web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

木幡順三さん――求道としての美学

 

木幡さんが亡くなられて既に三十有余年、その名も知らないというひとが増えているらしい。1984年、58歳の若さで亡くなったときには慶應義塾大学の教授だった。もしも、いつの日か日本の美学史が書かれることがあれば、木幡さんは、オリジナルな思索者として、その1ページを飾ることだろう。そのユニークさは、一貫して人生における美的体験の意義を問い、それを自身の研究人生の道程と重ね合わせて生きた、ということにある。その著作の字面を追えば、学問的情報に彩られていて、「本心」はなかなか見えてこない。遺著となった『求道藝術――藝術と宗教の地平』(春秋社、1985年)が書かれなかったならば、その思索者としての素顔はついに明かされなかったかもしれない。以下、わたしの知るかぎりの木幡さんのそのような素顔を素描したい。いや、このような言い方は不正確だ。知るかぎりの素顔を描くと言えば、懐旧談のように聞こえる。もちろん、貴重な思い出がいくつもある。しかし、それだけではない。これを書くために『求道藝術』を念入りに再読し、もうひとつの遺著である『美意識論』(東京大学出版会、1986年)をもひもといた。その思想が著者の肖像を描くのに不可欠と思ったからだ。学問的な木幡順三論ではないが、以下のエッセイは、いかほどか木幡さんの美学についての粗書きな解釈に及んでいる。

 

それでもやはり、まずは思い出から。個人的なものだが、心の底に沈みこんだ重みがある。これまで瑞枝夫人にも話したことはない。というより、何故かとくに瑞枝さんには話してはいけないように思ってきた(瑞枝さんも美学者で、よく存じ上げていた。『齋藤史 存在の歌人』不識書院 1997 ほかの著作がある)。その瑞枝さんも亡くなられたので(2018年)、解禁してもよいかと思う。あれは1980年頃のことだった。木幡さんから分厚い私信を頂いた。その手紙は処分することのできるようなものではなかったから、いまもどこかにある。探して読めば、より詳細なことが分かるはずだが、探し出しても再読をはばかる気持がつよい。だから、記憶のままに話すことにしよう。当時住んでいた野田の家の書斎で、夜の薄闇につつまれ、机上の小さな明かりの環のなかで封を切った。この大先輩(木幡さんはわたしより17歳年長だった)から手に重い封書をもらうということが既に、不穏な何かを告げていた。手紙の内容は、一言で言えば、死の宣告を受けた、という告白だった。木幡さんが宿痾に苦しんでいるということを、それまで知らなかった。瑞枝夫人は、『美意識論』のあとがきのなかで、「15年にわたる」闘病と書いているので、発症は1969年だ。病は母子感染による先天性の肝炎で、病状は緩慢に、しかし確実に肝硬変へと進む。イプセンの『幽霊』のような、運命としての病だ。木幡さんは旧友の医師を主治医として、通院治療を受けていた。あるときその医師から、「お前も長年美学の研究をしてきたのだから、そろそろ、生きて来たことの証となるような本を書いたらどうだ」と言われた。それを聞いた瞬間、「わたしは全身が一気に紅潮した」と木幡さんは書いてらした。この医師の言葉も、木幡さんの手紙の言葉も引用ではない。だから、字句はそのままではないが、内容の記憶は鮮明だ。発症から約10年で余命を数えるほどの状態になった、ということである。そしてこの重い手紙の告白を受けたあと、わたしは木幡さんと5年ほどの交友の時間を得ただけだった。

 

病の事実の衝撃とともに、何故わたしにその秘密を洩らされたのか、という謎をあやしむ思いにも捉えられた。この告白を受けて、木幡さんとわたしの心の距離は一挙に縮まったが、それまでは特別に親しい間柄であったわけではなかった。いま顧みて、木幡さんがわたしに何らかの親しみを感じてくださっていたとして、それがなにゆえのものだったかと自問すれば、木幡さんの一般美学論である『美と藝術の論理』(勁草書房、1974年)についてわたしが送った感想や疑問を綴った手紙しか、思い当たるものはない。と言っても、わたしがそこに何を書いたのか、まったく覚えていない。疑問や質問を呈すること、ときには反論を試みることが、著書を送呈されたときの最高の謝意の表現であると考えていた(いまもそう思っている)から、きっと、生意気なことを書き連ねたに相違ない。木幡さんはその一々に応答してくださった。それを愉しんでおいでの風でもあった。この著書は多くの版を重ねた名著だが、初版は著者が東洋大学に在籍していた頃の刊行で、1976年に慶應に移られたあと、同大学の通信教育部の教科書として使用された。その聴講者のひとりから、「わたしが探していたのはこういう美学だったのです」と言われたことを、とても嬉しそうに話されたことが記憶に鮮やかだ。この言葉からは、その受講者が相応の経験を積んだ年配のひとであるような印象を受けるが、どういう点に共感したのかということは分からない。推測するに、人生のなかでの美や藝術の経験の意味を問う著者のスタンスに、《求めていたものを見つけた》という感動を覚えたのではなかろうか。もっとも、そのような学問的姿勢は、『求道藝術』においてこそ前面に現れてくるのではあるが。

 

告白を受けてからの数年間、ときおり会って歓談のときを過ごす、という以外に特別のことがあったわけではない。その歓談の話題にしても、上記の聴講生の話が記憶にあるだけだ。それでも、その話題を含め、木幡さんが慶應での研究教育に大きな満足を覚えてらしたことは、わたしにも幸福感を与えてくれた。東洋大学では、一般教養の担当で、専門的な問題意識をもたない多くの学生を相手にしてらしたので、それを徒労と感じておられたようだ。その間も専門的な研鑽を積んでらしたことは、その著作から明らかだ。読書の幅の広さと読解の綿密さは際立っていて、今も感嘆の念を禁じ得ない。研究の深まりと仕事の環境のあいだのギャップゆえに、ご自身の問題意識と聴講者の関心の隔たりは広がっていったのだろう。慶應での研究教育生活に幸福を感じたということは、独白的な研究ではなく、学生たちとの学問的交流を重視しておられたことの証左だ。

 

木幡さんが亡くなられる前後、有難いとしか言いようのない三つのお役目を頂いた。まず、亡くなられる少し前のことだったと思う。慶應の中野博詞教授から電話を頂いた。中野さんはハイドンの研究者として著名な音楽学者で(『求道藝術』同様、高梨公明さんの編集した『ハイドン復活』や『ハイドン交響曲』が春秋社から刊行されている)、木幡さんは同じ学科のなかで、特に親しかったらしい。電話は非常勤講師の依頼だった。それが木幡さんの指名であるということから始めて、慶應が自由な校風であることを語り、熱心に誘ってくださった。たしか池田弥三郎の名を挙げ、かれの場合は休講ではなく開講の掲示が出るくらいだ、と言われたのが、別世界のように新鮮に聞こえた。講師の件は有難くお受けしたが、もちろん、池田流の自由を享受するようなことはなかった。これが機縁で、その後、非常勤ながら非常に長い間慶應の教壇に立つことになったが、それはわたしの教師人生のなかで特にしあわせなことのひとつである(何人かの受講生とはいまも親しい交流がある)。この最初のお誘いの際、何故木幡さんご自身ではなく、中野さんが電話してこられたのか、不審に思わないわけではなかったが、そういうお役目なのだろうと一人合点した。そして間もなく木幡さんの訃報を受けることになった。いずれ近いうちと予期してはいたが、やはり衝撃だった。驚かされたのは、瑞枝夫人から弔辞を依頼されたことである。後にも先にも、弔辞を読んだのはこのときだけだ。巻紙に筆で書くというマナーは見知っていたが、生来の悪筆なので、原稿用紙に書いた。多分標準を超える長さだったと思う。弔辞のスタンダードなスタイルを知らずに書いたから、その作法には無頓着で、直情的なものだった。それを読むときには、恥ずかしいほど涙にくれた。東北大学の西田秀穂さんが、「若いひとが木幡君をどう思っているのかよく分かった」と言ってくださったが、下書きを取っておかなかったので、いまその内容を知るすべはない。葬儀には大阪から、小学校の同級生だった女性が数人参列していて、「木幡君は優しくて、勉強をよく教えてもらった」と述懐しておられた。三つめのお役目は年を越して翌春のことだ。遺著として『求道藝術』が刊行され、その紹介文を『春秋』に書くようにという、やはり瑞枝夫人からのご指名を頂いた。『求道藝術』は、木幡さんの人となり、その学問的生涯を知るうえで決定的に重要な著作である。もしも、この著書が書かれなかったなら、木幡さんは温厚でひとに優しく、篤実な研究者という像しか残さなかっただろう。だから、この本の意味を問うことが木幡さんの肖像を書くことだ、と言っても過言ではない。だが、そのまえに問うておきたい疑問が2つある。

 

木幡さんは大阪の生まれで、旧制の三高(のちの京都大学教養部)を卒業し、1948年に東京大学に入学している。何故なのだろう。いわゆる京都学派の名声もあり、哲学の分野では、東京から京都に行くひとはあっても(三木清がその代表)、京都から東京に進むひとはまれだったのではあるまいか。もうひとつの疑問は、木幡さんはなぜ、美意識論を自身の「主著にしたい」と考えたのか(瑞枝夫人の証言。『美意識論』あとがき)、ということだ。美学の研究者でなければ分かりにくいことかもしれないが、美意識ということばは実に厄介で、得体が知れない。この語は多くのひとの口にするものだが、もとは西洋語からの翻訳で、このように訳したのは美学研究者のサークルだったに違いない。しかし、日常語としての「美意識」が、「漠然と美に関する個人の判断基準を意味する」(『日本国語大辞典』)のに対し、美学の術語としての意味はこれとは相当に異なっている。わたしはこの日本語の形成史を知らないが、ドイツ語の Ästhetisches Bewußstsein (英語では殆ど使用例を見ないが、敢えて英語に直せば aesthetic consciousness で、話は通じる) の訳語であることは間違いない。厳密に訳せば「美的意識」と言うべきところ、美意識というなめらかな言い回しをとったために、この日本語は言わば成功をおさめ、独り歩きして、右のような意味で使われるようになった。わたしは、この語はその日常語の意味で使うべきだと思っているが(その意味での用語としては味わいが深い)、例えば英語の aesthetic consciousness がその意味を表し得るのかどうか、確信がない。また、付言すれば、この語句はわたしが調べたかぎりの欧米の美学や哲学の用語辞典には、全く取り上げられていない。日本の美学者のなかでもこの概念を主題として論じたのは大西克礼と木幡さんの二人しかいない。そこで、さきほどの何故東京かという疑問とこのテーマはリンクするのではなかろうか。木幡さんは大西の『美意識論史』を読んで、東京大学での美学研究を志したのではないか。大西のこの論考が単行本として刊行されるのは1949年のことだが、初版は『岩波講座哲学〈問題史的哲学史〉』に上下として公表されている(1933年。ただし、この二つの版の異同をわたしは確かめていない)。だが、妙に専門的な推断が過ぎたかもしれない。それでも敢えてそうしたのは、木幡さんにとって「美意識」の概念がとくに重要なものだったこと、そしてそこには不可避的に、独自の意味が込められていたことを示しておきたかったからである。事実、この概念は、木幡さんのなかで求道の概念と深く共振している。

 

そこで、美意識に関する考察を糸口にして『求道藝術』に進み、これらにおいて木幡さんが何に心を震わせていたのかを考えたい。とはいえ、この概念そのものが難物であるのに劣らず、これに関する木幡さんの思想も簡明に示すことは容易でない。木幡さんは竹内敏雄編『美学事典』(弘文堂、1961年)にかなり長文の「美意識」の項目を書き、その10年後、平凡社の『哲学事典』にも同じ項目を寄稿している(これは無署名だが、著者が木幡さんであることに疑問の余地はない)。後者の解説の方がずっと明快だが、前者では「美意識」が「美的体験」と交換可能な概念であるという指摘、後者ではこの精神活動の創造性を強調し、藝術批評や美学思想の根底をも支えるものとしている点が注目される。わたしがこの3点を特に取り上げるのは、それらが相互に結び合っているように思われるからだ。

 

まず「美意識」が「美的体験」と同義なら、なぜ美的体験と言わないのか。こちらは多くのひとが論じている基本術語である。これについての木幡さんの説明は見つからないが、あとの2つのモチーフ(創造性、および批評や美学の根底となること)のなかに、その答えを見ることができると思う。美意識の創造性とは、藝術作品なり自然景観なりの体験において、その対象を、単にそこにあるものとして受け取るのではなく、自身で構成し、或る意味で作り出す、という意味である。誰もが経験している身近な事実に照らして説明するなら、自己の成長(あるいは老化)とともに、同一の作品の見え方が変化してくる、ということがある。嵐のように経験した作品が齢を重ねると味わいの深いものとなり、若いころには見えなかった細部が印象を増してくる。あるいは、青春期に熱狂した作品が、壮年期には陳腐なものに見えてくるということもある。これはそのときどきの自己が、作品を或る意味で創造しているからである。もちろん作品は作者が創ったものに相違ない。しかし、読んでいない小説は、知識として存在している事実にすぎない。それがわたしにとって藝術作品であると言えるためには読まなければならず、読書は一種の対話である。それはわたしの関心、価値観、感じ方によって、作品はある起伏をもって現れてくるからである。裏返して言えば、読まれた作品はわたしをつくる。それまでに培ってきた関心や価値観を強められたり、逆に再考を促されたりするからである。このようにして、またこの意味において、美的体験は創造的である。それを「美意識」と呼ぶことに執着するのは、おそらく、「体験」が一回限りのものという含みをもつのに対し、この創造的体験の延長上に経験主体の成熟を見ていたからではないか、と思う。「意識」がひとの精神活動の現実態であることを、木幡さんは強調している。

 

精神の活動としての美意識を語り、その心理学的な意味に対して哲学的な意味を強調してはいるが、木幡さんの美意識論は十分な成功に到らなかったと思う。『美意識論』は全7章からなり、著者の作成した目次原稿と、昭和59(1984)年4月の日付のある「はしがき」を含んでいる。すなわち、それは完結した著作である。だが、完成とは言えない。この「はしがき」は著者の亡くなる数か月前に書かれたものだが、それは木幡さんが近づいてくる死に直面しつつ『求道藝術』の完成に心血を注いでいた時期だ。当然、『美意識論』の本文は『求道藝術』に着手する以前に書かれたものである。これが真に完成していたなら、『求道藝術』は書かれなかったろう。完成のために何が欠けていたのか。それは、右に指摘した美意識の成熟という主題に届かなかったことである。『美意識論』は2つのモチーフの議論に尽きている。ひとつは「驚き」(木幡さんは「驚異体験」という)、もうひとつは「時熟」である。美的体験としての美意識は「出来事」であるから、「驚き」から始まる。子供が驚くようなことに、大人は驚かなくなる、という事実が示すように、驚きはひとそれぞれの、その時々の状況の函数である。これを積極面から言えば、何かに驚きうるためには、時満ちていなければならない、ということであり、これが「時熟」ということである。ただしそれは、いまの驚きの由来である。その驚きの体験が「意識」(=精神の現実)を変容させるという行方のほうは語られていない。深い洞察を含みながらも、紙幅の大半はアリストテレスの「驚き」概念の分析に充てられ、その驚きの体験の展開に関する議論は尽くされていない。おそらくこの不足を認めた木幡さんは、思い切って仕切り直しをされた。切迫して縮んでゆく生命の地平のなかでの、大きく重い決断だったと思う。その新企画が『求道藝術』である。求道というテーマは、主治医が示唆したそれまでの研鑽の証という以上に、木幡さんの美学者としての人生を凝縮している。それは突然湧いた構想ではなく、木幡さんの心中に温められていたものとわたしは確信する。「美意識」が西洋の美学に由来するアカデミックな概念で、学界において一定の市民権を得たものであるのに対して、「求道」は美学の世界に馴染みのない概念だった。察するに自己検閲で「取り上げられない」ものとしていたこのテーマこそ、自身の美学をまっとうに表現できるものであったから、最後に木幡さんはこの自分の主題へと跳躍した。この著作には、当然、上記の残りの1点、《美学の研究にも美意識の創造性が支えとなる》というモチーフもまた、通奏低音として響いている。美学研究によって成熟した木幡さんの美意識が、その成熟そのものの自覚を求めた。『美意識論』は『求道藝術』の序論として読むべきものだ。

 

その『求道藝術』は、大冊ではないが、貼り箱に収められている。しかも布装だ。編集者の敢えて言えば愛情を感じさせる書籍になっている(普通、著者がこのような装幀を望んでも、出版社はとりあってくれない)。今回この本を開いたのは、実に35年ぶりのことだ。開くと、瑞枝夫人の楷書体によってわたしの名前の書かれた謹呈の短冊と、わたしの書いた2枚のメモが出て来た。右に記したように、刊行された折、『春秋』誌に紹介文を寄稿するよう依頼されていたので、読みつつしたためたメモである。このときに書いた記事(同誌 No.270)も(気はすすまなかったが)読んでみた。いまも同じことを言う、というところもあるが、理解が行き届いていないところが多い。恥ずかしいが仕方ない。35年を経て理解の落差が生まれるのは当然である。時とともに色あせる作品もある、あるいはそれが多い、ということは重い事実だ。『求道藝術』がより豊かになってわたしの前に現れたことは、この著書の充実度と豊かさを示すものである。この間のわたしの理解の落差はまた、木幡さんの美学をよりよく理解するためにわたしの必要とした時熟の反映でもある。その肖像を描くために木幡さんの美学と対座して、近年のわたしの問題意識(「みなぎるもの」、自動詞性、美のエロス性、美の不意打ちなど)と重なるところの多いことに、いま驚いている。木幡さんが示してくださったあの親近感は、これを既に感じ取っておられたがゆえのものだったのかもしれない。

 

その内容だが、メモは時を経てそれだけ読んでも殆ど意味をなさない。この本自体を再読して、かつてメモに取らなかったことで今重要と思うことも多い。それらを書き込むと、わたしのメモはいよいよ錯雑としてわけのわからないものになったが、いまは解読できるし、多彩で豊かな思想を伝えてくれている。ただ、それを展開することが肖像になるわけではあるまい。木幡順三がどういうひとであったかと言えば、その優しさを底辺として、なにより美学者であり、研究対象である美や藝術の現象のなかに自身の人生を読み取るという点で、ほとんど類を見ない美学者だった。その自覚を綴ったのが『求道藝術』である。だから、そこに焦点を絞り、いくつかの思想モチーフを紹介しよう。

 

巻頭のことば、「宗教は藝術にとってアルファにしてオメガ、始源にして終極である」。この確然とした強い断言は、少なからぬ読者を逃がすかもしれない。宗教が藝術の「始源」であることは、歴史的事実として誰もが承知している。しかしそれが「終極」でもあるということは、近代的な藝術観を逆なでする。美や藝術の自律性という近代思想は、藝術がとりわけ宗教の桎梏から自由であることを宣言するものだったからである(木幡さんは自律性という理念の支持者でもあったが、何故かという議論には立ち入らないことにする)。巻頭の断言において木幡さんは、独自の意味でこのアルファとオメガを考えていた。とくにアルファに相当するものとしては、『美意識論』における「驚異的なもの」が「ヌーメン的なもの」に替わった。R・オットー(『聖なるもの』、岩波文庫)から援用した「ヌーメン的なもの」とは、まずは自然現象のなかに体験される聖性であり、多くの場合は恐ろしいものだが、魅惑的な秘義として現れてくることもある。藝術はこれを永遠化しようとする。そこで木幡さんは造像活動や、写経における荘厳に注目し、これらを最初に論じている。「ヌーメン的なものの永遠化」とは、藝術表現としてヌーメン的なもの(いわく言い難い恐ろしい、あるいは魅力的な何か)を実現することであり、藝術の一般的な特性として考えているのであるから、これらの宗教藝術だけのこととして済ますことはできない。藝術の卓越性は、作品がある霊的な力を具現することがその証となる、ということであろう。この意味において藝術のオメガも宗教だ、と考えられていると解される。この宗教は、特定の宗派としてかたちを取るような宗教ではなく、目に見えない霊力の存在に関わる経験のことである。しかし、作品が具現した霊的なちからとは美ではないのか。むしろ美と呼ぶべきではないか。木幡さんがこれをどこまでも宗教的な概念で捉えようとしたのは、目に見えない何かに向う自己形成としての「求道」に即して物事を考えていたからである。「求道性そのものは日常生活の根底にも、藝術活動にもひとしく見出されるべき、人間存在固有の傾向である。ここでいう〈道〉は文字通りの道程であり、過程であり、それが通じる先、それが至りつく先はまさしく〈聖なるもの〉のありどころである」(p.180)。当然、学問も求道となる。

 

では、どのようにしてその聖なるものが作品において達成されるのか。それについての木幡さんの考えは、この道程という表象のなかに含まれている、と言ってよい。美意識論においては十分に議論のなかに組み込まれていなかった時間の契機、成熟の契機が中心に置かれている。より具体的に木幡さんはそれを「俗聖翻転現象」と呼び、これが『求道藝術』全巻を貫く基本概念になっている。その意味するところは、藝術制作という「世俗活動が媒介となって聖なるものの世界が突如眼前に展開されてくる」(p.8)ということにある。営々として藝術に打ち込んだひとに、あるとき聖なるものが訪れる。「藝術という名の技術(テクネー)は、もっぱら間断なき修練によって維持されるのであって、一旦作品の制作に成功すればもはや少しも顧視されない、というような性質のものではない」(p.9)。つまり、人生を通し、修練を積むことによって聖なるものに達する、ということである。「求道実践は勿論日々の行住坐臥とともにあり、そのかぎりで日常生活に根ざしている」(p.10) と言われるのも当然であろう。成果は作品に結晶するのではなく、そのひと自身の変容として実現する。だから、行いがあって作品のない「準藝術」、すなわち弓道や剣道、茶の湯などに木幡さんの関心は向う。それは技術を磨く道程だが、目指すところはその技術を忘れる境地にある。そうして「人智のかぎりを尽くして工夫した手段、あらんかぎりの修行によって体得した技術が、結局は自然の過程に呑みこまれてしまう」(p.186)。この技術の超克が禅で言う「悟り」である(p.222)。すなわち、「〈心の忘却〉こそ〈諸藝に通じる〉原理、普遍的な〈わざ〉の主体的な原理」であり、柳生の兵法書の教えは、万事が「難なくするするとゆく」の一句に結晶する。その意味は、自我が何かをする主体ではなく、「むしろ〈場〉となって事象が経過すること」にある(p.241)。――大分あとになって、わたしが「自動詞性」を考えるようになったとき、木幡さんのこのくだりを覚えていなかった。それは不注意ではない。わたしの身体的生理はこれを忘却した。しかし、それはいわば修行のひとこまとなり、わたしのなかでこのテーマへの時熟を促してくれる力となったに相違ない。学問の場合、到達点はひとつの自覚であって、心の全面的な忘却というわけにはいかない。『求道藝術』も驚くほどの学知にあふれている。やはり柳生宗矩の『兵法家伝書』に依りつつ、木幡さんは「習」の「昇華(Sublimierung)」としての「位」を語っている(p.237)。求道による聖なるものの発見、実現である。美学を志して三十有余年、さまざまな修練を経て、『求道藝術』において木幡さんは、学者として可能なかたちで(学者に不立文字はできない)「位」をきわめた。その手応えを感じていたと思う。

 

『求道藝術』は著者のまえがき、あとがきを欠いている。完成原稿を編集の高梨さんに渡したあと、「著者はほっとしたような顔つきで、〈まえがき〉も〈あとがき〉も初校のさいに自分で付け加えると、私に話していた」(瑞枝夫人によるあとがき)、という。「まえがき」も「あとがき」も、なくてはいけないというものではないが、木幡さんは書きたかった。特に「あとがき」には、畢生の著書を仕上げた心境が吐露されるはずだった。完成原稿を渡したときの「ほっとした顔つき」は、人生の達成感ではなかろうか。このとき木幡さんは、自ら初校に朱を入れることができる、と思っていた。ひとは、生物であるかぎり、必ず死ぬ。しかし、いつ死ぬかは分からない。木幡さんの場合は、友人である主治医からの遠まわしの宣告を受け、また、間隔が短くなってゆく入退院の繰り返しを通して、自らの死が間近であることを分かりすぎるくらいに分かっていた。そしてその友人の勧めもあって、美学者として生きて来た証となる著作に取り組み、「証」以上の名作を完成させた。その時点でなお、初校までの猶予があるものと思っていたことは、辛い感動を誘う。その木幡さんにも死は唐突にやってきた。書かれなかった「あとがき」は、その死を無残なものと思わせる。しかし、達すべき位に達していた木幡さんは、そういうことがありうることをみとめ、達観しておられたのかもしれない。そういう思いは、やさしかったかれの笑顔の面影と重なる。

 

 

バックナンバー

著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

閉じる