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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

礒山雅君――研究の引力

  

もう二年以上まえのことになる。二〇一八年一月二七日の夕刻、君はアイスバーンになった雪道に足元をすくわれ、転倒し、頭部を強打した。通りがかりの大学生が見つけ、救急車を呼んでくれた。その時には救急隊員と応答できたということだから、意識があった。倒れたとき君は何を思っていたのだろう。その前日は君自身の博士論文の口述試験だった(奇しくもわたしの誕生日だ)。知るかぎり、それまでの半年間、君は非常に充実した緊張感のなかにあり、この日も強い達成感と幸福感のなかにいたはずだ。君の意識の生は突然途切れ、われわれの強い願いにも拘らず、戻らなかった。フォルティッシモのコーダ。並みの人生ではない。

 

親しく交わるようになって半世紀、われわれの間柄にまったく揺らぎがなかったのは、考えてみれば奇跡のようだ。その始まりはよく覚えている。二人とも東京大学の大学院で美学藝術学を専攻する学生だった。わたしは博士課程、かれは修士課程に在籍していた。この研究室では全員が出席する演習があり、年に一度は誰もがそこで研究報告をすることになっていたから、学生同士互いの関係は密だった。あるとき、かれからちょっとお話しできませんか、と声を掛けられた。それまで、この痩せて浅黒い顔をした後輩に特に注目したことはなかったから、この誘いにちょっと驚いた。喫茶店のルオー(当時は、本郷三丁目の駅に近く、画廊喫茶として広いスペースをもち、ルオーをはじめ油絵を何点も展示してあった)に行っておしゃべりをしたが、何の話をしたか覚えていない。つまり用事があってのことではなかった。

 

こうして、親しいつきあいが始まった。わたしの修士論文はデカルトの美学を主題とし、このテーマでの重要なテクストは哲学者若書きの『音楽論』だから、これを取り上げるところもあった。バロックの音楽論というところにかれは注目したのだろう。修辞学を援用したマッテゾンの音楽理論を研究していたかれには、バロック音楽の使徒のようなところがあった(わたしのデカルトも、礒山君のマッテゾンも今道友信編『精神と音楽の交響』、音楽之友社に収録されている)。この音楽修辞学は、作品を通して惹起される情念と音楽表現との関係を法則的に捉えようとするもので、おそらくこのテーマの選択自体、かれの音楽観、更には人間観、世界観に由来するものだったろう。当時の美学的な常識はモダニズム、あるいは形式主義にあり、感情表現を否定するハンスリックの音楽観がスタンダードな基調をなしていた。そんな時代のなかで、この浅黒い顔をした若者は、「プッチーニは〈血なまぐさい音楽〉だ」、とうそぶいていた。わたしが、藝術における感情や感動の問題を正面切って考える必要を認めたのは、ようやく最近のことだから、礒山君に後れることはなはだしい。二人してムラヴィンスキーの演奏会に行ってときのこと、「現れただけで、すごい人が出てきた、という感じがする」と喜んでいた。音楽はなくてもよいかのように聞こえかねないが、そうではない。かれは音楽に作曲家や演奏家の人となりが現れてくる、と確信していて、しかもそこに価値の重要な基準を置いていた。音楽だけではない。評論や学問についても、同じように考えていたように思う。学問についてそのようなことを言うひとは、あまり見かけない。藝術ではごくありふれた考えだが、藝術を論ずるプロの間ではほとんどいないのではないか。素人くさい意見を堂々と表明できるのは、強い確信があったからである。

 

とすれば、喫茶店に誘われたあのとき既に、わたしは人品を見られていたのだろうか。怖いことだ。そのような視線を意識することはなかったが、大分経ってから突然、告白を受けた。かれが『教授の部屋』(たしかそういうタイトルがついていた)という自身のホームページを立ち上げたとき、見てくれと言われて覗いてみると、最初の方に「尊敬する人 佐々木健一」とあるのに驚愕した。見てはいけないもののように、それ以来、この部分を覗いたことはない。自己紹介に「尊敬する人」という項目を設けるのもどうかとは思うが、わたしの名を挙げてくれたことは、全く思いがけないことだった。尊敬されるような者でないということは、わたし自身がよく承知しているが、かれがわたしのなかに何をみとめたのかは、今もなお謎のままだ。何かとんでもない誤解をかれはしていたのではないか、そんな思いに駆られることもあるが、生前のかれにも、これはさすがに訊きにくいことだった。

 

かれの好意は感じていたから、付き合いは気安く親密だった。一九八二年、海老澤敏学長の英断だったのだろう、国立音楽大学はかれに二年間の留学機会を与えた。ミュンヘン大学に留学したかれのもとを、資料調べにパリに行った帰途、訪ねて数日泊めてもらった。クリスマスの季節だったが、夜にゼミがあるという日のコンサートは、智子夫人とご一緒した。真面目な留学生活だった。この二年間は帰国まかりならぬというきまりだったようだが、途中でこっそり一時帰国したかれは、電話をしてきて、御茶ノ水のすし屋で歓談した。以前と同じように、音楽をメインとするよもやま話だ。それから約一〇年後、今度はわたしが在外研究の機会を得た。その夏、礒山君は旧東ドイツ国境に近いヴォルフェンビュッテルの図書館を訪ねることになっていた。バッハに関係するルター派の神学書を調査するためで、その研究は名著『マタイ受難曲』の養分になっている(書き忘れたが、留学していたときには、処女作となる『バッハ 魂のエヴァンゲリスト』の出版が決まっていて強い充実感のなかにかれはいた)。そこでわたしは、ヒロコと次女のマイコとともにレンタカーでこの北の町までゆき、四人でドイツを南下し、ロマンチック街道を縦断した。かれがドイツに来たもうひとつの目的はバイロイトだった。予約してあった演目のうち『ラインの黄金』と『パルシファル』第一幕をわたしに譲ってくれた。その間、かれは知り合いのヴァイオリニストの伝手でオーケストラピットに入って、それはそれで得難い体験をした。とは言え、入手困難なバイロイトの切符を分けてくれたのは、普通にはありえない好意だ。

 

国内でもいろいろの機会をかれは与えてくれた。多分ヘンデルのオペラ『ジュリオ・チェーザレ』の観劇評から始まり、日本音楽学会のシンポジウムへの登壇(多分二回で、その二回目は、かれの同学会会長の任期の終わりにあたり、是非にと言われて引き受けた)、国立音大での集中講義(フランスのバロックオペラの話をした。このテーマで本を書きたいと思っていたが、結実しなかった)、同大学付属のベートーヴェン研究所での田園交響曲についての講演(この原稿はかれの還暦祝いとして献呈した)などである。これらはかれから頼まれたのだが、振り返ってみれば、わたしに益することの方が大きかった。つまり、われわれ二人の交友は、圧倒的にわたしの借越しだ。中公新書に紹介してくれたことも、忘れられない。

 

近年のことに話を絞ろう。この小文を書くために、かれとやり取りをしたメールを読みなおしてみた。今使っているPCに入っているのは過去五年分くらいだが、特にやり取りが濃密なのは、礒山君の亡くなる直前の二年間のものである。それらを再読して驚いたのは、あたかも歴史上の人物同士のやりとりのように響いたことである。既に歴史的距離感ができた、というわけではない。多分、議論をやりとりする三人称的な文体がそういう印象を与えたのだろう。今のメールの実用的な流儀とは遠い、昔の往復書簡のようだ。しかし、もとは私信であることに相違ない。それを一方的に引用するのはやや気が咎めるが、ここでもかれの好意をあてにすることにしよう。

 

それまでの日常的なやりとりは、互いの仕事、それについての感想の交換が主だった。長女のユキが出した童話『美雨 13歳のしあわせレシピ』(しめのゆき著、ポプラ社)を送ったところ、読んで暖かい感想を返してくれた。ユキは有頂天になった。そこに示された優しさは、後輩の研究者たちに対してもかれの見せる優しさだ(ダメな研究には厳しかったが、それでも優しさがあった)。わたしの『論文ゼミナール』(東京大学出版会)については、「震えが来るほどすばらしいです」と言い、数日後「絶大な感動をもって読了」したと締めくくってくれた。この著作はわたしの自信作で、卒業論文を書く学生たちに、類書にはない有用なアドヴァイスを含んでいると自負しているが、かれの反応はわたしを驚かせた。感動や震えとは無縁な種類の著作と思っているからだが、かれの言葉に追従めいたものはない。何かがかれを感動させたのだが、著者であるわたしには、その何かが分かっていない。と書いたところで思い直した。この本には「論文のモラル」の章がある。感動に関係しうる話題はこれ以外にあるまい。多分、この章がかれを感動させた。そこまでは言えそうだが、特にどのトピックがかれの気に入ったのかはやはり分からない。もしもそれが分かれば、礒山雅の心のあり様を、特に学問なり研究なりに寄せたかれの思いを、その一端なりとも知ることができるだろうに。

 

わたしは、かれの好意に乗じて、いろいろな質問をするのが常だった。二〇一六年からの二年間、話題のほとんどはわたしからの質問、あるいはお願いである。それより少しまえのことになるが、まず、モーツァルトの偽手紙の件。海老澤敏・高橋英郎訳の書簡全集に載っていないので、それがどこで読めるのかを訊ねた。わたしは創造論を計画しており、それは今も構想のなかにある。当時はより簡略なかたちでまとめることを考えていて、そこで取り上げようとしていた。この問題の書簡は宛先も日付も不明の、見るからに不審なものだが、そして贋作であることが既に分かっているのだが、それにも拘らず、創造や発明を論ずるひとが繰り返し言及するテクストだ。内容を一言で言えば、天才は作品の全体を一挙に、霊感によって創り出す、というもので、わたしの考えと衝突する。取り上げなければなるまい、と考えていた(今も考えている)。礒山君は、調べたうえで、それが吉田秀和訳の書簡集に収録されていること、また日本では、小林秀雄の紹介によって流布したこと、更にそれが偽作であることが暴かれた顛末などを教えてくれた。

 

もうひとつは、ベートーヴェン論である。思い立って、二〇一八年の世界哲学会議(北京)で発表しようとして書き始めた論考で、これも上記の創造論の序章を構成するように予定している。わずか数人の聴衆に向けた三〇分の話のために、数倍の長篇論文を書き、それを礒山君に読んでもらった。ベートーヴェンからの引用のなかで安心できないと思ったところは、原文を送ってくれ、と言うくらい念を入れて読んでくれた。その原文、ベートーヴェンの書簡のドイツ語には、一読して面喰ったと言う(かれは高校時代からドイツ語を学んでおり、その読解に関して、しっかりした自信をもっていた)。その箇所についてはお墨付きをもらったが、かれのコメント付きのファイルが、今もある。創造論を仕上げるときに恵まれるなら、再度開いて、かれの助言を活用するだろう。

 

ささやかながら逆のケースもある。かれの訳したクリストフ・ヴォルフ著『モーツァルト 最後の四年』(春秋社)の場合である。贈られると、上記の手紙に関する章があるのを見つけ、直ぐに読んだ。すると礒山君から、「創造については第六章も参考になります」と言われ、そこを読むと、面白くなって全篇を読み通し、強い刺戟を受けた。この原著者には、海老澤敏さんの主宰されたモーツァルト・イヤーのシンポジウムでお目にかかった。礒山君もそのときが初対面だったのではないかと思うが、その後、バッハとモーツァルトの研究を通して、深い交流を続けてきたらしい。この本は、ニュー・ヒストリーの洗礼を受けた実証的な考察を基調とし、晩年のモーツァルトの創造活動を新しい光のもとに描き出した名著だ。念入りに読み、幾つかの指摘を書き送った。それらの殆どは、増刷時に活用されたということだから、わたしとしては珍しく、かれの仕事にわずかにもせよ貢献したことになる。しかし、かれからは、それを上回る言葉が返ってきた。この訳書がわたしの創造論に役立つという寸言に対する応答である。

 

なによりうれしいのは、長いことご親交を賜りたくさんのことを学ばせていただいた、事実上私を育てていただいた佐々木さんのお役に立てたということです。勉強してきてよかったなあと、思っています(二〇一六年一月六日)。

 

わたしの存在がかれの学問を支えたという同じ趣旨の述懐を受けた、と藤本一子さん(国立音楽大学でかれと同じ研究室だった)が、かれの死後、話してくださった。このときのメールに対するわたしの返しは次のとおりで、厳密に文字通りの思いである。

 

君を育てたなど、とんでもありません。汗顔の至りです。
お互いさまで僕も君の存在と仕事に大いに支えられています。

 

その貴重な支えである君に最後に会ったのは、君が事故に遭う半年前、二〇一七年一〇月二一日だった。近くに講演に来るからといって、わたしの最寄り駅まで来てくれた。わたしがお招きすると言ってもきかず、君にご馳走になる羽目になった(君は、わたしのことを、多分実態以上に貧乏だと思っていた)。すでに博士論文を提出してあり、快い疲労感に君は上機嫌だった。若いころビール一辺倒だった君は、もう久しくワイン党になっていた。駅での別れ際、そのワインで上気した笑顔で手を振る君の姿が、ラストショットになった。その日の主たる話題は、君の博士論文だった。だからこのエッセイもこの話題で締めくくろう。

 

人生で残している最大の課題は、《ヨハネ受難曲》のモノグラフィを書くことです。《マタイ》を超えるものにするためにギリシャ語のマスターは絶対必要と考え、勉強しています。『ヨハネ福音書』の第1章は暗記しましたよ。すらすら言えます。大きな本になりますから、博士論文にしようかと思い始めました。また、ご助言いただければと思います(二〇一四年九月一二日)。

 

名著は、次の仕事ではそれを超えなければならない難関として、著者自身に立ちはだかる。『ヨハネ受難曲』はそのような難題だった。このメールについて、特に助言の必要なこととは思わなかった。それから一年後。

 

ようやく、《ヨハネ受難曲》のモノグラフィ執筆に本腰を入れています。ギリシャ語学習の効果が大きく、《マタイ》から二〇年経っただけのことはある、と言っていただけるような気がしてきました。
ところで、私は博士号を取るのを怠ってきておりまして、もしやるとしたら、これが最後のチャンスになります。出版のメドもついていますし、今更面倒なことをするのもどうかという気持もじつは大きいのですが、佐々木さんはどう思われますか(二〇一六年八月六日)。

 

「博士論文」について、本当に逡巡していたと見えた。だから、今度はわたしも応答した。

 

博士論文、君に意欲があるようなので、挑戦してみてはどうですか。若い人なら、文句なしに勧めます。君の場合、殆ど実利はないでしょう。審査員は全員君より若いということになりますから、気づまりなこともあるでしょう。それでも、世の中は動いており、学位なしが例外的なことになってきつつありますし、特に外国人との付き合いでは、学位なしの教授というのはなかなか理解してもらえないあり方であることは、昔でも同じです。

 

特にアカデミックな世界のそとの方々には、いささか説明が必要だろう。文系の博士の制度は、ここ二〇~三〇年くらいの間に大きく変化してきた。礒山君もわたしも旧世代で、博士論文とは、研究の到達点をなすべきものだった。それが今、教授資格のライセンスのように変化している。理系と同じように大学院の博士課程を修了するときに提出し、博士号を得るというかたちにしようという政策である。国際規格に近づけようという趣旨はよいが、行き過ぎもありはしないか。礒山君は、提出すれば合格する、というようなありかたに疑問をもっていた(別のメール)。かれが自身の問題として考えていたのは、無償のチャレンジという昔風の博士論文である。その理念と現状とのギャップが、「今更面倒なこと」との思いにつながったのは、想像に難くない(その「面倒」にはより深い意味があると思うが、これについては後述する)。結局かれは決断し、母校ではなく国際基督教大学に提出した。それは自身の論文のテーマをその分野や近接領域の専門家に審査してほしい、との思いからに相違ない。

 

これをやるかやらないかで、人生が大きく変ったと思います。背中を押していただいたこと、心から感謝申し上げます(九月二〇日)。

研究一途の人生ではありませんでしたが、最後の段階で、やっとそう呼べる時期がありました(一〇月二日)。

 

この言葉はいずれも、われわれが最後に会った日より前に書かれたもので、特に二つ目の言葉は、論文の提出日のものである。逢った日の歓談でも、かれはこれを繰り返した。背中を押したというような意識は、わたしにはなかった。彼自身の決断であるのは、言うまでもない。あとから読むと、「最後の段階」という一句は不吉な響きを立てるが、かれが、更新された人生を目の前に見ていたことは間違いない。それがどのようなものとしてイメージされていたのかは、わたしには分からない。ただ、更新された人生と言っても、それは必ずしもその後の人生のあり方に限られるわけではない。遡及的に、それまでの人生の全体像を画きかえる効果が含まれているはずだ。

 

その遺著『ヨハネ受難曲』(筑摩書房)について一言しなければなるまい。刊行されたものが、博士論文とは別ヴァージョンで、並行して準備されていた、ということには驚かされた。そのようなことをするひとは、まず、いない。だが、一般のケースに即して考えると、間違える。一般には、博士論文を書き、合格するとその公刊の可能性を模索する(博士論文は公刊することが要求されている)。しかし、『ヨハネ』については、上記のように、予め出版が決まっていて、それを博士論文にした。これは後先だけの違いではない。つまり、刊行予定の原稿を博士論文として提出した、というわけではない。博士論文にまつわる「面倒なこと」は、手続きだけのことではなかったはずだ。もしもそうなら、二つのヴァージョンを作る必要はない。これについて礒山君のした仕事は、多分次のようなものだ。すなわち、かれは出版ヴァージョンを『マタイ』と同じスタイルで書き進めていた。それを博士論文にする、という決断をしたとき、単にその出版ヴァージョンを学位論文として提出すのではなく、学問的な厳密さを徹底して追究することを考えていた。つまり、論文ヴァージョンには、一般の読者には無用と思われるような論理や証拠を盛り込んだ。この厳密さの追究は、おそらくかれが人生のなかで初めて徹底して取り組んだ課題だった。わたしは論文ヴァージョンを読んだわけではないので、これは推測にすぎない。しかし、博士論文を書くという経験が自身の人生像を変えるような意味をもったということは、このようなことなのではなかろうか。

 

論文において追究されたこの厳密さは、公刊ヴァージョンにも影響を及ぼさずにはいない。だから、その『ヨハネ受難曲』は、一般の読者に向けた版と言っても、相当に重たい本だ。『マタイ受難曲』は礒山一流のパトスで読ませるところがあって、より近づきやすかった。『ヨハネ受難曲』の方は、刊行されたヴァージョンでも、学問的に深く厳格だ。だから、簡単に読み流せない。上に引用したかれ自身の自負を、文句なしに認めよう。ギリシャ語学習は福音書の理解に関わり、「ヨハネ福音書」のマタイを含む他の三つの福音書(共観福音書と呼ばれる)との違い、そこに固有の世界観を絞りこみ、バッハの作品にその光を当てるという役割を果たした。だが、厳密さの探求は全篇に及んでいる。およそ著作は読者を選ぶ。『ヨハネ受難曲』は、著者をたじたじとさせるような読者を得るに相違ない。そして、そのような読者たちがこの本に長い持続的ないのちを与えてくれるだろう。わたしは、とぼとぼと、福音書に関する冒頭部分を再読しているところだ。

 

君が集中治療室から一般病棟に移されたという知らせを、わたしは快方に向かっているよい徴と理解した。そこで何の懸念もなく、ヒロコとユキとともに、予定していた南仏への旅行に出かけた。そして、帰国した日に開いたメールは、旅立ったその日に君が亡くなったことを告げた。お通夜はメールを読んだその翌日だ、まるで待っていてくれたかのように。斎場は大勢の人びとであふれていた。君の多面にわたる活躍ぶりを示すものだ。だから、わたしの知っている礒山雅はほんの一面に過ぎないのかもしれない。それでも、それは君にとっても重要な一面だったと思っている。わたしの喪失感は深い。われわれふたりの間でつねだった、あのやりとり、無遠慮に君にものを訊ねる、応えてもらう、時には何かに誘ってもらうというやりとりができなくなってしまった。語りつくせぬことが残り、わたしの小さな世界に、大きな穴が空いた。「穴が空いたよう」という、このきまり文句の意味を教えられたかのようだ。そんなことを教えてくれることはなかったのに。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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