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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅の途上――「境界」を意識する(3)

 

 

「あんなすごいゴッサム・シティ、見たことない!」

 スリランカを旅している途中、とある町のとある安宿で出会った現地在住のボランティアで、いわゆるJICAの海外協力隊員は、コルカタ(旧名カルカッタ。この当時はまだカルカッタだった)の街についてそう言った。

「ゴッサム・シティ……ですか? どういう意味でしたっけ?」

 僕はそのJICAの青年二人組に、これから訪れるインドの街、コルカタについて話を聞いていたところだった。

「バットマンは観てない? バットマンの舞台になってるところなんだけど、ニューヨークを近未来的にして荒廃させたような設定の架空の都市で……そのゴッサム・シティをそのまま現実にしたみたいな、ものすごい何というか、すごい "大都会" なんだよ……な?」

 その青年が、もう一人に同意を求めると、相方も同調してうなずく。

「そうそう、もう、すっごい "大都会" だった。あんな "大都会" 見たことないってぐらい」

 バットマンとは、言うまでもなく、あの有名なアメコミのヒーローもののことだが、ここでは'89年に公開されたティム・バートン監督の映画のことを指していた。

「大都会? そんなにすごいんですか。高層ビルとかもありましたっけ?」

 僕はまだその映画を観ていなかったので、いまいちゴッサム・シティのイメージが湧かなかったのだ。

「そんなに高い建物はなかったけど、街の雰囲気とかね。自分はニューヨークとかにも行ったことあるけど、そんなの比べものにならないくらいの大都会」

「でも物乞いとか、貧しい人もすごく多いんですよね?」

 それより以前、一度だけインドを訪問したときにも、その訪問先の街にスラム的な地区を見かけたし、インドの場合、都市部ならどの都市にも同じように、ちょとしたスラム街みたいになっているところがあるという話は聞いていた。

 ただ、その中でもコルカタのそれは他都市を圧倒してひどいらしいとも聞いていて、どれぐらいすごいスラムなのかということにも興味があったのだ。

「貧しい人は多いよね。でも普通のインド人はあんまりスラム的な場所に近寄らないし、同じコルカタでも場所によって全然違うと思うよ」

 話がコルカタの貧しさに及ぶと、二人はこれまでのふざけて煽るような話し方から、ちょっとだけまじめなトーンに切り替えて説明し始めた。

「そうなんですか。確かに貧富の差は大きそうですもんね」

 僕はカースト制度のことを念頭に受け答えしていた。

「それもあるけど、旅行者の泊まる辺りとか、僕がお世話になった家の女の子とかに聞いたら、そんな危険なところ一度も行ったことないって言ってたな」

 旅行者の泊まる辺りというのは、バックパッカーが集まることで有名なサダル・ストリート周辺のことで、お世話になったというのは、JICAの隊員としてコルカタにいたことがあるということらしかった。

「へぇ、コルカタに住んでるのに、一度も行ったことない、ですか?」

「インドだと女の人は買い物にも出ないし、意外とそんなもんみたいだよ」

 知ってる人も多いかもしれないが、伝統的なインド社会では、買い物は主に男の役割で、結婚して家に入ると、女の人は一人だと市場に買い物に出かけたりすることもしなくなるという。

 思い返すと、あのJICAの二人は、バックパッカーが旅先で出会うようなインド人が、必ずしもインド人の典型という訳ではない、ということを言いたかったのかもしれなかった。

 このときのやり取りは、本当に何気ないやり取りではあったが、ゴッサム・シティという語感の面白さと、大都会と言ったときの彼らの大げさな表情が妙に印象に残っていて、後に実際にコルカタを訪れたときにも、これがゴッサム・シティか! と思わずひとりごちてしまったぐらいだ。

 

 

 スリランカの旅は、ちょっとしたカルチャーショックはあったものの、今振り返ってみても、これ以上ないくらいのすばらしい旅となった。

 具体的に何がどうすばらしかったのか、後から人に聞かれることも多いのだが、それを言葉で説明しようとすると、何もかも陳腐に感じてしまう、そういう種類のすばらしさがあった。

 たとえば田園地帯を散策していたとき、空から大きな白鷺が音もなくすべるように飛来してきて、近くに舞い降りたときの光景。

 それから、夕暮れに赤く染まった名もない小さな湖で、壷をもって水汲みをする少女を見かけたときの光景。

 あるいは、翼を広げるとタカやトンビくらいもありそうな大型のコウモリが群れをなして、ゆっくりと大木の周りを旋廻していた光景など。

 どれもこれも、後から思い出そうとしても、あの感覚はなんだったのだろうと思うような、時間が止まってしまったような不思議な感覚があって、その光景に吸い込まれるように身を任せるようにただ見入ってしまうということが度々あった。

 もっとも、どういうわけか、後から思い出そうとすれば、そのときの光景は確かに思い出せるのだが、その場にいたときの、あの不思議な感覚までは、なぜかうまく思い出せないのだ。

 夜、何か夢をみて、そのときはものすごく現実感があったのに、朝、目が覚めてしまうと、記憶がおぼろげなものになっていて、ああ、あれは夢だったのかと分かるときの感覚の逆バージョン、と言えば少しは伝わるだろうか。

 後から思い出したときに、そのときの現実感が思い出せないという点では、夜に見る夢に似てはいるのだが、夢は朝起きると現実ではないとすぐに分かるのに、そのときに感じた感覚は、後から思い出している今の現実のほうが色あせて見える、という点で逆なのである。

 人の記憶には、感覚記憶、エピソード記憶、そして意味記憶と場所の記憶など、いくつかの層があると言われている。その中でもたぶん最も深いところ、表層のエピソード記憶が忘れ去られ、たとえ記憶喪失になって場所の記憶さえ思い出せなくなったとしても、何か大きな波のようなものが、海岸線の脆くなった岩を削り取ってその形を変えてしまうように、心の奥深いどこかに生涯変えることができない何かを刻み付けた感があった。

 たぶんインド(に限らずだが)を長旅するような人は、多かれ少なかれ、皆、同じような感覚を味わっていて、旅の何が面白いのかと聞かれてもうまく説明できないのは、そこで出会う光景を言葉にすると、あまりに些細なことだったり、あるいは陳腐なことだらけで、その何気ない現実に向き合うときの不思議な感覚が、言葉で表現できることに比してあまりに圧倒的なものだからではないだろうか。

 

 いや、特に普段、旅にそれほど興味がないという人でも、子供の頃とかに、いつもと違う場所(田舎の親戚の家とか)に連れて行かれて、そのときの光景が妙に心に残っている、という人も多いと思う。

 旅の中で感じる現実感には、そのときの妙な現実感がより強くなって戻ってくる感があるのだ。

 特別な感覚ではないと思うが、大人になるといつの間にか忘れてしまう感覚で、たまに思い出すと妙な感じがする、あの不思議な現実感である。

 スリランカでは、どちらかと言うと自然景観に触れることの中から、その現実感に目覚めることが多かったのだが、インドでは現地の人とのやり取りの中から(ちょっとしたトラブルも含めて)、あるいは彼らの行為の中に潜む文化的な文脈に対する気付きなどから、文字通りにその「現実」に目を見開かされるという経験が多くあった。

 具体的に、インドのどの州をどういう順序で回ったかとか、その手の話を書くつもりはないが、先に書いたような現実感に目覚めさせられたという点で、いくつか印象に残っているエピソードがあるので、それについて思いつくまま書いてみたい。それを説明することがそのまま、前回投げかけた疑問の答えにもなっていると思うからだ。

 

 

 

 というわけで、いよいよインドに渡ってからの出来事についての話に入っていこうと思う。だがその前に、僕が最初に旅をしたこの当時のインドの経済状態についても、少しだけ触れておく必要はあるかもしれない。

 英国からの独立後、保護主義的、社会主義的な経済政策を敷いていたインドでは、外資の投資にも規制を設け、街中でもコカ・コーラやペプシは見かけないというほどだった(代わりにカンパ・コーラというバチものがあった)。

 80年代、中国が改革開放を旗印に外資を呼び込み、高い経済成長率を誇ったのとは対照的に、十年一日のごとく、インド経済は長年停滞して貧しいまま、なかなか発展のチャンスつかむことができないでいた。

 特に僕が入国した翌年には湾岸戦争が勃発し、原油高に見舞われ、債務デフォルト寸前にまで追い込まれたほどで、当時のマンモハン・シン財務大臣が経済改革を断行し開放路線を打ち出したのは、僕が旅を終えて日本に帰国した年の半ばくらい、というタイミングだったのだ。

 ご存知のとおり、インド経済はその後急速に回復し、当時はドルベースの名目GDPで一人あたりわずか327ドルしかなかったのが、2018年には2719ドルと8倍以上の経済成長を果たした。今では次の超大国、ネクストチャイナの筆頭と目され、2030年には日本の名目GDPを追い抜いて、世界三位の経済大国に躍り出るだろうと予測されている。

 しかし僕が当時旅したインドは、まだまだ貧困にあえぎながら発展への出口を見出せず、文字通りデフォルト寸前になった瀕死のインドだったのである。

 正直に言うと、その当時は僕自身、それがインド特有の文化に根ざした問題からくる貧困なのか、単に経済政策の失策が原因なのか分かっていなかった。というより、そんな貧しさを含めて、これがインドなんだ、と勝手に思い込んで深く考えたことがなかったように記憶している。

 当時の旅人も、ほとんどの人がそれをインド文化に根ざした問題と思っていて、インドの将来に対しては、かなり悲観的だったと思う。

 特に旅行者が多く訪れるような北インドの都市部をメインに回っていると、街中で見かける建物といい、公共の社会インフラといい、英国植民地時代のものをそのまま使い続けていて、ほとんどメンテナンスさえされていないようだったし、このまま貧しさの中で街全体が朽ち果てていくんじゃないかと思うほどだった。

 ゴッサム・シティ、もとい当時のコルカタにも、そんな経済状態の中、食えなくなった周辺の貧しい村人たち(隣国バングラディッシュも含む)が避難場所を求めて流れ込み、ちょっとした難民キャンプ状態となっていた。

 バックパッカーが多く集まることで有名なサダル・ストリートでも、道端というか歩道の脇とかで、ぼろぼろの真っ黒なシートを紐で吊るしただけのテントみたいな住居を作って生活している人たちをよく見かけたものだった。

 今でもたぶん、インド旅行が初めてという人があの辺りを訪れれば、その貧しさと不衛生さに絶句するような状態ではあると思う。なんだかんだ言っても、相対的にはまだまだ貧しい国ではあるのだ。

 それでも30年近く前と比べれば今は大分ましになっているはずで、少なくとも僕が何年か前にコルカタを再訪したときには、その当時でさえ、あまりの変貌ぶり(良い意味で)に驚いた記憶がある。

 帰国後フリーで活動するようになってからも、雑誌の取材とかで何度かインドに行く機会があったのだが、帰国する前には、なるべくコルカタに立ち寄るようにしていたのだ。

 そのときは、たまたまクリスマスシーズンだったせいか、道沿いはイルミネーションで綺麗に飾られ、道端に散乱していたはずのゴミも少なくなっていたし、道をふさいで歩けなくなるくらい多かったはずの物乞いの数も減っていて、昔ほどしつこくまとわり付かれることもなくなっていた。

 しかし、30年近く前、この最初の旅でコルカタを訪れた際には、観光客がバクシーシに会わないで旅することはほぼ不可能と思えるほどだった。

 ちょっとでも小銭を渡すと、何人も集まってきて、俺にもくれ、こちらにも、と手が伸びてきて、すぐに回りを囲まれて道をまともに歩けなくなる、ということさえあった。

 前回書いたとおり、旅人の中には、物乞いに施しをすること自体が良くないことだ、という考えの人も多く、たまに気前よく施しをする人が現れると、バクシーシが群れをなして集まってくる、という光景も見られたのである。

 僕はというと、彼らのバクシーシに応えることもあれば、無視することもあるという、どっちつかずの態度をとっていた。

 理屈の上では施しなどしないほうがいいのかも知れないが、なんとなくその理屈には穴があるように思えたのと、なんといっても、人情としてやはり完全に無視することもできないでいたのだ。

 

 

 

 施しをするのが悪いという説に押された、ということもないのだが、一度は完全に無視してみようかと試みたこともあった。

 それは、息抜きで訪れたネパールの田舎町のポカラでのことだった。まだ小学校3~4年生程度の子供と、その2つくらい下の兄弟がバクシーシを求め、なぜか僕の行くところにずっとまとわり付いて来るということがあったのだ。

 完全に無視できればよかったのだが、かわいげのある子供が近くに来れば、つい何かしゃべってしまって、完全に無視することも冷たく接することも出来なくなってしまい、気が付くと子供たちは30分以上、ずっと僕の後をつけてバクシーシを求め続けていた。

 なんで僕のところにばかり付いてくるの? ほら、あっちにも人がいるよ、と白人観光客がいるほうを指差すと、その子たちは、あいつらはダメだと答えて、さびしそうに首を横に振った。

 僕は内心、なんだ日本人ということで甘く見られているのか、もしここで僕が何か施ししたら、後々日本人観光客ばっかり狙われることになるんじゃないか、と思ってしまい、心を鬼にしてバクシーシはあげない、と言い続けると、さすがにいい加減疲れたのか、しばらくしてとぼとぼと来た道を帰って行ったのだった。

 自分で追い返しておいて勝手なものだが、その後姿を見ているうちに、え、本当に帰っちゃうの? と思えてきて、突然、後悔の念と申し訳ない気持ちが湧いてきて、さすがの僕も、やっぱり何かとんでもない間違いをしているのだ、と気が付きはじめたのだった。

 このときのことは後々まで、ずっと胸の奥で痛み続けることになるのだが、具体的に正しい対処法はどうなのか、と問われても、まだ自信をもって、こうするべきだ、と答えることができる状態ではなかった。

 つまり、自分の態度自体は絶対的に間違っているということまでは分かったのだが、じゃあ何が正しい対処法なのか、ということまでは分かっていなかったのだ。

 

 また別の機会に、これとは逆のリアクションに出会うというレアケースもあった。それは出来るだけバクシーシに応えてみようとしていた時期のことだ。とあるインドの田舎町で、やはり小学生低学年くらいの子供にバクシーシをせがまれたのだ。

 その頃は、物乞いにもあまり冷たくしないようにしていたので、あらかじめ用意してあった小銭をポケットから出して、その子供に渡した。

 ところが、あいにくそのときは大きなコイン(といっても1ルピー程度だが)がなく、小さなパイサコイン(100パイサで1ルピー)しかなかったので、そのパイサコイン(確か50パイサくらいだった)を、その子の手に乗せてあげたのだ。

 だがその子は、渡されたコインの種類を確かめると、ちょっとしかめっ面をして、これ、要らないよ、といって僕に付き返してきた。

 いくら物価の安いインドとはいえ、1ルピーが当時のレートでも3~4円程度だから、さすがにパイサではほとんど何も買えない。

 もちろん、僕もそのことは分かってはいたが、そのときは小銭がそれしかなかったし、それまでにも物乞いにパイサコインを施すということはあって、その場合は、これじゃ足りないからもっとくれ、と言われることがほとんどだったし、今度もそう言われるだろう程度に軽く思っていたのだ。

 それがこのときは、渡したコインを付き返されて、要らない、と言われたのである。もちろん、バクシーシを付き返されたことは、後にも先にもこれが初めてのことだった。

 このときのことも虚をつかれてちょっとしたショックだったので、後々まで記憶に残ることになるのだが、こういう体験の積み重ねを自分の内で反芻しているうちに、さすがに思うところがあって、何が正しい対処なのかということについても、それなりの洞察が芽生えてくることになるのである。

 

 

 といっても、これだけでは何のことか分からないと思うので、もう少し、別の角度からのエピソードも紹介してみよう。

 コルカタで列車のチケットを買おうと、窓口に並んでいたときのことだ。インドの都市部は、どこに行ってもたくさんの人であふれ、安価な交通手段である列車のチケットを買うとなると、列に並んで何時間も待たなければならない。

 インドでも指折りの大都会、コルカタとなればなおさらで、行き先によってはチケットを手に入れるためだけに丸一日費やしたなんて話も聞くほどだった。

 それでも、そのとき僕が並んだ窓口は、マイナー路線の近郊行きだったせいか比較的空いていて、僕の前に5~6人程度しか並んでいないという状態だった。これなら30分程度で自分の番がくるかな、と思っていると、なんだか前のほうに突然割り込んでくる人影が見えた。

 インド鉄道の窓口というのは、ガラスで仕切られた窓に、片腕がやっと入るくらいの小さな穴が開いていて、チケットを買いにきた客は、その穴を通して職員とお金のやり取りをするという仕組みになっている。

 そこに誰だかよく分からない謎のインド人が、後ろに並んでいる面々をガン無視して割り込んできて、ぐっと横から腕を伸ばしてその穴に手を突っ込み、何か窓口の職員に大きな声で要求しはじめたのだ。

 日本では、公共の場で列を作っている人がいれば、そこに横から割り込む人はほとんどいない。仮にそんな人がいたとしても、まず間違いなく後ろに並んでいる人から強力なクレームが入って、管理者から強制的に排除されるだろう。少なくとも、後ろで待たされている人たちが、黙っておとなしく傍観しているということはないはずだ。

 ところがインドでは、混雑する状況であればあるほど、急いでいる人が前の人を押しのけて横から割り込むなんてことは日常茶飯事であった。そして、それを見て、後ろに並んでいた人の中にも、我先にと列を無視して前に突進してくる人が出てきて、結局、窓口の周りで団子状態になってしまう、ということもよくあることだったのだ。

 このときは並んでいる人数が少なかったし、その横入りした男以外は、そのままおとなしく列に並んだままだったので、さすがに団子状態になることはなかったのだが、それを見ていて、ふとある疑問が生じてきた。

 横入りする不届きものがいることは、まあ、しょうがないこととして、何で後ろで並んでいるこの人たちも黙ったままで、それを積極的にとがめようとしないのだろうか?

 もちろん同じインドでも状況によって色んなケースがあるのだろうが、少なくともこのときは、列の誰一人としてその横入り男に文句も言わなければ、排除しようともしないで傍観しているだけだったのだ。

 そのときは僕自身も、ちょっと疲れ気味だったのと、横入り男が何を言っているのかよく分からなかったので黙っていたのだが、その男に何か急がなければならない特殊な事情でもない限り、少なくとも注意くらいはするべきだろうと、すぐ前に並んでいたインド人青年にその疑問をぶつけることにした。

「なんであの男は列を守らないんだ? それに君も何で何も言わないで黙ってるんだ? 何か文句を言ったら?」

 僕がそう聞くと、その青年は首を振ってそんなの無駄だよ、というようなゼスチャーをしたあと、意外な答えを返してきた。

「あの男の顔をよく見てみろ」

 僕が質問したのは、なんで黙って傍観しているのか、ということだったのだが、青年の答えは、相手の顔を見てみろ、であった。何を言っているのか分からないかも知れないが、僕も何を言われたのか分からなかった。

「え、顔?」

 なんの禅問答だよ、と不審に思いつつも、その男の顔をよく見てみると……その顔にはその事情が書かれていた、ということはさすがになかったのだが、あっ、とそれなりに気が付くところがあった。

(そうか、そういうことだったのか……)

 自分の気付いたことが正しいかどうか、その青年に答え合わせの質問をする気力もなく、なんとなくその状況を呆然とただ眺めているうちに、いつの間にか僕は、旅の途上でたびたび味わう、例のあの不思議な現実感に浸っていたのだった。

 

 

 さて、ということでそろそろ、これらのエピソードから僕が得た洞察(というほどでもないが)について説明しなければなるまい。

 僕がその青年に言われるまま、横入りしてきた謎のインド人の顔をみてみると、特に特徴があるということではなかったのだが(わりと何処にでもいる普通のインド人ではあった)、その顔付きはちょっと骨ばった感じのごつい造りで、肌も標準より黒々としており、着ているものも粗末で、いかにも貧しい階級の出身であろう、ということに気が付いたのだ。

 インドをあちこち旅したことがある人ならわかってもらえると思うが、一言でインド人と言っても、北インドと南インドでは、そこに住んでる人の外見が人種的にまったく別と言っていいほど違う。

 いわゆるアーリア系の血が混じった北方系のインド人は背が高く肌の色も白い人が多いし、南インドは、もともとインド亜大陸に住んでいたと言われるドラヴィダ系の人が多く、背が低くて巻髪で、肌の色もより黒いという特徴がある。

 実際には両者は交じり合っていて、ドラヴィダ系だから必ず貧しいということも、その逆もないのだが、一般にカーストの低い人は肌の色も黒いといわれている。

 つまり、人種的な外見の特徴と、その属するカーストは、ある程度は一致していたり予測可能だったりするのである。

 ここからは僕の推測だが、列の後ろに並んでいた他のインド人が、その横入り男に特に文句も言わず騒ぎもしなかったのは、その男のカーストが明らかに低くいうえ、見るからにまともな教育を受けていない様子だったからなのだろう。

 インドではカーストが大きく違う場合、お互いに話が通じないというか、あまり相手にしないところがある。だからあの青年(それなりに身なりが良かった)は、その横入り男を相手にしなかったのだ。

 つまり僕は、インドで起こる物事には、その裏側に必ずインド特有の社会事情があるはずなのに、そのことを考慮に入れないで、日本基準の常識で物事を判断しようとして不思議がっていただけだったのだ。

 だが、僕にとっては、この発見自体はそれほど大きな問題ではなかった。

 いや、判断の基準に社会事情を考慮に入れるというのは、それなりに大事なことではある。だが、この場合は、これと連動したもうひとつの問題、僕の側の物の見方に関して、ある重大なことに気が付いてしまったのである。そして、そのことのほうがよっぽど一大事だったのだ。

 よく見れば簡単に気が付きそうなことなのに、僕が気が付かなかったのはなぜだろうか?僕はその横入り男をまったく見ていなかったのだろうか? もちろん、それなりに見てはいた。

 よくあることだと思うが、たとえば欧州でドイツ人とフランス人に出会って、どちらがドイツ人でどちらがフランス人か、普段彼らと日常的に接した経験が乏しいと見分けるのは難しい、ということがある。

 そこで旅行中はたいてい、ドイツを旅行中なら、そこで出会う外人はみなドイツ人とみなす、ということが多くなるだろうし、フランスを旅していればフランス人とみなす、ということが多くなるのではないだろうか。

 実際にはドイツで出会う人の中にはトルコ系移民の人もいるかもしれないし、東側ではソルブ人(スラブ系)もいるわけで、注意深く見ていればそれらの違いは外見でも分かるはずなのだが、普通はそこまで注意深く見ない。

 ということで、僕は状況をよく見ないまま、この人は普通のインド人、この人は物乞い、この人は……という風にレッテルを貼って、自分で貼ったそのレッテル経由で物事を判断し始めていたのだ。

 要するに僕は物事にレッテルを貼って判断していただけで、現実をちゃんと見ないまま、偏見という色眼鏡を通して世界に相対していただけだったわけだ。

 これに対して、「それは単に君が無知だっただけの話で、最初からインドの社会事情に詳しければ、そんな間違ったレッテルを貼って混乱することもなかったんじゃないか?」と思う人もいるかも知れない。

 だがそうではないのだ。正しい知識を通して見ていようが、間違った知識を通して見ていようが、いったん過去の知識経由で目の前の現実を見ようとしているかぎり、それは現実を直接的に見ていることにはならない。つまり偏見を持って見ていることにしかならないのだ。

 たとえば横入り男に文句を言わないで静観していたあの青年は、インドの社会事情に詳しくなかったのだろうか? もちろん、あのインド人青年は知りすぎるくらいちゃんと知っていた。だからこそ横入り男を無視したのだ。

 あの青年は僕と違って、インド社会の正しい事情を知っていた。しかしそれは、あの青年の個人的な物の見方が社会的な常識と一致していた、ということでしかなく、その個人的な見方が偏見になっていなかった、とまでは言えないだろう。

 僕があの横入り男に貼ったレッテルは「謎のインド人」というような、あいまいなものだった。これに対して、青年のほうは、僕より精緻な分析をして、横入り男の正しいカーストのレッテルを貼っていたに違いない。しかし、いかに正しかろうと、偏見は偏見である。

 世間一般では、偏見というのは、間違った知識を持って世界を見ているから起こるものだと思われている。でも実際には、間違っていようが正しかろうが、知識経由で見る見方と、直接的に直に現実に触れるように見る見方ではまったく違っている。

 あの青年が、男の顔をよく見てみろ、と僕に示唆したとき、僕は期せずして本当にまじまじとその男の様子をよく見てしまった。

 そしてそのことで、自分が普段掛けている色眼鏡が偶然外れて、ただ見ているだけ、という状態になってしまい、偏見の本質とでも言うべきことに気が付いてしまったのだ。

 

 

 だがこのことに気が付くとき、もうひとつ、ある大きな疑問が湧き上がってくることになる。

 その疑問とは、僕がバクシーシを施したり、あるいは施さなかったりした、あの子供たちはいったい誰だったのだろうか?という疑問である。

 ネパールのポカラで出会ったあの子供たちは、本当はどんな生活をしていたのだろうか? ただ単にちょっと貧しいだけで、普段は普通に学校に通っている地元の子供だったのかもしれない。もしかしたら僕の後を付いてきたのは、単にお金が欲しかっただけではなく、ちょっと遊んで欲しかったというのもあったのかもしれない。 

 僕が良かれと思って差し出したバクシーシを、要らないといって付き返したあの子供は、よく考えたら本当に物乞いだったんだろうか? あの子も、ただ単にちょと貧しいだけの普通の村の子供だったのかもしれない。

 よく考えたら、僕は、あの子供たちの名前も知らないし、普段どんな生活をしているかもまったく知らない。知らないのに、バクシーシを求められたことから、自動的に「物乞い」というレッテルを貼ってしまい、そのレッテルに沿って機械的に心無い対応をしていただけだったのだ。

 つまり最初の、バクシーシにどう対応するか? などということは、問題の立て方自体がその根本から間違っていて無効だった可能性があるわけだ。

 僕が心の中に思い描いた「物乞いの子供たち」というのは、いわば僕の心の中にしか存在しなかった単なるイメージであり、レッテルであり、いわゆる偏見でしかなかった。

 あのとき、僕が対応した「物乞いする子供たち」は、たしかに僕の心の中にしか存在していなかった。そのイメージがインド社会の特殊事情を反映した正しいものであろうと無かろうと、それはあくまでも僕のイメージでしかなかったはずである。

 では、あのとき目の前いにいたはずの、現実の側のあの子供たちはいったい誰だったのだろうか?

 前に僕は、外なる「壁」は、内なる心が創り出してる、と書いた。それを、この「物乞いする子供たち」に当てはめるなら、「壁」とはすなわち「他者」である。

 僕が見た「他者」としての子供たちは、僕が心の中に勝手に作り上げたイメージであった。僕は自分の中の「他者」、自分の心が創り出している「他者」を、外の世界に投影しているだけであった。つまりは畢竟、そこに見た「他者」とは自分自身であった。

 

 では本当の現実の世界の、目の前にいるこの誰かさんたちは、いったい誰なのだろう?

 それは、あの子供たちに対してだけでなく、あるいはチケット待ちの列に割り込んできた、あの横入り男に対してだけでもなく、自分の家族や血縁関係にある人たち、もしくは親しい(と思い込んでいる)友人たちについても、同じように問わなければならない問いではないだろうか?

 本当に大事なのは、相手に対して何をどう対処するか、ではなく、自分が相手をどう見ているか、という自分の側の物の見方に気が付くことではないだろうか?

 たとえば、インドには確かにカースト制の問題がある。現在では法律上はカーストによる差別は禁じられてはいるが、人々の心の中にはまだ根強く偏見が残っている。

 マハトマ・ガンジーはこの偏見を無くそうとして、社会の一番の底辺に置かれた人たち、いわゆるアンタッチャブル(不可触賎民)と呼ばれる人たちのことを「ハリジャン(神の子)」と呼ぶべきだ、と主張した。

 アンタッチャブルな人たちは、現世ではアウトカーストとして苦しんではいるが、来世ではカルマを果たして高位に生まれ変わるはずだから、というのである。

 しかし、彼は、カーストを成立させる考え方そのものを否定はしなかった。相手に対する呼び方を変えようとはしたかも知れないが、自分の側のカルマに関する見解、彼らに対する見方そのものは変えなかったのだ。

 あるいは一部のフェミニスト(もちろん全部とは言わない)が女性の権利を主張するとき、彼らは本当に自分の内なる偏見と向き合って、その意味を理解してから主張しているんだろうか?

 女性を弱い存在と見る見方を変えないまま、弱いから守るべきだと主張するなら、本当には心の奥にある自分の側の偏見はそのままで、相手に対する態度を変えているだけなのではないだろうか?

 僕もまた同じように、相手が誰かということをよく確かめないまま、つまり自分の側では同じ偏見をもったまま、相手に対する態度だけを変えようとしてバクシーシにどう対処するべきか、ということを考えてしまっていたのだ。

 バクシーシを施すか、施さないか、というのは、自分の側の偏見や差別を止めることとはまったく別なことで、施すことが良いことで偏見のない行為である、ということではない。

 つまり、どのように対処するべきか、という問いの中には最初から正解はなかった。問いを問う前に、物事をどう見ているのかという、自分の側の問題に気が付くことが必要だったのだ。

 余計な価値判断を持ち込まないで、現実を現実として、事実を事実として、それをそのまま自分の事として見ること。実際の在りようをそのまま見ること、そんな物の見方は可能だろうか?

 これこそは、まず最初に真に問わなければならい問題だったのである(少なくとも僕にとっては)。

 

写真を撮る上で一番重要なことはなんだろうか? スタジオで物撮りをするような場合、ライティング(照明)が重要になってくるかもしれない。しかし屋外で照明無しで撮る場合はどうだろう? そもそも映画や動画の世界では、ライティングはそれ専門の照明さんというスタッフがいて、照明自体はカメラマンの仕事ではない。モデルや人物をメインに撮る人なら、被写体の表情を引き出すためのコミュニケーションや演出力が大事なんだよと言うかもしれない。しかしこれも、本来なら撮影の仕事ではなく演出家の仕事で、やはり動画の世界ではカメラマンのやることではない。では世間一般でよく言われるように、どのように画面を切り取るかという構図や、画面を占める色使いがどうなるかというような絵作りの技術が大事なんだろうか? もちろん、それらも重要ではあるが、構図や絵作りが一番重要だというなら、最初から絵筆を取って自分でキャンパスに絵を描いたらいいだろう、ということになる。写真家は絵描きやイラストレーターではないのだ。

最終最後、写真撮影で一番重要なことは何か、と突き詰めるなら、それは結局、その場にいてその場を記録すること、ということになる。写真とは畢竟、ドキュメント(記録)なのだ。そして写真がドキュメントであるなら、どのように記録するかという技術以上に、その現場をどう見ているかという撮影者の視点が重要になってくるだろう。つまり、世界をどう見ているかということが、そのまま写真撮影で一番重要なこと、の答えになる。今回の写真はすべてコルカタでフィルム時代に撮ったものだ。特に最初の3枚は、出来るだけまっすぐに、相手を「物乞い」とかではなく、普通の「人間」として見たときのポートレートととして撮ってみたものである。

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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