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哲学探究3 永井均

第2回

 

そもそもなぜ私である人と私でない人が存在するのか

 

Ⅰ 前章の復習

 

1 前回の復習から始めたい。前回の中心的な箇所は、何よりもまず段落12,その後に感覚との類比が導入されてその結論としての段落18,そして段落21であった。順不同に、補足すべき論点を補っておきたい。

2 段落12を別の観点から要約するなら、他者の心の存在にかんする懐疑をその水準で解決しようとしてはならない、ということである。その懐疑が可能であること(その解消が不可能であること)こそがすなわち、私と私でない人とが存在しているということの意味そのものだからである。まずはなぜか一つだけむきだしの心があるという端的な事実が与えられてしまっており、もしそれと同じことが他人にも与えられてしまったなら、その人も〈私〉になってしまうので、この事実は一つの世界の中で他者にもまた成り立つことはありえない。これがすべての出発点である。この点に関しては、共在という可能性はそもそもなく、ありえないのだ。外界の存在の懐疑の場合は少し違うが、過去や未来の存在の懐疑の場合には、まったく同じことがいえる。懐疑は可能でなければならず、それが解決されることはあってはならないのである。解決されるとは世界を平板にする(のっぺりさせる)ことであり、現実はそうなっていないからである。この端的な事実をまずは受け入れなければ何も始まらない(だから、今のところは、まだ何も始まっていない)。

*これはウィトゲンシュタインから大森荘蔵に辛うじて受け継がれた問題である。問題が解決されてしまったら、他者がみんな私になってしまうではないか、という問題である。なぜそんなことが心配なのか、なぜそんなことが重要な意味を持つのか、どちらの弟子たちにもポイントが伝わらなかったと思う。

3 過去や未来はじつは存在しないかもしれないという懐疑論で考えてみよう。そんな懐疑論もまた、解決しようとすることのほうが罪は重い。前回詳述したように、じつは存在しようとしまいと、そのような「じつは性」の水準の問題とは関係なく、端的に存在している〈現在〉と、じつは存在しないかもしれないが、それ自体にとってはそれ以外の時点こそがじつは存在しないかもしれない《現在》とがある、という構造があることに変わりはない。重要なのはそちらである。さらに重要なことは、〈現在〉と《現在》とは事象内容的にはまったく同じものでなければならない、ということであり、それにもかかわらず、それらが本当に同じあり方をしてしまったら、つまり懐疑論が成り立つ余地がなくなってしまったら、時間の経過ということは起こらなくなってしまう、つまり時間は経過しなくなってしまう、ということである。〈私〉と《私》のあいだの関係も、これと同じことなのである。

4 この問題においては、一人二役は不可避である。まずは、なぜか自分だけが例外的にむきだしの意識として存在している!という驚くべき事実に直面しつつ、それはそれでけっして手放すことなしに、これと「同じ」ことが他の人々にも起こっていると(この水準での「同じ」ことを発明して)見なし、そのうえでさらに、そこで新たに発明された概念を翻って自分自身にも適用しなければならないからである。しかし、翻って適用してもなお、当初の端的なむきだしの実存の突出は維持されていなければならない。そうでなければ何が翻ったのか自体がわからなくなってしまうのだから、これは当然のことだ。ところが、このとき同時に、まさにその端的なむきだしの実存の突出性ということそれ自体が、そのようなあり方をしているという概念的理解として、事象内容化されて、したがって他者にも適用可能なあり方として、理解されてもいる(すでにいた)のでなければならないことにも気づかされざるをえないことになる。これはすなわち、累進構造図でいえば、最上段とその下段との関係においてだけ成立するはずのことが、どこをとってもその上段と下段の関係において反復的に成立しなければならないことになってしまっている、ということである。そういう新しい「同じ」さが発明されたのである*

*いまここでしているような議論をしている際には、この仕組みがすでにはたらいてしまっていることは、だれにでも見て取れるだろう。

5 前章の段落3において、心や意識の存在に驚く場合が提示されたが、このときいったい何に驚くのであろうか。何が他のことと違うのであろうか。と問われるならば、驚く対象も、他と違っている点も、以上述べてきたようなあり方そのものである、と考えなければならない。それ以外には、心や意識の存在に特に驚くべきところがあるわけではないだろう。むしろ逆に、心とか意識とかいった名は、このような特異なあり方につけられたものなのだ、と考えるべきだろう。

6 段落13以降の、感覚との類比の議論についてもひとこと補足しておくなら、これはつまり第0次内包と無内包との対比である。第0次内包には、文字どおり第0次的に、つまり直接的に、固有の内包が(つまり特徴が)ある。痛みはくすぐったさと、甘さは酸っぱさと、それぞれ内容的に端的に異なっている。対して無内包のほうには、いかなる特徴もない。《私》たちとは異なって〈私〉であることにも、《今》たちとは異なって〈今〉であることにも、固有の特徴がない。それはちょうど現実に存在するということに特徴がないのと同じことである。百ターレルが札束であることも、重いことも、見えることも、…も、みなそういう特徴であるが、そうした諸特徴をもった百ターレルが現実に存在することは、そこに付け加えられるべき、それらと並ぶ特徴ではない。同様に、悲しいことも、鳥の鳴き声が聞こえていることも、子供のころのことを思い出していることも、……も、その心のもつ特徴であるが、それが唯一のむきだしの心であること、すなわち〈私〉の心であることは、そこに付け加えられるべき、それらと並ぶ特徴ではない。どれが〈私〉であるか、いつが〈今〉であるかを、そのもつ特徴によって識別することはできない。それらは無内包の(内包の違いによって識別されない)端的な現実性なのである。

 

Ⅱ 〈 〉と《 》の累進性の意味

 

7 以下では同じ問題を、より根源的な問いの側から提示しなおし、問題をさらに一歩進めたい。より根源的な問いとは、そもそもなぜ私である人と私でない人が存在するのだろうか、という問いである。この区別は何に由来するのだろうか。人類史ももうそうとう長いが、いつでもそんな区別があったわけではない。そんな区別が生じたのはせいぜい数十年前のことである。そのとき、いったい何が起こったのだろうか。そもそもそれがわからない、これが最も根源的な問題である。つまり、こいつはいったい何なのか、それがわからないのだ

*こんな(変な、余計な)ものが生じてしまったのは、そもそも自然法則に反してはいないだろうか、と問うてみてもよい。ある精子と卵子の結合は一人の個性を持った人間を生み出すだけであろうから、そいつがなぜかこんな(変な、普通と違う)やつだったということは、そいつに何が付け加わったということなのだろうか。それがわからないのだ。

8 こんな(変な)人間は、存在しないほうが普通だろう。ずっと長いあいだ存在していなかったし、もうすぐ存在しなくなるだろう。そのほうがいいとは言わないが、そのほうが普通であることは間違いない。この問いを、存在しない期間のほうが遥かに長くてむしろ普通なのに、なぜ今は存在しているのか、と時間的に問うこともたしかにできるが、そもそも存在しないことが可能(でむしろ正常)なのに、なぜ現実には存在するのか、と問うほうが問い方としては先鋭である。

*ずっと(いつであれ一度も)存在しないこともありえた、ということである。もちろん、この人(永井均さん)が今どおりに存在していても、である。この意味での「いなくてよさ」こそがこの問題の本質である。

9 ここまでは、「より根源的な問題」の復習であった。復習というのはこれまで何度もこの問いを問うてきたからである。さて、この問いは前回の議論とどう関係しているだろうか、これがここで新たに問われるべき問いである。心や意識の源泉がじつはそのような「(変な、余計な)人間」(これまでの表現を使えば〈私〉)の存在にあるのだとすれば、その(変な、余計な)やつが生まれるまでは人間の心とか意識とか呼ばれるものはそもそも存在しなかったのだろうか。そして、その(変な、余計な)やつが死ぬとおよそ心とか意識とか呼ばれるものはそのことで存在しなくなるのだろうか。

10 そんな馬鹿なことはありえない。ある意味では、この答えははっきりしている。この私が生まれるまでは世界には心も意識も存在していなかった、なんてことがあるわけがないからだ。とはいえもちろん、少なくとも私自身は、私自身の心の存在を手がかりとして他者の心の存在の意味を理解しており、私にはそれ以外の理解の仕方はありえない。そして、この理解の仕方それ自体は私の場合を超えて一般化できるし、そのように一般化していく以外にはおよそ心や意識を理解する方法はない。そのように一般化するとは、だれでもその人自身の心の存在を手がかりとして他者の心の存在の意味を理解しており、他人の心の存在を理解するそれ以外の方法はない、ということである。その意味においてならば、その(変な、余計な)やつが生まれるまでは人間の心とか意識とか呼ばれるものはそもそも存在しなかった、といえるし、その(変な、余計な)やつが死ぬと心とか意識とか呼ばれるものは存在しなくなる、ともいえる。一般化された形で(一般的に変形された形で)いえるのだ。その意味では、そんな馬鹿なことがありうることになる。

*ここで問題にしていることを、この私の心が生じるまでは世界は存在しなかったという主観的観念論の独我論バージョンの問題と混同する人はさすがにもういないとは思うが、そういう種類の話とはまったく違うことを論じているのだ、ということを念のため確認しておきたい。

11 これを、これまで使ってきた第一基準という概念を使って言い換えると、こうなるだろう。第一基準によって自己を捉えるという方法は、同じようにそうする者が複数個並列的に存在しているというような仕方で成立することができないようにできているのだ、と。第一基準の概念それ自体の内にそういう並列性を破る(破らざるをえない)という意味が内在しているのである。したがってその適用に際しては、自分一人だけがその基準が現実に適用されうる唯一の者でなければならず、同時にしかし、その基準を適用して自己を(その人にとっての)他者たちから識別している他者たちもまた存在している(少なくとも存在可能である)のでもなければならない**のだ。他者とは、第一基準によって自己を捉えている者(つまり自分)が理解する、同様に第一基準で自己を捉えている(のでなければならない)自分でない者のことであり、そういう者もまた存在可能なのでなければこの「現実に」に概念的な意味を与えることはできない。この事態を、これまで使ってきた累進構造という概念を使って表現するなら、それは必ず累進図の縦の関係(上下関係)で理解されねばならず、しかも必ず最上段とその下の段とのあいだに成立する実存的突出関係を範型として、それが内包化・事象内容化されて概念的に反復されるという形で理解されねばならない、ということになる。

*たとえば「殴られると現実に痛く感じる……」という形で。殴られると現実に痛く感じる人は、だれにとっても現実に一人しか存在しない。そして、ここでの「だれにとっても」は決して平板に解釈することができない。(この点については、この段落の最後の累進構造による説明をぜひとも完全に理解していただきたい。)

**他者の場合を自分の場合の「現実的に適用される」に対応させて「可能的に適用される」と表現することは(これまでそのように表現したことが何度かあると思うが)適切とはいいがたい。他者も他者で現実に適用してはいるからだ。だからと言って、「他者的に適用する」といった新語を作ってみても、やはり平板な「自己‐他者」関係で理解されてしまうことになって、やはり適切とはいいがたい。強いて言えば、これまで使ってきた表記法を使って、「〈 〉的」と「《 》的」と表現し分けるのが最も適切だといえるだろう。

12 それゆえにもちろん、最上段が直々に関与してくる場合もまたあることになる。直々に関与してくるとは、いまここでおこなっているように他者に呼びかける文脈では、「この事態は現に最上段にいるあなたから、あなたただ一人から、始まっているのですよ」と呼びかけることとなる。呼びかけてなどいない通常の場合は、「この事態は現に最上段にいる私から、ただ私だけから、始まっている」と自分で納得することとなるだろう。私自身が、である。すると、この後者の場合、この「私」は二義性(両義性)を免れることができない。私自身の場合には、同じ一つの表現で、私自身にだけ(すなわち累進図の最上段においてだけ)成立する事態と、だれにでも(すなわち累進図のどの段階においても)成立する事態とが、重なって二重に表現されてしまうからである。さらにまた、「心(意識)」という概念は私の存在を前提としそこから出発して理解しなければそもそも理解不可能な概念なのだという真実もまた、二義性(両義性)を免れることができないことになるだろう。この真実自体に累進構造が内在しており、累進図の最上段において現実的・実存的に成立することもできれば、累進図の中間段階において概念的・本質的に成立することもできるからである。両義性を免れることができないなどと言うと、それが何かしら困った事態であるかのように誤解する方がおられるかもしれないが、そんなことはなく、むしろこの両義性の存在こそが「心(意識)」という概念をはじめて可能ならしめているといえるのである。

*その結果、私自身にだけ成立する事態のほうがだれにでも成立する事態と同化されて「語りえぬもの」となるわけである。

13 ここに矛盾が存在することについては、『世界の独在論的存在構造』の一〇九頁の後半の段落とその最後に付けられた注において宣明されているので、そこを再読していただけるとたいへんありがたい。これは、時間論の用語(といっても、私自身の造語だが)を使って時間の問題の場合との類比によって表現するなら、A事実とA変化のあいだに存在する、A系列内部の矛盾である、といえる。この類比を続けて語るなら、私はここで、「心」や「意識」はB系列であり、このB系列は(概念上「経過」を含むから)じつはA系列からしか理解できないのだ、と言っておいて、しかしそのA系列はA事実とA変化から合成されており、内部に矛盾を含んでいるのだ、と言っていることになる**

*矛盾という表現がわかりにくければ、「異なるものが重なって存在しているのだが、言語というもののもつ本質的性質によってそこに異なる表現を与えることができなくなるため、それらが同じもののように現れてしまうこと」のように表現してもよい。結果的に、一つの言語表現が二つの異なる対象を指してしまうわけである。

**対応関係(類比関係)をいちいち解説していると、話が間延びして退屈なので、それはそれぞれご自分で考えていただきたい。括弧の使い分けによって概略だけ示しておくと、こうなる。私はここで、「心」や「意識」は「 」であり、この「 」は(概念上《 》を含まざるをえないから)じつは《 》やその基になっている〈 〉からしか理解できないのだ、と言っておいて、しかしその《 》と〈 〉のあいだにはじつは矛盾があるのだ、と言っていることになる、と。

14 この類比を前提にして、さらに少しだけ時間の問題にかんする議論を進めておこう。時間の経過が生じるためには、動く現在が次々と新しい出来事の位置へと移動して行かなければならない。逆に表現すれば、現在という場に次々と新しい事態が生起してこなければならない。このようなことはもちろん端的なA事実(すなわち〈現在〉)の存在をともなって起こる変化の場合にも(その場合にこそ典型的に)起こることではあるが、端的なA事実ではなくたんに想定上のA事実(すなわち《現在》)しかともなわない場合にも、やはりまったく「同じ」ことが起こるのだ、と考えなければならない。徳川幕府の成立と終焉はともに(端的なA事実から見れば)過去のことだが、そこに時間の経過があったと考えるためには、想定上のA事実としてのそのときの《現在》が、徳川幕府の成立から終焉へと移動したと考えなければならない。

*ここでかりに「想定上」と表現した事象には、段落5の注**において、「可能的」と表現することの問題性を指摘した事象と同じ問題が存在している。他者の場合を自分の場合の「現実的」に対応させて「可能的」と表現することが適切ではなかったのと同様、現実の現在でないその時における現在のことを「想定上」の現在と呼ぶのも適切とはいえない。その時にはその時の現実の現在があったのであって、それはたんに「想定上」のものではないからである。ここでもやはり、これまで使ってきた表記法を使って、〈現在〉と《現在》のように表記し分けるのが最も適切であろう。

15 前段落において、「動く現在が次々と新しい出来事の位置へと移動して行かなければならない」とか「現在という場に次々と新しい事態が生起してこなければならない」のように表現されたその「現在」は、(前注において最も適切とされた表記法を使うなら)《現在》であって〈現在〉ではない。これは、「現在であるということがもつ独特の特性(すなわち内包)をもつようなあり方をしている時である」ということを意味しており、端的に現実の現在であることそのものとは区別されねばならないからだ。端的に現実の現在であること、すなわち〈現在〉であることは、そういう独特の特性をもつあり方が端的に現実に実現しているという無内包の現実性だけを指しており、これらは区別されねばならない**

*たとえば「それだけが直(じか)にありありと実現しているという感じ」のような。もちろんこの現在感(現在であることに特有の感じ)は過去にもそのまま実現していたし未来にもそのまま実現するであろうようなものでなければならない。

**とはいえもちろん、その無内包の現実性というあり方そのものがそのまま内包化されるということこそが、〈 〉から《 》が生成するということではあるのだが。「現在であるということがもつ独特の特性」とはつまり「端的に現実の現在であること」なのだから。

16 〈現在〉の特性が「現にそこから世界が開けている唯一の時」であることにあるとすれば、それをそういう(出来事や時点のもつ)一つの特性として内包化・事象内容化したものが《現在》であり、それが端的に(すなわち無内包の現実性として)実現された状態がすなわち〈現在〉である、と一応は言える。とはいえ、《現在》もまたその時点における「端的に実現された」という特性を事象内容として持つことになるので、この違いを言語で表現し分けることはついにはできないことになる。にもかかわらず、その差異は明々白々であるので、〈現在〉は2020年10月23日11時であるから、この端的な事実を(諸々の出来事の上を)動いていく《現在》や(諸々の出来事がそこにおいて次々と生起する)《現在》という場と関連づけて、「《現在》は、〈現在〉は、2020年10月23日11時のところにいます」というように表現することができるし、せざるをえないことになる**

*したがって《現在》は、一方向性や無関与(無寄与)性といった〈現在〉のもつ特徴もまた概念化された形で保持することになる。(一般に、《 》は〈 〉のもつ独特のあり方をそれとして概念化することによって反復する。)

**「動く今」の一つの謎は、「動く今が、今は、何年何月何時のところにいる」といった形で、「今」を二重に使用して時間を表現せざるをえない、という点にあった。そうなると確かに、その二つの今の関係が謎とならざるをえない。しかし、この二つの今の関係をここで述べたように捉えれば、それは容易に理解可能となり、謎は消えるであろう。じつはそれは、段落12(および13)で指摘された〈私〉の矛盾(二義性)と同じ問題なのである。

17 一般に、A系列が存在しなければ時間の経過というものはない、といわれる。しかし、その場合のA系列とは、《現在》(を中心とした《過去》と《未来》)であってよいだろう。現実にはこれは最終的に〈現在〉を中心とした〈過去〉と〈未来〉に帰着する構造になっているが、時間の経過ということをそうではない形で、すなわち〈現在〉の存在をかりに外して、《現在》にかんする事柄として、抽象的に理解することも可能ではあるだろう。実際、われわれはごく普通に、過去や未来(だからそこにはもちろん現実の〈現在〉は存在しない)における時間の経過ということを理解できており、その際にその理解が生起しているほうの端的な〈現在〉の側を外して考えることも可能だろう。そうしたからといって、その抽象的時間はB系列になるわけではない。その場合でも、その時における動く《現在》の動きや、場としての《現在》の変化が、想定されざるをえないからである。

18 これらとまったく同じことが、むきだしの意識とむきだしでない意識の関係についてもいえるだろう。他者の場合もやはり、無内包の現実性としての〈むきだし〉の心が《むきだし》の心として内包化され、そういう事象内容となるわけである。それゆえにたとえば、第一基準は〈私〉を識別する基準であることによって《私》を識別する基準ともなっており、それを前提した場合には、そこから(すなわち諸々の《私》たちのうちから)さらに〈私〉を識別する方法はもはやないことになるだろう。いや、もちろん現実にはあるのだが、その方法を語る(すなわち内包化・事象内容化する)すべは、もはやないことになるのだ。これは文字どおり端的になされるほかはないのだ。しかし、その場合にもやはり、まさにその〈私〉の存在をかりに外してみることはできる。〈私〉のいない世界で、人間たちがみな自分を第一基準を使って捉えている状況を想定することは容易であり、ほんの百年前にはそういう状況が実現していたし百年後にも実現するであろう

*そういう世界においてもなお、心(意識)が一般的に存在するためにはやはり、唯一特権的に存在するなむきだしの心(意識)との縦関係が必要とされる、という点が重要である。累進構造図をどれほど下降しても、心や時間の存在を理解する際には、「これとこれに類するもの」という縦関係の反復構造を脱することはできない。

 

Ⅲ 可能世界の〈私〉――次章への助走

 

19 それゆえもちろん、たんなる可能世界にも〈私〉は存在しうることになる。それはもちろん概念的な《私》であり、実際のところは現実世界の〈私〉がそのようなことを考えているにすぎないとはいえ、(過去や未来における《現在》がその時点においては〈現在〉であるのと同様な意味において)その可能世界においてはやはり〈私〉である。当然のことながら、可能世界に〈私〉が存在するとは、現実世界の私と似た心身を持つ者がそこに存在するという意味ではない。その世界にはなぜか、〈私〉の存在の第一基準が端的にあてはまり、そこからその世界が現実に開けている唯一の原点が存在してしまっている、という意味である。その世界が現実的には中心化された仕方で与えられ、現実にはそれ以外の仕方では与えられえない、そういうあり方をしている、という意味である。その世界において現実的に中心的なその人物は現実世界の私と(物的にも心的にも)少しも似ている必要はない。そういう点において現実世界の私にきわめて似ている(ほぼまったく同じ)人物もまた別に存在していてかまわないのだが、そいつのほうは〈私〉ではない、という場合が考えられることがここでの問題である。

(続)

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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