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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

「戦後派」群像――強いられた自由を生きた人たち

 

東京大学の美学科にとって、構内に陣取る出版会にはたのもしい守護神がいた。斎藤至弘(みちひろ)さんという学科の卒業生で、『講座美学』全5巻が実現したのも、斎藤さんあってのことだった。わたしの場合、『作品の哲学』も斎藤さんに作って頂いたし、『美学辞典』は斎藤さんからの教科書を書かないかというお誘いから始まったものだった。

 

その教科書企画だが、お引き受けしたものの、わたし自身、既成の教科書を使って授業をすることに、どうしてもなじめなかった。だから、ほかの教師たちも他人の書いた教科書を使い、確信をもってその所説を語ることには、強い拒絶感があるはずだ、と思い、この難題の解決に苦心した。いろいろ模索した結果が、知識として人びとが共有している主題、概念、考え方などを柱に、わたしの私見に属することをそれらとは分けて書く、という形式で、結局、共有された知識を強調して辞典を名乗ることになった。

 

その途上、斎藤さんが亡くなられた。わたしには突然の悲報だったが、癌とのことだった。そこでこの「教科書」の担当を引き継がれたのが、門倉弘さんである。そう伝えられたとき、ちょっと嫌な感じがした。少し前、後輩の原稿の出版をお願いに行ったとき、かれからぴしゃりと断られたことがあったからである。今にして思えば、その原稿のスタイルが出版会の学術スタイルに合わない、ということだったから、もっともな理由だった。しかも門倉さんは、どうしても出版会で出したいというのなら考えます、とも言ってくれたので、十分暖かい対応だった。しかし、そのときは、言いにくいことを、言いにくくなく口にする人だと思った。斎藤さんは、対応に相当苦慮されたのだろう。いま思えば、「担当の編集者からお答えします」という正論で、斎藤さんは逃げられたのかもしれない。もっとも、持ち込まれた原稿を断ることは、編集者の基本的な仕事に相違ない。その日常的な責務を果たしただけだったろうが、門倉さんは煙たいひとだという印象が、わたしには残っていた。

 

実際に仕事をしてみると、門倉さんは実に頼りがいのある編集者だった。この著作を辞典として刊行する最後の決断は、かれの励ましによるところが大きい。最終段階の校正では、お宅が拙宅から遠くないということもあって、近くの喫茶店に来てくださって仕事をした。内容に肩入れしてくれて、これだけの情報量なら倍の値段でも売れる、とまで言ってくれた(そんな値段の本は誰も買わないだろう、とわたしは思ったものだが)。思想的な同調を求めているわけではないが、このように著作をかたちにするうえで、書き手の思い入れを共有してくれることが、わたしにとって望ましい編集者の第一条件だ。ともあれ、細々とではあるが、『美学辞典』が今日まで途切れずに、増刷されつづけていることは、門倉さんも勲章と思ってくれるのではなかろうか。ただし、学問の状況の大きな変化を経て、いま、わたしはこの辞典の大幅な改訂と増補を計画している。残念なことに、門倉さんは、もういない。定年後、奥様と屋久島に旅されたときの土産話をうかがったのが、最後になった。

 

その門倉さんが定年まぢかのころだったろう、美学の後輩の小田部胤久君を紹介してほしいと言われた。門倉さんの後継者の小暮明さんと四人で、大学の裏手、根津の飲み屋に行き、まずはよもやま話を愉しんだ。いきなり仕事の話では味気ない。しばらくおしゃべりをしたところで、小田部君にあらためて用件を伝え、お引き受けしたらどうですか、と言葉を渡した。すると、門倉さんが、

言ったなー、このヤロー!

と叫んだ。きっとジリジリしてらしたのだろう。もちろん驚いた。わたしは「このヤロー」呼ばわりされたことは、それまでにもなかったし、その後もない。そして、世間的な見地を少しだけ加味して言えば、まがりなりにも、わたしは東京大学文学部教授だった。しかし、この一言で、わたしはすっかり門倉さんが好きになってしまった。

 

その肉体はひ弱に見えて、門倉さんにはどこか野人の雰囲気があった。スーツにネクタイが不似合とは言わないが、借り着のような印象をあたえた。素面(しらふ)のときはヴォルテージが低く、お酒が入って始めて輝きはじめる、そういうタイプだった。「このヤロー」を聞いて、その確信を強めた。静かに話しておいでのときは、本当の門倉さんではないような感じがした。この印象とリンクする事実もある。出版会に落ち着くまえ、いくつかの出版社を渡ってこられたらしい。それだけのことなのだが、わたしは何故か闇市の匂いを嗅いだ。真正の闇市を知っているわけではないので、この印象自体真に受けて頂かない方がよい。そんなわたしが自然と連想するのは、文学部事務長だった金子要人さんである(事務長は文学部の事務方のトップである)。

 

今道友信先生が退官されたころのことだ。講座制だった東京大学文学部では、研究室が助教授だけになると言わば自治権を喪う。同僚の藤田一美君とふたり、そんな状況に置かれたところで、同情してくださったのだろう。事務長からは、何くれとなくモラル・サポートをいただいた。その金子さんは、何かのおりに、闇市派とも言うべき来歴を語られたことがある。精悍に日焼けし、中年太りとは無縁にスリムな体躯を、いつもダブルの紺のブレザーで決めたスタイリストで、異色の官吏だった。門倉さんの場合とは異なり、こちらは本物の闇市だ(自称ではあるが)。

 

東大にはクリーンデイのような慣習があり、事務職員たちがそれぞれのテリトリーの掃除や草むしりなどをする。ある年、金子さんが先頭に立って愉快に草むしりをしておられるのを目にした。他の事務長もなさっていたのかもしれないが、このときの金子さんはファミリーの長のように見えた。その姿に強い印象を覚え、そこに参加しないことに良心の咎めを感じた。また或るとき、どなたかが、金子さんはグレン・グールドがお好きだ、と教えてくれたことがある。その話題を持ち出すと、「このあいだもラジオでやってましたね。スイッチを切れと言ってやりましたよ」と、きっぱりした口調で応じられたが、その意味はいまもってわからない。闇市経由の来歴もホラかもしれない。よく笑い、その笑顔は柔和だが、ものを言うときは確然として頼りがいの感じられるひとだった。ホラかもしれないと思わせるところを含めて、その人品は「闇市」という荒波に鍛えられたもの、とわたしは思った。

 

金子さんは異色だが、異端ではなかった。世間一般にそういう雰囲気がまだ残っていた。やくざ映画が人気を呼んでいたのも、その世相の反映だ。門倉さんも金子さんも、わたしより一世代から二世代くらい上のひとだったが、わたしが大学に入学した頃、かなり年長の先輩たちが在籍していて、かれらには年の差以上に大人の雰囲気があった。これは本物の大人だが、戸山裕の藝名でギリシア悲劇の主役を演じていた西井一志さんは、同じ高校出身の先輩ながら(その藝名はこの高校の名による)、実は旧制の府立四中卒業で(四中が新制で戸山高校になった)、予科練、他大学を経て東大に入り直し、在学一三年に及ぶ猛者だった(西井さんの履歴を教えてくれた高取秀彰さんは、戸山高校で西井さんとわたしの間の年代だが、やはり東大長期在学者として知られている。面白い話もいろいろ教えてもらったが、それは高取さん自身に語って頂くほかはない)。わたしが大学院の学生だったころ、偶然、大学近くの路上で西井さんと出会ったことがある。すると、卒業証書の入った筒を恥ずかしそうにかざされた。かれは三七歳だった。東大入学も、新しい人生を拓くため、というようなものではなかったろう。予科練から生還したあとは余生だった。演劇はその余生をすがる杖だった。日比谷の夜空の下、ギリシア悲劇の巨大な人物たちを演じて、役柄に負けないスケール感が戸山裕にはあった。西井さんも、金子さんや門倉さんと同じく、「戦後民主主義」とは別の意味で戦後派と呼べると思う。社会システムが一新され、行き先不明の荒波のなかを生きたひとたちだ。その生き方は三者三様ではあったが。

 

この世代のひとたちのなかには、学生のやるアルバイトとは別の世界で生計を立てているのではないか、と思われる人びとがいた(西井さんは歌舞伎座の入口に小さな店舗を構える甘栗屋の主人だった)。有名なのは光クラブで、東大生が起業して高利貸しを営んだ事件だ。終戦直後のことで、わたしに直接の記憶があるわけではなく、文字を通して知った知識にすぎない。その主人公の山崎晃嗣には、世の中に対する抜き差し難いルサンチマンがあり、そのルサンチマンに鍛えられた強靭で冷酷な意志があった。わたしのように柔な人間は、束になっても太刀打ちできない人物と見える(幸いなことに、立ち向かうべきなんの謂れもないが)。わたしが学生だったときには、社会はすでに相当安定し、終身雇用制のもとで、表街道が標準化していた。いままたそのような人生回路は崩れつつあり、会社に就職しても転職するひとは珍しくない。さらに、学生からいきなり起業する人も増えているらしい。しかし、かれらはリクルート(六〇年代初めに江副浩正が起業)型で、新しい領域を開拓し、いずれ新しい大企業となって社会をリードして行こうという野心をもっている。「戦後派」は違う。強いられた状況のなかで格闘し、ただひたすら生き抜こうとした人びとである。門倉、金子、西井の三者は三様に生きたが、その姿には同じような風格がにじんでいた。かれらの発散する独特の匂いは自由の匂いだ。この「自由」は、哲学辞典に載っている意味のそれではなく、誰もが承知している日常語の自由である。格闘を伴うその自由には、どこか「ちょい悪」の風情が漂う。サルトルが言ったように、強いられた自由がひとの置かれた基本条件だとすれば、その自由を生きた人びとには、そのひとの生地が現れる。ここに素描した三人の先輩方はそれぞれに、あるいは強烈な、あるいはじんわりとした人間的魅力にあふれていた。できることなら、もう一度お会いしたい、そんな思いの懐かしい人たちだ。

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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