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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

竹田篤司さん――伝記の理由

 

 

竹田さんには、一度しかお目にかかったことがない。それも、お目にかかったとも言えないほんの一刻のことだった。1975年の春だったと思う。日仏哲学会が創立され、デカルトを主題として、その最初のシンポジウムが開かれたときのことだ。

 

前年の10月、たった1年で終わったフランス留学から帰り、わたしは埼玉大学教養学部に職を得た。この採用について尽力してくださったおひとりが、デカルト研究で知られた伊藤勝彦さんだった(『デカルトの人間像』、勁草書房)。当時、わたしの業績の主たるものはデカルト研究だったから、そのわたしを支援してくださったのは、伊藤さんの大らかな人柄によるものである。その伊藤さんから中村雄二郎さんを紹介された。中村さんは日仏哲学会を立ち上げるために奔走してらして、発会の記念シンポジウムの主題をデカルトと定め、新しい研究成果を探しておられた。わたしには、留学中に活字になった『情念論』に関する長篇の論文があった。この著作のテクストがどういう順序で形成されたかを主題とするもので、テーマそのものは新しかった。今ではその未熟さ、議論の乱暴さを思い、それに怯えて再読する気になれないが、新しい研究動向として、中村さんの求めてらしたものと一致したらしい。シンポジウムのスピーカーに抜擢してくださった。

 

シンポジウムの席上わたしが話したのはこの論文の概略だが、人びと、特に他のスピーカーたちから集中砲火を浴びた。読んでいないので疑問な点を確かめる、というようなものではなかった。きっと、生意気なはったりとの印象を持たれたのだと思う。討論が終わったあとのコーヒー・ブレーク、あるいは簡単な懇親会のときだった、竹田さんが声をかけてくださった。竹田さんは、既に『デカルトの青春――思想と実生活』(1965年、勁草書房)によって学界に知られたデカルト研究の先達だった。わたしはこの本を読んではいなかったが、お名前は存じ上げていた。そのとき何を話したか覚えていないが、このような先輩の方から名乗ってくださったことに恐縮しつつ、知遇を得たことを喜んだ。

 

シンポジウムでのわたしの報告を竹田さんがどう思われたかは、分からない。それは分からないものの、その後30年にわたってご厚誼を頂いた。お会いすることはなかったが、年賀状のやりとりと、互いの著作の交換が続いた。わたしは、デカルト研究から主題を他に移したので、何をお送りしたかは記憶が定かでない。竹田さんからは、フランス思想に関する殆どすべてのご著書や訳書を頂いたと思う。

 

そのなかでも、『デカルトさんとパスカル君』(内容は面白い)や『怪傑デカルト』の翻訳スタイルには、遊びが過ぎるような感じも覚えた。それは『デカルトの青春』のタイトルにもかすかに感じていたものだった。そのせいで、所雄章さん(デカルト研究の泰斗で、右のシンポジウムの共同司会者だった)などは毛嫌いしておられた。所さんがやり玉に挙げられたのは書簡の訳だが(白水社の『デカルト著作集』第3巻に収録されたデカルト最晩年の重要な書簡のすべてを、竹田さんが訳している)、一例を挙げれば、次のような文体である。「じつはいま、びくびくしていると申してよいくらいなのですが、王女さま〔エリザベト〕は私が、ここでまじめにお話しもうしあげているのではないとのお考えになるのではありますまいか」。フランス語でも相手によって文体を変える。敬語表現があることは間違いない。しかしわたしは、その文体の違いから間柄の違いを読み取ること、より正確に言えば感じ取ることができない。だからこの訳文が原文に対して適切なスタイルかどうかを云々する資格はない。だが日本語として読んだとき、哲学者が王女に向ってこんな口を利くのか、という違和感を覚えないではないし、謹厳な研究者が眉をしかめるのも分かる。しかし、このくだけた口語体には理由がある。

 

竹田さんのお仕事のなかで、わたしが無条件の称賛を捧げたのは、『物語京都学派――知識人たちの友情と葛藤』(中公叢書 2001年)である。哲学の分野で京都学派と呼ばれるのは、西田幾多郎に始まり、研究よりも思索というスタンスで哲学に臨んだ人びとの学統で、ほぼ終戦とともに終わる(研究への転回を遂げて以降の京都大学哲学科を「京都学派」に含めるのは、意味がない)。竹田さん自身があとがきに記されているように、ここでは学説は殆ど取り上げられていないが、哲学者たちの哲学に取り組む生きざまが濃密に語られている。著者の自負するところ、この著作は厳密な資料に基づいて書かれており、作り話ではない。それでもヒストリーではなくストーリー(物語)を自称するのは、資料の選択や構成が著者の恣意によるからだ、と言われる。そのように言えば、研究書もストーリーだし、ヒストリーはすべからくストーリーということになろう。歴史とは物語りだというのは、事実、昨今の物語論の中核的な主張だが、わたしがそれを学んだのは本書の刊行より大分あとのことで、竹田さんの著作も、この思潮に先立っている。また、竹田さんのこのスタンスには、読み物として面白いはずだ、という文学的自負も、透けて見える。文章も格調が高く、かついきいきしている。デカルトの書簡の訳文を嫌う人も、これは認めざるをえないだろう。誰が読んでも圧巻は、隠棲後の田辺元と野上弥生子の軽井沢における交流に捧げられた部分である(本書の公刊のすぐあと、竹田さんは二人の往復書簡を編纂された)。ほかにも多くの哲学者が取り上げられている。だから話題はさまざまだが、全体の基調は一貫している。その内容に立ち入る必要はあるまい。この名作が文庫化されて、永続的に読者を得られるようになったことは、嬉しい。

 

『物語京都学派』は竹田さんの哲学に対するスタンスが最適の素材を得て結晶した傑作である。そこで、この小文をつづるにあたり、そのスタンスの源流に遡るべく、初めて、かれの処女作『デカルトの青春』をひもといてみた。何と言っても、そのタイトルは、ひそかに、わたしを魅了し続けていたものだ。竹田さんの研究人生のこの出発点と、到達点である『物語京都学派』は、竹田さんの恩師である下村寅太郎を介してつながっている。『物語京都学派』のあとがきによれば、その「素材」の重要部分は下村の遺品のなかにあった。竹田さんは下村が恩師だったという機縁から、その遺品整理にあたり、そのなかで、「膨大な」未公開の資料に出会った。原稿、ノート、手記、日記に加えて大量の書簡(誰から誰へのものかという詳細は、竹田さんの簡潔な記述からはよく分からない)が含まれていた。下村は京都学派の若い世代に属し、長寿をまっとうして京都学派最後の生き残りと呼ばれたこともある。下村自身の筆になるものだけでなく、周囲の人びとの手紙なども何等かの経緯があってその手元に残されたものらしい。これらが『物語京都学派』の原資となった。意図されたものではないにせよ、この著作は下村から愛弟子への贈りものと言えないこともない。それに応えて、竹田さんも「下村を〈証人〉兼〈進行役〉」(同書「あとがき」)とする構成によって、このドキュメンタリーを師へのオマージュとしている。事実、竹田さんの書かれたもののはしばしに、下村への思慕が記されており、真に恩師と呼ぶべき存在だったことが分かる。『デカルトの青春』を書肆に紹介し、序文を寄せたのも下村だった。その序のなかで下村は、この新進気鋭の著者が、一方で「根本的文献的研究」を準備しながら、「デカルトその人の内心に立ち入り、その内心の秘密から理解しようとする」もので、デカルト研究の新しい試み、とみとめ、「哲学科出身のフランス文学研究者たる著者にして克くかかる試みがなされ得た」と売り込んでいる(竹田さんは学部で哲学を学んだあと、大学院ではフランス文学を専攻している)。注意すべきは、このスタンスが下村自身のものでもあった、と見られることである。科学哲学から出発したこの哲学者は、既にルネッサンス研究を「精神史」という枠組みで展開しており、後に書かれる『スウェーデンの女王クリスチナ』(1975年)などは、竹田さんのデカルト論をさらに展開したような主題設定である。

 

竹田さんの処女作に寄せた〈哲学と文学の融合〉という下村の評言は、そのまま『物語京都学派』に当てはまるが、『デカルトの青春』に戻ろう。始めに書いておきたいのは、竹田さんが稀なほど早熟の秀才だったことである。この処女作が上梓されたのは、竹田さんが31歳のときだった。これは文系の研究者のキャリアとしては、非常に早いと言ってよい。また、タイトルのもとになっている「デカルトの青春」という章は、かれの卒業論文に基いている。これもそうそうあることではない、と思う。そこには当時デカルト研究の代表的な著作とされた彼我の多くの研究者、哲学者たちの名前が出て来る。わたしにとっては、知っているけれど読んでいない、というものが多い。下村が「文献的研究」を強調したのも頷ける。その「青春」だが、巻頭に「デカルトと女性」というプロローグを置いているのは思わせぶりだが、そういう意味の青春ではない。青春の章の柱は『方法叙説』で、その独特の自伝的性格(他者との交流が全く書かれていないという指摘は、慧眼である)に注目し、そこに「思想」と「生きること」との葛藤を読み取っている。この葛藤がかれの言う「青春」にほかならない。考えつつ、というより悩みつつ、生き方を模索するのが青春だ、という意味であろう。一文を引いておこう。「いったい、一流の思想家の思想とは、思想が人間であり人間が思想であるといういわば思想の人間化または肉体化に、その特色があると考えられます。〔……〕とくにモラルにおいては、思想を生活とし生活を思想とするいわば私小説的原理をつらぬいていないようでは問題になりません」(p.6)。デビュー作の若手の言葉としては、生意気だ。しかし、竹田さん自身が、この思想を生き、その断言が軽薄なものでなかったことを証明したように思われる。この姿勢は『物語京都学派』まで一貫して揺るぎがない。

 

竹田さんがわたしにとって懐かしいわけは、実は別のところにあるのかもしれない。一枚のはがきである。2004年に東京大学を定年で退職したわたしは、日本大学文理学部哲学科に職を得た。そのことを報じた通り一遍の挨拶状を、竹田さんにもお送りした。すると、いつもの端正な文字でつづられた暖かいはがきを返してくださった。よいところに職を得たと喜んでくださり、この学部にまつわるご自身の経験を記された。文理学部は、竹田さんの本務校に近いところにキャンパスがある。その機縁があったのかもしれない、かつて非常勤講師をしておられた由。それは大学紛争のころのことで、キャンパスはロックアウトされ、教員食堂のツケも帳消しになったことを、茫々たる昔日のこととして回想しておられた。その物静かな文章が何故かこころに残った。既に宿痾の癌を知り、ご自身の人生そのものを回顧しておいでだったのかもしれない。竹田さんの訃報に接したのは、その一年後のことだった。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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