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GEIDO試論 熊倉敬聡

GEIDOとしての性愛へ(2)――もう一つのポリアモリーへ

 

 

「第三の性」

 

 作家五木寛之の作品に、『サイレント・ラブ』という奇妙な短編小説がある註1。日本人の若い男女のカップル(ユージとマリコ)が、婚前旅行として、おそらくは地中海沿岸であろう港町に立ち寄り、マリコが予約した「イサドラ・ダンカンをしのぶ夕べ」というダンス・パフォーマンスの会場で、現地在住の日本人画家の女性(ユリ)に出会う。そして、二人は、ユリの自宅に招かれ、そこで、ユリとそのボーイフレンドのハンガリー人、ドクから、彼らには未知のあるセックスの指南を受ける、という物語である。

 おそらくは、現代日本にあって「標準的な」性生活を営んでいる(という設定の)ユージとマリコに、ユリとドクが指南するセックス、「サイレント・ラブ」は、その「ゆっくりと、そして静かに」為される仕様とは裏腹に、そうした「標準的な」性の在り方を大きく覆す、ゆっくりで静かだが、大いなる力を秘めている。この小説と同時期に書かれたエッセイ集『愛に関する十二章』註2の言葉を借りれば、その「力」は人類に「第三の性」をもたらすほどの革命的力だと言う。

 D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』がヨーロッパのキリスト教的性道徳に衝撃を与えたのが「第一の性」。シモーヌ・ド・ボーヴォワールがその名も『第二の性』と題した著作でフェミニズムの先鞭をつけたのが「第二の性」。そして今や、人類は、新たな性・愛のルネッサンスに臨んでいる、と五木は主張する。

 

そして、いま、私は第二の性によって解き放たれた女性と柔軟な考えを身に付けた男性がともに喜びを得る性のあり方を考える、「第三の性」の時期を迎えているのではないかと感じているのです。 「第三の性」とはなにか。愛する者同士がセックスという行為を通じて、お互いへの愛を深め、その喜びのうちに、自分の命を生き生きと再生させるものと考えています。セックスによって、人間復興(ふっこう)が行われるものではないかと。セックスの後の空しさを、男性はよく口にします。女性は女性で、パートナーの気持ちを無視して、用具のように体を扱う男性のやり方に恐怖心さえ覚える人もいます。そのような従来の男性本位のセックスに慣れきった人たちには、セックスによる人間再生、愛のルネッサンスといっても、なかなか理解できないかもしれません。しかし、いまのような閉塞感漂う社会状況の中では、新しいラブスタイル、「第三の性」を探って、そこになにか活路を見出そうとすることはとても大切なことではないでしょうか。註3

 

 そして、五木によれば、その新たな性愛革命のヒントになるのが、このエッセイ集でも紹介され、小説でもユリとドクが開陳する「ポリネシアンセックス」だ。

 「ポリネシアンセックス」とはいかなるものか。それは、人類学者のブロニスロウ・マリノウスキーが西太平洋メラネシアのトロブリアンド島に調査研究に入り、そこで見出した現地人の性生活の在り方だ。その詳細は、調査研究をまとめた浩瀚な『未開人の性生活』註4を読むしかないが、五木はとりあえずユリの口を借りて、要点をこのように説明する。

 

彼らは男上位の体位をとらない。

そしてヨーロッパ人のセックスのやりかたを笑いものにする。

そのやりかたには、情熱がかけているし、あわててオーガズムを求めすぎるというわけ。

島の人びとは上下よりも、左右に横向きの体位で水平に動くのを好む。

さらに大事なことは、時間をかけてすごくゆっくりとセックスをすること。

文明人には考えられないほど、たっぷりと前に時間をかけ、丹念に接触していることがセックスでもっとも重要なことだと彼は理解するのね。

〔…〕

するとオーガズムがゆっくりおとずれてくる。

〈一時間もすると先祖の魂がめざめて、われわれの行為を祝福してくれる〉と、ポリネシアの人びとは考えるの。註5

 

 実は、五木がポリネシアンセックスを含め、小説とエッセイ集の情報源としているのが、ジェイムズ・N・パウエルの『エロスと精気(エネルギー)』という著作註6だ。この著作は、西洋人の非常に多くが(キリスト教的精神構造によって)抑圧された性生活を送っているのに対し、中国の道教やインドのタントリズムの大らかで成熟した性思想・性実践を対置し、がしかし、現代の西洋人は、東洋の伝統を単に模倣するのでなく、独自の性愛術を開拓すべし、と唱える著作である。この論考には単にポリネシアンセックスや道教、タントリズムの紹介のみならず、我々のGEIDOとしての性愛を考究する上で、示唆に富んだ様々な知見が披瀝されているので、しばしそれらを検討してみたい。

 

生体電子の「場」

 パウエルは、道教とタントリズムの性思想・性実践を詳しく紹介した後、最終章「(フィールド)」で、今度は西洋近現代における(西洋にとっては)稀な非伝統的=革新的な性愛理論について論じていく。

 彼は文字通り「場」から語り始める。いかなる「場」か。何と電磁気の「場」である。

 

物理学もまた、電磁気力は宇宙にある四つの基本的な力のひとつであり、絶えまなく踊っている、原子のなかの電子と陽子を束ねる力であることを教えてくれる。人体のなかに生体電子が絶えず流れていて、この流れが全身におけるひとつの生体電子の場をつくる。この場は無限に拡散していて、地球や月の電磁気の場につながり、最も遠い星雲の電磁気の場にすらつながっている。西洋で近年そういう研究成果が発表された。しかし、この生体電子の場というものは西洋の科学者にはほとんど同意を得られていない。この研究は一九七〇年代になってようやくまともに取り組まれ始めた。だが、中国文化とインド文化は何千年も昔から、人体組織の全体にエネルギーの場が及んでいることを認知し、またそれを体感してきたところだ。この二つの文化はまるごと、この場との睦まじさにのっかっている。註7

 

 この電子エネルギーを、中国人は「(チー)」と呼び、インド人は「プラーナ」と呼んだ。そして、この「気=プラーナ」を瞑想の技により自らの身体の内で、そして交合により二人の身体の内で、滑らかに循環させることにより、不老不死と精神的修養を果たす。そうした心身一如の養生法を、東洋では古来何千年と受け継ぎ、今でも実践している人たちがいる。

 ところが、西洋ではようやく最近になって、科学が、人体の生体電子の場の存在と仕組みを理解し始めたばかりだ。ロバート・ベッカーの『電気の身体』註8をはじめとした、いくつかの研究は、電磁気体としての人間の身体と、自然環境・人工環境双方に存在する電磁気の場が、どのように関係しているのか、科学的に明らかにしようとしている。その中でも特に、「十ヘルツ」の電磁波が、何と地球上の生命誕生と瞑想に共通するのだと言う。

 

最近の理論では、地球に生命が誕生したとき、地球の電離層の空洞が大気圏のなかに複数の強力な電磁波を生んだという。これらは十ヘルツの周波数で振動した。それで、この周波数がその最初の生命の分子に刻印された可能性がある。そう考えれば、この周波数が人間を含む多くの動物に共通していることの説明がつく。現実に、瞑想しているときはこの周波数が突出して多くなるのである。註9

 

 ところが、実験的に自然の電磁場から遮断された部屋に閉じ込められた人たちは、たちまち周波が混乱し、体内リズムと日々の通常のリズムとの関係を一切失ってしまった。が、この部屋に十ヘルツの人工の電磁場を作ると、彼らの生体リズムは通常に回復したと言う註10

 ところで、現代の先進国に生きる人々は、電磁波「スモッグ」に日々晒されていると、パウエルは警告する。何と、19世紀に比べて、21世紀の我々は二億倍(!)もの量の電磁波に身を晒しているのだ。だからこそ、「十ヘルツ」に同期する瞑想、そして瞑想を通した性愛術こそが、電磁気体としての人間の身体の統合性の回復に何よりも役立つことになる。

 こうした電磁気的にも危機的状況だからこそ、西洋人も今や、東洋人の伝統的な心身養生法・性愛術に学びながらも、それを単に模倣するのでなく、「独自な性的かつ精神的合一」の場を作り出せねばならない註11

 そこで、パウエルが援用するのが、19世紀半ばにアメリカ人ジョン・ノイズが提唱した「カレッツァ(karezza)」の理論(性的結合による「交流的磁気」)と、20世紀に入り、それを科学的に深化させたかのような、オーストリア人、ルドルフ・フォン・アーバンの『性の完成と結婚の幸福』(邦題『愛のヨガ』)註12である。ここでは特に、GEIDO論の文脈から見て示唆に富んだ後者の研究に着目し、生体電気と性愛術という視点から検討したい。

 

アーバンの生体電気性愛論

 

 アーバンは、まず「序説」で、家族において母親が自らの性的本能の抑圧と、そこから来る神経症を抱えながら子供たちに接しているかぎり、子供たちにもまたその抑圧と神経症が伝播・反復し、幸福な結婚生活を送ることができなくなると言う。だから、母親は(もちろん父親もだが)、自らの性愛をいかに抑圧・タブーから解き放ち、性愛の素晴らしさを楽しみ、できうれば一つの「芸術」にまで高める。そうすれば、夫婦生活のみならず、子供たちにも精神的な安定感と満足感をもたらすことができる、と主張する。「バイオリン」も、弾き手次第だ、というわけだ。

 

 こういうわけなので、子どもたちのために、母親は自分のセックスに対する敵意をとりのぞき、自分がつくりあげてきた、かたくななセックスについてのタブーを壊さなければならない。セックスを神からの呪いと考えている女性はまちがっている。それは神の祝福だ。彼女たちは、祝福などではなかったと主張する。きっとその通りだと思う。しかし、バイオリンも弾きかたを知らないひとの手にかかったら耐えがたい音を出す。しかし、大演奏家が同じ楽器を演奏すると、その結果は大ちがいになる。まずいのは楽器ではなく、弾き手だ。

 たしかに現代の社会では、愛の芸術の達人が生まれるのはむずかしい。ほんのわずかなひとたちだけが、愛と性を芸術として洗練するために、手間と、ひまをかける価値があると認めているにすぎない。しかし、正しく理解をし、育て、練習をつむならば、それは、この上なく美しい世界を啓示することのできる芸術なのだ。

 愛と性的幸福の芸術の原則には、複雑で科学的な内容が含まれている。この道で完成に到達することは、他の芸の道とおなじく容易なことではない。性生活を完成させるための原則をきちんと守るために必要な安定は、満足のできる健康な結婚で保証され、それが、結局、なごやかな家庭のメンバーとして必要な安定感を子どもたちに与えるということにもなるのだ。註13

 

 まさに「芸術」、いや「芸の道」としての性愛の主張である。しかし、この「芸術」ないし「芸の道」としての性愛の主張を、一つの「科学的」な論として公にするのに、アーバンは、30年もの間ためらっていたと言うのだ。様々な実験や体験を繰り返し、「論」の正しさは経験的に明らかであったが、それを「科学的」に証明するのに、これだけの年月を要した。が、今ようやく、その「論」の精髄を開陳する時が来た。そう、アーバンは満を持すのである。そして、論の中核である章「愛のヨガ六カ条」に入っていく。

 

 この章では、過去三〇年以上にわたる経験の真髄を述べることになる。これは、この本のもっとも重要な部分である。結婚生活が成功するかどうかは、以下に述べることを知っているかどうかにかかっている。もしそれを知らなければ、結婚生活は失敗へとつながっていき、家庭の崩壊、情緒障害、青少年非行、病気、犯罪などの結果が待っている。

 実践的な効果は明らかであったが、三〇年間、科学的に証明することができなかったために、わたしは、自分の発見をおおやけにすることをためらってきた。しかし、物理学という科学が、愛と性の問題にいくつか新しい貢献をしてくれたことに励まされて、たとえ信じがたいことと思われようとも、自分の経験をある程度は読者に提供する勇気を持つことができたのである。

 本書で、人間の性的関係について述べるときに使っている「電気」または「電流」、「陽電気または陰電気」という用語は、文字通りにではなく、イメージとしてとらえてほしい。電気の理論は、こと性の問題については、まだ科学の共有財産になってはいないからだ。註14

 

 と、アーバンは満を持しながらも、自らの生体電気性愛論に「科学的」な自信をいまだ十全にもちえず、「文字通りにではなく、イメージとしてとらえてほしい」などと留保をつけているが、先述のように、半世紀以上が経ち、生体電気について「科学的」に知っている我々にとっては、むしろ彼の論を「科学的」に「文字通り」に受け取るべきだろう。

 では、その生体電気性愛論の核心とは何だろうか。それは、男と女の生体電位には差があること。その差が「正しい」交合によって中和されると、二人の間の電気的緊張がなくなり、完全なくつろぎの状態、神々しいまでの至福の状態が訪れる、という点である註15

 アーバンは、この核心をつかむために決定的だった四つの事例を挙げる。

 一つ目の事例註16――ダマスカスで彼が滞在していたホテルに、ある日、かつて彼のサナトリウムの患者だった男性が訪ねてくる。そして、世にも不思議な話をする。

 

「一週間まえにわたしは若く美しいアラブ少女と結婚しました。わたしたちは二人とも非常に愛しあっていました。わたしたちの間で起こったふしぎな出来事は、あまりにもふしぎで、とても興奮してしまったので、それをどうしても専門家に話さずにはいられない気もちになったのです。

 妻とわたしは一時間、裸でベッドにねて、からだをぴったりくっつけて愛撫しあっていましたが、性交はしてませんでした。部屋はまっ暗で、あかりは全然ついていませんでした。何も見えませんでした。それからわたしたちは離れて立ちあがりました。すると妻の姿が見えはじめたのです。彼女の輪郭は青緑色で神秘的な光の後光でふちどられ、それは彼女から発していました。それは後光に似ていましたが、ちがうのは頭のまわりだけでなくからだ全体をかこんで、輪郭がぼうっと見えました。彼女がそこに立ったので、わたしはゆっくりと彼女の方へ手をのばしました。わたしのてのひらが彼女の胸から二・五センチメートルに近づくと電気の火花が彼女からわたしにとぶのが見え、聞こえ、痛かったのです。二人ともちぢみあがってしまいました」

 

 アーバンは、このカップルに、実験を依頼する。一回目、二回目、三回目と性交の時間を少しずつ長くしてもらう。すべての回において、やはり「火花」が見えたが、四回目、性交が27分に及んだ後は、なぜか「火花」が飛ばなかった。そこで、アーバンは、「27分」という時間が二人の生体電位の差が解消される臨界点ではないかと推論する。事実、以降、半時間以上の性交を経た後は、何日間も性交なしでも二人に深い満足感をもたらし続けた。

 二つ目の事例は、先にも挙げた、トロブリアンド島の原住民の「ポリネシアンセックス」だ註17。ここでも、半時間以上(先の五木の表現を借りれば)「ゆっくりと、そして静かに」交合すると、「祖先のたましいが目覚めて二人の結びつきを祝福しにくる」。

 三つ目の事例は註18、やはりパウエルも言及していた「カレッツァ」だ。ここでも半時間以上の性交が、男女の電位差を中和し、完全なくつろぎの状態をもたらすことが、確認される。

 最後の事例註19――アーバンにとっていたって身近な事例で、彼に「実践的に価値のある結論をひきだすことのできた経験」である。

 アーバンは、ある日、メアリー(仮名)という若い女性の世話をするよう頼まれる。彼女は深い神経症を患っていて、何人かの有名な精神分析医もお手上げだった。アーバンは、そんな彼女を自分の療養所に引き取り、仕事をあてがった。メアリーは、まさに才色兼備で、多くの男性の憧れの的だったが、彼女自身は男性を見ただけでも口がきけないほどだった。(実は、彼女は少女時代に、「本当の父親」と信じ込まされていた義父にレイプされそうになったのだった。)そんな彼女と、助手のフレッドが情熱的な恋に落ちた。そして半年後、結婚にまでこぎつけたが、フレッドは彼女の神経症と特異性を熟知していたので、尋常ならざる努力と情熱でそれを尊重し、性的なアプローチを一切しなかった。が、六週間後、二人の情熱は限界に達し、ついには初めて裸どうしで抱き合って(性交することなく)一夜を過ごした。

 

彼らはだきあってよこたわり、完全にリラックスし、このからだの接触をよろこんでいた。すると、約半時間後に、フレッドによれば、いうにいわれないなにかが彼らの中に流れはじめ、彼らの肌の細胞のひとつひとつが生き生きとよろこんでいることが感じられた。これはフレッドがいままで経験したこともない狂喜とよろこびをもたらした〔…〕そしてメアリーも、彼によれば、おなじく感じた。彼の印象では、これら何百万のよろこびのみなもとがとけあってひとつとなり、メアリーと触れあっている彼のからだの肌の部分へとながれた。彼のからだはとけたかとおもわれ、時間空間はなくなった。すべてのかんがえはきえ、彼はことばではいいあらわせない感覚的よろこびで燃えつくした。それに対するメアリーのことばは「超人間的」「神聖な」というのだった。

 

 アーバンは、これら四つの事例以外にも、30年間、他の多くのカップルの経験を観察することにより、性愛の核心が単なる性器の興奮や子孫作りにあるのではなく、カップルの生体電気の交流による、心身の完全なくつろぎ、神々しいまでの至福にあることを確信するに至る。その知見を彼は「愛のヨガの六カ条」として、この著作にまとめる。

 〈一〉準備、〈二〉体位、〈三〉継続時間、〈四〉集中、〈五〉くつろぎ、〈六〉回数にわたる六カ条の詳細は、(本論が性愛術の指南書ではないので)原著にあたってもらおう。この『GEIDO試論』では、この生体電気性愛論が何故にGEIDO的であるのか否かを、その問題点も含めて、改めて問うてみたい。

 

キリスト教的心身観・性愛観の残響

 

 まず、問題点から。アーバンのこの著作の原題は『性の完成と結婚(・・)の幸福』(Sex Perfection and Martial Happiness、傍点筆者)であった。そう、アーバンが、生体電気の交流にあたって想定するカップルは「結婚」しているか、あるいは「結婚」を望んでいる男女のカップルだった。その背景には、「結婚」の不幸の多くは性愛の不幸に淵源し、故に幸福な性愛は、幸福な「結婚」と家庭をもたらす、という思想がある。この一夫一婦制を前提とした結婚観・性愛観に、我々はやはり「キリスト教的」結婚観の残響を聴かざるをえないだろう。「序説」にもあったように、この愛と性の「芸術」ないし「芸の道」の究極の目標は、「満足のできる健康な結婚」であり、「なごやかな家庭のメンバーとして必要な安定感」なのだ。この結婚・家族観に、我々はアーバンのキリスト教的で保守的な倫理観を見てとらざるをえない。

 もう一つの問題点は、「愛のヨガの六カ条」のうちの、特に「三 継続時間」に見られる、「意志」による身体の「コントロール」という発想にある。先に見たように、カップルの間で、電位差が解消し、生体電気の交流がなされるまでには最低半時間必要だった。いかにその間動かないとはいえ、男性によっては射精を抑えきれない場合があろう。そこで、アーバンが勧めるやり方は以下の通りだ。

 

セックスと性格は手をとり合って進む。もし弱い男の性格を強くしたならば、彼の早漏を克服する手助けをもしたことになる。精液が流れ出るところの筋肉を収縮することによってのみ、射精はおくらすことができる。これは一歩ずつマスターするのだ。まず彼は精子を二分間とどめることを覚え、次に五分、次に十分、といったぐあいに、ついには目標の半時間とか一時間に達することができる。註20

 

 「意志」による身体の部位のコントロール、訓練である。我々は前回、オンフレの比較性愛論を検討するなか、キリスト教的エロスの(肯定)神学の「教父」の一人、アウグスティヌスのリビドー論を瞥見した。その時、私はこう書いた。

 

 アウグスティヌスによれば、リビドーは常にあったわけではなく、ある時生まれた。その「ある時」とは、イヴがアダムを誘惑した時、すなわち「原罪」の時だと言う。故に、女性は、男性の禍の元凶であり、「原罪」をもたらした「蛇」そのものだと言う。

 神の国に赴くには、だから「意志」によりリビドーを抑え込み、己の身体を統制することが何よりも肝要である。放屁を思うように操り、音楽さえ奏でる放屁師のように、意志により己の身体・性欲を統御すること。仮に女性=蛇と同衾せねばならない場合でも、結婚という厳格な枠組みの中で子孫を作ることだけに専念すべし、とアウグスティヌスは説く。

 

 そう、アウグスティヌスによれば、原罪以前には、性的器官は「欲情〔リビドー〕によって刺激されないで意志によって(・・・・・・)促されて」いたのだ。「神にとって、人間をおつくりになる際、人間の肉において現在は欲情を伴わずしてはけっして動かされないあの部分もまた、ただ意志のみによって(・・・・・・・・)動かされるというようにおつくりになることは困難なことではなかったのであった。」註21

 この、「意志」による身体の部位=性的器官のコントロールという発想の中にも、我々はだからいたって「キリスト教的」な心身観・性愛観の残響を聴かざるをえないのである。愛の「ヨガ」にもまた、キリスト教的エロスの神学がこっそりと忍び込んでいるのである。

 したがって、GEIDOとしての性愛へと辿り着くためには、このアーバンの生体電気性愛論をさらに「脱キリスト教化」しなくてはならない。キリスト教的「結婚」と「意志」から解放しつつ、その科学的精髄を担保し、展開させなくてはならない。

 

タントリズムと、三つの「止」

 

 まず、性愛を「意志」から解放してみよう。先述したように、アーバンは、射精の抑制を男性主体の「意志」に求めた。「意志」の力以外に、男性は射精を遅らせる術がないのだろうか。「否」と、例えばタントリズムの行者なら言うだろう。「意志」によらずとも、ある種のヨーガの行法により、精液は自ずと「止まる」と、言うだろう。

 ここで、改めてタントリズムとはいかなるものか、GEIDO論の文脈で捉え直してみよう。がしかし、この、紀元後4世紀頃現れ6世紀以降インド全土で流行した大きな哲学的、宗教的運動の全貌をここで論じるわけにはいかないし、またそれは私の能力を大きく超え出る作業でもある。この、知的階層から民衆まで、インドのあらゆる文化領域、宗教・宗派にまで(仏教にさえ)大きな影響を与えた「汎インド的運動」の歴史・思想の詳細に関しては、(ド・ルージュモンも参照していた)宗教学者ミルチャ・エリアーデが、『ヨーガ』、とりわけその第6章「ヨーガとタントリズム」で詳述している。ここではあくまで、GEIDOとしての性愛論を導く範囲内で、私なりにタントリズムを検討していきたい註22

 タントリズムは、究極の目標「大楽」に至るには、身体を「神的身体」に変容させなくてはならないという。その神的身体への変容の技と知恵こそ、ヨーガ、特にハタ・ヨーガに他ならない。ヨーガは、その坐法(アーサナー)調息法(プラーナヤーマ)と瞑想により、それなくしては滞ったり眠っている気=生命エネルギーを目覚めさせ、解放し、調え、身体全体を精妙な気の流れの充溢=「精微な身体」へと変身させる。その変容の過程にあって目覚め解放される最大の気=生命力とは、シャクティである。シャクティは、大いなる女性の力、母の力とされ、宇宙のあらゆる生々流転を司る。それは、身体にあっては、会陰部にあるムーラダーラ・チャクラに蛇のようにとぐろを巻いて眠っているとされる。クンダリニとも呼ばれる。その眠るシャクティ=クンダリニが、大いなる男性の力、精神の観想力(それがシヴァに象徴される)――ピンガラー・ナーディと呼ばれる脊椎の左側に沿う気の導脈を通して下降する――により目覚め、脊椎の右側に沿うイダー・ナーディを通して徐々に上昇し、その途中に眠る数々のチャクラを花開かせた後、ついには頭頂にあるサハスラーラ・チャクラに達し、かくして大いなる男性の“止”の力(シヴァ)と女性の“動”の力(シャクティ)が、中央に貫通するスシャムナー・ナーディを通して和合し、「大楽」、宇宙の根源的全体性が開かれる。

 また、タントリズムによれば、この神的身体への変容は、一人の瞑想する身体のみに生じるだけでなく、瞑想する男女の「交接(maithuna)」――ド・ルージュモンが宮廷風恋愛の遥かな源泉の一つと捉えていた――としても成就されることになる。エリアーデは、ある仏教研究を引用しながら、こう述べる。「性交は、それによって人間の男女が神聖な男女になる儀式となる。『瞑想と、その儀礼を可能にし実りあるものとする儀式とによってその儀礼(交接)を行なうべく準備した後、彼(すなわち、ヨーガ行者)は、ヨーギニーつまり彼の伴侶であり女主人である者を、或る女神の名前で、歓喜と平安の唯一の源泉であるターラー Tara の代わりでありその本質そのものであると考える。その女主人は女性の全性質を統合する。彼女は母であり、姉であり、妻、娘である。愛を求める彼女の声の中に、司祭者は、男神ヴァジュラダラ Vajradhara やヴァジュラサットヴァ Vajrasattva に懇願する女神の声を聞く。このような儀礼は、シヴァ教と仏教のタントラ派の両方にとって、救い、悟りの道である』」註23。 この儀礼において重要なのは、「動きはすべてシャクティの側にある」、すなわち宇宙的生滅のすべては、神聖化された女性の側にあり、神聖化された男性は「タントリズムにおいて、『行動』の三次元――すなわち心、呼吸、射精――において同時に表現された不動性」註24がもたらす“止”によってそれを観相することにある。タントリズムは、呼吸、心の不動とともに、精液のそれ、すなわち射精の“止”を説く。「『空気(息)が動くかぎり、ビンドゥ〔精液〕が動く。(そして空気が)動かなくなると、ビンドゥも止る。それ故に、ヨーガ行者は空気を制御し、不動性を得るべきである。身体にプラーナ〈息〉が留まるかぎり、生命(jiva)は去らない』」註25

 交接がもたらす快楽の極みにあって、あえてこの三つの不動性、“止”を実現することにより、それを味わい尽くしつつ観想しきること、その堪能=観想が開く「大楽」に漂い続けること、これこそタントリズムの求める「快楽の瞑想」の極致なのである。

 したがって、精液の“止”は、(キリスト教的)「意志」によらずとも、タントラ的瞑想による「止観」によって(おの)ずからもたらされるのだ。

 

「精微な身体」と生体電気論

 

 私は今、タントリズムにおいて、ヨーガの坐法、調息法、瞑想が、身体の気=生命エネルギーを目覚めさせ、調え、身体全体を「精微な身体」、さらには「神的身体」へと変容させる、と語った。タントリズムにおける交合は、このヨーガを二人の間でいわば「同期」させ、共に「神的身体」へと変容し、「大楽」に漂う行法だと言えよう。だが、我々の身体、かくも「人間的」にプログラム化された身体、時代や文化圏によって異なる多種多様なプログラムによって構造化され、「器官化」された身体――「キリスト教的」プログラムから「体育的」プログラム、さらには「デジタル的」プログラムにいたるまで――には、全くこの「変容」への「準備」ができていない。おそらくは「精微な」気の流れなど全く感じられない、いわば「不感症」化した身体となっている。だから、この「不感症」化した身体どうしが、仮にタントリズムやポリネシアンセックス的流儀をまねて同衾しても、おそらく容易には「変容」を体験しえないだろう。

 だから、私たちには「不感症」から脱し、「感じる身体」を得るために、事前の「準備」、「トレーニング」が必要となろう。私にしてもまた、この連載で語ってきた、コンテンポラリー・ダンスのワークショップや数々の瞑想法を通して、そうした「準備」、「トレーニング」に長年励んできた。そうして、自らの身体の脱「器官」化、脱プログラム化に挑み、「精微な身体」への「変容」を準備してきた。

 ところで、「精微な身体」とはいかなる身体なのか。我々は、そこに、アーバンの生体電気論との共鳴を感じ取ることができる。

 私は、本連載の第7回で、自らのヴィパッサナー瞑想の体験を代弁してくれる、以下の文章を引いた。

 

まじめに瞑想をつづけてゆくと、やがて感覚の質が変化する段階に入る。全身に均一で微細な感覚があらわれ、それがものすごいスピードで生まれては消えてゆくのである。このとき意識はうわべのかたまりをつらぬいて、それを構成している背後の現象を感じ取っている。万物を構成する微粒子のうごきを感知している。微粒子はひっきりなしに生まれては消え、その無常性をまざまざと体験するのである。からだのどこを観察しても微粒子が振動している。血液、骨、固体の部分、液体の部分、気体の部分、醜いところ、美しいところ、どこを観察しても波動の集まりだけを感じる。もうからだの各部を区別できない。識別したり命名したりするプロセスも止まる。このとき、自分自身のなかで、たえず流動し、生まれては消える物質の究極の真理を体験するのである。註26

 

 そして、この「微粒子」は「カラーパ」と呼ばれていた。「精微な身体」は、この「カラーパ」でできている。

 

からだはカラーパという原子より小さな微粒子からできている。カラーパは一瞬一瞬とてつもないスピードで生まれては消える。その変化のなかで無限の組み合わせが生じ、物質の基本要素たる、質量、粘性、温度、運動を現象化する。それが、からだのなかでありとあらゆる感覚を引き起こすのである。註27

 

 私は、第7回で、これらの引用文を受けて、この「微粒子=カラーパ」とは、科学的にいかなるものなのかと問い、それは(自らの限られた知見からして)細胞内で生成し、生命体を駆動している生体エネルギー、すなわちATP(アデノシン三リン酸)が発するエネルギーなのではないかと問うた。小倉ヒラクが『発酵文化人類学』註28で述べていたように、発酵という(植物の光合成や動物の呼吸と並んで)生物によるエネルギー獲得の「第三の道」もまた、他の二つの「道」に比して非効率的なやり方とはいえ、ATPによりエネルギーを生み出し、微生物を「生き」させ、地球を経巡るエネルギーの「生命の環」に参加していた。人間という生物もまた、このATPが生むエネルギーで「生きて」いるが、その心身が瞑想し、深まっていくと、自らの身体が限りなく微視的に「透けて」見えてきて、細胞内で生滅するATPの微弱なエネルギーの波動が全身を駆け巡る様がありのままに観じられ、しかもその波動が他の無数の生命体のそれと同期し、交感し、大いなる「生命の環」の限りない広がりへと開きわたっていく。アーバンの生体電気論は、このようにして、瞑想により身心的に深化し、生態的に拡大していく可能性を秘めているのかもしれない。おそらくは「10ヘルツ」という周波数を共有しながら…。

 このような「似非科学的」とも、「神秘主義的」とも取られかねない、私の論旨が「生体電気計測」的にもあながち邪論でないことは、例えばこの分野の専門家による、生体電気現象としての脳波とATPとの関係に関する以下のような指摘によっても証されるだろう。「『落ち着いてリラックスした状態ではα波が観測され,緊張状態になるとβ波が現われる』とよくいわれる。脳波は既に生体計測という分野を超えて日常生活に入り込んでいるように見える。α波とβ波の区別はその周波数帯域である。8~13 Hzの領域に観測される活動をα波、13~30 Hzの信号をβ波と呼んでおり,この他にδ波(0.5~4 Hz)、θ波(4~8 Hz)と称する低い周波数の活動もある。これほど身近な脳波であるが、実はこれらのリズムと脳内で実際に起こっている現象との対応関係は、今日でもすべて明らかになっているわけではない。」とした上で、こう語る。「生体電気現象の実体は細胞膜電位とその時間的な変化である。分子ポンプの働きによって作り出されるイオンの不均一な分布がその発生源である。代表的な分子ポンプである Na-K ATPase〔ナトリウム・カリウムATPアーゼ〕が消費する ATP(Adenosine TriPhosphate〔アデノシン三リン酸〕)は脳全体の消費量の70%に達するといわれていることからも、この現象の重要さがわかる。」註29

 

GEIDO的性愛術へ

 

 でもなぜ、この生体電気的性愛術が、GEIDOなのか。確かに、アーバン自身も性愛は弾き手次第では、立派な「芸術」ないし「芸の道」となりうると述べていた。しかし同時に、(上で指摘したように)その「芸」には明確な瞑想的アプローチが欠けていることもまた事実であった。

 私たちは、GEIDOの要諦がどこに存すると見ていたか。一つには、「いびつなV」と「いびつな○」、もう一つは「冷たくも熱いクリエーション」だった。

 前者に関しては、すでに私たちは暗示していた。五木の小説やタントリズムに言寄せて見たように、性愛という営為は、世の常識的理解(たとえば『サイレント・ラブ』のユージが代表する)とは裏腹に、やり方如何によって、いたって瞑想的かつ実存的営為にもなりうることを示唆した。そのやり方のキーワードが「静かに、そしてゆっくりと」だった。そして、それが、メラネシアの原住民たちにとっては先祖伝来の経験的に、カレッツァやアーバンにおいては「生体電気的」に、そしてタントリズムにおいては宗教思想的に変奏されていたのだった。

 そして特に、タントリズムにおいては、その瞑想的・実存的営為が、行者単独の行の中で探究される、いわば「アンドロギュノス」的なシャクティとシヴァとの交合として体験されると共に、それが「交接(maithuna)」という儀礼として、女性の行者=伴侶との媾いの中で祝福されることを確認した。

 そう、だから、行者にとって、それは畢竟、瞑想的・実存的Vの(きっさき)にあって「自由な選択」の問題なのではなかろうか。仏教学者魚川祐司はこう語っていなかったか――覚者たちは、独り解脱の境に留まり続け、独覚をさらに深め続けるのもよし。あるいは、ブッダのように機根のある者だけに教えを施す、ないし菩薩のように一切衆生を救おうとするのもよし。それは、覚者本人の「自由な選択」の問題だと。

 

こうしたことからわかるのは、覚者が慈悲の利他行へと踏み出して、「物語の世界」への再度の関与を行うかどうか、そして、それをいかに・どの程度のレベルで行うかということは、基本的に「自由な選択」の問題であるということである。独覚のように、解脱してもその境地を他者に開示しない者もいれば、ゴータマ・ブッダのように、機根のある衆生にだけ教えようと考える者もいる。あるいは、『十地経』の菩薩のように、一切衆生を一人残らず、救いきろうと決意する者もいる。註30

 

 だから、瞑想的に実存的に性愛の行に入る者は、自らに特異な「V」の鋒で、独り涅槃の境に在り続け、独覚の法悦のなかで、シャクティと交合するのもよし。あるいは、「V」の鋒から翻り、この世に「往還」しつつ、愛しき「伴侶」を掻き懐き、「静かに、そしてゆっくりと」交合して、共に「大楽」の海に漂うのもよし。それは彼(女)にとって、あくまで「自由な選択」の問題なのだ。

 いびつな○――この、GEIDOの要諦のもう一つの形象は、何よりもいびつなVたちの一期一会的交歓の場であった。この行者たちの交合による「大楽」は、その究極の在り方の一つと言えないだろうか。ここでは(アーバンが前提していた)一夫一婦制的男女の「結婚」など、もはや問題にならない。この至福なる○においては、「男」であった者、そして「女」であった者が、すでに脱「人格」化=「神」格化されていて、(タントリズム的に言えば)「シヴァ」と「シャクティ」が、宇宙的な「リンガ」と「ヨニ」として交合しているのだ。共に「精微な身体=神的身体」に変容し、無数のカラーパ、生命エネルギーの「分子」(ドゥルーズ&ガタリ)がきらめき流れる「大海」に漂っているのだ。それはだから、もはや「人間」だけの○ではない。無数の生きとし生けるものが「10ヘルツ」で同期し、交歓する大いなる「生命の環」なのだ。GEIDO的性愛は、こうして生態学的に転回・展開していく。「ポリアモリー」は今や「人間」どうしのそれではなく、無数の生きとし生けるものが生命エネルギー的に求めあい、愛しあう「エコゾフィ」(ガタリ)的ポリアモリーなのだ。

 GEIDOのもう一つの要諦、「冷たくも熱いクリエーション」。セックスという、もちろんいたって「冷たい」営みを、この21世紀の世でどのように「熱く」再デザインできるのか。私たちは確かに、「グローバル化」された現代だからこそ、手軽にアクセスできる多様な身体術に囲まれている。それこそ多種多様なヨ(ー)ガ、瞑想法(坐禅から「マインドフルネス」まで)、様々な整体術、ダンスから、はてはアレクサンダー・テクニックやフェルデンクライスなどにいたるまで、これらの身体術を自分独自に採集し編集して「小さな物語」を編むこともできるだろう。そうして、自分なりに「感じる身体」を「準備」することもできるだろう。

 だが、これらの身体術の多様さに比して、こと「熱い」性愛術に関しては、少なくともこの国では(擬キリスト教的あるいは儒教的道徳観がいまだに無意識的に規制するのか)それほど豊かなメニューがあるとは言い難い。これほどまでに「哲学的」でないポルノグラフィが氾濫している世にあって、「熱い」性愛の指南は乏しいと言わざるをえないだろう。

 だからこそ、例えば私は、性愛に関して同種の思想をもつ「同志」たちと、以前独自のワークショップを企画したことがある。その名も「マインドフル・セックス・ワークショップ」。概要は以下の通りだ。

 

 このワークショップは、自分のセクシャリティを肯定的に受け入れなおし、セックスを、生きることの深い悦びとして体験しなおすことをめざします。

 人間は皆、男女がセックスをしてこの世に生を授かりました。セックスは生命の根源です。けれど、セックスは「こそこそしなくてはいけないこと」、「大っぴらに話してはいけないこと」、として扱われていないでしょうか? 世界のほとんどの宗教も、それを最大のタブーの一つとしています。それなのに、社会にはセックスに関する情報が氾濫しています。

 多くの人たちは、そうしたメディアが押しつけてくる性の歪んだイメージ、固定観念に縛られ、煽られ、悩み、自分のセクシャリティをありのままに感じる機会を奪われてきたのではないでしょうか。

 私たちは、今回、中央アメリカのコスタリカでマインドフルな暮らしやセクシャル・ライフを送る二人の女性、丹羽順子さんとナトリシュカ・パーサーさんと話し合いを重ねながら、マインドフル・セックスに関する4つのワークショップを準備しました。

 このワークショップでは、個人の物語のシェアリング、そして自分の感覚、女性性・男性性を蘇らせる呼吸法、瞑想法、安心してポジティブに話しあえる対話などを行うことで、自分がこれまで性について抱いてきた偏見やコンプレックスを解きほぐし、自分のセクシャリティをありのままに感じなおすことをめざします。

 そして、パートナーとのセックスが、単なる欲求のはけ口や肉体的な快さ、あるいは不満の源泉ではなく、もっと深い愛情と精神的な悦びをもたらすものであることを理解、体感していきます。

 入門編では、まずセックスについて楽しく真剣に語り合うところから始めます。応用編では、日本ではなかなか体験できる機会の少ない、深い愛情に到達するワークを一緒に行っていきます。セックスを通して、生の輝きをとりもどすこと。そういう人たちが増えていけば、この、お金や権力への執着の強い社会が少しずつ変わっていく。そんな遠くない未来をイメージしながら、私たちは、今回のワークショップを企画しました。註31

 

 私たちは、さらに深く、そして気軽に、この「生命の根源」について学び、実践していかなくてはならないだろう。

 

 

 

註1 五木寛之『サイレント・ラブ』、角川書店、2002年。

註2 五木寛之『愛に関する十二章』、角川書店、2002年。

註3 同書、234-235頁。

註4 ブロニスロウ・マリノウスキー『未開人の性生活』、泉靖一・蒲生正男・島澄訳、1999年、新泉社。

註5 五木『サイレント・ラブ』、71-73頁。

註6 ジェイムズ・N・パウエル『エロスと精気(エネルギー)――性愛術指南』、法政大学出版局、1994年。

註7 同書、135-136頁。

註8 Robert Becker, The Body Electric: Electromagnetism And The Foundation Of Life, William Morrow Paperbacks, 1998.

註9 パウエル、前掲書、147頁。

註10 同書、148頁。R.ベッカーも次のように書いている――「地球上で〔先カンブリア紀に〕10ヘルツの電気が放出される中で形成されたすべての物――そしてそれらに由来するすべての物――は、始原の電源が失われて以降も依然として同じ周波数で共振している、あるいはその周波数に対する感度が非常に高いと思われる。10ヘルツという波長は、ほとんどの生命体にとって昔も今も非常に重要であることに変わりないだろう。先述したように、10ヘルツは、あらゆる動物の脳波で最重要な波長であり、それはまた、ある人間が地球と月と太陽の電磁場から何らかの仕方で切断されたときに、生命リズムを回復させるのに用いられる波長でもある。」(R. Becker, op.cit., p.259、拙訳)

註11 同書、153頁。

註12 ルドルフ・フォン・アーバン『新版 愛のヨガ』、片桐ユズル訳、野草社、2019年。なお、パウエルも、それを参照した五木も、著者名を「フリードリッヒ・フォン・ウルバン」としているが、誤記だと思われる。

註13 同書、15頁。

註14 同書、100頁。

註15 同書、102-103、122頁。

註16 同書、103-108頁。

註17 同書、108-113頁。

註18 同書、113-117頁。

註19 同書、117-123頁。

註20 同書、130-131頁。

註21 アウグスティヌス『神の国(三)』、服部英次郎訳、岩波文庫、1983年、350-351頁(傍点筆者)。

註22 以下、タントリズムに関する考察は、拙著『汎瞑想』の第4章「快楽を瞑想する」の一部と重複することを許されたい。

註23 ミルチャ・エリアーデ『ヨーガ 2』、エリアーデ著作集第十巻、立川武蔵訳、せりか書房、1975年、86-87頁。なお、『』内の引用文は、La Vallée Poussin, Bouddhisme : Etudes et matériaux, p.135からの引用。

註24 同書、86頁。

註25 同書、71頁。なお、『』の引用文は、経典『ゴーラクシャ・サンヒター』からの引用。

註26 ウィリアム・ハート『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』、日本ヴィパッサナー協会監修、太田陽太郎訳、春秋社、1999年、169-170頁。

註27 同書、152頁。

註28 小倉ヒラク『発酵文化人類学』、木楽舎、2017年

註29 神保泰彦「生体電気計測の基礎」、『精密工学会誌』、vol.73 no.11、2007年、1204-1207頁。

註30 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント――「悟り」とは何か』、新潮社、2015年、179頁。

註31 ワークショップの詳細は、以下を参照されたい。https://mindful-sex.mystrikingly.com

 

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、『藝術2.0』(春秋社)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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