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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

楽園のジレンマ――彼岸はどちらの側にあるのか? (1)


 今回は趣向を変えて、まずは以下のような思考実験から話を始めてみたい。

 その思考実験とは、どこかの科学者が誰かさんの脳、つまり人間の生きたままの誰かさん(もしかしたらこれを読んでいるあなた)の脳を、外科手術で頭蓋から取り出し、その脳細胞が死んだり、組織が痛んだりしないように外部の培養液の中に保存することができるとしたら、その場合、その生きたままの脳は、身体から取り出された後も以前と同じように正常な心の状態を保つことができるか? というものだ。

 SFの世界では、昔ヒットした映画「マトリックス」の世界観のように(さすがに脳だけを取り出してという設定ではなかったが)、カプセルの中で生かされた人間に、コンピューターから映像や体験を想起させる電気信号などを送り込んで、人工的に作り出された脳内の幻想世界を、あたかも現実世界であるかのように思い込ませるという未来が描かれていたりする。

 最近はVR(バーチャル・リアリティ)が発達してきて、その方面の技術が進化すれば、そんなSFの世界観のまま、実際に僕らが普段見ているこの現実世界も、脳に直接信号を送り込む形のVRで置き換えることができるようになるんじゃないか、と思っている人も多いかもしれない。

 そういう人は当然、科学の発達を前提にして、培養液の中でも脳は通常の心的状態を保ち続けることができる、と考えるんじゃないだろうか。

 あるいはちょっと哲学方面に詳しい人なら「それは有名なヒラリー・パトナムの水槽脳仮説という問題だよね。確か脳内の認識世界をW1として、外的世界をW2にすると、身体がない状態ではW1はW2を指示することができないから意思の疎通が無理じゃないかとか、形而上的実在論を否定するとか、そういう話になるんじゃなかったかなぁ?」と言うかもしれない。

 通常、この手の思考実験では、心とは何か、あるいは意識がどのように生じるかというメカニズム自体を問うわけではなく、脳が単独で心的現象を作り出すことができるということが当然のような前提になっている。その上で、心を持った脳と外部の観察者はどのようにすればコミュニケーションを取ることができるのかとか、あるいは、脳だけの状態の意識と、通常の身体を持った状態の意識とでは何が違うのか、といったところが問題にされることが多いように思う。

 ところが最近(と言っても、もう20年以上前だが)、実は培養液に漂う脳が仮に完全に無傷なまま生きていたとしても、その状態ではそもそもの初めから、正常な心的状態を保つことはできないだろうということが分かってきているのだ。

 「え、実際に実験した事例があるの?」と思われると困るので説明すると、とある神経学の専門家が脳疾患患者の臨床例などを元にそのように主張しているのである。その専門家とは、ポルトガル出身の神経学者で「ソマティック・マーカー仮説」という独自の仮説を発表しているアントニオ・R・ダマシオ氏だ。

 ダマシオ氏は、その著書『生存する脳』(田中三彦訳、講談社、2000年/文庫版『デカルトの誤り』ちくま学芸文庫、2010年)の中で、人が心的現象を作り出すメカニズムに関する考え方にも言及していて、それに拠れば、脳を身体から完全に切り離すと、その時点で心的現象を生み出すためのメカニズムが機能しなくなり、その脳は正常な心の状態を保つことができなくなるはずだ、というのだ。

 常識的には、一般に意識とか思考とか呼ばれるものは(その正体が何かはともかく)、とりあえず脳内で作られるもの、ということになっている。

 もちろんダマシオ氏も、最終的に脳内で意識が生じる事自体を否定しているわけではないが、脳といえども、肺や心臓など他の臓器と同様に身体の一部でしかなく、脳が単体で心的現象を作り出しているわけではないのだ、という。つまり、脳は他の身体と生物化学的調節回路、神経的調節回路を通して相互につながっており、その間で神経伝達物質などを含めた情報のやり取りがあるからこそ、正常な意識を保つことができるというのである。

 「脳卒中とかで寝たきりになって、身体が動かせなくなったのに意識がある人もいるじゃないか」と反論する人もいると思うが、その場合は脳のどの箇所を損傷されたかにより、身体とのつながりが完全に破壊されていなければ意識は保てるのだそうだ。つまり、具体的に脳のどの箇所が損傷を受けると、どのような身体機能がダメージを受けるのかとか、意識の様相がどのように変化するのかについても、かなりの程度臨床例があって分かっているのだという。

 また「身体がなければダメだというなら、脳に身体とやり取りされるときに送られる化学信号や神経信号なりをシミュレートできるシステムを外部に作ってつなげてやればいいじゃないか」という反論もありそうだ。その場合は確かに、攻殻機動隊(SFマンガです)みたいに義体(要するにサイボーグ)か、それと同じ役割を果たす装置をつなげればいいということになりそうだ。だが、それだと最初の命題の「脳だけを取り出す」という話と違ってきて、結局、生身であるか義体であるかは別にして、意識を保つためには外部に身体が必要だ、ということになる。

 上記の考え方を元に、ダマシオ氏は同書の中で、人が物事を推論し意思決定をする際には、論理的な思考だけではなく、身体機能に支えられた情動や感情が重要な役割を果たすという「ソマティック・マーカー仮説」を展開していくわけだ。

 だが僕が興味を惹かれたのは「ソマティック・マーカー仮説」そのものではなく、その仮説に至るダマシオ氏の提示した上記の考え方の枠組みそのものの方だった。

 ダマシオ氏は科学者なので、仮説に関しては明白に論証できる範囲のこと(この場合は意思決定に感情や情動の支えが必要という部分)だけを提示しようとしていたようだが、同書の中では、その仮説に至る経緯や、考え方の枠組みについてもエッセイ風に説明されていて、僕にはそちらの方がはるかに興味深かったのだ。

 たとえばダマシオ氏は、脳と身体は分割不可能な有機体であるという前提のもと、心が自己意識を獲得する脳内プロセスを次のように説明している。

 まず脳内には、これまでに経験した自伝的情報や将来に関する一連の計画など、個性を定義づける情報、いわゆるアイデンティティの元になる情報の指示的表象をマッピングする箇所(自己の表象)がある。

 さらに別の箇所には、身体の恒常性(ホメオスタシス)を元に、身体状態をモニタリングする原初的表象(身体の表象)をマッピングする箇所もある。

 その上で、その両者と相互に結びついて、それらの情報を同時に参照する第三の神経構造(サードパーティのニューロン集合体)もあるのだという。

 上記を前提に、自己意識を獲得するには、たとえば外部の対象Xを認識するというような場合、まず身体の表象が対象Xとの関わりの中で変化し、それが自己の表象とともに第三の神経構造の中で同時に参照される必要がある、というのだ。

 要するに、単に外部の対象Xを見たという情報を脳内にマッピングするだけでは、その情報を誰が見ているのかという疑問に答えることはできないし、一方、自分の自伝的情報をマッピングして記憶として貯えているだけでもだめで、いくら詳細な記憶があっても、その記憶は誰のものなのか? ということになり、やはりその情報だけでは自己意識を獲得することができない。

 なので、いわゆる自己意識を獲得するには、その両者が第三の神経構造の中でトポグラフィ的に構造化され活性化される必要がある、というのである。

 とまあ、こんな風に書いても、正直、専門家ではないので用語の使い方が合ってるかどうかも怪しいので、実際に著者の言葉をそのまま同書から引用すると、

「そのとき脳は単に対象のイメージを生み出しているのでも、あるいはその対象に対する有機体の反応のイメージを生み出しているのでもない。第三のイメージ、すなわち、ある対象を知覚し、それに反応している有機体のイメージを生み出しているのである」(『生存する脳』p.361)

 となる。

 確かに、外部の対象Xのイメージを脳内で構築するというだけでは、そのイメージをいったい誰が見ているのか? という疑問に答えることはできない。

 有名な「ホムンクルス(小人)が脳内にいてそれを見てるんだよ」というような単純なモデルでは、じゃあ、その小人の中にもう一人、より小さな小人がいないとだめだよね、という主観性の無限後退の誤謬に陥ってしまう。

 これに対して上記のように外部からの刺激に反応する「身体表象」と、内面的な自伝的記憶を元にした「自己の表象」が、相互に反応して第三のイメージを生み出すことで主観性が生じているとするなら、少なくともホムンクルスの誤謬は回避することができるわけだ。

 実をいうと、僕はこの考え方に触れてちょっとした衝撃を受けたわけだが、そのとき真っ先に思い浮かべたのは、仏教の「唯識論」の考え方だった。

 といっても、その当時、それほど唯識論に詳しかったわけではなく(今でもそれほど詳しいわけではないが)、高校時代とかに図書館で入門書を借りて読んだ程度の知識しかなかったのだが、それでも意識をいくつかの層に分けて、お互いに参照する仕組みになっているとするところが、なにか似たようなところがあるように思われたのだ。

 その当時の僕の知識では、唯識論では意識を通常の意識のほか、末那識、阿頼耶識という具合にいくつかの層に分けて、いわゆる自己意識が生じる仕組みに関しては、末那識の所縁は阿頼耶識という具合に、お互いを参照するかのような仕組みを提示して説明していたように記憶していて、それが妙に似ているように感じられたのである。

 もっとも、それまで僕は、唯識論は説明のための説明というか、あくまでも仏教的な文脈のなかで、本来「無我」のはずの人間になぜ我執が生じるのかというような疑問に、できるだけ論理的に答えるためにひねり出した、ご都合主義の理論という印象を持っていたのである。

 仏教はどうせ無我を教えているんだから、無我なら無我で四の五の言わずに無我でいいじゃないか。なんで深層意識みたいなものを、しかも念入りに多重構造にして、一方は他方の見分(見る側の心)を所縁(その対象)にするだのなんだの七面倒くさいことを言うのだ、と思っていたのである。

 これに対して、たとえば、よくあるデカルト的心身二元論だと、心は心、身体は身体で、両者はまったく二つの別のもの、ということになっている。直感的に理解しやすいし、何よりシンプルで分かりやすい。

 しかしそれだと、上記のホムンクルスの誤謬のように主観を生じる主体は何処にあるのかとか、死んだあと魂はどうなるのかとか、生まれ変わりはあるのかとか、そもそも外的対象を認識しても、その認識をもつ心のありようは他者には絶対に伝わらないんじゃないかとか、なんだかんだで最終的にどうやっても独我論から逃れることができなくなってしまうように思える。

 それを理屈の上だけでもなんでもいいから、力ずくでなんとか無我であることを納得させよう、というのが唯識論なんじゃないか、という程度に思っていたのだ。

 もちろん、ダマシオ氏は西洋文化圏の人なので、仏教については知らないだろうし、実際、同書の中でも唯識論については何も触れられていない。

 しかし、デカルトの心身二元論については割と厳しめに非難していて、実は同書の原著のタイトルは「デカルトの誤り」となっているくらいなのだ(ちなみに後年、同書が文庫化される際には、この原著のタイトルを直訳する形で改題されている)。

 こう書くと「ちょっとまて、唯識論では外境(外的世界)を認めないんじゃなかったか?」と反論されそうだ。

 だが、唯識論でいうところの「外境」と、世間一般でいうところの外的世界は、その物質性の捉え方がかなり違うので、単純に外的世界を否定して内的意識だけを認める、というものではないと思う。そうでなければ、唯識論は単に身体性なりの外界を否定して内的精神のみ認めるという、いわゆる「唯心論」になってしまうからだ(この辺りの考え方は、次回にもうちょっとだけ詳しく書くつもりではある)。

 というより、より正確に説明すると、ダマシオ氏の説明に沿って心身二元論を否定し、自己意識が生じる心的仕組みを咀嚼していくうち、僕はその考え方をそのまま演繹して、仏教の空や縁起、唯識論の解釈にも適用することもできるのではないか? と思うようになって上記のような捉え方に至ったのである。

 たとえば、ダマシオ氏が同書で提示した捉え方で革新的だった部分は、単に「脳」と「身体」が不可分の有機体であるということだけではなく、その脳が作り出す「心」が正常に機能するためには、構造的に「身体」の支えが必須であるということと、その仕組みを提示した点にあった。

 しかし、その考え方を自己意識が生じる仕組みにも演繹していくと、「心」と「その内容」、もしくは「認識者」と「認識の対象」、もっと言うと「思考」と「思考者」も不可分で、一方が成立するためには他方が必須となる関係なのではないか、ということに思い至ったのだ(ダマシオ氏自身はさすがに直接そこまで言っているわけではなく、あくまでも僕が勝手にそう解釈しているだけではある)。

 つまり「主観」と「客観」も、一方がないと他方が成り立たない相互関係で成り立っていて、昔からある縁起の説明「これ有るが故に彼有り」に沿って説明するなら、客観があるから主観がある、あるいは客観がなければ主観もない、と言い得るのではないか? そして、その主観と客観の分別が生じる仕組みを説明するため、単に「空」の説明では不十分として出てきたのが唯識論だったのではないか、と思うようになっていったのだ。

 そう言えば、仏教には昔から「身土不二」という捉え方もあって、身体とその生きる環境は不可分のものであると説明することがある。それに沿って説明するなら、何を観て何を思考するかという思考の内容と、その思考を操っている(つもりでいる)思考者は不可分である、という説明の仕方もできるかもしれない。

 ちなみにダマシオ氏は後年、別の著書で自己意識を「原自己」「中核自己」「自伝的自己」といくつかの層に分けて説明し、その間の客体的自己と主観的自己の関係性についても言及するようになっている。


 さて、僕は以前(第5回)、人生の最大の関心事のひとつに「現実とは何か」という問いがあった、と書いた。また、前回も主観と客観に分けることのできない「現実」があるのではないか、と書いた。

 今回、上記のような思考実験から話を始めたのは、その「現実」がどのようなものかという捉え方の土台を、最終章を書く前に提示しておきたいと思ったのと、単なる娯楽として観光で世界を(外的対象として)観て回るのと、旅を通して世界と自己のあり方を問いかけることの違いを説明するためのとっかかりになればと思ったからだ。

 だが、これ以上の詳しい説明はさすがに紙幅が足りなさそうなので、続きは最終章で書くこととして、とりあえずいったん旅の話に戻ることにしよう。

 

 最初の旅を終えて帰国した僕は、とりあえずカメラマンとしてフリーで仕事を始めることにした。

 出版社や編集プロダクションに売り込みに行くと、仕事は案外簡単に見つかった。当時はまだほんのりとバブルの余韻が残っていて、インターネットが普及する前だったこともあり、出版業界も不況に強い業界としてそれなりにまだ勢いがあって、仕事は割りと潤沢にあったのだ。

 仕事を始めて2年目くらいだったろうか、僕はとある編集プロダクション経由で知り合った同業のF氏の紹介で、金村と名乗る男と面識を持つことになった。

 F氏とは、僕と同じ時期にカメラマンとして仕事を始めて、同じような編集プロダクションに出入りしていた男で、この仕事を始める前にインド方面へ旅をしていたという点も偶然同じだった。

 金村氏と最初に会ったのは、そのF氏が主催した飲み会に参加したことがきっかけだった。確かF氏から、モンゴルのパオ(ゲルともいう移動式の家屋)みたいな内装の珍しい店があって、そこで自分の旅仲間を集めて飲み会をやるから君も来ないか、と誘われ、どちらかというとそのパオ見たさに出席したのだった。

 僕自身はインドを旅しているときにはF氏とは出会わなかったのだが、偶然とは面白いもので、その飲み会には、最初の旅の途上、インドとネパールで2回出会ったことがあるH氏という男も同席していて、期せずして久しぶりに日本でも再会するという場面もあった。

 事前にF氏とH氏が知り合いであるとか、その飲み会にH氏が出席するということも知らなかったし、そもそもH氏とはそれほど親しくしていたわけでもなく、帰国後に連絡を取り合っていたということもなかったから、まったくの偶然の久しぶりの再会には、本当なら相当驚いたはずなのだが、その割りには驚いた記憶はあんまりなかったりする。当時はそういう偶然の再会があまりにも頻繁にあって、一種の旅人あるあるネタになっていたくらいだから、この程度の偶然では驚かなかったのかもしれない。

 それはともかく、その飲み会に出席していた人物のひとりが金村氏だったのだ。彼は主に横方向に大柄な体格をしていて、今にして思えば、メガネこそ掛けていなかったが、雰囲気的にはマレーシアで暗殺された北朝鮮の前指導者の息子のような風貌の男だった。

 その飲み会には確か、全部で5~6人程度しか出席していなかった。どんなメンツが集まっていたかというと、確か出席者の一人は、中国旅にはまって今は中国に留学していて一時帰国中という男だった。前述のH氏は、その昔、劇団を主宰して役者を夢見ていたのに、いつの間にかバイトのほうが儲かるようになってしまい、そのことに悩んでインド旅に出たという経歴の持ち主だった。飲み会を主催したF氏も、元々は中学で国語の教師をしていたのに、旅に目覚めて教師を辞め、帰国後にカメラマンになったという人物で、まあ、簡単に言えば僕も含めて、一般的な社会からはドロップアウトした人間の集まりによる飲み会であったのだ。

 金村氏はというと、僕の記憶が確かなら、その当時、旅の面白さに目覚めて、勤めていた商社をやめてしまい、今は大学の図書館でアルバイト的に働いているというようなことを言っていた。商社といっても小さなところで、大手の総合商社というわけではなかったようだが、それなりに安定した仕事を辞めて旅に出るくらいだから、やはり結構な旅好き人間であったと言っていいだろう。金村氏は京都方面に住んでるとかで、僕は関東住まいだったので、しばらくその飲み会でしか接点がなかったのだが、なんの因果か、その数年後、タイのバンコクでまた再会することになるのである。

 フリーで仕事をしていると、依頼を受けて撮影するだけではなく、自分から何かテーマを見つけて撮影し、それを作品に仕上げたものを出版社に持ち込むということもするようになる。特に僕の場合、それなりに文章を書くのも好きだったので、旅のついでに取材したことを記事にまとめて出版社に持ち込むということも始めていた。

 ちょうどバンコクで金村氏と再会する頃、僕はインドに遊びにいったついでに、後にIT都市として有名になるバンガロール(現ベンガルール)を取材して、そのソフトウェア産業の実体を記事にまとめることに成功したばかりだった。とある経済系の雑誌に持ち込んだら、初見の売り込みにもかかわらず、いきなり巻頭カラーを6ページももらって、特集記事として掲載してらうことに成功したのだ。

 今でこそインドのソフトウェア産業はそれなりに有名だが、その当時(1994~1995年頃)の日本ではあまり知られておらず、もちろんバンガロール自体もほとんど無名で、一部で名前が上がることはあっても、実際にソフトウェア産業に焦点を当て、写真付きで現地の様子を紹介した記事は僕のものが初めてだったように記憶している。

 ちなみにその編集部には、記事を見たNHKから、現地を取材して番組を作る予定があるから僕を紹介してほしいという問い合わせがあったそうだ。惜しいことに、その問い合わせがあった頃、僕はまた別件で海外に出て留守にしていたので、その取材には同行できなかった。あのときNHK取材班と一緒に再度バンガロールに行っていたら、今より少しは仕事の幅が広がっていたかもしれない。

 

 話を元に戻そう。その持込記事の成功に気をよくした僕は、次はアジアを旅する日本人、もしくはアジアで働く日本人についての記事を書こうと思い立ち、とりあえず日本人旅行者がたくさんいるバンコクに降り立ったのである。

 金村氏はというとその当時、バックパッカーが集まるカオサン通りのすぐ近くの、テラスゲストハウスという安宿を定宿にしていた。

 事前に連絡を取り合った記憶がなく、どんな経緯で金村氏と再会したのか、そこのところの記憶はあいまいだったりするが、だいたい同じ時期に同じところを旅していれば再会するのがその当時の旅の定跡であった。

 再会の場で金村氏が力説して主張するには、暑さが厳しいバンコクで、巨体で汗かきの自分が少しでも涼しく過ごすにはクーラーのある部屋は必須だ、しかし、カオサン周辺でクーラーがあって、でもそれなりに安いゲストハウスというとここ(テラスゲストハウス)しかない、ここがベストなんだよ、とのことであった。

 金村氏は一時が万事、何事にも上記のようなこだわりの持論を展開する男で、やれ10バーツでバミー(いわゆるタイ風ラーメン、さすがに普通は安くても15バーツはした)を食べられる屋台を見つけただの、あそこの食べ放題は得だから絶対におすすめだの、僕がどこかに行こうとすると、それならバスはここで捕まえるより、ちょっと先のバス停で何番に乗ればいいとか、何かにつけ細かいというか、自分なりのこだわりを満たせるような、納得できる情報をとことん追求しないと気が済まない性分があるみたいであった。

 

  

今回は本編の話に合わせてカオサン周辺の写真を探してみた。この2枚の写真を見ても分かるとおり、カオサン周辺は白人バックパッカーが多く、何の説明もしなければアジアの都市とは思えない雰囲気だ。今はかなり小奇麗になったカオサンだが、90年代半ばくらいまでは、タイ人の若者も怖がってあまり近づかないようなアングラな雰囲気もあったと思う。

 

 

 とまあ、ここまで書けばそろそろ、90年代後半にバックパッカーとしてバンコクを旅したことがある人には、この金村氏の正体が誰なのか分かってきたのではないだろうか。

 そう、彼こそは後にバンコクで一世を風靡する伝説(という事にしておこう)の「ジミーくんバスマップ」を作った作者であり、バックパッカーを相手にした究極の貧乏旅行本「バンコク・カオサン プー太郎読本」を出すことになるライター、ジミー金村その人なのだ。

 知らない人のために一応書いておくと「ジミーくんバスマップ」とは、金村氏がそのセコイこだわりを遺憾なく発揮した、バンコク市内のバスルートを紹介した手書きの地図のことで、どの路線のバスに乗ればどの観光名所に行けるかを事細かに書き綴った便利マップのことだ。この当時は、そこまで詳細にバスの乗り方を紹介した日本語の地図はなかったから(現地語でも、他国語でもなかったと思う)、学生さんの間で評判が広まり、バンコク滞在での定番ガイドのようになっていたのである。

 もっともそうなるのは、この再会のもう少し後のことで、この当時の彼はまだ「ジミーくんバスマップ」も作っておらず、ライター稼業にもまったく縁がなく、カオサンでよく見かけるただの貧乏旅行者のひとりでしかなかった。

 この当時、金村氏は、昔は旅でいろんなところを訪れることが面白かったが、今はすっかりバンコクがお気に入りになったとかで、数ヶ月間日本で働いて金を貯めると、残りの大半をバンコクで過ごすようになったと言っていた。

 「僕はねぇ、旅が好きというより、バンコクが好きなんだと気がついたんだよ」

 何かの拍子にそんな風に語った金村氏の言葉が、今でも妙に印象に残っている。それは「旅」という行為に対して、そもそも旅人が本当には何を求めているのかという「旅」の意味やその本質にかかわる問題を内包する発言だったからかもしれない。

 移動しないで一箇所にとどまってるだけなら、それはもう旅じゃないだろう、と突っ込みを入れたくなる人もいるだろうが、旅の途上、自然と自分のお気に入りの場所ができてそこに留まりたくなる気持ちは僕にもよく分かったし、その当時はそれもまた旅の一部だよね、程度の気持ちで深く考えることもなかったのだ。それどころか、当時はこの手の旅人の行動パターンは、一つの場所にはまって留まるという意味で「沈没」と呼ばれていて、バックパッカーの行動パターンのひとつとして広く知られていたのである。

 もっとも金村氏のそれは「沈没」というより、最初からバンコクにしか行かないのだからもっと徹底していたわけで、やっぱりこれは「旅」とも「沈没」ともちょっと違うよね、ということになったのか、いつの間にか2000年代に入ってしばらくしてから「外こもり」と呼ばれるようになっていった。

 「外こもり」とは、いわゆる「引きこもり」に引っ掛けた造語で、国内で同じ事をやれば「引きこもり」でしかない行動パターンを、わざわざ海外でやってるよね、という揶揄を含んでいたようで、あまり肯定的な言葉ではない。

 最初は旅として訪れても、現地が気に入ってそこに住もうとする人が出てくるのは自然なことで、それを否定的に表現するのは、個人的にはあまりいい気はしなかったが、バンコクに長期滞在する人たちには、いわゆる世間的な基準からは、あまりろくな人がいなかったのも事実であった。

 確かに当時のバンコクは物価が驚くほど安く(今でもそれなりに安いが)、絶えず仕事をしていなくても、日本で数ヶ月働いたわずかの金があれば長期滞在が可能だった。

 たとえば、安宿の宿泊費はドミトリー(大部屋)が50バーツからで、個室でも100バーツ程度。先に屋台のタイ風ラーメンが普通は15バーツ程度だったと書いたが、その他の食事も量は少ないがやっぱり20バーツ程度からあった。ということは1バーツが3円として、日本円で一日600円、一ヶ月では2万円もあれば十分それなりの滞在が可能だったのだ。

 ついでに言うと、当時は旅行者に対するタイ国の扱いもいい加減で、単なる観光ビザで入国しても長期滞在が可能になる抜け穴もあった。

 そして何より、パッポンなど歓楽街が身近にあり、酒も女も遊び場には事欠かないうえ、カオサン通り周辺みたいに外国人ばかり集まる場所も周到に用意されていたわけで、とにかくここに居さえすれば、仕事も、社会的責任も、将来の債務も義務も何もかも忘れ、自分の好きな時間に起きて、眠くなったら好きな時間に寝てもいいし、その他何をしてもいいし、もちろん何もしなくても誰からも文句を言われないみたいな、ある種浮世離れした楽園のような雰囲気があったのである。

 

 

 

上の2枚はドレッドヘアにしてもらってる女の子。格安でやってくれるのかあちこちで見かけた。次はよくある怪しい風俗への客引き。そして客待ちのトゥクトゥクの運ちゃん。

 

 インドも中国も、その他東南アジアも一通り踏破した金村氏は、最終的に自分なりの旅の目的地をこの地に見出していたようであった。

 そんな旅人たちにとっての楽園ともいえるバンコクではあったが、僕自身は以前紹介したアーティスト・プレイス(第6回)での滞在を別にすれば、それほどバンコクに魅力を感じていたわけではなかった。ひと一倍天邪鬼な僕は、タイよりもインド、バンコクよりはカルカッタの方が好きだったのだ。

 それでも移動の拠点として、あるいは情報の収集地としてバンコクは何かと便利な場所ではあったので頻繁に訪れてはいた。

 そして前述の通り、このときは、アジアを旅したり、アジアで仕事をしている面白そうな日本人を見つけて取材し、記事にまとめて売り込もうと、ひそかなもくろみを胸にこの地を再訪していたのである。

 バンコクのことなら何でも知っていそうなこだわりを発揮する金村氏と久しぶりに再会を果たして話し込むうち、ふと今回の旅の目的を思い出して相談してみると、金村氏は目を輝かせて、それならぜひ紹介したいぴったりの人物がいる、と言ってきた。

 話を聞くとその人物とは、年齢的にはそこそこの年配者で、まだ海外旅行が一般的でなく、欧州に行くにも飛行機よりシベリア鉄道という時代に旅していた元祖バックパッカーなのだという。

 今は何をしている人なのかと聞くと、セミ・リタイアしてパンガン島に住んでいる、ということであった。

 「僕はひそかに、その人のことを北陸の落合と呼んでいるんだよ」

 金村氏のその比喩には、さすがに意味が分からず説明を求めたが、北陸とはその老人の出身地方で、落合とはジャーナリストの落合信彦氏のことだという。なんでも北陸方面の地方紙とかに自分の旅行体験などの紀行文を寄せていたことがあるとかで、金村氏的には世界を股にかけた元バックパッカーというイメージだったのだろう。

 落合氏の著作を読んだことがなかった僕にはいまいちピンとこない比喩だったが、金村氏なりに、その老人がいかにすごい人なのかを表現しようとしていたようであった。

(パンガン島か。そう言えばまだ行ったことがなかったな…。)

 金村氏の下手な比喩にはいまいち納得できなかったが、それでも、その老人がパンガン島に住んでいるという説明には、僕の取材アンテナが鋭く反応した。

 なんといってもその当時、パンガン島にはバックパッカーが思い描く理想の楽園、いわゆる南の島のパラダイスというイメージがあった。

 決して高級路線のリゾートホテルが立ち並んでいたり、その手のビーチリゾートがあったというわけではなく、むしろ、場所によっては電気もろくに通ってなくて、竪穴式住居に毛が生えた程度の格安バンガローがあるだけだったり、ビーチも有名なピピ島ほど綺麗ではないうえ、素朴な漁村も点在する島ではあったが、それでも当時から、フルムーン・パーティーと称するレイブパーティーが行われるバックパッカーの聖地的存在として知られていたのだ。

 ということで、多少不純な動機を内包しつつも、次回はそのパンガン島でセミ・リタイアして優雅に暮らすという、元祖バックパッカー老人を訪れる話へと続く。

 

  

 

無理してなんとか享楽的な雰囲気が写った写真を揃えようとしてみたが、そういう場面にはあまりレンズを向けてこなかったみたいで、後半に行くと段々ゴッサムシティ的な表情になっていくのはいつもの自分の趣味である。

 

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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