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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅の途上――「境界」を意識する(4)


 「ジャパニ? ジャパニ?」
 ボートを降りて村の様子を散策しようと川岸沿いの道を歩き始めると、子供たちが何人か駆け寄ってきて、口々に僕の国籍を確認しに来た。

 外国人を見かけると子供たちが寄ってくるのはインドでは珍しいことではない。その場合、大抵は単にもの珍しさから声を掛けてみたというだけだったり、写真を撮ってくれとか、何処に行くのかとか、ばらばらな関心と要求があるものだが、このときは明らかに質問が僕の国籍にだけ集中していた。

 「うん、うん、日本人(ジャパニ)だよ」
 僕がそう答えると、子供たちは、やっと見つけた、という感じで今度は僕の手を引くように、こっちにこいとか、ちょっとここで待っててとか言い出した。

 それは、南インドのケララ州にあるバックウォーターの小さな村でのことだった。バックウォーターというのは、川の河口部が海と交じり合ったような場所にある水郷地帯のことで、何処からが海で何処からが川なのか分からないような水路が、その低地の奥まで網の目のように複雑に入り組んでいるという場所である。

 海水に近いところにはマングローブがタコが足を伸ばすように立っていて、その後ろには背の低い植生の密林やヤシの木が続く。村は川岸なのか中州なのかよく分からない場所に点在していて、その村々を行き来するには、川の水路を道路代わりに、ボートを車代わりにして移動するのが当たり前のようになっていた。

 特に目当ての村があったわけではないが、その絵に描いたような南国情緒たっぷりの景観をもっと見たくて、僕は現地の人が路線バス代わりに利用するような渡し舟に乗って適当に移動するうち、たまたまその小さな村に立ち寄ることになったのだった。

 急ぎの用事があるわけでもなかったので、引き止められるまま、しばらく子供たちの相手をしていると、いつの間にか道の奥のほうから、子供たちに連れられて一人の老人が現れた。

 「お前が日本人か?」
 そう聞いてきたのは、年はたぶん、もう70才くらいにはなっていただろうか、いかにも田舎のお年寄りという感じの、深いシワが顔に刻まれた素朴な風貌のおじいちゃんだった。

 「そうです。日本人です」
 子供たちが僕に国籍を確認してきたのも、そのまま引きとめようとしたのも、どうやらこの老人に僕を引き会わせたかったからのようだった。
 つまりこの老人は、日頃から日本人である誰かに会ったら、生きている間に伝えておきたいことがある、というような話を周囲にしていたのだろう。

 「日本人はすばらしい。トヨタ、ホンダ、スズキ……世界的な自動車メーカー。自分は驚かない」

 僕が日本人であると確認すると、その老人は、なぜかいきなり、よく分からない日本礼賛をはじめた。その老人の英語は決して流暢ではなく、最初は言わんとする意味を汲み取るのが難しかったのだが、何度か質問しながら耳傾けるうち、徐々に分かったのは、だいたい次のようなことだった。

 その老人が言うには、自分は昔、第二次大戦の頃、イギリス軍側の人間(インドは当時まだ植民地だった)としてビルマ(現ミャンマー)の方にいた。そこにはイギリス軍に捕まって捕虜になった日本人の収容所があった。自分はその収容所で日本軍の捕虜の世話をする係りだった。そのときに接した日本の軍人たちは、大変立派な人たちだった。だから日本が戦後、立ち直って経済大国になっても自分は驚かない。彼らはすばらしい人たちだった、と。

 「日本の軍人たちは、捕虜になっても世話係の自分に対してインドのマスターと呼んで良く接してくれた。イギリス人がなんだ、と誇りを失わなかった。イギリス人がなんだ、と。分かるか? 分かるか?」

 熱弁を振う老人に対して、僕はというと、いまいち話についていけず、最後のほうは語気を強めて同意を求められたが、僕は最後まできょとんとした表情で話を聞いてたと思う。

 その当時の僕は、なぜその老人が旧日本軍の軍人さんたちを礼賛するのか、その理由がよく分からなかったのだ。

 今の教育がどうなっているのかは知らないが、少なくとも僕自身は若い頃、日本は第二次大戦時、アジアを戦火に巻き込んでひどいことをした、アジアの人たちも日本を憎んでいる、というイメージの教育を受けてきた。少なくとも大手メディアの論調は、だいたいその線で統一されていたと思う。

 前にも書いたが、円高で個人の海外旅行が一般化していくのは80年代以降、インターネットが普及し、大手メディア以外の情報にもアクセスできるようになるのは90年代半ば以降である。

 それまでは「海外」というのは、ほとんどの日本人にとって、それが何処であれ、火星かどこかの遠くにあるような未知の場所と同じような存在だったし、ましてアジアの田舎の人たちがどんなことを考えてどんな風に生きているのか、実際のところはよく分からないまま、大手メディアの発信することをそのまま信じているだけ、というのが本当のところだったように思う。

 あるときなど、初めてタイに行くという青年と機上で隣席になって、日本人だから現地で歓迎されないんじゃないかという不安を吐露されて戸惑ったことがあったくらいだ。
 そのときの僕は何度目かのタイ訪問で、さすがにタイが親日的な国なのは知っていたから、その青年の不安心理に驚いたものだが、よく考えると、この当時はまだ、そんなことを不安に思うほどアジアの実態はあまり知られていなかったのだ。


 ひょっとして日本で受けてきた教育は間違っていたのではないか? あるいは日本も実は、北朝鮮や旧ソ連並みに情報統制されていて、近・現代史の本当のところは、あえて教えられてこなかったのではないか? 

 旅を続けるうちに、そんな疑問が徐々に頭をもたげてきて、決定的に確信に変わったのは帰国の数ヶ月前、いわゆる湾岸戦争が勃発したときのことだった。

 長く旅をしていると、無性に日本語の活字が恋しくなって、日本語ならなんでも読みたくなる、ということがある。何しろ本屋に立ち寄っても当然、日本語の書籍はないし、日本なら何処にでもあるようなコンビニはもちろん、喫茶店もろくになく、あっても無料で読める雑誌が置いてあるはずもない。

 だから日本人がよく利用する安宿に、彼らが帰国前に置いていった新聞や週刊誌などがあると、何ヶ月も遅れた情報であっても、むさぼるように読んでいたのだ。

 どの週刊誌だったか忘れてしまったが、そんな風に目にした日本のメディアのなかに、まさかこの時代、本気で米国はイラクに対して参戦しないだろうと予想する識者の見解が載っていた。

 その当時、僕は日本にいなかったので、日本の実際の報道がどうだったのか、そういう論調が一部だけのものだったのかどうかまではよく知らない。
 しかし、活字に飢えていた僕は、その頃にはインドの英字新聞にも目を通すようになっていて、そこに書かれていた情報と日本で手に入るだろう、その手の情報との質の違いに目を丸くしたのである。
 
 その当時のインドの英字紙は、まず日本ではあまり目にしないような、米国の姿勢を厳しく批判する論調と、このままでは米国の参戦も避けられないというようなことが書かれていて、かなり緊迫した状況であると報じられていたからだ。

 その後、実際にどうなったか、どちらの報道がより真実に近かったかは、改めて説明するまでもないだろう。


 もっとも、こんな風に書くと「なるほど、やっぱり世界に出ないと正しい情報が手に入らないのだな」とか、「昔はそうだったかもしれないけど、今ならインターネットでそんな情報はいくらでも手に入るじゃないか」とか「いやいや、海外メディアだって信用できないし、ネット上もフェイクニュースだらけだよ」というような感想を持つ人もいるかもしれない。


 だが僕がここで本当に言いたいことは、前回も書いたとおり、その情報が正しいかどうかということではないのだ。 


 「人間とは記憶である」と言ったのは誰だったろう。過去に学んだ知識、施された教育、社会に根を下ろした伝統、その中での個人的な経験の集積など、それらをひっくるめて「記憶」とするなら、確かに自我の根底には「記憶」があるのだろう。

 純粋に科学的な知見を別にすれば、実社会において何かを判断する基準は、広い意味での過去の記憶を元にしている。

 そしてそれらの記憶は、個人の経験としてだけではなく、それぞれの個人が属する社会の教育によっても入念にインプットされ、同じ社会、同じ共同体のメンバー間で常識として共有され、次第にアイデンティティとして定着していく。

 成長し、物心付くころに何かの判断をする場面では、それが自己の本来の性向による判断なのか、教育によって注入された記憶によって誘導された判断なのか分からなくなっているのだ。

 つまるところ、教育とはそれ自体が一種の洗脳のように作用しているのではないか? 旅の体験を通して、僕はいつしか、そんな風に思うようになっていたのだ。

 もちろん、一般に「洗脳」という言葉は、事実と違う情報などを強制的に注入して、その人の人格や判断、主義や思想を本来のものとは別なものに置き換えようとする心理操作を指す言葉だということは知っている。

 だが、旅に出た後は、元からあったものを置き換えるという部分と、事実かどうかの部分を別にすれば、行われている操作と、その内的仕組みの本質は「教育」も「洗脳」も似たようなものだと思えるようになってしまっていた。

 そして、そのような「教育」は、北朝鮮や旧ソ連など独裁的体制の国家でだけ行われていた専売特許という訳ではなく、日本はもちろん、米国や英国も、ドイツやその他欧州の国々でも、そしてもちろん、インドやアジア諸国でも、大なり小なり似たり寄ったりだと思うようになったのである。

 最初は、そんな風に感じるのは自分だけかなと思っていたが、案外、旅人同士だとこの手の話題はなんとなく分かり合える部分があって、はっきりと「洗脳」という言葉は使わなくても、話せば同じような感想を言ってくれる人は何人かいた。

 特に旅人が、自身の洗脳(そう呼ぶべきかどうかは別にして)の存在にはっきりと気が付く瞬間というのは、旅を続けている最中というより、長期の旅から久しぶりに帰国したタイミングだったりすることも多いようだった。

 たとえば僕の場合、ほんの一年近く日本にいなかっただけなのに、久しぶりに帰国すると、その当時流行っていた芸能情報やニュースに全く付いて行けない状態、いわゆる浦島太郎状態になってしまっていた。
 自分がいない間にも、世間では週刊誌をにぎわすような芸能人のスキャンダルがあったり、社会現象とまでなった人気アニメがスタートしていたり、流行の歌があったりしたのだが、そのすべてがまったく分からない状態、人の話に付いていけない状態になっていたのだ。

 また、子供の頃は憧れを持って見ていた芸能人や、いわゆる銀幕のスターとかも、一歩海外に出ると誰も知らない無名の人であることに気が付く、というようなこともあった。
 有名芸能人と言ってみたところで、日常的にメディアを通して普段から見慣れているから親しみを感じるだけで、海外では誰も知らないただの一般人でしかなかったりするのだ。

 もちろん、こんな風に書くと、教育と洗脳を同列に語るなんてとんでもない、と思う人もいるだろうし、教育を施すことが良くないことだとでも言いたいのか? と絡んでくる人もいるかもしれない。

 あらかじめ言い訳しておくと、さすがに僕も教育そのものが悪いことだと言いたいわけではない。

 そこで何か「洗脳」以外の言葉を使ってこの現象をうまく説明できないかと探しているうちに、近年ベストセラーになった「サピエンス全史」の中にうまい説明が載っていたので、その説をちょっと拝借させてもらうことにする。

 ベストセラーだし、もうすでに知っている人も多いと思うが、改めてその説を紹介させてもらうと、人間(ホモ・サピエンス)は10万年ほど前、ある種の認知革命により、他のヒト属とは違う能力を身に付けたのだという。

 その能力とは、集団で虚構(フィクション)を共有することが出来る能力であり、その能力によって大きな集団による社会活動が可能になった、というのだ。

 百人程度の集団を統率するのと、数千人、数万人以上の集団を統率するのでは、同じような集団行動といっても、人数が多すぎてリーダー側が集団内の個人をすべて覚えることなどできないだろうし、従うほうの集団側にも、初めて会った見知らぬ人同士でも連帯し、混乱なく協調作業ができるような特別な仕組みが必要になってくる。

 言われてみれば確かに、単にルールを作ってそれに従わせるという単純なことでは、数万人規模の集団が協調して社会生活を営むのは難しそうだ。

 数万人規模の集団が、お互いに知らないもの同士であっても、同じ集団に属しているという感覚を持って共同生活ができるようになるには、自分たちが同じ社会に属しているのだという虚構(フィクション)を共有する必要があり、そのために同じ歴史や信仰を共有するための仕組み、つまり「認知革命」が必要だった、というのである。

 もちろんこの場合、その信じる「歴史」が事実であるかどうかは問題ではない。それが作り話の「虚構」であっても、人間にはその「虚構」を事実として受けいれるような認知の仕組みがあり、その同じ歴史や信仰を持つもの同士は、同じ仲間と感じることができるようになっている、というわけだ。

 確かに、言われてみれば、どの民族にも神話という歴史があり、なにがしかの信仰を集める宗教がある。そしてそれは、確かにホモ・サピエンスが太古の昔に獲得した認知革命による、虚構(フィクション)を真実と信じる能力によるのかも知れない。

 こんな風に捉えるなら、この認知能力を利用して、洗脳とでも言うべき「教育」が施されるのは決して悪いことではない、ということになるだろう。
 むしろ、この能力のおかげで、ホモ・サピエンスは、他のヒト属を圧倒する巨大な社会集団を築くことができたのだし、この能力こそが文明を築く礎になっているとさえ言えるだろう。

 ということで、ここまで説明すれば、僕が「洗脳」という言葉で説明したかったことが少しは伝わるかもしれない。そう、この集団で虚構を共有して信じる能力、認知革命によって獲得したこの能力による「教育」こそ、僕が感じた「洗脳」の正体だったのだ。

 僕らは普段、国家や地域社会の中で、また、それをはぐくむ伝統や文明、文化といった現象の中で、子供の頃から教育によって植えつけられたイメージを「現実」のものとして生きていくようになる。進化の結果獲得した認知の仕組みによって自然とそうなっているわけだ。

 自分が属する国の歴史、自分が勤める会社の社会的ステータス、自分が信仰する宗教。こういったものは本来なら虚構(フィクション)のはずなのだが、その内部に生きる人にとっては、他のどんな現実よりも確かな現実に見えはじめる。

 ところがいったん旅に出ると、別の国には別の歴史や宗教があり、自分の社会的ステータスや常識が通用しないような場面にも出くわすようになる。自然と自分の信じる常識が正しいのかどうか疑いを持つような場面にも遭遇するようになる。

 そのようなとき、日本はすばらしいが、東南アジアは遅れている、彼らの考え方は間違っている、と感じるべきだろうか。あるいはその逆に欧米など先進国に目を向けて、日本もまだまだ未開な部分がある、と反省すべきなのだろうか。

 答えはもう言うまでもないだろう。2つの異なる文化の違いなど、両方とも虚構を信じる能力の上に作られた認知の問題に過ぎず、もとより、どのような問題解決も「現実」を直視する以外に正しい対応などあるはずもないのだ。

 戦前のように、日本は神国だから絶対に戦争に負けないと教え、大本営発表で嘘の戦果を垂れ流し、子供たちを軍国少年、愛国少年になるように教育することは、いかにも愚かな事で、絶対に同じ過ちを犯すべきではない。
 しかし、その真逆の教育をすれば、偏見の無い全うな人間に育つか、というとそうでもない。なぜなら見てきたように、教育の根本を支える人の認知の仕組みが、それまでと同じ記憶と洗脳に基づいている限り、偏見が左寄りから右寄りになろうと、あるいはその逆になろうと偏見は偏見にしかならないからである。

 偏見で出来た「壁」が赤い色で塗られているか、それとも青色に塗られているかがそんなに重要だろうか? 

 僕は書籍やTV、インターネットなどを通じて、いくら「情報」を集めてみても、その情報が正しいか正しくないかに関わらず、偏見を越えた本当の意味での「現実」を知る助けにはならない、と思っている。

 目の前に誰かがいて、その人と直接会って話をするのと、その人に関する情報を文字や画像で得て判断するのとではまったく違う。

 生きてある「現実」に直接触れて何かを知るのと、情報として得た何かを信じるのとでは、その情報が正しかろうが間違っていようがまったく違う体験になるのだ。

 よく、海外旅行で非日常感を体感する、という言い回しがあるが、僕に言わせれば普段の「日常」という現実こそが実は虚構であり、旅で出会う「非日常」こそが子供の頃に忘れてしまった本当の日常、あるいは本当の「現実」なのだ。

 仏教には「世間虚仮唯仏是真」という言葉がある。聖徳太子が残したと言われる言葉で、いわゆる世間(社会)など虚構に過ぎないが、仏の教えこそ唯一の真実である、という意味の言葉だ。

 仏の教えがどのようなものかは分からないが、「世間虚仮唯旅是真」と言い直したいと思うのは僕だけだろうか。

 もちろん、教育はどの社会にも絶対に必要だし、無教育でほったらかしにするのがいいとは全く思わない。しかし、それを前提にした上でもっと大事なのは、ある一定の年齢に達する頃に、自身が受けた教育が相対的には虚構でしかないと気がつくことが出来るような仕組みと、虚構と知った上で知識や観念を自由に使いこなすことができるようになる能力を獲得するということなのではないだろうか。

「認知革命で得た虚構を信じる能力と、現実に直接触れることで理解することの間に、どれほどの違いがあるのか? 違いがあるとしても、最終的に情報を脳内処理して解釈するという点では違わないんじゃないか」とか「高度に抽象化された観念をもたらすのも認知革命によるものじゃないのか。お前の解釈は幼稚すぎる」などの意見はあるだろう。

 だが、僕がここで括弧付で「現実」と書くとき、実はその言葉には特別な意味を持たせて書いている。単に客観的な「事実」でもなければ、主観的に正しく解釈された「真実」というわけでもなく、主観と客観に分けることができない「現実」というものがあるのではないか。そして、そのような「現実」に目覚めない限り、本章でテーマとしてきた「境界」を作り出す偏見の壁を打ち破ることは難しいのではないか、そう思ってこの「現実」という言葉を選んだのだ。

 ということで次回は、この認知の仕組みがもたらす錯覚と「現実」との乖離について、その根本がどの辺りにあるのか、僕がいう「現実」の正体がなんなのか、もう少しだけ深く探ってみたい思う。

 

 

今回は写真の選定にいつもより時間がかかってしまった。どんな写真を選ぼうかと、最初の旅で撮ったフィルムの中から良さげなものを何枚かピックアップしたのだが、それらの写真に共通のテーマを見出すことが難しかったのだ。だがようやく、枚数は少ないながら、今回の章を締めくくるに相応しい共通のテーマの写真を、3枚だけ選ぶことができた。最初の写真は男性がどこかの家屋の入り口に座り込んでいる写真だ。特に声を掛けたわけでも、ポーズを取るように頼んだわけでもないのだが、カメラを向けると自然と絵になるポジションに座っていたのが気に入って、そのままシャッターを押した。

2枚目は、やはり通りに面したどこかの入り口で、男が何かに怯えるように佇んでいるという写真だ。このときはカメラを向けてシャッターを押すまで、結構な時間、じっとシャッターチャンスがくるのを待っていた記憶がある。当時はフィルムが貴重なこともあって、一写入魂というか、そんなに大量にパシャパシャ撮りまくっていたわけではなく、撮る気になって街に出かけても、結局ほんの数枚だけしか撮っていない日もあれば、一日掛けてもまったくシャッターを押さない日もあるというのが普通だった。粘ったかいあって、ちょうど男が視線をずらした瞬間と、左から人が入ろうとする瞬間をうまく捉えることができた。

3枚目はインドではなくネパールの写真だが、まだ幼い少女が、自分よりもっと小さい赤ん坊を背負っているという光景である。このときもカメラを向けてシャッターを押すまで、結構な時間が掛かったのだが、何も指示していないのに、じっとこちらがシャッターを押すまで立ち止まって待っていてくれた記憶がある。一見、3枚とも被写体、撮影場所、撮り方がばらばらなのだが、これら3枚の写真には共通したテーマが潜んでいる。それは、被写体が全員、通りと建物への入り口の「境界」にいるということだ。実は「境界」になる場所というのは、光の明暗が切り替わる境目でもあるので、順光で撮っても逆光で撮っても、どちらでもコントラストのある良い絵になる条件をもっているのである。

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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