 その仮説・ヴィジョンとは、「コモンズに裏付けられたマネー」に他ならない。でも、どこが「独創的」なのか。

 

コモンズに裏付けられたマネー、あるいはマネーの生態学的転回

 

 前述したように、人類が発明したマネーは、これまである中央集権的な権力(領主、国王、国家など)がその価値を裏付けてきた。そして、マラルメとドゥルーズ&ガタリを援用しながら論じたように、それは究極的には(それら具体的な権力も依拠する)〈金=現国家〉の全能なる権力によって裏付けられていた。ところが、アイゼンシュタインがここで提唱する「コモンズに裏付けられたマネー」とは、そうした超自然的で超越的な権力のいわば対蹠点にある自然の共有財(コモンズ)(土、水、空気、地下資源、森など)、そして人類自らがこれまで創造してきた文化的・技術的共有財に価値の根拠を置くマネーである。

 その新たな生態学的・文化財的マネーは、アイゼンシュタインによれば、ある「政府(government)」によって運営されることになる。だが、この「政府」は、既存の国民国家的政府ではなく、「権力が分散的で、自己組織化し、創発的で、ピアツーピア的で、生態環境も統合した政治的意志の表現」註15としての政府である。そうした新しい「政府」が、その土地と文化圏のコモンズを受託し管理・運営する者(trustee)となる。そして、「政府」は、その自然・文化圏で生活する人々がどれくらいのコモンズをどのように必要としているかに基づき、その必要を満たすだけのお金を発行する。

 

これほどまでに貴重で、神聖で、「価値ある」これらのもの以上に、貨幣システム――価値の物語――の基礎となるべきものがあるだろうか。だから、聖なるマネーの供給の一部は、我々が共同して世話するこれらのものによって「裏付けられる」であろう。それは、以下のように機能するはずだ。まず、皆で民主的に話し合いながら、どれだけの天然資源を自分たちの目的のために使用するか、その適正な量を決める。どれくらいの海産物、土壌、水を使うのか。大気はどれくらいまでの廃棄物を吸収・転化できるのか。大地は鉱物の採掘の傷跡をどれくらいまで修復できるのか。化石燃料や原鉱石やその他の地球からの贈り物をどれくらい使うのか。自然の静けさをどれくらい機械の騒音の犠牲にするのか。夜空をどれくらい都市の灯りのために犠牲にするのか。註16

 

 そして、より具体的には

 

我々のマネーの価値は以下のものに依拠する――ニューファンドランドの漁場における30万トンの鱈を漁獲する権利。オガララ帯水層から月に3000万ガロンの水を採水する権利。100億トンの二酸化炭素を排出する権利。20億バレルの原油を採掘する権利。電磁スペクトルのXマイクロ波帯域を使う権利…。註17

 

 こうして生態学的・文化財的に裏付けられたマネーは、では具体的にその自然・文化圏の中でどのように循環していくのか。

 

地方政府は、警察官、消防士、清掃員などに給料を支払う。彼(女)らの一人は、その給料を、食料品、電気、あるいは車の新しいトランスミッションを買うための支払いに使う。その食料は、ある農場から来たものだが、その農場は、地元の帯水層から年30万ガロンの水を汲み上げる権利のために支払っている。そしてその支払いは、コモンズの該当部分を管理する地方政府に行く。註18

 

 したがって、生産者がより多くのお金を支払うということは、その生産者がより多くの資源を消費していることを意味する。逆に言えば、生産者はより多くの資源を消費すれば、より多くのお金を政府に支払わなくてはならなくなる。

 

もし我々が、地下に眠っている原油や、山に埋まっている金や、原生林をマネーの裏付けとしたなら、どうなるのか。そうしたなら、それらの価値も上げ、それらをもっともっと多くしたいと思わないだろうか。そのメカニズムにまったく神秘的なところはない。もしあなたが、原油採掘の全環境コストを払わねばならないとしたら、あなたは原油を採掘しないで済む方法を念入りに探そうとするだろう。もしあなたがすべての汚染に対して支払わねばならないとするなら、あなたは汚染量を減らそうと努めるだろう。註19

 

 だから、この新たなマネーは、単に生態学的コモンズにその価値を裏付けられるのみならず、経済が合理的に循環すればするほど、そのコモンズを豊かにすることにつながるようなマネーなのだ。しかも、もしこの生態学的マネーにマイナス金利の「服」を着せ、「腐る」ようにするならば、「富」の滞留・蓄積は生じず、絶えず富の偏在は解消されつづけ、マネーはますますコミュニティを循環することになる。

 マネーの「生態学的転回」――私たち人類は、〈金=原国家〉の肖像を刻印される代わりに、水の、魚の、森の恵みを贈りあうことになろう。

 

暗号通貨の「透明性」

 

 こうして、人類の「成熟」=「変態」とともに、マネーもまた根源的に変容していく。だが、先述したように、そしてアイゼンシュタインも指摘していたように、人間の幸福を成すほとんどのことは「質的」なものであり、決して「量化」されえない。それがどんなマネーであっても、たとえ「生態学的に転回」した貨幣であっても、その「量」に還元しえないものだろう。だから、「質的」のものだけを贈り合うとすれば、究極的には(ギフトサークルのような)純粋な、すなわちいかなるマネーも介しないギフトエコノミーの形を取らざるを得ないだろう。だが、ここで問題が生じる。だとしたら、経済がギフトエコノミーに「純化」すればするほど、純粋に「質的」なものの贈り合いに限定されればされるほど、その経済圏は必然的に「狭い」、「閉じられた」ものにならないか。アイゼンシュタインの夢想する「ギフトエコノミーへのトランジション」(16章の表題)は、結局、限定された人数と広がりしかもちえない贈与のコミュニティが地球上に無数に併存するような状況しか生まないのではないか。

 そのような状況を克服するために、アイゼンシュタインは「サークルのサークル」という、ギフトサークルが入れ子状に大きくなったり小さくなったりするモデルを夢想することになる。

 

それぞれのサークル内の人々は、そのサークルの中で互いに贈り合うことができる。そして各サークルは、一つに統合されたものとして、より大きなサークルの中で、他の〔小さい〕諸々のサークルに贈ることができる。そしてこれらの諸々のサークルも他の〔大きな〕サークルの〔小さい〕サークルに贈ることができる。このヴィジョンは、社会の根源的な再組織化(ボトムアップ、ピアツーピア、オートポイエーシス、自己組織化)を孕んでいる。註20

 

 ところで、この入れ子状の「サークルのサークル」、小さいローカルな無数のサークルをつなぐのに、しかも中央政府の発行する法定通貨に頼らずにそうするのに打って付けの媒体こそ、ブロックチェーンに基づく暗号通貨ではなかろうか。事実、この『聖なる経済学』の再版(2021年)――初版は2011年――で主に書き足された部分は、まさに暗号通貨に関してのそれだ。

 アイゼンシュタインは、暗号通貨をどのように見るか。まず、彼は、暗号通貨をビットコインに代表させるが、彼の知る限り、ビットコインを現実の商取引、すなわち物の売り買いに使う人はまずいない。ビットコインの所持者たちは、主に投機目的で所持するのであり、仮に商取引に用いるとしても、その多くはいかがわしいウェブサイトでドラッグ、児童ポルノ、兵器、不正入手した個人情報を売るためだと言う註21

 しかしながら――と、アイゼンシュタインは続ける――、ビットコインのような「メジャーな」暗号通貨は、そうした使われ方しかしないが、「マイナーな」暗号通貨は、「聖なる経済学」にとって鍵となる提案を実行しようとしている。例えば、自然環境による「裏付け」、マイナス金利、広範なベーシックインカムなどだ。

 そして、さらに「聖なるマネー」の可能性を強く感じさせる暗号通貨の特徴として、アイゼンシュタインは何よりもその技術的・構造的「透明性」を挙げる。

 

こうしたことが可能になるには、まず何よりも透明性が必要とされる。政府が人民にとって透明になり、経済制度もまた万人にとって透明であらねばならない。暗号通貨は、匿名ないし偽名で使えるよう作られていて、透明性に反しているようにみえるかもしれないが、しかしその帷の後ろからまた別な可能性も垣間見えてくる。中央準備銀行システムとちがって、ブロックチェーン上のすべての取引は誰でもがいつでも見えるようになっている。確かに取引の当事者たちは匿名であるかもしれないが、取引それ自体は誰にとっても明瞭なのだ。それぞれの暗号「財布(ウォレット)」にそれ独自の身分証明を付与することもそれほど難しいことではない。註22

 

 こうした技術的にも構造的にも「透明な」暗号通貨によって、真に「透明な」社会がもたらされるだろう。「中央にある一つの目が他のすべての人々を監視するのと違って、政府自身も含めた万人が、万人にとって透明たりえる社会となろう。」註23

 我々は前回、剰余価値=資本が、そもそもいわゆる「資本主義」誕生のはるか以前に、「鋳貨」の発明に淵源し、それが何よりも発行者(領主や国王など)と使用者(民衆)との、鋳貨をめぐる視線の不均衡(前者は剰余価値を「見透す」ことができ、後者はできない)にあることを明らかにした。ブロックチェーンと、それを技術的に用いた暗号通貨が、マネーとして真に「革命」的なのは(他の多くの技術的革新に加えて)マネーの創造が、それに参画するすべての者にとって同等に「透明」である点だろう。すなわち、ブロックチェーンの構造的透明性からは、本来「視線の不均衡」は生じえず、したがって剰余価値=資本の創造がなされえないはずなのだ。ところが、ビットコインのように、暗号通貨が投機的に使われてしまうのは、我々がいまだ暗号通貨のマネーとしての真の「革命性」に十全に気づけず、旧来のマネーのマインドでしか用いることができないためではなかろうか。だから我々は、ブロックチェーン=暗号通貨の「メジャーな」=非本来的な使用法から「マイナーな」=本来的使用法にシフトチェンジしなくてはならない。そうすれば、ブロックチェーン=暗号通貨は、小さいローカルな無数のギフトサークルを「透明に」つなぎうるインターローカルなメディアになりうるだろう。

 我々は、GEIDOとしての経済に向けて、アイゼンシュタインよりもやや先走ってしまったが、アイゼンシュタイン自身は、この再版・増補された『聖なる経済学』において、暗号通貨について、その技術的・構造的透明性がもたらしうる経済的・社会的透明性以上に、残念ながら論を展開していない。しかし、私自身は、暗号通貨の内に、GEIDOとしての経済を具現化しうるさらなる可能性・潜在力を感じ取っている。以下(私自身、技術的に素人ながらも)その可能性・潜在力について私論を展開してみたい。

 

マネーとしての革命性

 

 そもそもブロックチェーン、そして技術的にそれを基礎とする暗号通貨ないし仮想通貨のどこがマネーとして「革命的」なのか。

 この世界、中でもこれから検討するトークンエコノミーの世界で「エバンジェリスト」の一人と自認する川本栄介の解説をまずは聞くとしよう。

 彼が、ブロックチェーン、そして仮想通貨の特徴として挙げるのは次の五点だ。

① マイクロペイメント(超少額決済)

 日本円による銀行口座取引には108円以上の手数料がかかり、海外送金ともなればさらなる手数料がかかるのに対し、仮想通貨のそれはいたって少額だ。例えばXRP(リップル)のウォレット間の送金手数料はわずか0.043円だ(現在は無料)。

 この、仮想通貨の超少額決済によりこれまで不可能だった、例えば「一万人のユーザーから100円ずつ」集めるマネタライズ・モデルが可能となる。

② 即時的な支払い

 日本円で口座振込を行った場合、それが15時以降だったならば、入金確認は翌朝にしかできない。ましてや海外送金ならば、さらなる時間がかかるのに対して、仮想通貨の取引は瞬時に成立するために、例えばXRP(リップル)ならば、わずか3秒で送金できてしまう。

 自らの経済行為の見返りが時をおかずしてなされるなら、その経済主体(個人事業主から大企業に至るまで)のモチベーションとパフォーマンスも大いに変わりうるだろう。

③ 耐改ざん性の高い極めて強固なセキュリティ

 仮想通貨の各取引情報は、連続したブロックに納められていて、かつそれらのブロックどうしが緊密な関係にあるため、一つのデータを改ざんするには、それに相関する膨大な、しかも絶えず更新されるブロックのデータも改ざんしなくてはならない。したがってデータの改ざんは事実上不可能であるがゆえに、ブロックチェーンには技術的に絶対的な信頼が生じる。

④ 取引の見える化

 仮想通貨の取引はすべてブロックチェーン上の「台帳」に書き込まれていて、それを誰もが閲覧できる(アイゼンシュタインの言っていた「透明性」)。すべての取引が万人にとって可視化されるがゆえに、不誠実な取引がいたってし難く、したがって「信用」が常に見える化していると言える。

⑤ スマートコントラクト(契約の自動化)

 仮想通貨は、契約から履行への流れを自動化し、第三者的な中間管理者を介さず取引を可能にする。

 以上の、仮想通貨に特徴的な五つの仕組みは、法定通貨によっては実現困難な仕組みであり、そうであるがゆえに、仮想通貨はマネーとして「革命的」なのだ。その「革命性」が真に人類の経済に発揮されるのは、ビットコインのように「投機」目的で使用される時ではなく、「トークンエコノミー」と呼ばれる、特定のプロダクトとサービスに特化した仮想通貨=「トークン」による「小さな」経済圏の実現にこそあると、川本は見る。

 川本は、レシピサイトを例に挙げる註25。レシピサイトは、レシピの投稿者とそれを閲覧し評価するユーザーたちから成り立っているにもかかわらず、たとえレシピが高い評価を得ようが、通常それへの報酬は支払われない。報酬が少額すぎ、手数料と手間に見合わないから支払われない、と川本は指摘する。しかし、それにトークンが用いられるならば、その「超少額決済」という特徴により支払いが可能になり、しかも決済の「即時性」というもう一つの特徴により、投稿者たちの貢献に即座に対応でき、彼(女)らのモチベーションをさらに向上するのにつながるだろう。こうして、レシピサイトに限らず、あらゆるサイトで、法定通貨による経済では経済的に埋もれていた多くのステークホルダーたちが、トークンエコノミーにより顕在化し、相応な報酬を得られるようになる。トークンにより、そうした「小さな」経済圏が無数に誕生するようになる。

 イラストが得意な人たちはイラストのトークンエコノミー、文章を書くのが好きな人たちはライティングのトークンエコノミー…、とそれぞれの人が自分の特性や特技、創造性を自由に発揮できるような経済圏。それは地縁に縛られない“もう一つの”(仮想的)「ローカリティ」とも言える。しかも、一人の個人は、欲望と能力があれば、複数のエコノミーに「複属」し、自らの可能性と潜在力を多方面に繰り広げることができる。こうして、個人の価値が最大化されるとともに、ますます関係する経済圏の活動が活発化し、その価値も高まっていく。真の意味での需要と供給がいたるところで調和していき、各人が「精神的にも物理的にも満たされる経済圏」、そして社会が、トークンエコノミーによって実現する、と川本は人類の未来像を描く。

 

国連開発計画とブロックチェーン

 

 こうした未来像は単なる夢物語なのだろうか。いや、すでにその「未来」は到来しつつあると言えるだろう。ブロックチェーンないし仮想通貨の(アイゼンシュタイン流にいえば)「マイナーな」用法が、「小さい」ながらも国際的な展開をみせている。その代表例が、国連開発計画(United Nations Development Programme)の数々の試みではないか。

 UNDPは、その名も「Beyond bitcoin」というサイト註26で、SDGs達成に向けてブロックチェーンを活用したプロジェクトを六つのカテゴリーに分けて(①金融包摂の支援、②エネルギーへのアクセスの改善、③生産と消費責任、④環境保護、⑤万人への法的アイデンティティの提供、⑥財政援助の効率性の改善)紹介している。その中からいくつかの例を挙げてみよう。

①金融包摂の支援――世界銀行によれば、現在世界には銀行口座を持たず、銀行システムの埒外に置かれた成人が約17億人もいると言う。そこでUNDPのAltFinLabとBitSpark社は、ブロックチェーンを活用したモバイルアプリを開発し、出稼ぎ労働者たちが外国から実家により安く早く安全に送金することを可能にした。

③生産と消費責任――エクアドルでは、カカオ農家のビジネスが相応の収入を得られないがために崩壊の危機に瀕していた。そこで、UNDPのAltFinLabは、アムステルダムのFairChain Foundationと提携し、世界で最初の、ブロックチェーンで価値がシェアされるチョコレートを開発している。消費者は、チョコレートのトレーサビリティを確認でき、価格は、生態系へのインパクトを考慮したフェアな価格になっている。

④環境保護――レバノンでは、毎年960万本もの木が焼かれ、わずかに13%の森林しか残っていない。そこでLive Lebanonというクラウドファンディングのプラットフォームが立ち上がったが、今度はブロックチェーンを活用した新たな「投資」のプラットフォームを立ち上げようとしている。新たに植林されるたびに、CedarCoinというトークンが「投資家」と植林されたコミュニティに配布される。そうして、森林の回復が図られるとともに、環境への意識を高めていく。

⑥財政援助の効率性の改善――UNDPは、その世界規模の業務上、巨額の資金を世界中に供与している。コストのかかる仲介業者を介すことなく、透明性とアカウンタビリティーを保証するブロックチェーンは、そうした資金の供与を安全に行うのに非常に適している。UNICEFもまた、2019年10月に「UNICEF暗号通貨基金」を発足し、暗号通貨によって寄付金を受け、供与するシステムを構築した註27

 こうして、SDGs達成のために、国連主導ですでに上記以外にも多くのブロックチェーン/暗号通貨を活用したプロジェクトが、法定通貨の流通の埒外で、その「メジャーな」用法=投機の彼方で(「Beyond bitcoin」!)、世界中で展開されている。だから、「精神的にも物理的にも満たされる経済圏」そして社会は、トークンエコノミーの一エバンジェリストの単なる夢物語ではなく、今や実現しつつある物語なのだ。

 

「マイナス」の経済へ

 

 ところで、UNICEF暗号通貨基金へ最初に寄付した組織こそ、暗号通貨の最大のプラットフォームの一つ、イーサリアム財団であった。そのエグゼクティブ・ディレクターである宮口あや(礼子)は、あるインタビューで、自らの組織運営について「引き算の美学」に言及する註28。彼女によるイーサリアム財団の運営の理想は、「経営者さえいらない会社」であり、「究極的に目指すのは、イーサリアムを運営する私たち自身がいなくなることなんです」と語る註29。そして、そうした組織運営には、日本的な「引き算の美学」が活きていると言う。

 

イーサリアム・ファウンデーションにいると、意外と、日本人であることがぴったりだと感じます。イベントでよく日本の「引き算の美学」という言葉を使うのですが、いわゆるファウンデーションの在り方とか、分散型の究極を考えていくと日本の「引き算の美学」に落ち着くのです。世の中がもっと大きくなればいいとか、お金がもっとあればいいとか、資本主義的な流れへのカウンターでもあります。註30

 

 私は、宮口のこの「引き算の美学」を暗号通貨の組織運営の方法論のみならず、暗号通貨が創りだす新たな経済の在り方・本質そのものへと接続してみたい。

 アイゼンシュタインは、「聖なる経済」における「豊かさ」は、資本主義の「私の分が増えればあなたの分は減る」という豊かさに対し、富を振る舞う「気前良さ」にあり、「あなたの分が増えれば、私の分も増える」ことにあると言っていた。それをさらに敷衍すれば、聖なる経済、そしてその究極の形であるギフトエコノミーとは、何よりも自分の富が「減り」、その「マイナス」が他人の「プラス」になることを欲し悦ぶふるまいであり、欲望であるのではないか。自らの富を限りなく「プラス」にしたい欲望が資本主義を駆動していた欲望だとするなら、ギフトエコノミーを駆動する欲望は、自らの持てるモノを「引き算」し、それを他者に贈る、が、それへの(少なくとも直接的な)見返りを欲しない、そうした「マイナス」の欲望であり、倫理なのに他ならないのではないか。

 だから、「腐るマネー」、マイナス金利のマネーは、そのマイナスの倫理を人々の心奥に醸すための、過渡的で技術的な方便だと言えよう。私たちは、手元に持ち続けていると「腐り」、価値が減っていくから・・、他人に手渡すのではない。私たちは、自らの持てるモノを「引き」「マイナス」にし、それが翻って他人の「足し」「プラス」になることを欲し、悦ぶからこそ・・・・贈るのだ。

 しかも、そのトークンが(先にレバノンのCedarCoinの例に垣間見たように)、生態的コモンズで裏付けられているならば、それが人から人へと渡り循環していくことそれ自体が、コモンズを保全し、さらに豊かにすることにつながる。そうした「生態学的に転回した」マネーとしてのトークンが、そしてその「小さな」、“もう一つの”「ローカリティ」が、ギフトサークルなどの地縁に根ざしたローカリティと接続する。アイゼンシュタインが夢想した「サークルのサークル」は何も夢物語ではなく、いつでも実現可能な物語なのだ。

 こうした「マイナス」の経済へと人類が「進化」するためには、何よりも前もって「プラス」への執着から解き放たれていなくてはならない。そうした脱執着する精神性が涵養されていなくてはならない。その「解脱」の技法と知恵こそが、瞑想なのに他ならない。ブロックチェーン、そして暗号通貨が、真に「マイナー」な使われ方をするには、それを使う者の実存的・瞑想的「V」の探究が必須とされよう。そうして初めて、「小さな」経済圏は、真の「いびつな○」として生成されることになろう。そうなれば、経済すらもが、GEIDOとなりえるだろう。

 

 

註1  ステファヌ・マラルメ「対決」、『マラルメ全集Ⅱ』、筑摩書房、1989年、333-336頁。(ただし引用は拙訳。)

註2  熊倉敬聡「マラルメの「経済学」:『マラルメの<書物>』の草稿解読の試み」、1991年、慶應義塾大学。(なお、私は、慶應義塾大学文学研究科仏文学専攻修士課程に在籍中に、パリ第3大学ならびにパリ第7大学に留学し博士号を取得し、のち上記修士課程に復学し、修士号を取得したため、通常の学位の順番とは逆になっている。)この修士論文は、のち加筆修正し、以下に再録――熊倉敬聡「『マラルメの<書物>』草稿解読の試み」、『慶應義塾大学日吉紀要フランス語フランス文学』、第15号、1992年、111-160頁。

註3  ゴードン・ミラン『マラルメの火曜会』、柏倉康夫訳、行路社、2012年。

註4  熊倉敬聡『藝術2.0』、春秋社、2019年、第2章。

註5  熊倉敬聡『汎瞑想』、慶應義塾大学出版会、2012年。

註6  熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』、サンガ、2014年。

註7  九鬼周造『偶然性の問題』、岩波文庫、2012年、278頁。

註8  Charles Eisenstein, Sacred Economics (revised), North Atlantic Books, 2021(Kindle版、なお初版は2011年刊). 以下引用は拙訳。なお、この未邦訳の文献の読書会・研究会を、2016年から2018年にかけ京都で、そして2017年から2018年にかけ東京で行った。以下の考察は、それに多くを負っている。

註9  Ibid., 位置No.427-570。

註10 Ibid., 位置No.2949-2962。

註11 Ibid., 位置No.3022-3081。

註12 Ibid., 位置No.6082。

註13 Ibid., Chapter 20。

註14 Ibid., Chapter 12。

註15 Ibid., 位置No.3497。

註16 Ibid., 位置No.3501。

註17 Ibid., 位置No.3534。

註18 Ibid.

註19 Ibid., 位置No.3551。

註20 Ibid., 位置No.5716。

註21 Ibid., 位置No.3567。

註22 Ibid., 位置No.5607。

註23 Ibid.

註24 川本栄介「0から分かるトークンエコノミー 連載1:仮想通貨が可能にする あたらしい経済の循環」、『あたらしい経済』、2018年6月22日、https://www.neweconomy.jp/features/zerokara/25599 (2021年4月26日閲覧)。

註25 川本栄介「0から分かるトークンエコノミー 連載2:トークンエコノミーの循環と経済効果を学ぶ。〜もしもレシピサイトがトークンエコノミー化したら〜」、2018年7月2日、https://www.neweconomy.jp/features/zerokara/25601 (2021年4月26日閲覧)。

註26 https://feature.undp.org/beyond-bitcoin/ (2021年4月26日閲覧)。

註27 https://www.unicef.org/press-releases/unicef-launches-cryptocurrency-fund (2021年4月26日閲覧)。

註28 https://crypto-times.jp/eth-foundation-aya-miyaguchi/?amp (2021年4月26日閲覧)。

註29 https://ix-careercompass.jp/article/838/ (2021年4月26日閲覧)。

註30 https://crypto-times.jp/eth-foundation-aya-miyaguchi/?amp (2021年4月26日閲覧)。

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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