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GEIDO試論 熊倉敬聡

限界芸術とGEIDO(1)――限界芸術はGEIDOか?

 

 人類の創造性は、今や、「西欧近代」が発明したArt、そしてその自己否定的反復・メタ化(Non-Art=ArtないしArt=Art)としてのArt2.0(通称「Contemporary Art」)、さらにはその日本的翻案としての「芸術」ないし「アート」から、人類がいまだ知らざる領野へと決定的に移動しつつある。その新たな創造性の有り様を(今のところ他にふさわしい表現がみつからないため)仮に「藝術2.0」あるいは「GEIDO」と、私は呼んでみた。その創造性の潜在的な蠢きを、今は「工芸」「発酵」「坐禅」「カフェ」「茶道」などと称されている分野の内奥にまさぐってみたのが、前著『藝術2.0』であり、本連載は、その、たぶんに直感的かつ場当たり的でもあったまさぐりを、さらに理論的に実践的に深化させ、展開していこうとする論考である。

 そうした時、まず私の射程に入ってきたのが、鶴見俊輔の「限界芸術」論であった。この、およそ60年前に着想された、当時としてはある意味独創的でもあったろう芸術論は、ある現代の美術評論家によれば、長年美術批評界で「黙殺されてきた」論でありながらも、今や「もっともアクチュアルな批評的問題」として提起されうる論であるらしい。だから今こそ、「この限界芸術のプロジェクトを再始動させる時期」だと言うことだ。その理由は二つ。一つは、現在アートの世界で活躍している(アマチュアの)市民たちの活動を正当化できる理論であること。もう一つは、「これまでの『芸術』とは異なる、『別の芸術』を実践するための革命的な道具として使える」註1ことである。

 さらに、この評論家は、限界芸術の可能性の中心は「環境破壊を生む熱のさなかにあって、その熱に打ちひしがれながらも、それとは別の熱を身体のなかで育み、それを他者に伝えたり、他者から伝えられたりすることによって、暮らしをより深くより美しく変容させていくことにあります。それを繰り返していけば、結果的に『芸術』概念を根底から再編する革命へとつながっていくのではないでしょうか」註2と問うのである。

 この「革命」はまさに、創造性の概念と実践を刷新し、新たなArt of Living(生きる技)とでも言うべきものを作り出そうとする「藝術2.0」そして「GEIDO」のそれと同じなのではないか。GEIDOは、結局、鶴見が約60年前に構想した「限界芸術」の現代的焼き直しにすぎないのか。

 この問いが反語的問いとなるよう、私は、両者の間に共通する響きを聴きとりつつ、そして限界芸術の余響の一部を引き継ぎつつも、GEIDOに限界芸術を超える新たな理論的・実践的潜在力を探り当てていきたい。

 

「限界芸術」とは?

 鶴見の云う「限界芸術」とは何か。奈辺に、その概念的独創性があるのか。

 「芸術の発展」という「限界芸術」論を、鶴見はまず、「芸術」の定義から始める註3。一言、芸術とは「たのしい記号」である、と。この、人を喰ったかのような唐突な定義を、すぐにやや学問的に(ジョン・デューイ的に?)言い直し、芸術とは「美的経験を直接的につくり出す記号」であると言う。では「美的経験」とは何か。それは、広義では(労働して食費を稼ぐという間接価値的経験と比して)「食事をする」などの直接価値的経験(それ自身において価値のある経験)である。そしてこの論法だと、生きる経験全体が美的経験に覆われかねないが、それは潜在的には正しいとした上で、鶴見は、しかし、美的経験として「高まって行く」経験こそが、狭義の美的経験だとする。

 彼はさらに、「高まって行く」という漠然とした意味あいを限定する条件として二つのものがあると言う。一つは「尺度」。食べるという味覚的経験には「尺度」がないが、狭義の美的経験には「尺度」がある。(しかし、鶴見はその「尺度」がどのようなものか一切詳述しない。)もう一つは、日常からの「脱出性」。美的経験は、経験一般から「離脱反逆」をもたらすとされる。

 さらに鶴見は、(狭義の)美的経験の一部分たる「芸術」を三つに分類する。「純粋芸術」(Pure Art)、「大衆芸術」(Popular Art)、「限界芸術」(Marginal Art)である。「純粋芸術」は、専門的芸術家によって作られ、それを鑑賞しうる教養をもつ専門的享受者により享受される。「大衆芸術」は、専門的芸術家(と企業家)によって作られ、大衆が享受者となる。「限界芸術」は、非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者によって受容される。

 「限界芸術」は、歴史的にみて、「純粋芸術」や「大衆芸術」よりもはるかに古く、太古の洞窟壁画以来連綿と続く、系統発生的にみて最も根源的な芸術の形といえる。それはまた、個体発生的にみても、人生で最初に接する芸術だといえよう。例として、新聞紙で作ったカブト、奴ダコ、コマなど、鶴見の時代を彷彿とさせる遊びを列挙する。(はたして、デジタル・コンテンツに囲繞された現代の子供たちに限界芸術は存在するのか、鶴見が存命なら尋ねてみたいところだ。)

 ちなみに、「限界芸術」のより具体的なイメージと広がりを示すために、「芸術の発展」の末尾に付されている、限界芸術/大衆芸術/純粋芸術の対照表から、限界芸術の例を挙げてみよう註4。鶴見は行動の種類で、分類している。

 

 身体を動かす――みずからのうごきを感じる:日常生活の身ぶり、労働のリズム、出ぞめ式、木やり、遊び、求愛行為、拍手、盆おどり、阿波おどり、竹馬、まりつき、すもう、獅子舞。

 建てる――住む、使う、見る:家、町並、箱庭、盆栽、かざり、はなお、水中花、結び方、積木、生花、茶の湯、まゆだま、墓。

 かなでる、しゃべる――きく:労働の合の手、エンヤコラの歌、ふしことば、早口言葉、替え歌、鼻唄、アダナ、どどいつ、漫才、声色。

 えがく――みる:らくがき、絵馬、羽子板、しんこざいく、凧絵、年賀状、流灯。

 書く――読む:手紙、ゴシップ、月並俳句、書道、タナバタ。

 演じる――見る、参加する:祭、葬式、見合、会議、家族アルバム、記録映画、いろはカルタ、百人一首、双六、福引、宝船、門火、墓まいり、デモ。

 

 ここには、当時の周縁的な文化的・社会的事項がほぼ網羅されていると言っても過言ではないだろう。「限界芸術」が、いくら「限界」的=Marginalとはいえ、最たる狭義の美的経験、すなわち「芸術」の一種だとしたら、はたしてこれらの経験に「尺度」があり、日常からの「脱出性」があるかどうか甚だ疑問だが、とりあえずそれは措いておこう。さらに、鶴見の限界芸術論「芸術の発展」を追っていこう。

 

限界芸術の「研究」「批評」「創作」

 鶴見は、日本における限界芸術のキーパーソンを三人挙げる。限界芸術の「研究者」である柳田国男、限界芸術の「批評家」である柳宗悦、そして限界芸術の「作家」である宮沢賢治である。

 柳田国男の民俗学こそ、限界芸術の「研究」であると、鶴見は断じる註5。まず鶴見は、柳田の民謡論を取り上げ、柳田によれば、日本の民謡の元歌は田植などの作業歌(労働歌)であり、「衣食住を確保する諸活動(労働)の倍音として、それらをたのしいものとする活動(遊び)」、すなわち限界芸術=芸術の最古の形式が現れた、と敷衍する。

 次に鶴見は、柳田による、民謡の三つの傍系(鼻唄、子供の遊びのあいのてにうたわれる歌、宴会用の歌)についての研究を取り上げ、これらもまた限界芸術(柳田によれば「凡人芸術」)であるとした上で、「すべての子供は起きているあいだじゅう芸術家であるが、大人になると、酒をのんでいるあいだだけ芸術家になる」と、限界芸術の裾野を酔客にまで広げていく。

 さらに、鶴見は、柳田による(「アメンボー」などの)モノの名前そのもの、そしてゴシップについての研究もまた、限界芸術の「最小粒子」の研究であると評し、そして最終的に、柳田は何よりも「祭」を「総合的限界芸術」として評価したとする。だが、その柳田が評価した祭は、演じる者と見物人が別れて一種のショーと化した「大祭」ではなく、そうした参加者間の分離がない「小祭」であり、柳田は「小祭」こそを現代に復興しようと欲した。しかし、鶴見は、その「小祭」復興の提案は、保守主義者柳田としては当然だが、小祭を支えてきた国民的信仰が失われた現在、それは適切さを欠くがゆえに、新しい小祭とそれを支える新しい国民的信仰を作ることこそが、我々に課された歴史的責務ではないかと、この限界芸術の「研究者」をやんわりと批判するのである。

 次に鶴見は、限界芸術の「批評家」、柳宗悦を論じる註6。彼は、柳田が限界芸術の研究に一つの水準を作ったと同様、柳は限界芸術の批評に一つの水準を作ったと評価する。

 鶴見は、柳の有名な「用」の美学――無名の職人たちが無心の手仕事で作り出した雑器を、民衆が日常の暮らしの中で用い愛でる――に深く首肯したあと、柳の民芸論とその実践の「成功した部分」と「失敗した部分」を指摘する。

 まず、「成功した部分」は、機械工業がまだ十分に浸透していなかった地方に残っていた手仕事の伝統を探し出し、それを全国的に普及した点。そして「失敗した部分」は、京都で柳に傾倒していた工芸家たちが作ったギルド「上加茂民芸協団」がわずか二年で終わってしまった点。さらに、柳が近代以前、特に中世的信仰と遺産に傾注しすぎたあまり、限界芸術を「機械的生産に反対する力としてのみ」評価した点に求める。少なくとも鶴見が考える限界芸術は、そうした柳の「民芸」の手工芸的枠組みを超え、カメラや映画やラジオといった、近現代のテクノロジー、メディアの利用まで含み込むものなのである。

 鶴見は、そのように柳の民芸論の限界を指摘した後、にもかかわらず、彼の、日本の伝統を評価する美学が、ある種の普遍性を獲得すると結論づける。つまり、柳の美学は、日本の伝統的美学、なかんずく不完全を尊ぶ「奇数の美」、そして無味・無地を愛でる「わび・さび・渋み」の追求とを、民芸思想とともに世界に示し、欧米に民芸美術館を建てることすら欲することで、「日本の伝統をひっさげて世界に出てゆくことを説く柳宗悦の批評の視点は、日本の限界芸術についての論評を軸としてつくられた普遍的な美学の体系であると言えよう」と、結ぶ。

 このように鶴見は、限界芸術の「批評家」としての柳の民芸論・美学の可能性と限界を指摘しつつ、自らの限界芸術論の射程をさらにシャープに隈取っていく。

 次に鶴見は、限界芸術の「作家」宮沢賢治を論じる。柳田の小祭復興、柳の工芸家ギルドの試みを、現在の日本に限界芸術を復活させる方法として肯んじえなかったが、宮沢の「創作」は、その復活の力になりうるのではないかと、鶴見は論を開始する註7

 鶴見は、宮沢の芸術観が三つのモメントにより成っていると言う。⑴芸術をつくる状況、⑵芸術をつくる主体、⑶芸術による状況の変革、である。

 

 ⑴芸術をつくる状況。

 宮沢にとって、芸術とは「主体となる個人あるいは集団にとって、それをとりまく日常的状況をより深く美しいものにむかって変革するという行為」である。だからこそ、状況の中にあるあらゆる事象が、芸術の素材となりうる。たとえば、日常の声音が音楽に、身振りが演劇になりうる。

 鶴見は、その日常的状況の芸術化の典型例として、宮沢が生徒たちを引率した北海道への修学旅行を挙げる。そこでは、旅のプログラムの立案から、食事、散歩、雑談までもが、人間関係のドラマとして、限界芸術となる。もちろん、宮沢にとっての限界芸術は、修学旅行という「特別な」学びの機会のみではない。彼が農学校で生徒たちと行った日々の「授業」のあらゆる要素が、芸術の素材となっていた。そして、そのような芸術をつくる状況を理想化し結晶化したものこそ、「イーハトーヴォ」というシンボリックな理想郷である、と鶴見は見てとる。

 

 ⑵芸術をつくる主体。

 宮沢にとって、芸術をつくる主体は専門的な芸術家ではなく、一人一人の個人、むしろ芸術家らしくない生産活動に従事している個人であった。そして、その理想型は、素人芸術家ですらない、ただ黙々と働く人々、「存在としての芸術」とでもいうべき人々であった。その理想的主体を、宮沢は「ベゴ」という丸い石(『気のいい火山弾』)、「白象」(『オッペル[ママ]と象』)、「デクノボー」(『雨ニモマ負ケズ』)、あるいは法華経を借りて宇宙の「微塵」などに形象化した。

 しかし、宮沢においても、現実には「存在としての芸術」=理想的主体となることに徹しきれない自分の深い業がある。「微塵」の奥底で、世界からの孤立に懊悩し、世界を呪詛さえする「修羅」が、悲痛の叫びを挙げている。だが、この「修羅」が「自分の力でデクノボー、白象、ベゴ石にむかっての道すじをきりひらいてゆくことの中に、政治があり、宗教があり、政治とも宗教ともみまがうような形での限界芸術の活動としての宮沢賢治の芸術が成立する」と、鶴見は、宮沢の思想と実践を実存的に高く評価する。

 

 ⑶芸術による状況の変革

 宮沢にとって芸術とは、何よりも個々人が己の本来的要求にしたがって状況を変革する行為であったと、鶴見は捉える。その変革への努力が最も明らかな形をとったのが、「羅須地人協会」(1926〜28年)の活動であった。農学校を辞めた宮沢はこの時期、技術者として肥料設計や講義などのために岩手県を文字通り東奔西走する。技術者=芸術家として、宮沢は当時の農村の状況を変革しようとしたのだ。その現状変革を駆動する原動力こそ、世界への異和・不満としての「修羅」の能動化されたエネルギーであり、それが技術者=芸術家である彼に未来のヴィジョンを抱かせ、行動に走らせた、と鶴見は見る。

 畢竟、宮沢にとって、各人の人生がそのまま芸術である、ように見えるが、それは、各人の一挙手一投足がそのままにして芸術であるという意味ではなく、その主体がそれらの行為を「高め」「みがき」、さらにはそれへの見方を「深めて」いき、最終的には「自分の生前死後もふくめて宇宙史の立場から見るとすれば、自分の人生もまた芸術作品として眺めることができるという意味での芸術」なのである、と鶴見は結論づける。

 

 鶴見は、このように、限界芸術の「研究者」柳田国男、「批評家」柳宗悦、「作家」宮沢賢治について論及する。が、その論及の、いったいどこまでが鶴見自身の「限界芸術論」なのか、あるいはキーパーソン自身の思想なのか、判然としない。明らかなのは、鶴見が、柳田の小祭復興と、柳の工芸家ギルドの試み、そして手工芸的枠組みに批判的であるという点のみである。逆に鶴見が「限界芸術論」的視点から三者のうちに共通して見ているのは、⑴限界芸術は、一部の文化的エリートが専有する芸術ではなく、名もなき民衆に分有された文化的実践であること。⑵限界芸術は、日常の生活から乖離し、美術館やコンサートホールでのみ享受されるものではなく、個々人の日々の生活を成り立たせている些細で素朴な、いわば「小さい」遊び・工夫・技にこそあること。⑶にもかかわらず、限界芸術は、社会の現状を批判し変革する潜在力を併せ持っていること、である。

 鶴見の「限界芸術論」は、これらキーパーソンたちへの論及の後、いよいよ彼独自の論を展開していこうとする、まさにその瞬間に途絶してしまう。「次にマス・コミュニケーションと限界芸術、サークルと限界芸術、日本の伝統と限界芸術の三章を書く予定だったが、これ以上書けなくなった」と。実直とはいえ、職業的文筆家としては無責任ともとられかねないこの二行と、申し訳程度にもならない(先に言及した)限界芸術/大衆芸術/純粋芸術の対照表「芸術の体系」を付して、この、限界芸術論であるはずの「芸術の発展」を中途で終えてしまうのである。

 

「限界芸術論再説」

 「芸術の発展」ののち、鶴見の限界芸術論の新たな展開はあるのか。ちくま学芸文庫『限界芸術論』には、この冒頭を飾る論考の後、「黒岩涙香」論などの本格的な論文や、様々な大衆芸術に関するエッセイ、コラムなどが続くが、こと限界芸術に関しては、非常に断片的な言及があるのみで、「新たな展開」と言いうるものは一切ない。

 しかし、ここで注目すべきは、この文庫版にはなぜか収録されていない「限界芸術論再説」という講演の記録である註8

 この、1967年10月(「芸術の発展」の7年後)になされた講演録の冒頭には、(ある意味「再説」にふさわしく)件の表「芸術の体系」がまずは配されている。鶴見は、「現代デザイン講座」の一環として行ったこの講演を、「大衆社会」批判から始める。オルテガの『大衆の反逆』などを引きながら、団地の隣人が殺されても無関係という、砂粒のように互いに無関心な大衆社会では、そもそも民主主義が成り立っていないし、だから大衆は政治を変えることができないという無力感に苛まれている。

 そうした大衆社会状況にあって(「デザイン講座」であるがゆえであろう)、鶴見は、個人が「自分でデザインできるものは何か」と問う。そして「非常に小さいところからアプローチする考え方」(ここでも「小さい」がキーワードだ)があり、それが「大衆社会状況のつくり出す無力感に対抗する一つの運動」たりうるのではないか、と問題提起して、いよいよ本格的に「限界芸術論」(再説)に入る。

 そこで鶴見は、会津八一という書家を持ち出す。そして会津の書論に出てくる明治時代の書家中林梧竹が、ある寺に泊まった時のエピソードに言及する。中林は、投宿中よく子供相手に浜の砂の上に字を書いていた。なぜ砂の上なのか。会津が察するに(と鶴見が察する)

 

砂の上に線を引くとね、砂が崩れるでしょ、風に吹かれたりして。その線が非常に丸くなるんですって。自分の書いた個性ってものが消されていくんです。そのことが面白いんですよ。偶然の状態と自分の力とがからんで、砂が自分の個性を消して何とも言えないものになる。つまり、個性の脱却というのが自分の臭みを脱するという作用をして、その面白みのために、悟竹[ママ]は砂に書いたんだというんですけどね。このあたりには老人の楽しみってものの極意が出てきている気がする。そのなかに、本当の意味でのものをつくる喜びがある。

 

 なぜ、鶴見はこの会津による中林のエピソードを出したのか。それは、砂の上に字を書くという行為は、どんな条件でも「自分がデザインできる生活の領域」であり、が、その「小さな」デザインは、砂の上にとどまらず、自分が書く手紙、自分の住む家の設え、自分の身に纏う服など、生活のあらゆる領域に浸透していくだろう。それこそが、限界芸術なのだと説くのである。

 鶴見は、自分がいつ「限界芸術」という考え方を思いついたのか、と振り返る。それは、従軍時に「去年生まれたタコ八」という替歌(「去年生まれたタコ八は/弾に当って名誉の戦死/タコの遺骨はいつ帰る/骨がないから帰れない/タコのかあさん悲しかろ」)を聞いた時だと言う。軍隊という極限的状況の最中でも、「人間の譲り渡すことのできない最後のもの」、最低限の「自由」として芸術を欲する。それをまざまざと体験したのが、この替歌だと言う。さらに彼は付け加える。限界芸術は、純粋芸術や大衆芸術よりはるか昔から(洞窟壁画時代から)存在する最古の最も根源的な芸術であり、それはつまるところ「自分の人生にもっているビジョンをどういうふうに表現するか」という問題であり、それこそが、この大衆社会状況にあって、自由の、デザイン可能な領域である、と力説する。

 そして限界芸術は、そうした生活のデザインを通した「小さな」政治性を発揮する行為であるとともに、自然と、宇宙と溶け合い、喜びを分かち合うような宇宙論的ふるまいでもある。

 

アメリカインド人[ネイティヴ・アメリカンのこと]の自然宗教のなかにも日本人の神道のなかにもそれがある。その修業のなかにね。空が笑いかけているような感じ、牛も馬も友だちだと感じる一体感のなかに、生きていくことの秘密がある。そして、宇宙のダンスにわれわれが参加することのなかに喜びがあり、自分が個として滅びることが別に何でもなくなってくる。それが生きていることの目的ではないか。

 

 そして最後に鶴見は、限界芸術の視点から、日本文化の特徴と可能性を称揚する。元々江戸時代に欧米諸国より識字率が高く、知的であった大衆は、驚くべきバラエティの限界芸術を作り出し楽しんだ(先の限界芸術の一覧表に見られるように)。その伝統に接続しつつ、現代においても、知的大衆の創造力を開発することこそ、肝要なのだと「再説」を締めくくる。

 

限界芸術はGEIDOか

 ここまで、「芸術の発展」そして「限界芸術論再説」を通して、鶴見の限界芸術論の概要を見てきた。

 ここで改めて問いたい。限界芸術はGEIDOなのか、と。たとえば、鶴見に限界芸術を着想させた替歌「去年生まれたタコ八」。それは「替歌」であるがゆえに、元歌(ちなみに高峰三枝子が歌った「湖畔の宿」)を「再デザイン」した歌といえよう。

 先に(連載第1回と『藝術2.0』で)私は藝術2.0あるいはGEIDOの秘鑰の一つは、「熱いクリエーションによる冷たいクリエーションの再デザイン化」にあると述べた。はたして、「去年生まれたタコ八」は、GEIDO的再デザイン化なのか。そこには、歌うことそれ自体への「原点回帰」という冷たいクリエーションのヴェクトルと、それを再デザインする現代的な「OSとしてのアート」という熱いクリエーションのヴェクトルとの、逆説的でダイナミックな弁証法があるのだろうか。それが「なかなかの傑作」であり、「戦争中、それを唱うのは相当な勇気がいる」としても、少なくとも私には、この替歌の中に件の弁証法のダイナミズムが感じられない。

 前回、『藝術2.0』を振り返り要約しつつ見たように、GEIDO的再デザイン化は、単なる原作の翻案やパロディではなく、「いびつなV」、すなわち「有・生」の世界から「無・死」への「参入」と、そこから「有・生」への「還帰」という実存的ドラマとして演じられる創造行為であった。確かに軍隊は、主体たちが「剥き出しの生」(アガンベン)に晒され生き延びなくてはならない極限的状況であろう。そこで「相当な勇気」をもって唄われたであろう替歌に、そのような実存的ドラマがあったのかどうか。少なくとも鶴見が伝える歌詞を読んだだけでは、私にはその強度が伝わってこない。(でも、もしかすると、そうした強度を、パフォームされた現場で感じたからこそ、鶴見は「限界芸術」を思い立ったのかもしれないが、事の真相は、鶴見に尋ねられない今となっては闇の中だ。)

 では、鶴見が「再説」で挙げるもう一つの限界芸術の例、会津八一が語るところの中林梧竹の砂上の書はどうであろう。砂の上に字を書いていく。が、風が吹き、砂が流れ、線が、字が崩れていき、やがては消えていく。吹く風の、流れる砂の「偶然」が、字の、そして字を書く主体の「個性」をかき消していく。その様を面白がる書家。ここにはまさに、久松真一が茶道そして藝道一般に見た「無相の自己」が現在しているのではないか。その「老人の楽しみってものの極意」とは、まさに藝道でいうところの「離格」の境地なのではないか。「無作の作」の「軽み」。確かに、中林(そしてそれを伝える会津)は、藝道の「名人」、すなわち実存的Vを修行し、書「道」を究め、今や「遊ぶ」境地にある者だろう。

 そして、限界芸術の「作家」、宮沢賢治。彼もまた、おそらくは彼独自の法華経の修行を通して、Vを生き、冷たいクリエーションたる農、あるいは学びを、当時の熱いクリエーション(肥料設計、音楽、文学など)により再デザインした藝術家2.0あるいはGEIDO-KAの先駆者の一人と言えるだろう。

 そう、鶴見の限界芸術の中には、確かに藝道ないしGEIDOと思しき実践が含まれている。しかし、同時に、「芸術の体系」にリストアップされた限界芸術の諸例を見ると、そこには到底藝道ないしGEIDOと呼びえないような事項も含まれている。通常実存的Vを伴わないであろう子供や大人の遊び・仕草(拍手、竹馬、まりつき、積木、鼻唄、双六など)、通常は慣習的で儀礼的なコミュニケーション行為(会議、見合、墓まいりなど)、あるいはこれまた通常は慣行的な文化行為(盆おどり、かざり、はなお、早口言葉、アダナ、羽子板、年賀状など)が、藝道的ないしGEIDO的実践とともに、混在しているのである。その混在がまた、限界芸術という、当時も今も独創的かもしれない概念の捉えどころのなさ、「(純粋)芸術」にとって「マージナル」なものを寄せ集めたがゆえの、この概念自体の「マージナル」性をもたらしてしまったのではないか。そうであるがゆえに、その「独創性」にもかかわらず、長年、少なくとも美術(批評)界では黙殺されつづけたのではないか。

 確かに、翻ってみれば、まりつきや鼻唄、会議や見合、早口言葉や年賀状なども、やりようによって、やる主体のありようによっては、実存的Vの「道」ないし「DO」として為されうる可能性を秘めている、と言えないこともない。しかし、少なくとも鶴見の限界芸術論は、そうした可能性を探究していない。それらの行為は、単に通常の慣行としてのみ取り上げられているにとどまる。

 だから、中林や会津のような書、あるいは宮沢の文学・行動には、大衆社会状況を変革する「(再)デザイン」の力が蔵されているのかもしれないが、これらの慣行的限界芸術には、そのような力を期待できないとみるしかないだろう。

 

「サークル」論の可能性と限界

 ところで、私は先に、「芸術の発展」は、第四章にあたる「限界芸術の創作」(宮沢賢治論)の後、突如途絶する、と書いた。そして、鶴見の目算では、その後「マス・コミュニケーションと限界芸術」、「サークルと限界芸術」、「日本の伝統と限界芸術」の三章を書く予定だったが、それは実ることなく、ただ7年後、先に検討したばかりの「限界芸術論再説」という講演録を残すのみとなった。

 だが、限界芸術論(の一章)ではないが、鶴見には「サークル」に関する文章がいくつかある。それらを検討しつつ、以下、私なりに鶴見の「サークル」論・思想の(限界芸術としての)可能性と限界を考えてみたい。そしてさらに、その「サークル」論・思想がはたして、藝術2.0ないしGEIDOの(「いびつなV」と並ぶもう一つの)秘鑰、すなわち「いびつな○(サークル)」に通底するのかどうか、探っていきたい。

 まず、1976年初出の「なぜサークルを研究するか」註9。第一節「サークルとは何か」で、その問いに答えて、鶴見は、なぜなら、戦後30年を経た今こそ、これまでに固まりつつある日本の思想表現の方法(論壇史・学問史・運動史)とは異なる思想史の方法を、サークル研究を通して試みたいからだと述べる。

 ところで、鶴見によると、日本で初めて蔵原惟人が1931年『ナップ』誌上で、ソヴィエト・ロシアの用語例に倣って「サークル」という言葉を、革命思想を大衆の中に生み出していく文化運動の小単位という意味で使ったと言う。しかしその後、元来の革命思想的色合いが脱色され、顔見知りの仲間が自発的に行う文化活動くらいの意味しかもたなくなった。そんな脱政治化し脱思想化したかに見える有象無象の、場合によっては際物趣味的ですらある無数のサークルを研究して、いったいどんな思想史的意義があるのか。鶴見はこう答える。

 

サークルには、光頭会とか、愛猫家の会とか、へんなもののように見えるものもあるけれども、千年の眼をもってすれば、それらのいくらかひねこびた現在形をとおして、日常生活の小さな物をいかして自在な生き方を演じようとする市井人の志をうかがうことができよう。一つ一つのサークルは、ひしゃげた小宇宙なるままに、当事者それぞれの、生き方への願いをうつしている。

 

 市井人の「ひしゃげた小宇宙」としてのサークル。ここに、私たちはすでに、藝術2.0あるいはGEIDOの内に見出したもう一つの実存的・社会的形象「いびつな○」をはたして見透すことができるのか。鶴見の限界芸術論的に換言すれば、サークルははたして、(慣行的でない)限界芸術として大衆社会状況を変革する力をもちうるのか。

 第二節「サークルの持つ意味」において、鶴見はその可能性を探っていく。まず、サークルの根本的特色は「つきあい」である。そのつきあいとは、仲間たちが自発的に間欠的に何度も会い、時間が自然に成熟するのを待つような性格のつきあいである。そしてそうしたつきあいの途上で、「自我のくみかえ」が起こる。自分の考えが他人の考えと交流し増殖し創造性を発揮し、先んじる者と遅れてくる者の力が合体して新たな力を生み出す。そして、その力は、(ヤマギシカイなどの例外を除き註10)通常のサークルでは、理念的純粋化に抗する形で働き、だからこそサークルはサークルとして長続きする、と鶴見は論じる。

 鶴見はその後、いくつかの具体的なサークルを例にとり、その「力」を検証した後、第三節「サークルに何ができないか」で、サークルの問題点・限界を指摘する。

 鶴見は、吉本隆明や花田清輝によるサークル(論)批判を部分的に認めながらも、サークルの(他の政治運動にない)独自の活力は「書かれた理論のせまさをつきぬけて、縦横にうごきまわる精神のための社会的空間を用意すること」だと言う。しかしまた、サークル運動は「社会変革のプログラムを構想し育てる段階の小集団の形にはなり得ても、社会の中にプログラムを実現してゆく実践運動としては不適当である」と、その運動体としての限界も同時に認める。最後に鶴見は、自らの、サークルを15年も研究してきた(メターサークルとも言うべき)サークルについて自己批判する。一つには、研究対象となったほとんどのサークルは、(文字での記録を残しうる)都市中産階級のそれに限られてしまった点。二つ目には、元来近代的能率化を求めないサークル自体の性格同様、自分たちのサークルの作業もきわめて能率的でなかった点。しかしながら、成果としては、「学問における権威主義からはなれてゆく一種の遠心力」たりえた点を挙げる。

 さらに私は、鶴見のサークル思想を、GEIDO論の文脈に引き寄せるため、もう一つの論考「サークルと学問」註11、特にそこで言及されている『山脈(やまなみ)』というサークルについて検討してみたい。

 『山脈』は、第二次世界大戦敗戦から二年後の1947年長野県で創刊。以後(鶴見の執筆当時まで少なくとも)15年つづいていた雑誌である。サークルとして『山脈』には、当初からプログラムらしきものが乏しい。わずかに「《山脈の会》は、日本の底辺の生活と思想を掘りおこして、それを記録します」とあるだけだ。

 鶴見はそこで、「底辺」とは何か、と問う。しかし、『山脈』自体はそれを定義していない。鶴見は推測する。一つは、階級構造としての底辺。もう一つは、「意識のもっとも深い言いあらわしにくい部分」としての底辺、と。そして、特にこの後者の底辺こそ、多くのものにとって「戦争体験」ではなかったのかと問う。

 鶴見は、大竹勉というメンバーの寄稿を取り上げ、そこに語られた、昭和20年8月15日の記憶(「天皇に対し自分が如何に忠臣であるかを仕立てよう」とし、切腹の茶番劇さえした、自分の心の奥底にしまい込んでいた、いわば恥ずべき記憶)を改めて掘り起こし、自分のために書き残し、人とも共有する、この「底辺」を探り記す行為に、(一神教的神のいない)日本人らしい宗教性すら感じとれると言う。

 この、個人による「底辺」の探索と記録、そのメンバー間の共有。そこに、私たちは、やはり戦争体験から生まれた替歌「去年生まれたタコ八」には(少なくとも私には)見透せなかった、「いびつなV」の実存的軌跡のある種の形を看取することができるだろう。しかも、この「いびつなV」たちが、自発的に誌上で集うサークルには、明確な目的すらなく、だからこそ、参加する者は、自分で目的と仕事を作らなくてはならないのだ。鶴見は、メンバー三人の言葉を引く。

 

「やはりなにか規定がないと、困りますね。山脈の目的はなにか、ときかれるたびに弱ってしまう。」 (中島博昭) 「私も人にすすめる時、仕方ないので、ただ、読んでください。これを三年間くりかえしてきたんです。 でも、けっこう、会員になってくれる人がおりましたけど。」(明石和子)〔…〕「自分で目的と仕事と位置をきめてください。山脈は加入するのでなく、自分でつくるのです。あなた が参加したあとで、組織や目的ができるのです。」(岡本新)

 

 これらの言葉を読んだとき、私はまるで自分が語っているかのような既視感に捕われた。そう、自分はよく、自らが立ち上げと運営に携わっていた三田の家(『藝術2.0』第五章で論じた)について、人に説明しようとする時、同様の言辞を発していたのだ。

 

私が、そして共に活動する者たちが、来訪者に「三田の家とはどんな所ですか?」と尋ねられる時、私たちは現場にいながら、いつも答えに窮してしまうのです。立ち尽くしてしまうのです。相手によって、状況によって、様々に言葉を変え、意味づけを試みようとするのですが、三田の家は、いつも、指先から空しく零れ落ちていく。やるせなく、「こんなところです」と、その空虚を指し示すことしかできません。註12

 

 この、いずれにもなりうるが、いずれでもない「無目的な」場所。この「創造的なあわい」に関わる人は、自らがこの場所の使い方を発明し、自らの役割を発明しなくてはならなかった。この、大都市の只中の「空き地」、社会の「空隙」の文化的・社会的“創造力”を、私は『藝術2.0』で、田辺元によるマラルメの『双賽一擲』論とジャック・デリダの歓待論や民主主義論に事寄せて、まさぐってみたのだった。鶴見が紹介する『山脈』の相貌以外知らない私には、はたしてこのサークルが藝術2.0ないしGEIDO的実践(いびつなVたちが集ういびつな○)であったかどうか確言できない。しかし、この「底辺」へ/からの探索を分有しあった「無目的な」サークルは、少なくとも限界芸術として、たとえ「小さい」運動体であったとしても、当時の大衆社会状況を変革しないまでも、それに抵抗する力には十分なりえていたのではなかったか。

 ところが、鶴見のサークル論全体を見たときには、私は、彼の限界芸術論を見たときと同様の、理論的・思想的困惑を覚えざるをえない。限界芸術論において、実存的掘り下げに裏打ちされた実践とそうでない慣例的行為が混在していたように、サークル論においても、『山脈』のような「底辺」を探究するサークルがある一方、それこそいたって「趣味」的でお茶飲み話程度しかなされないであろうサークルが混在している。この「混在」自体が、もしかすると鶴見の(限界芸術論同様)サークル論の「魅力」なのかもしれないが、私たちのGEIDO的視点(いびつなVといびつな○)から見たときには、そこに理論的・思想的曖昧さが看取されることを否定できないのである。

 

 

註1 福住廉『今日の限界芸術』、BankART1929、2008年、9-18頁。

註2 同書、22-23頁。

註3 鶴見俊輔『限界芸術論』、ちくま学芸文庫、1999年、10-16頁。

註4 同書、88頁。

註5 同書、17-37頁。

註6 同書、38-49頁。

註7 同書、50-87頁。

註8 『現代デザイン講座 第四巻 デザインの領域』、川添登・加藤秀俊・菊竹清訓監修、風土社、1969年、51-90頁。

註9 『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』、1991年、筑摩書房、93-120頁。

註10 『藝術2.0』の第六章で論じたアズワンネットワークの自己批判的母体であるヤマギシ会について、理念的純粋化に向かったサークルとして鶴見がここで言及しているのは興味深い。

註11 『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』、1991年、筑摩書房、79-93頁。

註12  熊倉敬聡・望月良一・長田進・坂倉杏介・岡原正幸・手塚千鶴子・武山政直編著『黒板とワイン――もう一つの学び場「三田の家」』、慶應義塾大学出版会、2010年、4頁。

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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