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GEIDO試論 熊倉敬聡

限界芸術とGEIDO(2)――たとえば「食べる」ことをめぐって

 

 前回で見たように、鶴見は、その限界芸術論「芸術の発展」を(唐突に中断することになりながらも)まずは「芸術」の定義から始めていた。芸術とは「たのしい記号」である、と。さらに、このいささか人を食ったかのような寸言をやや学問的に言い直し、芸術とは「美的経験を直接的につくり出す記号」であると定義していた。では「美的経験」とは何か。それは広義では(労働して食費を稼ぐという間接価値的経験に比して)たとえば「食べる」という直接価値的経験、すなわちそれ自身において価値のある経験であるとした。そして、この(広義の)美的経験の内、「高まって行く」ものこそ、狭義の美的経験であり、その最たるものが「芸術」である。芸術には三種あり、すなわち専門的芸術家によって作られ専門的享受者によって享受される「純粋芸術」、専門的芸術家によって作られ非専門的享受者によって享受される「大衆芸術」、そして非専門的芸術家によって作られ非専門的享受者によって享受される「限界芸術」である。と、鶴見は、美的経験から芸術の分類を割り出していった。

 ところで、「食べる」は、鶴見によると(広義の)美的経験ではあるが、狭義の美的経験、ましてや(限界)芸術ではないことになる。なぜか。それは、「高まって行かない」美的経験だから。「高まって行く」とはどういうことだろうか。それは、「尺度」があること、そして日常からの「脱出性」があることだと言う。

 私は、以下、この「食べる」という(鶴見によると)「尺度」がなく、日常からの「脱出性」がないゆえに狭義の美的経験ではなく、ましてや(限界)芸術ではないとされている経験・行為が、狭義の美的経験、(限界)芸術どころか、それらを突き抜けて、GEIDOにすらなりうることを、自らの体験を踏まえながら論じていきたい。

 

「食べる瞑想」

 確かに、「食べる」ことは、ある人たちにとってはあまりに日常的な、生物的必要を満たすだけの(せいぜい「おいしい」「まずい」程度の評価しか伴わない)慣行として、(鶴見の説くところには反するが)広義の美的経験、すなわちそれ自身において価値のある経験ですらないであろう。では、いわゆる「グルメ」たちにとってはどうか。彼らにとっては、少なくとも広義の美的経験、いや、ミシュランのガイドによる「尺度」を参照し、日常から「脱出」する美味を堪能できるがゆえに、狭義の美的経験であるとすら言えるだろう。いや、グルメによっては、自分を「専門的享受者」とみなし、食を「(純粋)芸術」とすら宣う輩もいよう。

 だがはたして、彼らは本当に「食べている」のだろうか。「食べる」ことそれ自体を経験しているのだろうか。「食べる」経験をいわば“裸形”で体験しているのだろうか。もしかすると、グルメガイドの「尺度」や評価を前もって刷り込まれ、さらに料理や食材に関する前意識的・無意識的な、様々な文化的・社会的・歴史的記号化・情報化によって味覚や意識がすでに構造化され条件づけられた状態で、食べ味わっているにすぎないのではないか。自分が「食べる」「味わう」ことそれ自体が、常にすでに無意識的に「食べさせられて」いる、「味わわされて」いるにすぎないのではないか。

 ところが、私たちは、ある技を用いることにより、そうした構造化・条件づけを超えて、「食べる」ことの“裸形”に立ち会うことができる。その技こそ、瞑想である。

 

 「食べる瞑想」。それを初めて体験したのは、十数年前、フランスはボルドー近郊にある「プラム・ヴィレッジ」であった。ヴェトナムの禅僧ティク・ナット・ハンが、1982年、亡命先のフランスで開いた禅のコミュニティである。私はそこに一週間ほど滞在したが、そこにはおよそ「禅宗」らしからぬ大らかさ、カジュアルさが満ちていた。世界中から私のようなヴィジターが短・中期滞在する一方、(少なくとも当時は)150人余りの出家僧が修行に励んでいた。しかし、見ていると、その僧たちも修行の合間に僧衣のままでピンポンやバスケットボールに興じている!また、週に一日、修行も作業も特段ない「Lazy Day(怠ける日)」まで設けられているのだ! 

 そんなマルチカルチュラルでカジュアルなコミュニティといえど、生活する一瞬一瞬、生きる一挙手一投足に「気づき」、瞑想の機会とする「マインドフルネス」の教えが貫かれている。もちろん、坐る瞑想=坐禅もあるが、歩く、横たわる、作業する、そして入浴したり用を足したりするときも、気づきつづけ、マインドフルでいることが求められる。その中に「食べる瞑想」もあった。

 食事は、基本的に食堂で供される。ヴェトナム風の精進料理だ。各自ビュッフェから好みのものをとり、好みの席につくが、最初の20分間は無言で、食べることそれ自体に気づきつづけながら食べる。「Noble Silence(聖なる沈黙)」。20分経つと鐘が鳴り、その後は普通に会話しながら食べてもいいし、沈黙を守りつづけてもいい。

 「食べる瞑想」の間、何が起きるか。もちろん個人差があるだろうが、私の場合は、「食べる」ことそれ自体の“裸形”が立ち現れることを経験した。口の中で食べ物を咀嚼するという行為が、五感(そして体内感覚)に開かれた交響曲のように、千変万化する曼陀羅のように繰り広げられていった。それはまた、食材と私との一期一会の出来事、「縁起」の機会でもある。今地球上で存在するはずの無数のリンゴのうち、なぜかこの一つのリンゴが、これまた無数にいるはずの人間のうちこの私の前の皿に乗り、それを私が食するという、この「奇跡」的な出逢い。その唯一無二の出来事の「ありがたさ」をも体感できる、それは特異な縁起の機会であった註1

 

現代思想の授業と「苺のメディテーション」

 以来私は、プラム・ヴィレッジを去った後も、特に一人で食する時などに、この「食べる瞑想」を密かに実践している。(もちろん「食べる」だけでなく、「坐る」「歩く」「横たわる」などもだが。)私はまた、4年前まで大学で教鞭をとっていたが、様々な授業に瞑想を導入し、新しい学びの在り方を模索していた。その一つに、「食べる瞑想」を取り入れた現代思想の授業があった。(ガイダンスの後の)実質的な初回の授業で、「現代思想」の初学者たちを相手に「思想とは何か?」を頭だけでなく身体でも会得してもらうために、(可愛らしく題して)「苺のメディテーション」というワークを行っていた。

 どのようにその授業=ワークは進むのか。まず、学生たちにふだん「苺」について自分が抱いているイメージを配った紙に言葉で書いてもらう。大方の学生は「赤い」「甘ずっぱい」「かわいい」「ショートケーキ」などといった言葉を書く。次に、こちらで用意した苺を一個ずつ取ってもらい、自分の目の前に(紙皿の上に)置いてもらう。そして実際にその場で苺を食べてもらうのだが、食べる時次の三つのことに注意しながら食べてくださいと言う。(1) 食べることそのものに精神を集中する。(2) 五感(+体内感覚)を全開にする。(3) 自分のペースでゆっくり食べる。そして食べる前に心を落ち着けてもらうために、3分程度目をつむって、呼吸に集中しながら、いわゆる瞑想をしてもらう。

 瞑想を終え、目を開け、目の前の苺を食べる。食べ方は人それぞれ。口に入れる前にじっと見つめる人、目をつむり香りを嗅ぐ人、矢庭に齧りつく人、ヘタを取る人、取らない人、少しずつ齧る人、一個丸ごと頬張る人…。そうして各自各様に食べた後、食べながら感じたこと、体験したことを、あえて言葉で(先ほど「イメージ」を書いてもらった紙の裏面に)書いてもらう。書き方、書く量は自由で、完成させる必要はない。

 ある程度書けたら、今度は三〜四人の小グループに分かれてもらい、以下の作業をしてもらう。(1) 各自書いたもの(食べながら感じたこと)を読みあう・聴きあう。(2) 最初に書いた苺についてのイメージと、実際食べて体験したこととの違い・落差について話しあう。(3) 各自感じたことの共通点・相違点について話しあう。(4) 苺を食べる体験を言葉にする時の難しさあるいは(人によっては)容易さについて話しあう。

 この小グループでの話しあい・聴きあいの後、いよいよこのワークをめぐる「考察」の時間に入る。三つのトピック、すなわち「現実」「他者性」「言語」という切り口から体験を考察していく。

 (1) 現実――多くの人において、苺についての「イメージ」と、実際瞑想的に食べて体験したことの間に、大きな違い・落差があったことと思う。ふだん何気なく苺を食べている時には感じられなかった微細な様子を感じ、苺の知らなかった相貌を知った人がほとんどだと思う。ふだん食べている時に感じ抱いている印象(「赤い」「かわいい」など)も「現実」だし、今瞑想的に食べ体験したことも「現実」である。いったいどちらが本当の「現実」なのか? もしかすると、私たちは日頃、自分が苺を食べていると思いながら、実は自分の属する社会や文化が「苺」に付与するイメージ・記号、“記号としての苺”を「消費」しているにすぎないのではないか。しかも、その事態は「苺」に限らず、もしかすると自分が「現実」として認識していると思い込んでいる「世界」(の内にあるあらゆる事象)、「他者」(家族や友人など)、そして「自分」自身もまた、そうした“記号”としての世界、他者、自分にすぎないのかもしれない。

 (2) 他者性――各自、一個の苺という同じ物を食べた。しかし、小グループで互いに書いたことを聴きあってわかったように、人それぞれ感じたことには共通点もあったかもしれないが、相違点、場合によっては非常に異なった体験が記されていたのではないか。粒々とした種の違和感にこだわった人、香りのディテール・豊饒さを堪能した人、齧った断面の視覚的な表情に惹きつけられた人、果肉や種の食感や喉越しに心を研ぎ澄ました人、味わいの特徴・変化に心を奪われた人、ほとんど何も特別なことを感じなかった人…。

 同じ一個の苺を食べながら、人によってこれだけ異なったことを感じ、体験している。そしてふだん、例えば自宅の食卓であるいはレストランで、同じ料理に舌鼓を打ちながら「おいしい!」と同じ言葉を発しているが、実はその時も、各自の体験の内では、今回苺を食べた時と同じように非常に異なった出来事が起きているのではないか。にもかかわらず、「おいしい!」という同じ一言で、それらの異なった体験が起きていないかのようにある意味暴力的に要約し、互いに満足しているにすぎないのではないか。「他者」とは本当は、決して「自分」とは同じ体験には還元できない、「自分」には不可知の、ブラックボックスのような存在なのではないか。

 (3) 言語――多くの人にとって、苺を食べた時に感じた微細な感覚を言葉で表現することは難しかったのではないか。言葉が、感じたことに追いつかない、あるいは感じたことが言葉からすり抜けていくような感じを覚えたのではないか。でも、それは、言葉というものの本性上、仕方のない事態でもある。なぜなら言語とは、世界で起こっている出来事、事象を「一般化」し「伝達」する記号・メディアであるからだ。たとえば、この教室に「十人の男がいて、八人の女がいる」と言語化してみる。それを、ここにいない人に伝える時、この「十人の男がいて八人の女がいる」ことだけは伝わるが、それ以外の詳細は一切伝わらない。一般化された情報以外の特異な事象は、言語の内に絡めとられない。だからこそ、苺を食べた時も、その体験の特異性を言語で表現し難かったのではないか。

 ところが、言語は、通常の用いられ方では「一般化」することしかできないが、ある特殊な用いられ方をする時、特異な体験を表すという「奇跡」を起こすことができる。それこそが「文学」だ。通常とは違う言葉の特異な組み合わせが、奇跡的に、事象の特異性と響き合う、それが「詩」であり「文学」なのだ。

 「苺のメディテーション」における体験を、このように考察してきたが(もちろん実際の授業では私が一方的に話すのではなく、学生たちに問いかける形でだが)、そもそもこの授業の本題は「思想とは何か?」であった。改めて、思想とは何か? (思想家により色々な定義がありうるが)私はとりあえずこう言おう。それは「自分と世界の関係の自明性を疑い、今ここに在ることへの気づきを限りなく深める思考・精神の探究」である、と。この「思想」を、単に頭だけでなく体でも会得してもらいたいがために、「苺のメディテーション」というかわいらしいワークをやってもらった次第である。私たちは、メディテーションにより「今ここに在ることへの気づき」を深め、「自分と世界の関係の自明性」すなわち「現実」を疑い、その体験を言語化することによって「思考」し、他者とともに「精神的に探究」していった。「思想とは何か?」が各自の腑に落ちてくれたら、嬉しい限りである。そして、私の「現代思想」の授業では、今回だけでなく、毎回現代思想の基本的なトピックを単に頭だけで理解するのではなく、体でも会得してもらえるよう努めるつもりである、と言って、この授業=ワークを終える。

 

GEIDOとしての学びへ

 ところで、そもそも私はなぜ、瞑想を授業に取り入れたのか。それは、瞑想という行(為)によって「学び」を再デザインしたかったからだ。「学び」という、もしかすると人類とともに古い「冷たいクリエーション」を、瞑想という、まさに「いびつなV」の軌跡を辿る実存的気づきの力によって「変革」したかったからに他ならない。

 しかし本来、瞑想もまた、学びとは違った位相で、古来からの「冷たいクリエーション」、人類による心身の大いなる冒険だと言えるだろう。私はたとえば、本格的な坐禅を教室に持ち込み、学びを変えることもできたであろう。現に私は、仏教や神道の瞑想の専門家たちと、そうした実験授業を試みたこともある。他方で、そうした実験をしながら、大学は禅堂ではない、坐禅や瞑想を本格的に究める場ではない、そうしたければ禅寺や瞑想センターに行けば済む話である、という自覚ももっていた。

 私はむしろ、自らが学んだ現代に生きる様々な瞑想法(マインドフルネスからヴィパッサナーに至るまで)を自分なりに編集し直し、しかも「現代思想」という私が別に学んだ、もう一つの精神的探究法にそれを接続しつつ、自分なりの「小さな物語」=「OSとしてのアート」を意識的・無意識的に編み上げながら、その「熱いクリエーション」を、(少なくとも当時は)旧態依然たる大学の学びという「冷たいクリエーション」にインストールし、再デザインし、学びの新しい形を模索しようとしたのではなかったか。それはあたかも(おこがましいかもしれないが)、宮沢賢治が、法華経的修行と、当時の思想、文学、音楽、農学などとを再編集し、その「小さな物語」=「熱いクリエーション」を、農学校の学びに差し入れ、生徒たちとともに、新しい学びの冒険と悦びを作り出したことにも似た所業だったのかもしれない。

 

 「食べる」という行為は、前言したように、人によっては、鶴見のいう「広義の美的経験」にすらならない行為であろう。ある意味「有」の世界に埋没した行為といえるだろう。しかし、そうした生物的ともいえる慣行ですら、そこに瞑想という心身の技を差し挟むことによって、全く違った感覚的な、場合によっては実存的な気づきに満ちた行為になりうるのだ。現に、「現代思想」の授業を受けた学生たちの多くが、「食べる」ことに関し、眼から鱗の体験をし、授業後も時折個人的に「食べる瞑想」を実践しているという。

 確かにその瞑想は、本格的な修行に比べれば、いたって浅く、いわば「V」の入り口でしかない。が、そうであっても、それが私の「小さな物語」=「熱いクリエーション」として再編集され、「学び」の現場に接続されて再デザインする力となる時、その新たな学びの創造は、一種のGEIDOになると言えるのではないか。私はそうしたGEIDOとしての学びを、「食べる瞑想」だけでなく、「歩く瞑想」「横たわる瞑想」「座る瞑想」と変奏しながら探究していくとともに、学びのコンテンツも「現代思想」だけでなく、「文学」や「美術史」、さらには「入試」まで(!)をも編み込みながら、特異に展開していった。

 

 鶴見の限界芸術論は、確かに、いわゆる通常の「芸術論」や「芸術学」が取りこぼし、理論的に射程にすら入れない、「小さな」技、遊びまでを、あえて「(限界)芸術」と名づけることで、「芸術論・芸術学」の穴を穿ったといえよう。しかし、それは、一つの「概念」として見た時、(前回見た)書家の会津八一や中林梧竹の実存的修行に裏打ちされた藝道的実践、あるいは『山脈(やまなみ)』のような「底辺」的体験を分有しあうサークルの試みを含み込むとともに、おそらくはおよそそうした実存的気づきや探究とは無縁な、それこそ「有」の世界に埋没しきった慣行的な遊びや趣味的な集まりまでを内包していた。その「混在」こそが、従来の「芸術論(学)」に飽き足らない人たちにとっては、限界芸術論の“魅力”を醸し出していたのかもしれない。が、その「混在」は同時に、概念としての“粗さ”を露呈し、「限界芸術」を概念なき概念と化したのではなかったか。その概念的“粗さ”が、「限界芸術Marginal Art」論自体の理論的・思想的マージナル性=限界をも生み出したのではなかったか。

 

註1 私のプラム・ヴィレッジでの滞在と瞑想の詳細については、拙著『汎瞑想』(慶應義塾大学出版会、2012年)第三章を参照されたい。

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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