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女に産土はいらない 三砂ちづる

石牟礼道子の天才性

 水俣病を題材とした『苦海浄土』で知られる作家石牟礼道子さんが90歳で亡くなって、2年半が過ぎた。先日、石牟礼さんについての著書を上梓される江戸文化研究者、田中優子さんとお話をする機会があったが、彼女は、まず最初に、石牟礼さんはノーベル文学賞をとれた作家だったと思うのに、亡くなって残念だった、とおっしゃっていた。石牟礼さんのえがく世界のオリジナリティー、典雅な文体、結果としての世界性や思想性、は、ノーベル文学賞に値した、という人は、もちろん田中さんだけではない。ノーベル賞を受賞するには、生きていなければならないし、文学賞の場合、英語に翻訳されていないと、受賞はほぼ不可能である。石牟礼さんの作品は、代表作『苦海浄土』の翻訳は、あることにはあり、最後の小説となった『天湖』にはブルース・アレン氏による素晴らしい翻訳がでているものの、海外でさかんに読まれるほどの翻訳は出ていない。ここ数年、日本の小説家による日本の小説は、とても盛んに英語等の西洋言語に翻訳されるようになったが、石牟礼さんはその波がくる前に亡くなってしまっている。さらに、彼女は長く、『苦海浄土』により、水俣病の社会活動家という側面で理解されることが多く、優れた文学者であることが認識されるようになったのは、2004年から2014年にかけて藤原書店から編まれた全集が完結し、2011年に池澤夏樹氏による個人編集の世界文学全集に、日本の小説家としては唯一とりあげられてから、ではあるまいか。石牟礼道子の文学世界は、これからこそ、理解されて行くものだと思う。亡くなってから、あらためて石牟礼道子の天才性ということについてしみじみと考えている。

 女子大学で教員をやっているので学生に卒業論文を指導している。卒業論文は2万字から3万字くらい、書かなければならない。普通にものを書くことがとりわけ好きであったり、得意であったり、という人でなければ、2万字などという長い文章を普通は書くことはないものだ。卒業論文を書く、という時点で、はじめてそのように長い文章を書く人が多い。ほとんどの人はそんな長い文書をいたことはないわけだから、どうやって書いたらよいのか、とまどう。「コップのようなものです」と私は言う。コップに水を入れると、水がいっぱいになったらコップから水があふれる。水がいっぱいになっていないと、あふれはしない。これと同じことです、と、言うのだ。たくさん自分の書きたいことに関する文章を読み、たくさんの文章が、まるでコップの水がいっぱいになったかのようにたまってくれば、なにか、言葉があふれてくる。書くことがありません、というのは、まだ、あふれるだけの言葉と文章が自分の中にたまっていないのだ。だから、まずはもっと読みなさい、という。これはまあ、卒業論文、という作業では、「先行文献を読む」ということと同義である。先行文献、という、自らが書きたいと思うことに近そうな文章をたくさん読んでいって、はじめて、自分の書きたいことが書けるようになる。

 また、「論文、レポート」というのは誰にでも書ける文章です、と学生さんに説明している。小説や詩やエッセイなどは、ある程度の文才というものがないと書けない。書くことに対するある程度の才能がないと、そう言った文学的な文章は書けない。しかし、論文やレポートというのは、一に体裁、二に体裁、と、まあ、とにかく体裁が大切なのであって、中身よりもまず体裁なのである。見出しをつけて、引用文献をつけて、論理的に話がすすんでいくように、レポート、論文のお作法というものに気をつけながら、丁寧に書き進んでいけば、基本的に誰でも書ける文章になっている。レポート、論文の体裁とはどういうものか、わかりません、という人は、まず、レポート、論文を書く前に、レポートや論文の書き方、という新書などがたくさん出ているから、そういうものを購入して、お作法を学びなさい、と言ってある。とにかく、卒業論文は、体裁を整え、自らの「コップ」をいっぱいにできるほどに関連の文章をたくさん読めば、何か書くべき言葉が出てくる。そんなふうに説明しながら、大学入職以来200人をこえる学部生の卒業論文を指導して来て、全員、書けたので、どんな人でも、踏むべきプロセスを踏み、体裁を整えていけば、2万字くらいの論文は書けるのだ、と思っている。

 つまりこれは、小説とかエッセイとか書くような文章の才能がない人でも、たくさん読んで、体裁さえ決まっていれば書ける、ということなのである。逆に言えば、普通の人は、そんなふうにしないと書けない。コップがあふれるほどに読まないと書くことなどわいてこない。かくいうわたしもいまはものを書いてお金をもらっているのであるが、このように文章を書き始める前に、ずいぶんの量の本を読んでいる。幼い頃から活字中毒ではなかったかと、今にしたらおもうほどに、活字に耽溺し、本がないと生きていけないくらい本が好きで、まあ、そこそこたくさんの本を読んで来て、そして今も読んでいる。紙の本も買うけれども、電子書籍も買う。電車に乗っていて、電車の本の広告を見て、ふとその本が読みたくなって(そういう広告の出る本は、大体電子書籍になっているものも多いから)、その場で電子書籍を購入して、都心につくまでにスマートフォンで一冊読んでしまったりする。何も読むものがなかったりすると、無料で読める「青空文庫」にはいっているチェーホフとか、坂口安吾とかの短編を端から読んでいるのである。とにかく、たくさん読んでいる。

 そして、好きな書き手があると、その書き手の書いているものを全部読もうとする。渡辺京二とか村上春樹とか石牟礼道子とか岡本かの子とかは、おおよそ全部読んでいると思う。好きなので。村上春樹さんなどほんとうにこつこつと毎日6000字書き溜めるタイプの書き手のようで、本当に多作で、翻訳物も山ほどあって、ああ、一人の人はこれだけ仕事ができるんだ、と感心するほどお書きになるから、読んで、ついて行くほうが大変である。ペルーのノーベル賞作家マリオ・ヴァルガス・リョサも大好きだが、この人も本当に、多作で、なんでも書ける人で、ものすごい量を書いているから、翻訳されているものだけでも、こちらもついて行くのが大変である。で、この人は小説家だけであるだけでなく、フジモリ大統領が、ペルーの大統領になった時、相対する大統領候補であった政治家なのだから、ほんとうにすごいな、と思ってしまう。で、そんなふうに好きな作家さんのものを全部読んだりしていると、あるいは、全部は読んでいなくても、すごく好きな作品などがあると、その文体というか、スタイルが自分にうつってくるような気がする。結果としてちっとも似てはいないのだけれど、ある人のある作品に触発されて、この文章を書きました、という経験が、なんどもある。そんなふうにして、書いている。つまりは、学生に言っているのとほぼ同じだ。コップに水をいっぱいにするからこそ、あふれてくるものがある。

 文章だけではないが、すべての表現というものはおおよそ、模倣から始まるのだ。なにか、体裁というか形式というか、そういうものが提示されていて、それを学び、そのやり方を自分のものとして、そこに自らのオリジナリティーをのせていく。形を学ぶ、ということは、模倣である、といえよう。2020年夏に、若き頃、前衛短歌を率い、日本の短歌界を代表する存在であった岡井隆さんが92歳で亡くなった。彼が、短歌を始めたいという人に向けての文章に、短歌をつくりたい、どうやったら、うまくできますか、と聞く人のなかに、自分の好きな歌人はとくにいない、という人がいること、にびっくりする、ということを書いておられたことを覚えている。岡井さん曰く、自分の好きな歌人がいて、その人の歌はもう、数知れずよみ、数多の歌を暗唱するほどよみ、そのようにしていると、いや、そのようにしているからこそ、自分も歌を詠みたい、と思って歌を詠んでいくのではないのか、と思っていたが、そうじゃない人がいるようで、よくわからない、というような文章だった。つまりは、こちらもおなじことで、要するに、たくさんの短歌を読み、愛し、そのリズムが自分のものとなり、それらのことばでいっぱいになって、あふれるように、自らの歌がうまれてくる、ということなのだ。

 ふつう、そうなのである。論文であれ、小説であれ、短歌であれ、エッセイであれ、その形式、体裁というものを学び、その形式で作られた数知れない作品を読み、ある人に心酔して、その人の書いたものをどんどん読んでいき、その人のリズムを自分のものにして、そこからなにか、文体を獲得し、自分の文章が生まれてくる。ふつうは。いや、岡井隆のことを書いていて、岡井さんは天才的な人だと思うが、彼がふつうの短歌を始めたい人について書いておられた文章では、そのように書いてあった、ということだ。逆に岡井隆のような天才的な歌人でもそのように好きな歌人がいて、その歌をたくさん読んで歌を詠み始めたのだから、ふつうの短歌を始めたい人が好きな歌人もいない、ということはびっくりした、ということなのであろう。

 

 天才、というのは、そもそも、ふつう、ではない人のことを言う。石牟礼道子は「本を読んでいない」人として知られている。あまりにも有名な『苦海浄土』の原稿を最初に受け取った編集者であり、その後一貫して、石牟礼さんの仕事をサポートしてこられた歴史家の渡辺京二氏が、おりにふれ、石牟礼さんは本は読んでいない、ということに言及しておられる。渡辺さんが、これ、おもしろいですよ、と、本をすすめたりすれば、ちらっと読んだりはしても、数ページ読んでおそらく最後まで読んでいないと思う、とおっしゃっていた。日本文学の有名な作品も、西洋近代文学のマスターピースも、おそらく彼女は読んでおられない、と言及されている。石牟礼さん自身が本を持っておられなかったわけではないが、要するに、読んではいないだろう、というわけである。

 石牟礼さんの文章を読んだ人は、その文体の古典的で典雅で美しいことにひかれていくのだが、それではいったい、彼女はどこからそのような文体を獲得したのか。ゼロから何かが生まれることはないのであって、石牟礼道子の文章のもとになったものはどこからきたのか。渡辺さんは、「国語の教科書じゃないですか」とおっしゃるのである。

 確かに小学校、中学校、高校の国語の教科書には名文がたくさん載っているものだ。模擬試験や入試の国語の問題にも素晴らしい文章が載っていることは少なくない。適切な長さで、試験を出せるような文章を選んであるわけだから、自ずと、名文が多いわけである。文字中毒であった私は、1960年代、すでにそのころ無償となっていた公立学校の教科書が学年はじめに配られることがすごくうれしくて、配られるや否や、いつも国語の教科書を貪るように読んでいたものだ。様々な文章の様々な表現が広がり、引き込まれていくような世界がたくさんあった。模擬試験の国語の問題を解きながら、あまりに文章がすばらしくて、試験中に泣いてしまったこともある。模擬試験の最中というのは、泣いている場合ではなくて、問題を解かなければならないのだから、そんなところで、文章に感動して泣いているような人は、大して良い成績が取れることがない、というのは、わたしの人生を振り返ればよくわかるのである。

 それはともかく。つまり「教科書」には良い文章がいくつか載っているものなのだ。天才、石牟礼道子がその文才を発揮して文章を書き始めるには、それで十分であったのだ。つまり、学校の国語の教科書程度を読んでいれば、そこには、小説もあっただろうし、詩もあっただろうし、短歌もあっただろうし、歴史的著述もあっただろう、と思われる。石牟礼さんには、それで十分だったのだ。そういうことができる人を天才、という。

 

 『苦海浄土』についての“秘密”は、講談社文庫になっている『苦海浄土』の、本文と同じくらい有名な渡辺京二氏による解説で、明らかにされている。この本は水俣病患者の聞き取りをして作ったようなドキュメンタリー作品ではない、この本は、石牟礼道子の私的な小説である、というのである。つまり、小説『苦海浄土』にでてくる患者の語りの多くは、患者さん自身はちっともそのように語っていない、石牟礼道子が「あの人はこういうことを言いたかったに違いない」と言って「創作」したものである、というのである。書き手の驚くべき自信である。自らが、その人の言いたいことを言えているに違いない、この人はこういうことを言いたかったに違いない、と言って書き、そして、書きあがったものは、書かれた本人をして、おそらく「自分はこのように本当は言いたかったのだ」と思わされるようなものに出来上がって行くのである。つまり、石牟礼さんにとって、水俣病患者には、根掘り葉掘り聞き取りをすることなどできるようなことではなかった。しかし、ちょっとだけその人に会えば、一言でもその人と言葉を交わせば、その人、という人のありようがわかれば、その人がどういうことを言いたかったのか、わかる。そういうことができる人を天才、という。

 

 石牟礼道子は能『不知火』の台本を書いているつまりは、お能を書いているのだ。能の専門家にも高く評価され、能楽を演じる一流の役者さんたちによって、演じられることになる『不知火』であった。石牟礼さんは、能を書くにあたって、「能は一度しかみたことはありませんでしたけれども・・・」と言っていたというが、わたしは、一度だってみたことがあるかどうか、あやしいと思っている。天才、石牟礼道子は、能などみなくても、中世の能というものがどういうものか、どういう形で脚本がかかれているか、ということがわかれば、やすやすと書けたのであろう。あの古風で典雅な能の脚本さえかけるような文体はどこから来たのか、というと、こちらも渡辺京二さんによると「御詠歌などではないか」と書かれていた。石牟礼さんが幼い頃、天草に住んでいる親戚などから御詠歌をきかされていたようなのである。天才には、御詠歌や浄瑠璃をきけば、それで十分、そのリズムと文体で、能まで書けるのである。

 つまり天才性、というのは、普通の人ならコップ一杯情報を入れないとあふれないようなところを、ほんのひと匙の水、つまりは一、二行の文章でその文章の本質を知ることができる、ということなのである。何か形が与えられれば、そこにのせて、何かが表現できるのだ。

 

 水俣の一主婦であった石牟礼道子は、30代後半のある日、高群逸枝の書いた『女性の歴史』をみつける。その本の上に、まさに後光が指しているように見えて、その本を手に取り、夢中で読み、ああ、これこそ自分が知りたかったことだ、自分が求めていたことだ、女性にとって必要なことだ、と思って、高揚し、見知らぬ人であった高群逸枝に長い手紙を書く。その手紙を高群逸枝は読んでいたというが、ほどなく、亡くなる。生前の高群逸枝に石牟礼道子は会うことはなく、高群逸枝の死後、夫の橋本憲三から、あなたの手紙を読んだ、おいでになりませんか、という手紙をもらって、高群逸枝が橋本憲三の公私共に渡るサポートのもと『女性の歴史』を書き上げた、世田谷区の「森の家」を訪れる。石牟礼道子を高群逸枝の生まれ変わり、と呼ぶ、橋本健三の元で、石牟礼道子は『苦海浄土』の最初の原稿を書き上げるのである。つまり、高群逸枝の『女性の歴史』を読んだことは石牟礼道子を突き動かし、東京に向かわせ、『苦海浄土』を書くきっかけを提供する。

 そこまで彼女を動かし、感銘を与え、作者に心酔させ、強い絆を作り上げた『女性の歴史』。その本を読んで、長い手紙を書いた、というのだから、もちろん、ふつうの人はその本を通読した、と思うものであろう。わたしも長くそう思っていた。高群逸枝と石牟礼道子は直接には面識がないが、この『女性の歴史』を通じての魂の遭遇とでも言えるようなものがあったのだから、もちろん、石牟礼さんは『女性の歴史』を全部読んでいたのであろうと。

 ところが、のち、あるインタビューで石牟礼さんは、後光のさしていた『女性の歴史』、手にとって読んで、感動して、逸枝さんに手紙を書きました、でも、読んだのは10ページくらい、と言っているのである。10ページ・・・。『女性の歴史』はまことに分厚い本である。10ページだけ読んだ。10ページしか読んでいない。それでも、その10ページは、石牟礼道子にとんでもない感動を与え、熱い手紙を書かせ、家族のいる水俣を後にし、高群逸枝亡き後の橋本憲三住まう東京の「森の家」まで行かせるに十分であった。なんという人だろうか。魂の絆をつくりあげ、自らの代表作制作のきっかけでさえ、「10ページ」で十分であったのだ。

 先述の渡辺京二さんは、そんな石牟礼さんを編集者として、秘書として、同志として、家族ぐるみで支え続けた方なのだが、彼によると、石牟礼さんは本当に多彩な才能の持ち主だったのだという。書を書かせれば、篠田桃紅に絶賛され、大変な美声の持ち主で歌はとびきり上手、絵心もあり、晩年には自らの俳句に絵をつけて発表されていた。女優ができるほど演劇の力もあったのだという。おそらくこの人の天才性は、どの分野においても発揮されるほどのものだったのであろう。そういう人が、文学の分野に力をそそぎ、数多の作品を残していかれたことは、残るものにとっては大変な幸運だったと言わねばならない。石牟礼さんは、ご本人の注目度ほどには、その作品は読まれていない作家であるという。今後多くの石牟礼作品が、読みとかれることを、待っている。

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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