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植物考 藤原辰史

植物的組織論

出町柳の根性松

 京都の下鴨神社から出町柳駅に抜ける途中、高野川にかかる河合橋の東端に松が生えている。冬に北方に雪のかぶった北山連峰、春には高野川の東側に桜並木、初夏には風にそよぐ柳、秋には空に浮かぶ鰯雲を楽しむことができる。ちなみに、もはや「地獄」という表現が生ぬるく感じるようになってしまった京都の夏は、以上のような旅行代理店の広告文句的文脈からは外しておきたい。橋のアスファルトの反射熱と自動車の排気ガスと人間の呼気の混じった空気の「熱さ」を味わえる、といえばそうなのだが。じつは、この松、橋の欄干と基礎部分のわずかな隙間に根を張り、空に向かってというよりは、斜め上に向かって川の上を1メートルほど二股で伸びている根性松なのである。

 インターネットで検索すると、この松に注目している人が多いようでうれしいのだが、私も日々この松に、小さく弱い心を鍛えてもらっている通行人の一人である。石の欄干に緑色の松葉の対比がなんとも鮮やかで、きれい。根っこのしぶとさ(これは、通常、橋を歩いている者には見えない)と盆栽のような幹の形のコントラストも、シンクロナイズドスイミングみたいで素敵だ。とにかく、佇まいがなんだか凛々しいのである。

 落ち込んでいるときには、まあ頑張ってもこんなもんだよ、と慰めてくれているようだし、うまくいっているときは、いい気になってるんじゃない、と気の緩みを引き締めてくれる、そんな人生の師匠でもある。師匠は、植物である。植物なのだが、とても人間的である。狭いところに腕を入れて抜けなくなってしまったような間抜けな形態を、堂々たる伸びやかな四肢の姿で帳消してあまりある見事さだ。しかし、よくよく観察してみると「人間的」という表現は褒め言葉ではないかもしれない。

 おそらく、狭い隙間に落ちた種子から、芽が出て、その後、隙間より太くなったら幹を著しく扁平にすることで、その難問をクリアしている。人間は、自分の体を脱臼させてまで小さな家に住もうと思う人は一人もいないだろう。だが、出町柳の根性松は、自分の体を変形させて、おそらく根を基盤の上に溜まった土壌に(どれほどの厚さなのかわからない)張り巡らせて養分を吸い取り、隙間から幹を太陽に向かって伸ばすという選択をとった。

 植物学者の塚谷裕一は、「コンクリートやアスファルトの割れ目といった場所は、その周囲に他の植物が侵入してくる心配がないので、植物はそこで気まま過ごすことができる」し、「普通の植物にとって最も脅威となる隣の植物がやってこない分、気楽な空間」であると述べている[1]。たしかに、根性松師匠を遮り、その光合成を邪魔する草や木は周囲に存在しない。この自由自在さは、住居を狭い狭いと言い続ける人間を何かあざ笑っているかのようである。師匠は七難八苦を血みどろで受け止め乗り越えていると思いきや、どうやら気楽な松ライフを送っているらしい。狭ければ頭を使えばいいのよ、体型が変だからって気にしない、工夫しなさい、と師匠は頭を指して教えてくれる。しかし、師匠には脳がない。では、師匠は、私を指導するとき、どこを指差しているのだろうか。

植物の知性について

 いま、植物に知性(intelligence)があると主張して、世界中から注目を浴びている植物学者がいる。テレビや雑誌にも引っ張りだこなのでご存知の方も多いかもしれない。ステファノ・マンクーゾである。イタリアのフィレンツェ大学で農学部の教授を勤めている。日本でも久保耕司の訳で『植物は〈知性〉をもっている――20の感覚で思考する生命システム』(共著、NHK出版、2015年)や『植物は〈未来〉を知っている――9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』(単著、同、2018年)が刊行されているから、読まれた方も多いだろう。タイトルからして、私などは最初、超能力系か新興宗教系のように思えてかなり警戒したものだ。しかし、植物考1(前回)で挙げたダニエル・チャモヴィッツと同様に、少なくとも私にはそういった怪しさがほとんど感じられず、興味深く読めた。

 チャモヴィッツの議論と重なることも少なくないが、とにかく、いますぐ、植物の皆様にこれまで上から目線で眺めていましたと謝罪したくなるほど、植物の巧みな生き方がこれでもかと描かれている。箇条書き的に書き出してみたい。

 植物はモジュールの集まりである。それぞれ自己完結したパーツの寄り集まりとも言える。牛や羊が草をむしるように、どこかが食べられても、残っている部分で再生できる。それに対して、動物は胴体や脳を食べられたら、全体を再生することはできない。

 植物の根の動きは、まるで動物のように土壌内を動き回り、栄養や温度や湿度を感知し、それに応じて、別の根とコンタクトを取りながら、ネットワークならぬルーツワークを広げていく。ちなみに、この根の動きに魅せられ観察を続けた人物に、あのチャールズ・ダーウィンとその息子がいる。ダーウィンは、根端は「下等動物の脳」のような働きをしている、と述べていたそうだ。

 植物をカメラで低速度撮影をしてそれを再生すると、植物は茎と葉を用いてダンスしている、あるいは遊んでいるように見える。筋肉組織はないのに、太陽の向きに応じて、葉や茎を微妙に調節して動かしている。植物が動くものではない、という既成観念は一気に消される。

 植物には、近くの物体も、匂いも、光も、動物と同じように「感じる」ことができる。しかも感じるだけではなく、それを分析して、つぎの動きにつなげることができている。脳がないのにもかかわらず、それは「知性」と呼ぶべきものである。

 植物は、ワーカーホリックではない。休息もとることができる。貴重なエネルギーを浪費しないように「眠り」に似た行為も可能である。

 植物には、「記憶力」がある。オジギソウは、触ると葉を閉じる植物として有名だが、危険性のない刺激であるとわかると、途中から葉を閉じなくなるというのもその例の一つだ。

 植物は、意外と力持ちである。根端の細胞内の水分調整によって、約10気圧の力で細胞壁を押すことができる。それゆえに、根は、コンクリートやアスファルトをも打ち砕く。

 植物には神経はない。だが、電気信号を用い、体のある部分から別の部分に「コミュニケーション」することができる。

 植物は、動物に対して受け身の存在なのではない。動物にとって魅力的な色に変化させ、魅力的な匂いを放出し、生殖の媒体をしてもらう。じつのところ植物は動物を操っているのではないか、とさえ思える。さらにいえば、マンクーゾによれば、人間も植物に操られている動物の一つであり、これだけ人間が植物を愛し、世界各地で育てることで、植物のサバイブに貢献しているとすれば、それは植物の匂い、色、形に私たちが魅了されているからであり、植物がそのような匂いや色や形を戦略的に残している可能性もある。たしかに私も、根性松師匠の前ではほぼ受け身である。

 そもそも植物は、地球上のすべての多細胞生物の重量の99.7%をも占めている。人間など、植物に包囲されたマイノリティにすぎない。つまり、動物が植物より優れている、という固定観念をすぐに捨てたくなるほど、マンクーゾの本はこれまで私たちが眺めてきた景色を一変してくれる。

 そういえば、根性松師匠は、雨にも風にも夏の暑さ、いや熱さにも、排気ガスにも負けずに、生きている。圧倒的なマジョリティの側に存在していて、一日中クネクネとダンスを繰り広げ、光を浴びて、光合成をし、人間には見えない隙間にニョキニョキと根を伸ばしているのだろう。たとえ、1センチの隙間であっても生きていけるように、水や栄養分の通り道を工夫しているに違いない。知性がなければ、どうやってあの環境で生きていけるだろうか。

 マンクーゾは、「知性」を定義しなおす。知性とは「問題を解決する能力」である、というのが彼の定義だ。別のいい方をすれば、脳が働いているか、脳が存在するかどうかは知性の存立する条件ではないことになる。そうすると、たとえば手元の『広辞苑』(第6版)にある「頭脳の知的な働き。知覚をもととしてそれを認識にまで作りあげる心的機能」という定義は人間中心主義的でありすぎるだろう。

 では、問題を解決する能力とはどういうことか。

 問題がある、ということはつまり、生命活動に危害を与えられうる状態が迫っていることだが、これらはあちこち動き回る動物にも、大きくは位置を動かない植物にも等しく湧いてくる。マンクーゾは、動物は基本的に「移動」することで乗り切ろうとするが、植物は「適応」することで乗り切ろうとする。移動できない植物は、動物よりも素早く細かいデータを集める。問題が降りかかってもなお、逃走することなく、その場で生き延びるために、まずは調査をするのである。これが植物の知性である。

 たしかに、いちおう動物に分類される私は、暑さと湿気から足を使って家や研究室に逃れている。嫌なことがあると、現実逃避の方法をいくつか用意している。ところが師匠は逃げない。だって、ここが師匠の故郷なのだから。逃げたら、せっかくの太陽独占ライフを謳歌できなくなってしまう。

マンクーゾの描く植物的な未来

 以上のような植物の認識は、当然、私たちの未来像をダイナミックに変えていくことは容易に想像できるだろう。マンクーゾも自覚的であり、さまざまな提案をしていくのである。『植物は〈未来〉を知っている』の原題が「植物革命plant revolution」であるのも、マンクーゾの恐るべきアイディア力を差し引いたとしても、自然の成り行きだといえるかもしれない。

 たとえば、植物をモデルにしたロボット「プラントノイド」。太陽光電池を葉っぱのように太陽に向けたロボットで、足の部分が植物のように拡張していく。すると、その「根」が土壌の粒子の間に入り込み、土壌内のさまざまなデータをそれぞれの根がお互いに交換しながら収集していく、というものだ。ロボットといえばいつも動物や人間をイメージしてきたし、植物のロボットを作製するなど、私は本書を読むまで考えたことがなかった。

 しかし、マンクーゾの描く未来が興味深いのは、多くの工学者が私たちに示してくれるような物質的な変革だけにとどまっていないことである。彼はソクラテスやアリストテレスやデモクリトスやゲーテを読み、ギリシアの直接民主制や現代の経済システムにまで思いをはせることで、いわば「植物性」の議論がもたらす政治的な変革までも提案しているのである。ここが、科学技術が発展すればそれで人類は幸せになるので社会的・人文的な知識には関心がない、という短絡的な思考にとどまっている科学者と彼が一線を画すところだ。となると、人文・社会科学者はマンクーゾの挑戦を引き受けなければならない。

植物的な政治? 

 これはまずは歴史研究者から猛烈な批判を浴びそうだ。人間を植物にたとえるならば、人間はその土地に根を張った存在として固定され、そこから逃亡することもできず、労働力を搾取されていく。そんな時代錯誤的な政治をまず思い浮かべるかもしれない。

 あるいは、植物のように人間を新世界に「植えて」いった植民地主義をも想起させるかもしれない。為政者の客体でしかない人間というイメージさえ、植物的政治という言葉から浮かんでも、何ら不思議ではないだろう。

 しかし、マンクーゾの考えているのは、そのような強権的な政治モデルではない。

 ミツバチの[移住先の]視察でも、ニューロンの活性化でも、古代アテネの民会でも、競争に勝利を収めるのは、共同体のメンバーの支持をもっともたくさん獲得できた意見や提案だ。細菌から人間にいたるまで(もちろん植物もふくむ)、生物の集団行動に関する研究はどんどん増えているが、そのどれもが一つの重要な結論を導きだしているように思える。つまり、集団組織には、個体一つ一つの知性の総和を超えた“集団的知性”が出現する一般的原理があるということだ。自然界は“強者に支配されている”という考えをいまだに持っているなら、そろそろまちがいに気づいてほしい。自然界では、決定プロセスを分かち合うことこそ、複雑な問題を正しく解決する最良の方法なのだ。[2]

 この引用は動物の話であるようにみえるが、じつは植物、本連載の言葉でいえば「植物性」の話である。ミツバチやアリの集合的な動きには統率者がいない。新居にふさわしい場所を見つけてきたミツバチの視察隊は巣に帰ってくるとダンスをして、その巣が相応しいことを別のミツバチに伝えるのだが、そういうコミュニケーションを集団で遂行することで、最適解を探す。それを最も体現しているのが、植物である、というのがマンクーゾの考えである。

 一般に植物は、動物が特定の臓器に集中させている機能を体じゅうに分散させている。植物のモットーは、この“分散化”にある。すでに、植物が体じゅうで呼吸して、体じゅうで見て、体じゅうで感じて、体じゅうで計算しているということはわかっている。どんな機能もできるかぎり分散させること。それが捕食者の攻撃から生き延びる方法なのである。植物はそのことをとてもよく知っている。たとえ体の大部分を切りとられても、身体機能が失われることはなく、その状態に耐えられる。植物の構造では、指令センターの役割を果たす脳も、脳の指令にしたがう単一もしくは一対の臓器も想定されていない。[3]

  集権ではなく分散。これがマンクーゾの議論の核となって本書で繰り返し述べられている。脳の筋書きに沿って体を動かすのではない。脳はない。そのかわりに、それぞれの部分が動物以上に外界の情報を感じ取り、その情報をやり取りすることで、集合的に動き、最終的な問題解決へと向かっていく。

評価機構なき組織化

 マンクーゾの問いは、ここから人間社会へと問い返される。

 ある組織がヒエラルキーやコントロール機関をもたずに、どうして成功できるのか? 契約も報酬もなしに、自分の仕事の成果物をどうして他人と共有できるのか? 勤務評定もなく、自由意思によってプロも顔負けの質の高い成果を、どうして生み出すことができるのか?[4]

 この文章の興味深いところは「勤務評定」という言葉である。中央集権的に評価機構を設けて、人の点数を割り出し、あるラインの下に来た人は切る。あるいは、あるライン以上に来た人に多めの報酬を与える。「勤務評定」は、傾斜配分がもたらすそういう恐怖心と向上心によって人間の仕事の質を高めようと、人間自身が考え出した仕組みである。上司部下システムがなければ勤務評定は生まれない。

 これは組織そのものの評価にも当てはまる。私が務めている大学は、日々、評価との戦いである。自分たちを自分たちで評価した膨大な書類を、貴重な研究時間を割いて書き上げ評価機構に提出する。評価機構は膨大な時間を費やしてこれを評価し、予算の傾斜配分率を決める。問題は、評価を数値化すること、そして、中央集権的な「評価基準」が変わってしまうことだ。評価者も入れ替わる。学問は10年やそこらで完成するものではない。にもかかわらず、数年で評価基準が変えられたら、世界をあっと驚かせる企みに満ちた学問など成り立たない。数値は中央集権システムでしか必要ではない。マンクーゾは、こうした仕組みを作ることでしか組織を動かすことができない人間の、植物に対する劣位を主張しているように思える。

 マンクーゾは、植物学者として、さらに中央集権的な組織の代替案を提示する。

 実際、少なくともヨーロッパでは、植物モデルにしたがって組織された構造は、しばらくまえから存在している。それは“協同組合”である。協同組合はヒエラルキーのない組織で、全組合員が組織を支えている。具体的には、個々の組合員が資産を所有する権利をもつ。組合員一人ひとりが自由な考えで投票する権利をもつ、だれもが組合員になれる、など。このような構造の特徴により、協同組合は、外的または内的な危機に対して、より大きな抵抗力をもつ。[5]

 さすがに協同組合の影響力が強いイタリアの植物学者の言うことは一味違う。株式会社のように株に応じて投票数が決まるのではなく、出資額にかかわらずひとり1票というのが協同組合の特徴である。そもそも、19世紀半ばにドイツで生まれたこの組織は、乱高下する作物や生産資材の価格から自分たちを守るために、組合員で資金を出し合って共同購入・共同出資する仕組みである。

 もう一つの植物的組織のモデルが、インターネットである、とマンクーゾはいう。マンクーゾは、植物の根の張り方とインターネットの広がり方も似ている、と繰り返す。ちなみに、地質学者のデイヴィット・モントゴメリーと生物学者のアン・ビクレーの『土と内臓--微生物がつくる世界』(片岡夏実訳、築地書館、2016年)は、植物の根は動物の腸と、過剰な糖分を土壌や腸壁にばらまき微生物とギブアンドテイクの関係を結んでいるところが似ている、と指摘する。そういえば、腸内を動くあの物質は、土壌のように生命の死骸や水分に満たされており、腸の発達した動物はそこに無数の輪状ヒダと腸絨毛という根を張り、いろいろな物質を分泌しては、養分を吸い取るのである。

 そう考えると人間は、腸に根を貼る移動型植物である、とまではマンクーゾは言っていないが、私はそう考えている。以前、『建築雑誌』に「『たてもの』と『たべもの』――根から考える」という論考を掲載したことがあるが、ここでも人間を「内臓の上に根を張って育ってきた、『たべる』という動きの連なりによって成り立つ『たてもの』なのである」と論じたことがある。

 こうした議論から、動物論が一斉を風靡する以前の哲学、たとえば、ドゥルーズとガタリのリゾーム(地下茎)とツリー(樹状)の対比と前者の肯定的評価を思い起こす読者も多いだろう。ただし、わざわざ「地下茎」と言わなくても、根そのものが、彼らの主張からすればリゾーム的なのである。

 マンクーゾは、根についてこう述べている。

 土壌を探査する根の活動を観察してみると、中枢神経系がないからといって根がでたらめに伸びているわけではないことがわかる。それどころか、根は、果たすべき役割のために完璧に設計されている。酸素、水、ほどよい温度や栄養物質のほんのわずかな兆しもキャッチし、実際にそれらが存在するところまで正確にたどっていくという驚きの能力をもっている。だが、いったいどうやって、どんな地形でも方向感覚を失わずに、必要なものを探り当てられるのかについては、謎に包まれたままだ。[7]

 マンクーゾは、植物の中でも根の動きが最も「植物性」を表していると考えているようだ。人間にはにわかには観察できない地中の暗闇での根の動き。この活動は、インターネットの理念に似ているのであるが、マンクーゾがきちんとインターネットの現在的な状況を批判していることも興味深い。

  ITを利用したニューエコノミーへ適切に移行するためには、協同組合のようなかたちが必要だ。ニューエコノミーのコンセプトは、少数の人の手に莫大な利益を積み上げていくウェッブ業界の巨人たちの理念と結びついているが、このまま放置していると、いずれ大惨事を招くだろう。したがって、組織の創造性と危機に対する抵抗力を高めるには、植物の脱中心主義構造を模倣するだけではなく、分散という新しい所有形態を考えるべきだ。[8]

 植物的に考えれば、インターネットは世界共有財産のインフラとして整え、無償ですべてのユーザーに与えられた方が効率的であろう。しかし、私たちは驚くべきことに、インターネットを使用するためだけに月に数千円も払っている。いま、私はシベリアの上空を飛ぶ飛行機の中で隣人のいびきをBGMにこのエッセイを書いているが、機内で一日Wi-Fiを使うと16ドル80セントも支払わなくてはならないらしいので、財布と相談しネットにつなぐのを断念している。「ウェッブ業界の巨人たち」が、電波や情報を独占し、広告のために顧客の情報収集をしているだけではなく、治安維持のためにその情報を警察に提供してきたことは、すでに、アメリカのアメリカ国家安全保障局 (NSA) と中央情報局 (CIA)で働いていたエドワード・スノーデンが、自分の安全と引き換えに全世界に向けて明らかにした通りである。中国は、国家がインターネットを管理し、国民が情報にアクセスすることが難しくなってきている。もちろん、日本も、個人の情報を警察がアクセスできる国になっている。インターネットを中央集権的に用いたことが、むしろ、インターネットを通じた自由なコミュニケーションを阻害し、その可能性を失わせる。そんな自分で自分の首を絞めるようなことをして、せっかく植物に似てきたこのシステムを破壊しようとしている。出町柳の根性松の目には、通行人の私たちはどう映るであろうか。

マンクーゾを超えて

 以上のように植物学者マンクーゾが提示した組織の理想型、すなわち「植物革命」は、人文・社会科学の思想潮流とも接続しており、興味深い。マンクーゾがドゥルーズとガタリを読んでいてもおかしくないが、読んでいなかったとしても、当然の帰結だと考えられよう。

 ただ、「植物的なもの」のポテンシャルを考える本連載のプロジェクトからすると、以上のようなマンクーゾの議論に留まることはできない。

 膨大な数の植物の根は、銘々好き放題に動き、最終的にはなぜか最適解に近づいていく。問題に対して逃げることができない植物は、膨大な感覚探知能力を持つことで、問題を受け止めていこうとする。

 しかし、人間社会の歴史は、富を集中しようとする一人の人間のあくなき欲望を、別の人間がコントロールできないことを証明してきた。少なからぬ宗教は、欲を捨て、私有観念を捨て、超越的なものを感じる道に精進するように、つまり、現世の欲を捨て去り、精神世界を探査するように勧めた。これは欲望の制御により植物性を高める試みだったと思うが、その倫理はしばしば欲深い宗教指導者や為政者の都合の良いように用いられもした。

 時代が下るにしたがって、他国よりも、他社よりも、他人よりも、平衡感覚を失ってでも利益を得ようとすることが、人間社会の原動力となってきた。権力欲や金銭欲はいうまでもない。性欲や食欲のジャンルでも、植物が必要としているものよりもさらに多くの欲を作り出そうとしてきている。原野が開発され新しい欲望を構築することは、とくに近代人間社会の条件にさえなったのである。そして、そのように欲望の中央集権的な開発が、逆に欲望の自由な発露を制限している。「ここで欲を開放してはなりません。こちらで開放願います」と中央集権的な組織は欲望の交通整理を始める。

 現在、とりわけ日本では「ニューエコノミー」のターゲットになっている協同組合も、そうした欲望の餌食になりつつある。「シェア」のために蓄えられた善意と金銭は、未来の危険に備えるためではなく、投機の対象になりつつある。マンクーゾの唱える「脱中心主義」と「分散」の実現は、あるいは「植物革命」の実現は、現時点で極めて困難であると言わざるをえない。では、どんなポテンシャルがいまなお植物の中に秘められているのだろうか。

 そのことを知るための糸口は、おそらく、植物世界が、人間社会に役立つか役立たないか、というような、そういう問いの立て方をやめることである。植物的なものを人間社会に生かすという態度自体には、依然として植物と人間は格が違う、という意識がぬぐいがたく存在している。植物の性質を擬態したロボットはたしかにイノベーションは期待できるが、「植物革命」のラディカルさには届かない。

 人類が、コメにせよ、ムギにせよ、トマトにせよ、樹木にせよ、物質としての植物を大いに利用してきたことはいうまでもないだろう。植物世界のユニークさについてこれまでにないほど人間中心主義から離れて、しかも、人間社会への深い理解とともに語ったマンクーゾでさえ、植物の「知性」がやがて一つの市場として使い尽くされることに対して、それほど意識的ではない。それでは、植物革命は革命的たりえない。

 この点で、私が重要だと思うのは、人間の外にある植物性を観察するだけではなく、人間の内なる植物性の痕跡を観察すること。つまり、人間に格納されている、あるいは後天的に知らず識らず侵入してきた植物性を、人間性と融合した密接不可分のものとして考えることである。

 だからこそここで私が考えたいのは、人間も含めた動物は、消化器官やそれに類するものに「根」を生やして、口から肛門までの消化器官を通り抜ける土壌から栄養を吸い取る「動く植物」である、という先ほど述べたイメージである。人間と植物の食べるという行為にはそれほど大きな違いがあるだろうか。

 もちろん、こうした人間の内なる植物性は、消化器官にだけ残されているわけではない。チャモヴィッツやマンクーゾが繰り返し述べているように、腸に、目に、鼻に、皮膚に、脳に残された植物の痕跡から、つまり、「人間」という概念を内なる植物性から打ち破る精神的な探検を、もうしばらく続けてみたいと思う。

  

[1]塚谷裕一『森を食べる植物――腐生植物の知られざる世界』岩波書店、2016年、56-57頁。腐生植物を世界各地で探る著者の思いに触れ、感激しながら読んだ。なお、腐生植物は、葉緑体を持たないで森のカビやキノコを食べて生きる植物であるが、大変美しく、また生きる戦略もしたたかだ。

[2]ステファノ・マンクーゾ『植物は〈未来〉を知っている――9つの能力から芽生えるテクノロジーの革命』久保耕司訳、NHK出版、182頁。

[3] 同上、160頁。

[4]同上、197頁。

[5]同上、197頁。

[6] 藤原辰史「「たてもの」と「たべもの」――根から考える」『建築雑誌』1713号、2018年、23頁。

[7] マンクーゾ『植物は〈未来〉を知っている』、170頁。

[8] 同上、197頁。

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著者略歴

  1. 藤原辰史

    1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『分解の哲学』ほか著書多数。


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