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女に産土はいらない 三砂ちづる

疫学

 大学の教員をやっているので、専門はなんですか、と聞かれることは少なくない。専門は「疫学」です。「専門は、えきがくです」と答えて、はい、そうですか、と言ってくれる人は、2019年までは、ほとんどいなかった。きものを日常的に着ているので、「えきがくです」というと「易学」と思われたことは一度や二度ではなく、四柱推命が専門であるように思われていた節もあった。差し支えなさそうな時は、まあ、訂正しなくてもいいか、と思ったこともあるような気がするが、四柱推命に詳しくないのがすぐ露呈するので、やはり訂正すべきである、というところに至る。国立公衆衛生院(今は国立保健医療科学院という名前になってしまったが)という、厚生省(当時)の研究所に勤めていたことがある。疫学部に所属していた。もちろん、公衆衛生を専門とする集団の集まりであり、周囲からもそう認識されていて、疫学部はその屋台骨を担っていたのである。その当時、「国立公衆衛生院疫学部」と書くべきところ、「国立公衆衛生院易学部」と表書きに書いてあった郵便物を、ほんとうに、見たこともあるので、世の中における疫学の知名度の低さは推して知るべしというべきであったのだ。

 2020年を経て2021年春のいま、そういう「えきがくって易学ですか?」と聞かれる状況が、いかに牧歌的なものであったか、が、わかる。2020年3月以降、COVID-19、つまりは新型コロナウイルスによるパンデミックとともに、「疫学」は、突然、有名になってしまったのである。世界中のテレビに疫学者が登場し、新聞雑誌で取り上げられ、クラスターとか、感度、特異度とか、再生産数とか、アールノートとか、学会でしか使わなかったような言葉が日々のニュースで飛び交うようになった。みんな、場所も知らなかったのではないかと思う地域の保健所で積極的疫学調査などやっている、という画像をみるようになった。疫学は、突然有名になったのである。

 そうこうしているうちに、イギリスでは、当初集団免疫をつけようと厳しい行動制限を伴う対策は取らない、と言っていた政府を、そんなことをしていたら多くの人が亡くなってしまう、と警告、ロンドンのロックダウンを提唱した、著名なイギリスの疫学者が、自分はロックダウンを提唱しておきながら、ロンドンの外に住んでいる既婚者の女性とダブル不倫をしたことがすっぱ抜かれ、写真入りでタブロイド紙の表紙を飾っていたニュースが流れた。疫学者が不倫をした、と、タブロイドのネタになるなんて、なんという時代であろうか。もともと大変地味な仕事であるのに。地味な仕事でけっこうなのに。疫学者が有名になるなんて、こんな時代はいい時代ではない。

 疫学は英語でEpidemiologyというし、日本語でも英語でも「疫病」がイメージされる学問で、それはオリジンからして決して間違いではないのだが、現在は疫学は「疫病」つまりは感染症以外にも広く使われる方法論を提供している。私自身は母子保健分野の疫学を専門としており、感染症は専門ではない。専門ではないけれども、「専門は疫学です」と言っているのでパンデミックが始まったから、周囲からは説明を期待されるし、大学教師だから授業に取り上げてくれと言われるし、高校生向けのオープン・キャンパスでしゃべってくれと言われるし、付け焼き刃でCOVID-19のことを勉強してしゃべったりしていたのである。幸い、多くの感染症に詳しい同業者の友人もいるわけだから、わからないことは聞いたり、彼らが発信しているものを貸してもらったりして、なんとか対処してきた。

 

 さて、あらためて、公衆衛生とは何か。そして疫学とは何か。

 医学には、「臨床」と呼ばれる分野と「基礎」と呼ばれる分野がある。具合が悪くなって病院に行って、顔を見る医師たちが「臨床」のドクターたちである。「臨床」の分野は内科とか外科とか産科とか、それぞれの専門に分かれていて、いわば、患者に触れ、患者を診断し、患者を治療する医療行為をするのが「臨床」の分野であり、これは医師でないとできない。一方、「基礎」と呼ばれる分野は要するに、患者を直接看るわけではない医学の分野のことで「細菌学」とか「ウィルス学」とか「病理学」とか患者を直接診療するわけではなく、研究室で研究をする分野であり、大きく分ければ「公衆衛生」は、「臨床」ではないので、「基礎」の一分野と言えようか。患者を直接看るわけではないので、医師ではない人も多く関わっている分野である。私自身も、そうだ。個人個人ではなく「集団」としての健康事象を扱う分野が「公衆衛生」なのである。「臨床」のドクターたちは、診断するのは一人一人の患者であるが、公衆衛生では、診断するのは一人一人ではなく人間の集団である。たとえば、「東京都」とか「小平市」とか「津田町」とか、一定の人間集団の健康を把握し診断していくのが公衆衛生の仕事である。だから、東京都の新型コロナウィルスの感染状況を把握する、というのは公衆衛生の仕事、ということになる。

 個人を診断する「臨床」のドクターたちは診断するにあたって、問診したり、検査を使ったり、聴診器をあてたり、診断の道具を使う。公衆衛生でも同様に、集団の健康を診断する道具があり、疫学はその最もパワフルな道具である、と言われている。つまり、医学の中で集団の健康を扱う分野が公衆衛生、その集団の健康を診断する公衆衛生の診断道具が疫学、ということである。具体的には、対象者を決め、研究をデザインして、質問票調査などを行い、データを整理し、分析して結果を出して行く。たとえばある地域における糖尿病の罹患割合はどのくらいかとか、こちらの地域における乳幼児死亡率はどのくらいとか、また、喫煙と肺がんは関係があるのか、とか、集団の健康における因果関係を議論していくのも疫学の方法を使うのである。

 日本の医学系の教育では疫学は「疫学/統計」と統計学とセットで教えられることが多いのだが、疫学と統計学(特に人間を扱う分野は生物統計学というが)、この二つは全く別物である。疫学は、テーマを立て、仮説をつくり、その仮説によりよく応えられるような研究デザインをえらび、対象をきめて、サンプリング方法を考え、どうすれば良いデータが現場から取れるか、インタビューアーのトレーニングをしたり、データ収集のプロセスを考えたり、要するにロジスティックスの綿密な作成こそが疫学である(と私は思う)。生物統計は、疫学調査の計画を立て、分析計画もたて、分析するところで必ず必要となるスキルである。

 私が疫学を学んできたロンドン大学衛生熱帯医学院(London School of Hygiene and Tropical Medicine)には、大学で数学を専攻した後、生物統計学者となり、のち、疫学もまた専門としている人が何人もいた。同時に疫学は、医学、医学系専門、社会科学など様々なバックグラウンドを持っている人が専門とするようにも、なる。生物統計をバックグラウンドとしない疫学者は生物統計には強くはないので、研究計画の当初から、分析の終わりまで、生物統計学者のアドバイスを受ける必要があるから、生物統計学者を共同研究者にすることが多かった。私自身もバックグラウンドが生物統計ではない疫学者なので、大きな研究をするときは、海外でも日本でも、いつも生物統計学者に共同研究者になってもらってアドバイスをもらってきた。そういうものである、と思った方がよく、「自分は統計ができないから疫学がわからない」とおっしゃる方が少なからずある。統計は、できるに越したことはないが、できないときは、生物統計学者の助けを得れば良いのである。もちろん、統計の基礎くらいはわかっていないと、何をやっているのかわからなくなるけれども。

 

 ところで。近代疫学の祖とよばれているのは、19世紀イギリスのジョン・スノウ(1813-1858)という医師である。1854年のロンドンにおけるコレラの流行をきっかけに現代にもつながる疫学研究が始まった、といわれているのだ。ジョン・スノウは、ロンドン中心部ソーホー地区において、コレラに感染した人の家を地図上に記入していき、プロット地図を作り、ある特定の井戸のまわりに、それらの感染者の住む家が多いことをつきとめる。その井戸からの水の利用を制限すると、コレラ患者が減っていったのである。現在にも通じる、プロット地図や、流行曲線などを作って、患者の減少につなげていったのである。ロベルト・コッホがコレラの病原体はコレラ菌であることを証明したのは1884年であり、ジョン・スノウがソーホー地区のコレラ流行を調査してから30年もあとのことである。つまり、ジョン・スノウはコレラの「原因」であるコレラ菌のことをわかっていたわけではないが、あるポンプからの井戸水がコレラの「病因」物質であることはつきとめ、それによって流行の収束に貢献したのである。つまり原因がわからなくても人間の行動とその結果を観察することにより、疾病を防ぐ、というのが疫学的考え方であるといえよう。集団の健康を診断する最もパワフルな道具が疫学、といったが、要するに疫学とは人間の行動を観察し、人間に起きていることを対象とし、その頻度分布を観察して、リスクファクターを特定し疾病との関連を科学的に議論する学問、といえる。

 ジョン・スノウはその功績により近代疫学の父と言われているのだが、元々は麻酔医であり、ヴィクトリア女王にはじめて産科麻酔を使ったことでもよく知られている。ジョン・スノウがコレラの感染源と特定したロンドンのまんなか、ソーホー地区にある井戸の位置にいまはジョン・スノウ・パブがオープンしており、そこのサイン帳には、世界の疫学者や麻酔医がたくさんサインを残しているのをみることができる。

 疫学の基礎はことほどさように「感染症」からはじまっているのだが、そののち、この学問の枠組み、すなわち人間の行動を観察しながらリスクファクターを特定し疾病との関連を議論する、というやり方は、感染症以外の多くの健康事象に応用されていくことになり、現代では、肝炎の疫学者、とか、精神保健の疫学者、とか、薬物依存専門の疫学者とか、事故の疫学者などほとんどの健康事象にそれぞれの疫学者がおり、感染症専門の疫学者は実は少数派になっているところに起こった新型コロナパンデミックだったのである。

 集団の健康を対象とする公衆衛生、という分野は、ちょっと想像いただくとわかると思うが、開発途上国と長く呼ばれてきたような、先進国と比べて健康格差が大きい国においてはとても重要な分野となる。世界の健康格差を語るにあたり、各国や地域での健康水準や保健医療サービスの状況を示す適切な指標を選び、その指標による格差がどの程度超えたら受け入れがたくてその是正が必要と思われるかを明らかにして、格差の縮小を考え実践して行く、つまりはこういった国々を対象とする公衆衛生の分野を国際保健、と呼んだりしている。私自身は、母子保健分野、とりわけ母子保健の、母、のほう、母性保健と呼ばれる分野の疫学が専門であるが、開発途上国を中心に仕事をしてきたので国際保健が専門ということもできる。国際保健、は、若い頃からこの分野の仕事をしたい、とぼんやりと思っていた分野であったが、疫学のほうは、結果として疫学を学ぶことになった、というほうが正しい。30歳になる直前にロンドン大学衛生熱帯医学院に留学し、のち、研究員として10年ほど働いている間に、結果として「専門は疫学」ということになっていった。日本にいる間は、公衆衛生や疫学、ということはまったくわかっていなかったので、いかなる意味でもわたしはメイド・イン・ロンドンの疫学屋、であり、疫学はロンドンで学んだものであり、研究者になる、とか考えたこともなかった私が研究者になる基礎を作ってくれたのは、全てロンドンである。今もロンドンに足を向けて寝られない。

 

 もともと大学は薬学部で、薬剤師になるためにせっせと有機化学や無機化学、薬剤学やら薬理学やらを詰め込んでいたのであるが、あるとき突然、アフリカやアジアやラテンアメリカが私の脳裏に浮かび始める。1970年代も終わりの頃で、アフリカの飢餓などについて広く報道されていた頃だったと思う。当時の薬学部は四年間ですべての基礎と演習を終えねばならず、大学とはいっても、時間割は全て決まっていて、月曜から土曜まですべて講義と実習の日々であった。薬学部を出れば、おおよそ就職に困ることもなく、仕事に就くことができ、私立の薬学部を出たら、当時はみんなだいたい、病院勤めをするか、製薬会社の研究室にはいるか、男子学生たちはプロパーとよばれていた製薬会社の営業をやるか、といった感じの進路に進んでいく。私はそのどれにもリアリティが持てず、せっかく薬剤師になるのだから、何か技術を生かして途上国で働きたい、なにか、できることがあるはずだ、と考えていた。

 当時、公衆衛生学は確かに薬剤師国家試験にも出るような科目ではあったが、「集団の健康を扱う分野」という認識はもてておらず、薬学部なので公衆衛生は環境とか上下水道マターとか、そういうことを扱う分野だと思っていたくらいである。途上国で働きたい、と思い、それがどういう働き方なのかもよくはわからないが、とにかく、日本を出ていきたいと考えていた。日本を出てアジアやアフリカの国で働きたいと思っているのに、当時の言い方でいえば、自分は理論武装が全くできていない、と思ったから、薬学部を卒業して薬剤師として働けるようになったら、夜は経済学部に行って、理論武装したいと考えていた。今考えるとなんで経済学部に行き直すの?大学は一つでたら十分でしょう、と心の声が言うと思うのだが、当時はまだ、理論武装、という言葉遣いが陳腐ではなかったし、社会科学を学んでから世界に出ていきたいと考えていたのだ。

 とにかく薬剤師免許を取った後は大学病院でしばし研修を受け、そのあと薬剤師として就職し、夜は、当時夜間課程を持っていた神戸大学経済学部に学士編入して3年間通った。経済学の基礎理論や開発経済学や国際関係論など現代世界の成り立ちを学ぶことは本当に興味深かったが、このときもまだ研究者になる、ということは全く考えておらず、わたしはただ、どうやったら国際協力ワーカーになってアジアやアフリカに赴任できるか、ということばかり考えていた。経済学部も最終学年、社会経験も3年にならんとして、そのあとどうしたらいいか、と考えていたところ、その時乗っていたバスに「青年海外協力隊員募集」というポスターが貼ってあった。そうか、これがあったか、と思い、確か締め切りぎりぎりかまにあわないくらいだったと思うのだが、薬剤師職種として申請し、南部アフリカザンビアの薬剤助手学校の教師をすることになった。

 日本で別に帰国子女ではなくて、普通に学部を卒業した人間が、英語で他国で突然その国の薬局方について教えられるはずはないのだが、そこはボランティアという派遣の底力か、とにかく必死で教えた。この時ザンビアに、青年海外協力隊も「公衆衛生」という名目の隊員を派遣していていたし、公衆衛生関係者に会うこともあり、ああ、そうだな、途上国の保健分野で働きたいなら公衆衛生の勉強をしなければだめなんだ、ということが遅まきながらわかる。

 帰国後、琉球大学を経て上記のロンドン大学に留学する。開発途上国における地域保健、という名前のマスター(修士課程)のコースで、自分の求めているものはこれしかない、と、そのコースを選んだのである。そこで疫学や生物統計学を学ぶが、ちっともいい成績の取れない劣等生のまま、修士課程の一年を終えた。博士課程に進むことなど全く考えておらず、この時点でも研究者になることは射程になかった。国際保健ワーカーになりたかったので、ロンドン大学に人探しに来たユニセフ(国連児童基金)の誘いに乗り、修士課程修了後は、ソマリアに赴任して、薬剤師でもあることから、必須医薬品計画のオフィサーをやることになっていた。現地オフィスの面接にロンドンから呼んでもらい、空が青く真っ白な建物の間をひらひらとした衣装を着けた人たちが行き交うソマリアの首都モガディシュは本当に美しい街で、ここでいよいよ国際保健ワーカーとして働くのを楽しみにしていたのだが、ときは1988年、わたしがソマリアのインタビューを終えてほどなく、いまに至るまで影響の続くソマリア内戦勃発、ユニセフもソマリアを撤退することになり、私は最初の国際保健ワーカーとしての仕事を、赴任を待たずに失ったのである。ソマリア内戦が起こっていなければ、私は研究者にはならず、いまも、ユニセフか他の国際組織で働いていたかもしれない。

 職を失った私に、のち、私の子どもたちの父親となるブラジル人医師でロンドン大学の修士課程の同級生であったウォルターが、私をブラジルに誘った。彼は疫学を専門に、博士課程の勉強を始めたばかりで、ブラジルにフィールドワークに行こうとしており、私に一緒に行こうという。一緒に行こうと言われても、何の名目もなしには行けないな、と思っていたら、あれよあれよという間に、ブラジルで一年過ごす奨学金やら、ブラジルでフィールドワークを行う調査研究資金やら、が、わたしのもとに届くことになり、結局ブラジルに行ってしまうのである。ブラジルに行ったら、母性保健分野で研究しなければならないことが多すぎて、国際保健ワーカーもいいけど、研究者になると、こういう国で、地元の人と一緒にいい仕事ができるなあ、と思ったのが研究者になる第一歩だっただろうか。パートナーのウォルターがカナダ政府からの資金を得て、大規模な急性呼吸器系疾患に関するケース・コントロール・スタディという洗練された研究デザインの疫学調査を行なっていたので、それをそばでみせてもらっていたことも良いロールモデルとなった。

 一年暮らしたブラジルでの調査結果をもって、生まれたばかりの長男も連れて、家族で再度ロンドンに戻り、前述のロンドン大学衛生熱帯医学校で母子疫学ユニットを率いていた Betty Kirkwoodというそれこそ数学科上がりの疫学者にWHOの研究資金で半年雇ってもらい、その間に、主任研究者としてブラジルにおける妊娠中絶に関する5年間の大きな研究プロジェクトのプロポーザルを書き、イギリス政府開発庁から資金を得て、わたしはそろそろと、おぼつかない足取りで、「疫学者です」と言いながら仕事をし始めたのである。

 私にとって疫学研究とは、だから、自分でテーマを決めて、研究デザインを作り、プロポーザルを書いて、現地調査をやって、そのデータを分析する、というものに他ならなかった。イギリスで学び、周りもみんなそうしていたから当たり前だと思っていた。しかしそれは、いわゆるイギリス流のフィールド疫学、というものであった、ということに気づいたのは、15年に及ぶイギリスとブラジルでの研究生活を終え、2001年初めから、冒頭に書いた、当時の厚生省の国立公衆衛生院に就職してのちのことだった。日本の厚生省には多くのルーティンデータが蓄積されており、疫学の仕事の多くは、すでに蓄積されているそれらのルーティンデータをつかって分析をして結果を出す、ということが多いようだった。自分で一からテーマを決めてデータを現場に取りに行く、ということは、ないわけではないが、どちらかというと珍しいほうなのであった。

 とはいえ、感染症のアウトブレイクを追うことは、フィールド疫学そのものである。今回の新型コロナパンデミックを期に、疫学という分野に興味を持つ人たちが増えてくるといいと思うが、日本できちんと疫学を学べるところはどんどん少なくなっているのが気になる。現在、京都大学の西浦先生が率いておられる理論疫学の感染症数理モデルについては、また、フィールド疫学とは異なり、私は全く門外漢なのだが、その仕事に憧れる若い人たちもまた、たくさん出て来てほしい。

 

 

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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