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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

秋山慎三先生――中学教師の「本意」

 

秋山慎三先生をご存じない方もおられよう。ご紹介すれば、わたしにとっての秋山先生は、東京教育大学出身で社会科の中学教諭である。わたしが学んだ新宿区立西戸山中学校には、有名大学出身の先生方が綺羅星のように並んでいた。一年次のクラス担任だった江藤(後に木根淵)みどり先生はお茶の水女子大学を出られたばかりの才媛だったし、東京理科大学出身の理科の先生、東京外国語大学出の英語の先生などなど。そのために、それを当たり前のことと思いこんだのが間違いと気づくまで、わたしは20年近くを要した。

 

なぜ、先生方の出身校を知っているかといえば、PTA誌の末尾に先生方の(今風に言えば)個人情報を集めたページがあり、住所や出身校、取得してある教員免許状の種類などが記載されていたからである。情報に関して、牧歌的な時代だった。

 

先生の風貌は、中肉中背、似顔絵で見た漫画家の馬場のぼるに似ており、おほほほと笑われるところがお公家さんのように見えた(お公家さんの知り合いがいたわけではないが)。わたしが社会科クラブ(正式の名称が何だったのか、覚えていない)に入ったのは、多分、秋山先生のお人柄と、その日本史の授業の面白さに魅せられたからだ。このクラブでどのような活動をしたかは、ほとんど記憶にない。貧窮問答歌を暗唱するように言われたことは覚えているが(いまでも、口を衝いて出て来る箇所がある。暗記は悪くない)、それを指導されたのはほかの先生だった。教師としての秋山先生にまつわる記憶は2つある。ひとつは、多分そのクラブ活動の終わったあとの流れだったと思う。同じ町内の或る場所を知っているか、と訊ねられ、そこにご案内したことがある。漠然としか知らない母子寮だった。思い起こせば、同じ町内にもうひとつ母子寮があった。戦争未亡人と呼ばれたお母さんたちが、子供と暮らすために用意された宿舎だ。その事実は知っていたと思うが、これら母子家庭の生活がどのようなものであるかは、思ってみることもなかった。訪ねた母子寮は、大きめの建物で、玄関からまっすぐ広い廊下が奥に伸び、両側に部屋が並ぶ、そんな造りだった。先生は目当ての生徒の部屋を訪ね、少しして戻ってらした。ただそれだけのことだった。その生徒のことは知っていたが、家庭を垣間見たのは初めてだった。かれに父親がいないということも、それまで知らなかった。この訪問は、不登校の事情を尋ねる趣旨のものだったらしい。これは教師として当たり前の職務だったのかどうかは、分からない。ただ、わたしは先生方のそういう姿を初めて目にした。

 

より強い印象をうけたことがある。同じクラスに、非行少年風の生徒がいた。ある日の授業のとき、いつもの「前ふり」のなかで秋山先生は、「われわれは言葉によって、気持ちを通わせ合う。しかし、言葉にはより根本的なはたらきがある。それは何か」という趣旨の問いを投げかけられた。わたしには謎めいていて分からなかったが、勢いで手を挙げた。多くの手が挙がったが、きっと誰もわかっていなかった。先生はその「ぐれた」生徒を指名され、かれは、「われわれは言葉を使って考えます」と見事に答えた。わたしは二重に驚いた。もちろん先ずは、かれが答えたことに驚いた(そのときのかれのどや顔が記憶にも鮮明だ)。小学校のときから知っていたので、そのかれが、そのように難しいこと、あるいはより正確に言うなら普通の素直な意識にとって死角にあるようなことを考えつくとは、思いもよらないことだった。そしてもうひとつは、その死角にある真実、自分が言葉を使って考えている、という事実は、わたしにとって啓示のようなものだった。だが、そもそもこれは、若い日本史の教師がなじむような主題だろうか。たとえばいま、この重要な事実をきちんと認識している大学生がどれだけいるだろうか。秋山先生の旺盛で幅の広い問題意識、知識欲が分かる。

 

この思い出は一度書いたことがある。しかし、いまでは捉え方が大きく変わった。かつては、その級友の名答に感心しただけだったが、今ではあれは、秋山先生がかれに言わせたことだったに相違ない、と確信している。わたしの考えはこうだ。その前日、あるいは数日前、先生はこの生徒と話し合いをもたれた(先生はクラス担任ではなかったから、上記の母子寮訪問の件と合わせてみて、生徒指導のような役目だったのかもしれない)。説教ではなく、よもやま話だ。その雑談のなかで、この言語の機能の話をなさった。そして、授業の際に、この話題を持ち出して、かれに答えさせた。もちろん、自信を持たせるためだ。自信をもてば、勉強だって面白いことがある、と思えるようになるだろう。現に、言葉でおしゃべりをするだけでなく考える、言葉がなければ考えられない、ということを知ることは愉しいことだったはずだ。かれもその解答を誇りとした。解答を教えられて、それを披露しただけじゃないか、と考えるのは浅はかだ。かれは言語のこのはたらきを理解した。そうでなければ、既に教えられていたことであっても答えられない。秋山先生は上手に誘導して、かれが自発的にその答を見つけたようになさっていたに相違ない。理解するとはそういうことだ。

 

秋山先生の歴史の授業に、わたしはわくわくしていた。その面白さの正体については、あとでお話しするが、何より先ず教室でのこのわくわく感があり、加えてこのような生徒指導を目撃して、わたしは秋山先生を理想の教師と思った。先生からも「健坊」と呼ばれて、可愛がっていただいた。都立高校入試の翌日(当時は都立高校を第一志望とする中学生が圧倒的に多数だった)、廊下の隅に呼ばれ、何点くらいとれたかと、訊ねられた。わたしは内申書がさしてよくなかったので、心配してくださってのことだ。その日は、自己採点をして、何点とれたかを計算する日だったが、点数を申し上げると「それなら大丈夫だ」と言ってくださった。この試験の時期、いま、心に去来する先生のことばがある。「試験をいやだと思っているひともいるだろう。たしかに、それはきびしい競争だ。しかし、この世の中で入学試験だけは公正な競争だ。ひとりひとりの学力だけが判定される。だから、がんばれ」という趣旨のことを話された。そのときは、額面通りのことだけを理解した(近年、公正ならざる入学試験についての報道がある。それは、中学3年生に話された秋山先生のこの言葉に照らして考えるべきことと思う)。しかし、それを覚えているということは、その言葉の含意を感ずるところが既にあったのかもしれない。字面を見れば、これは常識的な事実を語っているに過ぎない。しかし、言外には、入学試験以外の競争試験は、必ずしも公正なものではない、という認識がある。秋山先生はそのような経験をお持ちだったのだろうか。その種の経験のなかったひとに、あの言葉は口にできるようなものだったのだろうか。

 

さて、わたしが無事に高校に進学すると、先生は、分校が独立して出来た第二中学に移られた。なぜかちょっと残念な気がした。そう申し上げると、「社会の教師がひとり移らなければならないのに、誰も行きたがらない。だから、わたしが行ってもいい、と言った」とのことだった。その後数年すると、先生はさらに、都立教育研究所に「指導主事」として移られた。これも同様に、自ら貧乏くじを引いてそうされたのだと、確信した。本当は栄転だったのかもしれないが、そんなことはまるで念頭になく、理想の教師が現場を去ることは、非常に残念なことと、ただそう思った。大学院の学生だったころ、広尾の有栖川宮記念公園のなかにあった研究所に訪ねて、当時は珍しかった百円寿司屋に連れて行って頂いた。美学を始めたばかりの頃で、感性の繊細さが、国語はもとより算数、その他の教科において必要な繊細さと変わらない、というようなことをお話しした記憶がある。この考えに先生は関心を示された(ちなみに、この感性概念はいまもわたしの考えの中心にあるが、何か重要なものが欠けている、と思っている。その何かを理論化するのは相当に難しい)。新しい指導主事の仕事(それが何なのか、わたしにはよくわかっていない)に関連する関心だとは思ったものの、左遷されたかのようなやるせなさを覚えた。若い生徒らのなかにいない先生は、孤独に見えた。もちろん、わたしの勝手な思いである。

 

その後、先生は研究所の教育研究部長へと昇進され、最後は東京女子体育大学の教授に転身された。その頃、お宅をお訪ねしたことがある。わたしが非常勤講師として教えにいっている大学に、お宅は近かった。先生は「気のいい女の子たちに教えるのは悪くない」とおっしゃっていたが、わたしには宝の持ち腐れのような気がした。歴史の教育効果を考えれば、すでに体育を専門として選んでしまっている大学生よりも、より可塑性に富んだ中学生の方がずっと高い。大学教授という場は先生の本意だったのではあるまい、と思った。これもわたしの独り合点だ。いま、ここに先生の肖像(ポルトレ)を書こうとして、自分の思い込みに向き合う。そして先生の本意は何だったのか、と問わなければなるまい、と思う。

 

これまでにも、それを問うべき機縁が、実はあった。学生のころ、何かの相談事をしたとき、先生から知人の女性を紹介され、訪ねた。その時のことで唯一鮮明に覚えているのは、「秋山さんも本意ではありませんよ」という言葉で、これは語句そのままの記憶である。それをことばとして覚えているのは、「本意」はホイと発音すべき語だという国語としての学習が鮮烈だったからだ。覚えてはいたが、そのひとの言葉の意味そのものを考えることは、いままでなかった。秋山さんもと言われたからには、ご自身にとっても何かが、多分現実の生き方が、「本意」ではなかったのだろう。記憶では、その方は幼稚園か保育園のような施設を運営しておられた。秋山先生にとって、中学の社会科の教師は本意ではなかったのか。当時わたしは、そのようなことは考えてみることもなかった。「秋山さん」は教師が天職と確信していたからだ。それに、生徒が先生の人生を考えることは、普通はない。先生の人生を考えるとき、先生はすでにいかほどか友人である。

 

「本意ではありませんよ」という言葉と響きあう事実がある。以下に触れるが、先生には著書があり、そこに掲載された著者紹介には、どれも、「東京高等師範学校卒業」とある。わたしは、先生が「東京教育大学」出身と覚えていたので、違和感を覚えた。もちろん、この小文を書こうとして文献をひもといたときのことである。西戸山中学のPTA誌は間違った情報を記載していたのだろうか。そこで、ウィキペディアでこの組織の歴史を調べてみた。その複雑な沿革についてわたしが理解したのは、おおまかに言えば次のように要約できる。母体となったのは東京高等師範学校で、もともと、中等教員の育成機関として設立された組織だ。繰り返される学制改革のなかで、大学への改組の要求が内部から高まり、東京文理科大学、次いで東京教育大学が設立されたが、高等師範学校もその内部に付置されるかたちで1952年まで存続した。その1952年は秋山先生が卒業された年で、先生は高等師範学校最後の卒業生にあたる。ただ、このときの組織名は「東京教育大学東京高等師範学校」であるから、先生が東京教育大学出身を名乗ることに何の不都合もない。それを敢えて「東京高等師範学校卒業」と書かれることには何か意図が感じられる。

 

その意図が何であるかについては、いくつかの読み方があるだろう。穏当なのは、新制の教育大学に入学し、そこを卒業したひとと紛れるような書き方はフェアではない、と考えられた、ということで、これが先生の気持ちだったのかもしれない。しかし、わたしには「本意ではない」境遇を訴えているようにも聞こえる。ウィキペディアの「東京高等師範学校」の項には、次のように書かれている。「東京高等師範学校では、授業料が無料だった。また、政府から金銭(学費と被服費)が支給された。その代わりに、卒業後は旧制中学・高等女学校(戦後の高校に相当)や師範学校(教員養成大学)などの教員になる義務があった。しかも、所定の年数(年数は時代や条件により変動する)は教員を辞めてはいけなかった。帝国大学の授業料を払えない貧困家庭の優秀な人材が、授業料無料の高等師範学校に集まった」。秋山先生の場合がまさにそうだったのではなかろうか。つまり、中学校の教師であることは、先生の本意ではなかった。その後のキャリアは、わたしが思っていたのとは逆に、先生がご自身の本意に近づくためのものだった、と見ることもできる。もしもそうだとするならば、指導主事への転出は栄転であり、このプロモーションにおいて「東京高等師範学校卒」は重要な履歴だったのかもしれない。つまりそれは教育界におけるエリートのしるしだったのかもしれない。

 

このような反省のなかで、先生を識るには著書を読むことが不可欠、と思われてきた。先生に『やさしい日本の歴史』という著作のあることは知っていた(和歌森太郎監修で、秋山先生はこの歴史学者の「門弟」だった)。奥様を交えての歓談の席で、あれはよく売れた、とおっしゃっていた。もとは『毎日小学生新聞』に連載されたものだ。先生が四十代初め、指導主事をしておられたころの仕事である。これまで、子供向けの読み物と思い、わたし自身が読むべきものとは思っていなかった。単行本化されたものを、図書館から借りて読むことにした。昭和49(1974)年に同時刊行された4巻本である。わたしの住む地域にある千葉県立図書館には、第3巻と第4巻しかなかった。鎌倉時代から現代までをカバーしている。この2冊を通読して、新鮮に驚き、深い感銘を受けた。これが小学生向けの歴史書なのか。たしかに特に難しいわけではない。知的な小学生なら愉しく読んで、わくわくするだろう。老境にあるわたしもわくわくした。わたしは小学生や中学生のときの歴史(社会)の教科書がどのようなものだったか、記憶はなくなっているし、現在の教科書を知らない。しかし、これは断然教科書を超えて個性的だ。わたしの知らないことがたくさん書かれている。それは当然かもしれない。何しろ専門的な歴史書を読んだことがないのだから。しかし、問題は知識の量ではない。背景的な知識と見えるようなことがふんだんに書き込まれている。背景があって初めて、主題は生気を帯びて浮かび上がってくる。

 

『やさしい日本の歴史』を個性的にしているのは、著者である秋山先生が特に関心を払うモチーフがあって、それらが全篇を貫いているからである。それらは言わば、先生の世界観を表現している。思いつくままにいくつか挙げてみよう。まず、識字率。『平家物語』が語りものであることは、それを鑑賞したのが、貴族のようにそれまで文字の文化を担ってきた人びとよりも、むしろ武士や庶民など、文字を知らない人たちだったからだ。また、同じころ、鎌倉幕府が武士に与えた法である御成敗式目は、漢字の読めない地方武士を対象として、やさしい文章で書かれていた。更に江戸時代になると、文字の読める層が広がり、出版活動が盛んになって、人気の出た本は1万部も売れ、滝沢馬琴のように印税で生計をたてるプロの作家が現れたこと(本の値段が豆腐の値段と対比して挙げられている)が指摘されている。このように、文字を読めるかどうかは、社会の仕組みと密接している。そして、もちろん、教室でのあの「前ふり」につながっている。

 

弱者への注目も印象的である。女性の社会的地位が同情すべきものとして語られる。まずは戦国時代における政略結婚、すなわち政策の具として使われた女性のことが指摘される(信長に嫁がされた濃姫が十歳だったと、記述は具体的だ)。江戸時代には、「腹はかりもの」と言われ、子供ができないとき、それどころか夫が浮気をした場合でさえ、離縁されるような弱い立場を表わす言葉として、儒教的な「三従」(親に、夫に、子供に従う)が紹介されている。次に、長らく農業は国の経済を支える産業で、農民は主たる被支配者だった。『やさしい日本の歴史』における農民は、弱者でありながら知力と努力によって経済発展を担った強くもある存在として描かれている。荘園制のもとで、過酷な年貢に苦しみつつ、鎌倉室町期の農民は、開墾で田畑を広げ、灌漑を拓き、農法を工夫して生産性を上げたこと、その結果、ひとの支配から生産物の支配へと支配の形態が変わり、律令制の根幹をなしていた戸籍が無用になっていったことが指摘される。農業の革新と戸籍という、かけ離れて見える事実のつながりが面白い。土一揆は、このようにして自らも富を蓄えていった農民たちの独立心の現れだ。江戸時代になると、農民のこの力を抑えこむために厳しい身分制が敷かれ、農民が武士になることを禁じられる。この時代のはじめ、日本の人口は2倍になる。総人口の8~9割は農民なので、人口増とは農民が大幅に増えたことを意味する。それはそのまま経済力の高まりである。しかし、その後幕末まで人口は横ばいが続く。徴税が重くなり、農村に余力がなくなったからだ。明治維新への動きを担った主体は下級武士だった。「しかし、このときの、民衆の動きを忘れてはなりません。そうしないと、歴史は、何人かのすぐれた人たちの力だけで動くように考えてしまうおそれがあるからです」と注意し、志士を援助したのは豊かな農民だったことを指摘している。

 

ここにすでに見られるように、歴史を動かす力として経済に注目するのもこの本の特徴と言えよう。「お金儲け」についての儒教的な偏見はない。ものの経済が貨幣の経済に変化してゆく。貨幣を必要としたのは高まってきた物欲である。人びとは徐々にぜいたくに慣れ、後戻りできなくなってしまう。とくに生産者でない支配層に、その影響が甚大に現われ、借財がふくらんで没落してゆく。江戸期のことだが、綱吉時代末期の幕府の年収が76~77万両だったのに対し、支出は140万両に上っていた、という数字まで挙げられている。社会のダイナミズムを生み出しているのは、武力よりも経済力だ、ということが印象付けられる。

 

この辺でやめよう。ダイジェスト版日本史入門のようになってしまった。ここに紹介した内容、そんなことは常識だよ、とおっしゃる向きもあるに相違ない。しかし、わかりきっていることも、たどり直すのが無意味というわけではない。しかも、それらは語り手である著者の姿をくっきり浮かび上がらせていて、単なる常識ではない。これが小学生向けに書かれた本の内容であることに、わたしは驚き、感動した。ユキは大学で日本の中世史を勉強した。そこで、『やさしい日本の歴史』を読んでもらった。その感想は次のようなものだ。「基本的に、これは、歴史を暗記してもらいたい、という趣旨ではなくて、歴史の楽しさを自分で発見して、好きになってもらいたい、というメッセージをこめながら、書かれたものだと思います。そして、非常にむずかしいことにチャレンジしているな、と思ったのは、読み物としても読めるように、随所に工夫をこらしている。〈普通はこうだけれど、こんなことがあって、こうなるんだよ、どうだ!〉みたいな、読み手の興味を喚起するような書き方があちこちにある。たんに歴史を教える以上のことを目指していて、そこが、普通の歴史を教える本とは大きくちがうところだと思いました。大きく歴史の流れが変化するところの記述が非常にドラマティック。事実を語りながら、許されるぎりぎりで物語を描いているのが、とっても面白い。〈歴史って面白い!〉と、子どもが思うようなツボをとてもよく、心得ているなあと感心します」。ユキは最高の読者だ。わたしの感動は、中学生のとき、教室で覚えたわくわく感の蘇生でもある。このことを、生前、お伝えできなかったことに、親不孝にも似た悔悟の苦さが混じる。

 

先生には『歴史教育素材としての技術』(1989年、ぎょうせい)という著作もある。著作としてはやや雑然としているが、問題意識は変わらない。人びとの生活を変える大きな力が技術である、という観点から技術という話題を歴史教育に取り込むべきことが論じられていて、さまざまな事実が、数量的なかたちで(例えば、江戸と大坂の間の飛脚の要した時間が時とともに短縮されていったこと)集められている。これも、わたしが子供のころから関心をもっていたことだが、それが面白いのは、往時の人びとの生活を浮き彫りにするからである。

 

『やさしい日本の歴史』のあとがきで、先生は読者である子供たちにこう語りかけている。「あなたがたが、人間と歴史について強い興味と関心をもって、“あたたかい心”から出たしんけんな問いかけをし、“つめたい頭”をもって深く考えてくれるなら、日本と世界の歴史は、あなたがたの問いにこたえてくれるにちがいありません」。「あたたかい心とつめたい頭」、これこそ、秋山先生、あなたそのものです。この本を書くことであなたの本意は遂げられたのではありませんか。

 

またお会いしたいと思い、電話したときのこと。転んで頭を打ったので今は会えない、と言われた。電話を切る直前、唐突に「家永三郎って、どういう人でしたか」と訊ねた。もちろん、和歌森とともに東京教育大学の歴史学を代表するひとりで、秋山先生は当然、その謦咳に接しておられたはずだ。一般には所謂教科書裁判で知られ、単に映像的な印象から、変なひとという印象をもっていた。ところが、このころ『上代倭絵全史』を読み、その学問的迫力に圧倒され、その人物に関心をもつようになった。秋山先生は電話口の向こうで、しばらく黙っておられたが、「わたしはあんなに頭のよいひとに逢ったことがない」、と言われた。それ以上の詳細は、お目にかかったときに、と思って電話を切った。これが最後だった。1か月後、もう快癒されたころかと電話すると、奥様が出られて、先生の長逝を告げられた。

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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