web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

植物考 藤原辰史

根毛論(上)——ミニトマトの根の観察

起死回生

 研究室で、ミニトマトを栽培することにした。

 京都にある私の研究室の窓は、吉田山を臨む東向きで、午前中以外はそれほど光が入ってこない。そもそも植物学の実験室ではない。実験器具が一つもない本に囲まれた文系研究室である。

 職場の近くに植木の無人市がある。いつもいろいろな植物が並んでいて、小さなメッセージが付してあって、好感が持てる。誰がこの無人市の主人なのか、いまもなお、わからない。昼ごはんの帰りに立ち寄って、もしも綺麗な植物があれば備え付けの缶にお金を入れて、持って帰ってくることをひそかな楽しみとしている。毎回訪れるたびに、少しずつなくなっているので、他にもファンが存在するのだろう。先日は、桜の枝が無料でおいてあったので、数本持って帰り、電話機の隣の花瓶に差して毎日水を換えると、ちゃんと花が咲いた。いつも主人にハードな仕事を押し付けられている電話機は、束の間の「桜を見る会」に参加できて、ちょっとうれしそうだ。

 実家のある奥出雲町にも結構無人市があって、母親も含めてファンが多かった。毎日、新鮮な花や野菜が置いてあり格安で売っている。農家のおばあちゃんの小遣いになるのだろう。無人市は、無人なのに、なぜかあまり寂しくない。無人であるのだけれど、何か客として信頼されているような雰囲気があって、心地が良い。奥出雲町のスキー場がある三井野原駅は、近くのスイッチバックで有名な無人駅であるが、あそこもスキー場に面しているから、あまり寂しさを感じない。人がいないことと、寂しいことは必ずしも一致しないのだろう。

 二月の薄ら寒い日、その無人市を通るとなんと温室ができていて、そこにミニトマトの苗がたくさん置いてあった。しかも、なんと鶏糞肥料つきで。私は小躍りしてもっとも葉の勢いがいいものを選び、研究室の窓辺に置いた。玉ねぎの苗もあって、「父が好きなので」というコメントがついていて、これがなんとも想像力を掻き立てる。私は玉ねぎの苗とともに、その後ミニトマトを家に持って帰って植えた。

 ミニトマトはぐんぐん伸びて、花がついて、実もつきそうだったので、大学近くのホームセンターで支柱を買ってきて、それに巻き付けようとした。そうすれば、もっとたくさんの実がなり、そのミニトマトを三時のおやつに食べることができるからである。ところが、そのとき私は基本的なミスを犯した。よりにもよって、花がついている枝をへし折ってしまったのである。インターネットの園芸の映像では、しばらく水をあげない状態にして曲がりやすくしてから、支柱に巻きつけるよう、というアドバイスがあったのに、今朝水をあげたばかりであることを忘れていたのである。水分を道管で吸収したばかりのトマトの茎は折れやすい。慚愧〔ざんき〕に堪えない。

 私はなかなか捨てられずにいる。そこで、壊れた霧吹きの容器を見つけて、そこにきれた枝を挿しておこうと思った。いわゆる水耕栽培であるが、もちろん、翌日には葉っぱが弱ってきた。余命いくばくもない。私は謝罪を試みる。葉を撫でると、やはり肉厚が薄い。手には弱々しいトマトの香りがつく。トマトは、葉も茎も既にトマトの匂いがするからだ。もうダメだと思いながら、数日水を変えていた。

 ところが、トマトの折れた茎の切断面ではなく、なぜか側面から白い粒がニキビのように吹き出し始め、一週間後には、霧吹きの容器中に根が張り巡らされた(写真)。そのうち、花は元気を取り戻し、小さなトマトの実となり、育ちつつある。葉っぱは色が悪く、相変わらず、勢いはないが、なんとV字回復を果たしたのである。

根の形態

 この、シャワーのような形状を示す根を見て、私はミニトマトの神に感謝の祈りを捧げた。ミニトマトの神は、私の呪われた右腕を浄化してくださったのだ。そして、次の四つのことを考えた。

 第一に、土という隠された世界でしか活躍できないはずの根という器官が、無色透明の液体にその肢体をさらして光を浴びていることについて。その姿の不思議さについて。普段はお目にかかれない仏像を、ご開帳のおりに、間近で見ているような気持ちだ。

 根は「水と無機養分の吸収」と「植物体の支持」と「物質の通道」を主な機能とするが[1]、そのうち「植物体の支持」の機能から解放された根はなんと軽やかだろうか。この根の伸び方は、まるでグツグツと茹だったお湯の中で踊る博多ラーメン、しかも「ハリガネ」の固さの麺のようである。「ネットワーク」ならぬ「ルーツワーク」は、蜘蛛が尻から生み出す芸術であるあの「ネット」と違って、滝のように重力にしたがって下に伸びていく。かといって、滝のように真っ直ぐではない。根は、右や左や場合によっては上方にも道草をする。さらには、根は側根を各地に派遣して、子分たちにどこかに栄養がないか、どこかに主人を支える土はないか、探索させているようである。この下方に向かいつつ、探索するような根の形態に、私は、そのような探検隊のイメージを重ね合わせて満足する。

 第二に、根毛の繊細さである。この写真では認識しづらいが、根には先端の根冠〔こんかん〕をのぞいて、フワフワの根毛が生えている。とりわけ、初期の頃の根は太い根にフカフカの絨毯のような根毛が生えていたが、そのゴージャスな猫の尻尾のような根は、細い根に分割するに連れて消え、それぞれに細かい根毛を確認できるようになった。その細かい根の根毛は、硬質なプラスチックの表面を撫でるようにして、まさぐっているように見える。なんとも優雅である。

 根毛とは何か。なぜ、必要なのか。

 原襄の『植物形態学』(朝倉書店、1994年)というとても読みやすい教科書を読むと、根毛の役割については議論がある、と書いてある。「根の吸収の表面積を増大させることによって、根の吸収に役立つ」というふうに従来は考えられてきたし、私もそのように思ってきたが、最近では「細い根を土壌に密着させることによって根を安定させ、結果として、伸長や外界の土壌粒子との密着を助けるなどの問題が注目されている」[2] という。この本は2015年に18刷が出版されているが、果たして最近の根毛論はどうなっているのか知りたいところだ。たしかに、そういえば、私は余った土を栄養剤の代わりに、この容器の中にパラパラと撒いてみたとき、猫の尻尾のような根毛は、それをマジックテープのようにキャッチしていた。このマジックテープのようなものが、土壌を支えていると考えると、雑草を根っこから抜くときに、どれほどの根毛たちが悲鳴を上げているのか、と気の毒に思う。

 ちなみに、マジックテープとは、植物の知性をヒントに得られた発明である。スイスの技師ジョルジョ・デ・メストラルが、第二次世界大戦中の1941年にアルプスでの狩猟から帰宅中、自分の服と愛犬の体にくっついた、トゲトゲの野生ごぼうの実にヒントを得て、1948年に研究を開始し、1955年に特許を認定されたものである。一般名詞は面ファスナー、英語ではhook-and-loop fastenerといい、「マジックテープ」とは、日本の企業クラレの商標である。一本一本の無精髭のような突起がフックのように曲がっている側のファスナーと、同様なものが円環状になっている側のファスナーをくっつけると、密着するのである。このように、生物の構造や機能を分析して、そこから着想を得て技術開発をする方法を「バイオミメティクス biomimetics」という。生物模倣である。そういえば、「ひっつき虫」は私の遊び道具だった。野球のボールを探しに茂みに入ってセーターが「ひっつき虫」でいっぱいになると、結構大変である。なかなか取れないし、ちくちくする。さらに、友人とひっつき虫を雪合戦のように投げ合ったことも何度もある。私たちは、ひっつき虫の知性と戯れる貴重な機会を幼少の頃得ていたわけである。

 話を戻そう。古くなった根や根毛は有機物として土壌の微生物に与えられ、微生物の動きを活性化させる。つまり、死んでもただでは死なないという根性も、根毛には存在するわけで、となると、誰か小説家に「根毛の一生」という作品を書いてほしいとお願いしたくなる。あの歯を食いしばる気持ちを「葉性」でもなく「花性」でもなく「茎性」でもなく「根性」というのは、この根毛の形態と一生を観察するだけでも、大いに納得する。生物模倣とは、単に技術開発だけのことではないのだ。

 第三に、根の量の過剰さである。呆れるほどだ。やや暴言を吐いてしまうと、このミニトマトは、ミニトマトの分際で何をムキになっているのだろう。どんどん増殖する根の旺盛な成長力は、本当に頼もしい。葉や茎は以前ほどの強さがないだけ、このルーツワークの力強さには、茎をぽきっと折ってしまった私の罪悪感を禊いであまりあるものである。それにしても、どうしてこんなに小さくて弱った茎から、こんなにも根が飛び出てくるのだろうか。クラゲでさえ、ここまで触手を増やさない。しかも触手が絡まってしまうことさえある。人間でさえ、どんな建てものでもここまでの量の杭を打ち込まない。人間が建てものを地面で「支持」させるための方法は、植物の目からすると中途半端に、あるいは、けちくさく映るのかもしれない。大いなる無駄、大いなる過剰、大いなる贅沢。でも、ルーツワークは絡まらない。お互いに適当な「ソーシャル・ディスタンシング」に成功している。もしも植物が人間になったならば、人間たちの世界の遊びのあまりの少なさに窮屈さを覚え、人間をすぐにやめたくなるかもしれない。あらゆることがカットされ、縮減され続ける人間の世の中にあって、このふところの深さには、平伏したくなる。

 第四に、茎から根が出てくる、という変幻自在さである。本体のミニトマトの苗の20パーセント程度に過ぎない折れてしまった悲劇の茎なのに、水に浮かべて一週間待つとものすごい数の根を放出し、それを、容器に張り巡らせた上に、ちゃっかりトマトの実まで膨らませて、子孫を繁栄させようと虎視淡々と狙っているのだから(将来、鑑賞者によって食べられる運命であることは、ここでは指摘しないでおこう)。この植物の変化自在さは、動物には著しく欠けている能力である。たとえば、人間の親指が切れてしまったとして、その切れた親指をしばらく水に浮かべていたら髪の毛が生えてくる様子を想像すればよいだろう。そのような自由さに私は背筋を凍らせつつ憧れもする。子どもが小学生のときに愛読していた妖怪図鑑でさえ、そのような妖怪は掲載されていない。

 植物のこのような性質は、刺し木として古来より人間に使われていたのだが、こうやって、根が実際に茎から直接生えていく様子を観察していくと、グロテスクであるとともに、なんだか心が解きほぐされる。きっと、植物は、動物的すぎる人間社会に不可欠なのかもしれない。髪の毛や爪は切っても切っても生えてくるので、植物の痕跡かもしれないが、手が切られたら手は生えてこない。首が切られたら生きていけない。猫の手も借りたいとき、自分の腕の側面から「側腕」が生えてきてはくれない。疲れた人間たちの荒んだ心を、植物はこのような変身芸によって、なだめてくれるのかもしれない。

植物恐怖症

 どうしてこんなに都会には、園芸店や花屋があふれているのか。どうして多くの人が、自宅や職場に観葉植物を飾りたくなるのだろうか。なぜ、人びとは、都市の街路に木を植えたくなるのか。新型コロナウイルスの感染が拡大する今現在も、人びとはなかなか園芸店へ向かう足を止めない。なぜだろうか。この問いに対する一つの答えとしては、以上のような植物の奇型的性質があると思っている。別の見方をすれば、植物は、形的にも、色的にも、均質化する都市空間にあって、整理や直線の代わりに、歪みや曲線やランダムな色合いを与えてくれるからだろう。歪みは、人の心をかき乱すときもあるが、落ち着かせることも多い。わざと表面に微妙な歪みのある鏡を用いている京都の美容院がある。店の方から話を聞いたことがあるのだが、その理由は、全部が鏡に映ると落ち着かないから、というのだ。たしかに、百万遍の近くにある古い燃料品のお店のガラスは、微妙に歪んでいるが、妙に落ちつく。人間は、曇り一つない綺麗すぎる鏡と真剣に対峙することが怖いのかもしれない。

 ところが、植物は人間に癒しと安心感を与えるものだ、という考えは、決して人類共通の感情ではない、ということを最近知った。インターネットの検索サイトで「植物恐怖症」と叩いて調べると、結構な事例が出てくる。「たくさんの朝顔の葉っぱがゆらゆら揺れながらこっちを向いていることを想像しただけで、寒気がして、反射的に顔を手で覆ってしまう」とか、「外に出るとアロエが沢山あるせいで、怖くて外に出たくないです」と言った悲痛な叫びがある。アメリカ合衆国の俳優であるクリスティーナ・リッチは、植物恐怖症(Botanophobia)として有名である。2003年7月号の『ブリティッシュ・エスクァイヤ』という雑誌のインタビューで「植物は汚い。部屋の中に植物があるという事実だけでもう嫌悪感。嫌悪感を抱いたあとにそれを触らなくてはならないとしたら、私はパニックになる」と言っている。

 世の中には、高所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症、動物恐怖症、対面恐怖症など、いろいろな恐怖症が存在する。私は、正直に告白すると、粒々恐怖症である。病名は勝手につけた。納豆や苺の粒々は大丈夫であるが、何か硬い粒が無数に並んでいるのが怖い。幼い頃から、高熱が出ると、パチンコ玉が一個ずつ積み重なり、最後は一億個くらい出てきて、それらが突然整然と整列を始める、という悪夢を必ず見た。いまだに、あれが何を意味しているのかわからない。このときは、必ず絶叫していたから、家族は大変だったと思う。ドット柄の洋服は、そんなものは世の中に存在したことがない、と言い聞かせる術によって、なんとか乗り越えている。赤い実が無数についている南天は、思い出しただけでも鳥肌が立つ。草間彌生の作品は、正直なところ、今でもかなり厳しい。

 植物もまた人間に嫌悪感や不安感をもたらす、という事実はとても興味深い。

 というのも、高いところにせよ、狭いところにせよ、先のとんがったものにせよ、私のようにそんなに症状が出ない人間でも、ちょっとスイッチが入ったら、不安でかき乱されそうな気配のあるものだということが、わからないでもない。動物からすると植物は「奇型」だが、その「奇型」っぷりは、両者のどちらにも転びうるだろう(言うまでもなく動物もまた、植物にとって奇型である)。そして、リッチのいうような植物の持つ「汚さ」というのは、ちょっと植物の形態を「ゲシュタルト崩壊」させれば、途端に目の前にあらわれる。言われてみれば、植物が夜に根を伸ばしていると知ったら、植物が生きていることが過剰に伝わってくる。植物が放つ香りが寒気を催すこともありえる。ひょっとして、夜になると、根や茎をニョキニョキと伸ばし、人間の皮膚にくっつき、栄養を吸い取っているかもしれない。あの花の可憐さは、単に人間を惑わす擬似餌なのかもしれない。

 恐怖症は他方で、対象が魅力を放っていることの裏返しなのかもしれない、とも思う。私も草間彌生の作品を見るたびに、条件反射的に薄目になるのだが、薄目の向こうの光景を覗きたくなる気持ちはある。怖いもの見たさ、というべきだろうか。

 植物の魅力と恐怖は実は切っても切り離せないのかもしれない。

 

 

[1]原襄『植物形態学』朝倉書店、1994年、13頁。

[2]同上、49頁。

 

(つづく)

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 藤原辰史

    1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』ほか著書多数。


キーワードから探す

お知らせ

ランキング

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる