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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

大悟法利雄さん、静子さん、林君――生活歌人の一家とバルザック風マント

 

 小学校の同じクラスに、大悟法林君という、姓も名も珍しい友人がいた。何年次かは覚えていないが、転入してきた。小柄で、日焼けして色は飛び切り黒かった。かれのお父さんは「若山牧水の高弟だ」と聞かされた。誰が教えてくれたのだろう。クラス担任の高橋信義先生以外に思いつかない。五年なり六年なりの小学生に、「若山牧水」や「高弟」の何たるかが分かっていたとは思われないが、わたしはそれを理解したように思った。少なくとも、自分の知っているのとは別の高尚な世界に住むえらいひと、ということを了解した。林君にそういう雰囲気はなかったが。

 

 家が近かったので、林君とはよく遊んだ。多分、一緒に登校しようとして、かれを待ったときのことだろう。大悟法家の朝餉の情景を目にした。一家が寄寓したのは、戦災に焼け残ったとおぼしい家だった。細い小路から、更に狭い路地を入る。その角の小さな家の奥に大悟法君の家はあった。それは長屋とは言い難い形状だが、ひとつの建物を二つに分け、あちらとこちらに別々の玄関を設けた、明らかに貸家と見える家だった。南側の路地に面した縁側の先(路地から見ればその縁側の手前)に朝顔のすだれ(細い竹を十字に組んだ、今風にしゃれて言えばトレリス)が、わたしのこども心をくすぐった(朝顔だから、これは夏の日の記憶に相違ない)。林君にはお兄ちゃんがいた。名前は覚えていないが、遊ぶのに人数が必要なときなどに参加してくれる、優しいお兄ちゃんだった(その面影は、下記の名鑑にある大悟法進さんの顔写真とよく似ている)。妹さんもいたような気がするが、記憶は漠としている。サザエさんの磯野家のような丸いちゃぶ台を囲んでの朝餉で、お父さんは新聞を読んでらした。お母さんはとても変わったひとで、おかっぱ頭は、見るからに、別世界の光輝オーラを放っていた。遠足の写真に、セーラー服姿の林君の写ったものがある。セーラー服は女学生のもの、という世間的な知識があったわけではないが、不思議な感じを覚え、わたしの頭のなかではお母さんのおかっぱ頭と短絡した。

 

 「若山牧水の高弟」であるお父さんが、利雄さんという名であることは、何故か、以前より知っていた。思うに、クラスの名簿に親の名があったのではなかろうか。おかっぱ頭のお母さんが静子という名前であることは、今回、これを書くために調べていて分かったことだ。静子さんも歌人でらしたために、利雄さんとともに、『戦後歌人名鑑』(十月会編、平成5年、短歌新聞社)に記事があった。静子さんのつよい印象がその髪型にあったのと同様、利雄さんもまた、目に見たその姿がわたしの幼い記憶に焼きついていた。それは、大きな黒いオーバーを着て、古びた皮のかばんをもって歩くお姿だ。後年、パリでロダンのバルザック像を見てからは、オーバーつながりで、ふたりのあいだに連想回路ができた。小学生にそのような連想がはたらくわけはないが、わたしの周囲には珍しいタイプの大人だった。

 

 そのかばんのなかには何が入っているのか。また、わたしのバルザックはそのかばんを抱えてどこに通っていたのか。そもそも大悟法家が柏木に来たのは何故なのか。そんな疑問符が、わたしの心の片隅に残った。林君は同じ中学には行かなかった。一家が東中野の駅の近くに引っ越すので、中野区の中学に行った。小学校の卒業式で会ったのが最後で、ほどなく、かれが亡くなったという報せを聞いた。病気だったのか事故だったのか、覚えていない。こうしてかれに関する記憶は成長するのを止め、薄れていったが、わがバルザックへの好奇心は微かに生き続けた。

 

 九〇年代の終わりごろ、歌人の玉城徹さんの知遇を得ることがあり、その周囲の方々とお会いする機会もできた。そのなかで、短歌新聞社が高円寺にあるということを知った(上記の『名鑑』もこの社から刊行されている)。利雄さんは、短歌新聞社に勤めてらしたのではあるまいか、そのため、高円寺に近い柏木に住まわれたのではないか、という推測が閃いた。駅の近くに引っ越されたのも、この解釈を補強してくれる。玉城さんの歌集『香貫』が短歌新聞社賞を受賞されたとき(平成13年度)、その授賞式が同社で行われ、そこに招いて頂いた。そのパーティーのはなやぎのなかで、上機嫌の社長石黒清介さんと言葉を交わす好機を得た。そこで、大悟法利雄さんが短歌新聞社で働いていたのではないか、という質問をぶつけてみた。石黒さんは「ああ、大悟法さんね」と懐かしそうにしてらしたが、質問には答えてくれなかった。酒精の効果か、わたしが何を知りたがっているのかを、理解されなかったようだった(こういう場合、わたしは自分の意図を詳しく説明ができない口下手だ)。大悟法さんは、同社から多くの歌集、著書を出してらっしゃる。そのなかの一点、『若山牧水新研究』(昭和53年)の奥付には、「昭和18年著述生活に入り、現在に至る」とあるから、勤務してらしたわけではないらしい。では、あのかばんには何が入っていたのだろう。

 

 その序文には、次のような一文がある。「自分こそきっすいの牧水門下、それも師に最も縁故の深い一人だというのが私のたった一つの大きな誇りであり、私は常にその誇りを胸に秘めながらずっと歌を作り続け、また私なりの牧水研究を続けて来た」(p.1)。この純粋でひたむきな傾倒、献身、忠誠こそ、わたしのバルザックのあの風格を造ったものに相違ない。上記『名鑑』に挙げられた数首を読んだ。だがその作風は、牧水とはひどく違う。 

   われ願ふ誰が読みてもほのぼのとこの世楽しくなるが如き歌を(『父母』昭和42年)

   常なるが平凡なるがやはりよし桃は桃いろ薔薇はばらいろ(『常凡』昭和59年)

   歌のほか知らねば老いの命かけし精一杯の歌にて候(『九十歳前後』平成2年)

 

 牧水の哀感をたたえた高踏の境地に対して、日常的で訥々として、師の流麗な調べはない。三首目は、愚直がとぼけた響きを生み(それは意図された表現効果ではなかろう)、思わず繰り返し読んでしまう。しかし、牧水に憧れてその門をたたいたのならば、はじめは牧水の作風を倣おうとしたに相違ない。そして、当然、それはうまくいかなかった。大悟法さんが挫折の意識をもたれたかどうか、それは分からない。しかし、師の示唆というより教えがなければ、この生活実感派とでも呼ぶべき作風への転向は難しかったのではなかろうか。このような推測を巡らすよりも、大悟法さんの二点の大作牧水伝を読めば、それが書かれているかもしれないが、この小文はエッセイであって研究ではないので、利雄氏と読者の方々にはご寛恕を乞おう。同様に、わたしは林君の亡くなったときの歌を読みたいと思ったが、それを捜す労をとっていない。だが、生誕のうたはある、ただし静子さんの詠まれたものだ。

   その父に抱かれて出でしみどり子の涙涼しく月に光りぬ

 これはとてもよい。その「みどり子」は、伝記的には、多分、第一子のお兄ちゃんだろう。それでもわたしは、それを林君に映して読みたい。このほか、静子さんはよいうたを残している。世に染まぬおかっぱ頭の凛としたお姿とよく響き合う。

   居ながらにわれは旅人さびさびと木枯らしすぎし木立に向きて

   顔に出さねば人の知るなきこの怒りわが内深く燐光放つ

 

 利雄さんは、最晩年、かつて「六年ばかりは沼津の家で〔師牧水と〕起居を共にする幸運に恵まれた」というその沼津に戻り(玉城さんの香貫も沼津だ)、その地に創設された沼津市若山牧水記念館の初代館長を務めたという。「百歳の歌」という「わが夢」は果たされなかったが、また、子供に先立たれるという深い不幸はあったが、よい生涯だったと、お見受けする。

 

 忘れるところだった。あったのだ、あのバルザック風マントのうたが。

   忘れ来てあわてゐたるは夢なりきオーバーはそこのハンガーにあり(『夢と薔薇』昭和51年)

 年代から見て、あのバルザックのコートではないかもしれない。しかし、ありえないことではない。たかだか二〇年の懸隔だ。利雄さんは、あのオーバーが自分の一部のように、身についていることを、知っておられたはずだ、夢に見るほどに。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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