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〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史 畑中三応子

バブルの後にやってきた黒船――牛肉・米の市場開放

 1980年、農政審議会が「栄養的観点からも総合的な食料自給力維持の観点からも日本型食生活を定着させる努力が必要」と提言し、カロリーの摂りすぎ、とくに動物性脂肪の摂りすぎを食い止め、成人病増加を防ぐことが栄養政策の要になった。

 ところが、そうは問屋がおろさない。80年代の食は、正反対の方向に突っ走っていった。

グルメブームの幕開け

 私はファッションのように消費される流行の食べ物や、その現象を「ファッションフード」と呼んでいるが、80年代からバブルの余韻が残る90年代の前半にかけては、まさにファッションフードの全盛期。インターネットの登場以降は、流行が拡散し、中小ヒットが繰り返されるようになるが、あの頃のファッションフードは集中と規模からいって、本当に華々しかった。

 海外から新しい食べ物が次から次へとやって来てブームを引き起こし、食をめぐる風俗はますます多様化し、高級志向や本格志向も顕著になった。とくに85年のプラザ合意で円高が進み、輸入食品が割安になってからは、拍車がかかった。いくら日本型食生活を説かれても、馬の耳に念仏である。

 そもそも80年代初頭、最初にブームを起こしたのが、フランス料理だったことが象徴的だ。明治政府の欧化政策で外交儀礼と宮中行事の正餐に定められ、伝統的な本膳料理や懐石料理を差し置いて食のヒエラルキーの頂点に立ち続けた、舶来信仰と高級料理の代名詞である。

 そのフランス料理が、ついにだれの手にも届くファッションフードになった。いまに続くグルメブームの幕開けである。グルメという言葉自体が、フランス料理の流行で知られるようになり、急激に浸透して早くも86年に「B級グルメ」が出現した。

競うように使われた輸入高級食材

 フランス料理ブームのきっかけは、現地で修業した料理人が帰国して、待場にレストランを開いたことだった。それまで、フランス料理といえば格式高いホテルのメインダイニングで食べるもので、客は社用が中心。いわばステイタスシンボルで、料理は旧態依然としていたが、うんぬんされなかった。対して、待場のレストランはシェフの腕と料理の新しさで勝負した。外食ではホテルのレストランと、そうでない店を「街場」と呼ぶカテゴリー分けがあるのでママ。

 2回目で書いたように、地産地消の料理にいちはやく取り組んだのは、フランス帰りのシェフたちだった。しかし、“本物のフランス料理”を作るためには不可欠的に重要だが、国産では賄えない材料が数多くあった。

 三大珍味と呼ばれるフォアグラ(強制給餌したガチョウまたはアヒルの肥大肝臓)、トリュフ(土中で育つキノコ)、キャビア(チョウザメの卵)を筆頭に、オマールエビ(英名はロブスター)、生食できるノルウェーサーモン、フランス料理では牛豚より格上とされる仔羊、鴨、鳩、ジビエなどの食肉類、ホワイトアスパラガスやフランボワーズなどの青果類、オリーブオイル、マスタードやヴィネガーなどの調味料、そしてワインとシャンパン……、挙げるときりがない。フランス料理の流行は、これら高級食材の輸入を増大させた。

 明治時代から、缶詰、瓶詰で輸入されていたフォアグラとトリュフは、生で空輸されるようになった。キャビアも塩味がマイルドで、食感がよりなめらかなチルド品が手に入るようになった。フランス人だってクリスマスや祝い事でしか食べないフォアグラ、名産地の仏ペリゴール地方で掘り出された1キロが15万円もする黒トリュフ、キャビアのなかでも最大で、トリュフよりさらに値が張るカスピ海産ベルーガ(オオチョウザメのキャビア)がレストランにあふれかえり、競うように使われた。

 天然資源が減少し、あの当時は自由に使えたベルーガは現在、入手自体が困難になった。仏ペリゴール産があまりに高価になったため、トリュフは安い中国産がたくさん出回っている。フォアグラは、動物福祉の観点から生産を禁止する国が増えた。あんな贅沢な料理は、二度とできないだろう。「1億総中流」は70年代だが、80年代は食に関してだけは上流気分に浸った「1億総グルメ」な時代だった。

成田空港が輸入水産物の「漁港」になった

 空輸の材料を求めたのは、フランス料理に限らない。航空機による水産物の輸入量は85年から急増した。もっとも多かったのが、マグロ・カジキ類で、次がウナギ、カニ、タイ、活エビ、サケ・マスの卵、サケ・マス類と続いた。成田空港は大量の水産物が運び込まれる輸入基地になり、「成田漁港」と呼ばれたほどだ。

 本格志向は、外食だけでなく、いたるところに現れた。嗜好品では、ビール、ウイスキー、ブランデー、チョコレート、クッキーの輸入量が飛躍的に伸びた。国産のマ・マーやオーマイで十分満足していた家庭のスパゲッティに、ディ・チェコやブイトーニ、バリラなど、イタリアのブランド品が使われるようになったのは、イタ飯ブームからだ。

 航空貨物扱いの食料品全体の輸入額は、85年の5億ドルから88年の18億ドルと、3年間で3倍半にも伸び、大部分が高級魚介類だった。88年、世界の魚介類総輸入額の30パーセントを日本が占めていた。動物性たんぱく質に占める水産物の割合が高いことが、日本型食生活の長所とはいっても、世界中から買い漁っていては、本末転倒だ。

 また、食料品輸入額は、85年の175億ドルから翌年はじめて200億円を突破し、88年は309億ドルと、3年間で約7割も増えた。円高と飽食の日本は、ほしいものなら世界中からなんでも手に入れられるグルメ王国になっていた。

 もっともバカバカしかった出来事は、バブル真っ盛りの89年に起こった「ボジョレー・ヌーヴォー・フィーバー」だ。毎年、11月の第3木曜日に解禁されるフランス産赤ワインの新酒で、はっきりいって、フランスでは安酒の部類である。それを世界でいちばん早く飲もうと(日付変更線の関係で日本はフランスより解禁が早い)、解禁日の深夜0時にカウントダウンで栓を抜くというお祭り騒ぎが各地で繰り広げられた。1分でも早く飲むため、バスを仕立てて成田空港に行く輩も大勢いた。フィーバーはバブルの崩壊で終わったが、夢よもう一度で、いまでも解禁日になるとスーパーやコンビニにも特設コーナーができるが、さすがに船便が多くなった。

 かくして89年、食料自給率(カロリーベース)は史上はじめて50パーセントを割り、49パーセントを記録した。

ついに市場に開放された輸入牛肉

 1991年4月、牛肉の輸入が自由化した。日米経済摩擦の焦点として、70年代からアメリカの要求と圧力が続き、日本側は「牛肉生産は戦略的産、自由化は未来永劫しない」「絶対反対」などと最初は強気だったが、ついに受け入れ、オレンジとセットで交渉が結着したのは88年。3年の猶予期間後の実施だった。高率の関税はあるが、輸入量の制限がなくなった。

 61年に大豆、63年にバナナや粗糖(原料糖)など25品目、64年にレモンなど2品目、71年にグレープフルーツなど20品目と、日本は農産物輸入自由化の扉を広げてきた。戦前から輸入に依存してきた大豆、日本は栽培に適さない果実類とは違い、牛肉とミカンは重要な農産物である。次は米の自由化かと、農業関係者は戦々恐々とした。

 それまでもアメリカ産やオーストラリア産の牛肉は買えたが、びっくりするほど安くはなかった。輸入牛肉は畜産振興事業団(現・農畜産業振興機構)が全量買い上げ、36社の指定輸入商社に販売するというシステムをとって市場の混乱を防ぎ、価格をコントロールしていたからだ。事業団は畜産物の価格安定や畜産業者の助成などを目的に設立された特殊法人で、国産牛肉との価格差を調整するため、輸入牛肉に60パーセント程度の調整金を上乗せして販売し、調整金は畜産関係団体、畜産農家の援助金などに使われていた。

 しかし、自由化で事業団の一元的輸入と調整金が廃止され、いくらでも、だれでも輸入できるようになり、新規参入会社は多岐にわたった。

 自由化前の関税は25パーセントだったが、自由化後は初年度が70パーセント、2年目は60パーセント、3年目は50パーセントと高率なので、調整金の上乗せがなくなっても、小売価格はそれほど変わらないだろうと予測された。

不況の救世主、牛肉食べ放題

 ところが、牛肉輸入自由化は、バブル崩壊後の外食の救世主になった。関税が50パーセントに下がった93年前後から、しゃぶしゃぶ、焼き肉、ローストビーフ、ステーキ、シュラスコ(ブラジル風バーベキュー)などの牛肉食べ放題店が、雨後の筍のように出現し、ブームが長く続いたのである。

 ほとんどの店が男女別料金で、時間制限を設けた。材料原価は高くても定額制をとるため客単価は一定水準を維持でき、時間制限のおかげで回転率も落ちない。店は損をしない構造になっていた。そのうえ、食べ放題店は食肉会社の経営が多く、在庫を一掃できるメリットがあった。

 とくに人気だったのが、庶民には縁遠かった高級料理のしゃぶしゃぶだ。90分で男性3000円、女性2000円が平均といったところで、当時はこの値段でありつけるのは奇跡だと感じたものだ。これが、しゃぶしゃぶが大衆化し、家庭の定番鍋料理にもなったきっかけである。

 焼き肉店は無煙ロースターが開発された80年から客層を広げてきたが、本格的に普及し、第2のファミレス化したのは、やはり自由化以降だった。通産省(現・経産省)の商業統計に、それまで「東洋料理店」に含まれていた焼き肉店が、単独の項目で登場したのは92年である。

 見通しに反して、牛肉の小売価格は着実に下がっていった。とくに安く売ったのは、「肉のハナマサ」などの食肉専門チェーンストアである。100グラム98円も珍しくなくなり、牛・豚・鶏の価格がほぼ同じになった。

 90年度は38万4000トンだった牛肉の輸入量は、2000年度に73万8000トンと、約2倍に増えた。2000年、国内産を合わせた牛肉供給量は110万3000トンに達し、史上ピークを記録した。90年代は、歴史上もっとも牛肉をたくさん食べた時期だった。「牛肉を腹いっぱい食べたい」という日本人の積年の夢が、自由化でとうとう達成されたのである。

 高度経済成長期の畜産は、伝統工芸品のような霜ふりづくりにひたすら専念し、和牛を世界でもっとも値段の高い超高級肉に変えてしまった。それはそれでよいとして、安くて旨い牛肉生産にも力を入れてほしかった。

全米精米業者協会から訴えられた日本の米輸入規制

 牛肉・オレンジよりはるかに大きかったのが、米の自由化問題だ。

 アメリカの対日貿易赤字が500億ドルに達した1986年、全米精米業者協会(RMA)が、日本の米輸入規制は「不公正な貿易取引慣行」として、アメリカ通商代表部に提訴し、米の市場開放を要求した。

 アメリカ政府は提訴を却下し、この訴えをGATT(ガット)のウルグアイ・ラウンドに持ち込んだ。GATTは、貿易の自由化を促進し、世界貿易の拡大をめざす国際協定。ウルグアイ・ラウンドは、86年から93年にかけて行われた多国間の多角的貿易交渉である。

 アメリカの稲作農家はわずか1万戸、全農家の1パーセントにも満たず、米は農業総生産額のわずか0.7パーセントと、零細な存在だ。もし自由化して日本人の米の消費量すべてを輸入したとしても、30億ドル程度にしかならず、貿易摩擦を解消するにはほど遠い。しかも、米は「国家貿易品目」として、GATTで非自由化を公認されている。にもかかわらず、ウルグアイ・ラウンドに引っ張り出したアメリカの強硬姿勢の背後には、EC(ヨーロッパ共同体)との穀物市場をめぐる対立があり、真の目的はECの農業保護削減だといわれた。

 域内に入ってくる農産物に対して輸入課徴金をかけるなどの輸入障壁を取り払い、アメリカの穀物を売り込むためには、まず圧力をかけやすい日本から手をつけ、「聖域」として守ってきた主食の米を日本が開放したのだから、とECに迫る戦略だ。

基幹食糧でなくなったかもしれない米

 RMAが日本の米輸入規制を再度提訴した88年の9月、衆参両院が全会一致で自由化反対を決議し、当初は米完全自給論が大勢を占めたが、90年に入ると政財界や識者から容認の声が上がるようになってきた。

 実のところ、街の声は「安くておいしい外国の米が手に入るなら食べてみたい」「カリフォルニア米、おしゃれ」などと、いたってお気楽だった。しかし、農家にとって、安い外国産米の登場は大きな脅威。部分開放が濃厚になった91年の7月1日には、東京ドームで全国農業協同組合中央会(全中)主催の「米を守る緊急国民総決起大会」が開かれ、全国の農家や農協関係者5万人が一堂に会して「絶対阻止」「日本の食と農を守れ」を叫んだ。

 自由化反対派の最大の論拠は、食料安全保障だった。90年の穀物自給率は30パーセント、カロリーベースの自給率も48パーセントしかない日本が、主食の米まで輸入に頼るのは危険で、万一に備えて自給しなければならない。全農家の8割が米生産に携わり、総農業生産額の3割を占め、総摂取カロリーのうちの26パーセントを供給する米は、日本の基幹食糧だという考え方が基本だ。

 対して、自由化容認派は、総農業生産額の3割しか満たさず、農家の総収入に占める割合も3割以下、総摂取カロリーの26パーセントしか食べなくなった米は、はたして日本の基幹食糧といえるのかと、疑問を投げかけた。たしかに、米を保護しても、外国から食料の輸入がストップすれば、26パーセントの米だけでは飢えてしまう。90年の一人あたりの年間米消費量は約70キロと、戦後ピークの62年から40キロ以上も減っていた。

 米は日本文化の基礎、田んぼは日本の宝といわれても、数字の上からは米離れはたしかな事実。2019年現在は、さらに減って54キロくらいしか食べていない。

 よく考えたら、67年に完全自給を達成する前までは不足分を外米で補っていたし、GATTの規定に従って、非自由化を公認している品目でも要求される最低量(ミニマム・アクセス)はすでに輸入していたのである。「米は一粒たりとも輸入しない」と、強気を変えない政治家は、もはや農村票集めのポーズでしかなくなっていた。

絶好で最悪のタイミングで起こった凶作

 ウルグアイ・ラウンドが大詰めに入り、大幅の譲歩を迫られて市場開放は避けられない様相を見せていた93年、日本は凶作に見舞われた。93年は8月に細川政権が成立して自民党が下野し、38年続いた55年体制が終わった年でもある。絶妙というしかない、絶好かつ最悪のタイミングだった。

 93年は、記録的冷夏だった。太平洋高気圧の張り出しが弱く、逆に冷たいオホーツク海高気圧が居座り、梅雨前線がなんと8月下旬まで停滞、東北地方に「やませ(梅雨から夏にかけての冷たく湿った北東の風)」が吹いた。異常低温と長雨による日照不足で、イモチ病が大量発生し、そのうえ台風が連続で6つも襲来した。8月時点ですでに、米の不作は明白だった。

 ところが農水省が、8月末に発表した作況指数は95。例年より「やや不良」の数字である。食糧庁も、「10月末には400万トンが集まり、昨年産の35〜45万トンがあるから、不足にはならない」と、楽観的だった。それが1ヶ月後、「著しい不良」の80に大幅修正された。当時の米の生産量は、消費量と同じ1000万トン。生産量が800万トンなら、200万トンが不足することになる。

 やませの影響が甚大だった青森県十和田地区の作況指数は、80どころか4、例年の4パーセントしか収穫がなかった。それ以下の、皆無作の地区もあった。そこで青森県では、夏から凶作を見越して農家みずから米の買いだめに走り、その動きは農家以外にも波及して、10月上旬には店頭から米が消えた。昔の農家は凶作に備えて1年から2年分は蓄えていたが、その習慣はすでに途絶えていたのである。

凶作の前から破綻していた米の需給

 作況指数80が発表された直後、政府は冷害対策懇談会を開き、米の緊急輸入を決めた。外圧ではなく、日本側から輸出国に米を売ってくれるようお願いすることになったのである。

 全中は米の適正在庫を200万トンと主張してきたが、農水省は過剰在庫の発生による財政負担をおそれ、政府米の在庫を100万トンに削減した。ところが91年は作況指数が95の不作だったため、在庫が100万トン割れしてしまい、あわてて92年秋、翌年から3年間の減反を、予定の年87万ヘクタールから67万6000ヘクタールに緩和していた。しかし、いったん転作した農家は、稲作には戻らなかった。生産者米価が低く抑えられ、減反が続くと予想されるなかで、いきなり米を作れといわれても従えないのは当然だ。

 そんなわけで、凶作の前から、米の需給政策はもう破綻していた。減反政策で兼業がさらに増え、農家が培ってきた米作りの技術と知識と経験、そしてなにより意欲が失われていたことも大きい。また、栽培が消費者の好む味の品種、とりわけコシヒカリに偏り、寒さに強い品種がないがしろにされていた。凶作の備えに効果的なのは、多様性のある品種の栽培だ。

「一粒たりとも輸入しない」といい続けた米基盤の食料安全保障が、いかに脆弱なものかを露呈したのが、この凶作だった。それに、不作だからと減反を緩和しても、いったん使われなくなった田んぼは荒れ、また収穫できるまで復旧するには数年かかる。その間に豊作が続くとまた米が余り、再び減反が実施され、もしまた冷害が起こったら、また足りなくなる、が繰り返されるだろう。まったく場当たり的だ。1年分の備蓄もないなんて、安全保障もあったもんじゃない。

混乱のまっただなかに決まった米の部分開放

 天災というより、人災の側面が大きかったのにもかかわらず、戦後最悪の凶作、いや百年ぶりの大凶作だと騒がれ、天明・天保の飢饉になぞらえられた。多数の餓死者を出した江戸時代の飢饉にたとえるのは、いくらなんでも大げさだが、米離れしているように見えても、やっぱり日本人の米に対する執着は強かった。

 凶作でひと儲けしようと企てた輩も現れた。10月に発生した米の盗難事件は100件を超え、一攫千金を狙い、ヤミ米業者が大量の買い占めに走ったりした。

 こうした混乱のさなか、1993年12月15日のウルグアイ・ラウンド最終交渉期限を目前にした14日、日本政府は議長からの調整案を受け入れ、米の部分開放が決まった。細川護熙首相は国会で「苦悩に満ちたなかで最終的な決断」と語ったが、首相を模した藁人形を焼く農業団体まで現れた。米の怨みは恐かった。

 とはいえ調整案は、日本の主張がかなり盛り込まれた内容だった。アメリカが要求し、一貫して日本が拒否してきた「例外品目なき関税化」は合意されたが、95年から6年間は関税化を行わない特別措置が米に適用されることになった。二国間交渉で、アメリカが譲歩したといわれる。ただし、非関税のミニマム・アクセス米は国内消費量の4パーセントから8パーセントへ、毎年0.8パーセント増やすことが義務づけられ、6年間の猶予後に特別措置を継続しない場合は、関税化に移行することになった。

778パーセント! 超高率関税がかけられた

 時計の針を先にまわすと、1995年に食糧管理法(食管法)が、食糧法(正式名称は「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」)に移行した。従来の食管制度はヤミ米(制度上は存在しないはずの不正流通米。自由米とも呼ばれた)が標準米を超え、自主流通米と同程度の量になるなど、すでに形骸化していたが、海外からの米輸入が決定打となり、戦中の42年に施行されて53年間しぶとく生き延びてきた制度が、やっと廃止されたわけだ。

 これで政府が管理するのは、備蓄と価格の安定に関与する計画流通米だけになり、ヤミ米は計画外流通米として認められるようになった。政府による米の全面管理は終わったはずだが、減反政策は政府主導で2018年度まで続いた。

 米の関税化は6年の猶予期間を待たず、99年4月からはじまったが、1キロあたり351円17銭、翌年からは341円という法外な関税がかけられた。関税率に換算すると、なんと778パーセント。関税化でだれでも自由に米を輸入できるようになったが、こんな超高率の関税を払う輸入業者がそうそう出てくるはずはない。ミニマム・アクセス以外の輸入は、リゾットに最適なイタリア産カルナローリ米とか、パエリア用のスペイン産バレンシア米、タイの香り米ジャスミンライスなど、高付加価値の高級米にとどまった。

 安い国産米なら10キロが3000円で買えるのに、関税だけで3511円だから、現地価格で10キロ500円のタイ米が、日本のブランド米並みの値段になる計算。日本の米を守るためとはいえ、勇気と根性のある数字である。なお、ミニマム・アクセス米の輸入は、関税化で8パーセントから7.2パーセントに削減された。

「平成の米騒動」が引き出したのは国産米愛

 さて、凶作で食糧庁は190万トンを外国から買い入れることを決め、最終的に254万トンも契約した。93年の作況指数は9月の発表よりさらに下回って74だったが、これだけ輸入すれば、不足はないはずだった。

 ところが、緊急輸入した米が到着し、本格的な販売が開始する3月を前に、2月から全国各地で米穀店やスーパーに開店前から行列ができて、開店と同時に国産米を買いに走るという光景が繰り広げられ、一時は店頭から米が完全に消えてしまった。オイルショックのトイレットペーパー買い占め現象の再来だ。ヤミ米ブローカーが暗躍して、コシヒカリ10キロに1万円以上の値がついても、飛ぶように売れた。

 買いだめや売り惜しみのあまりの横行に、食糧庁は3月15日、国産米は輸入米とブレンドするか、輸入米とセットでないと、売ってはいけないという通達を出した。

 ブレンド米は、最悪の策だった。食味の近い中国米やカリフォルニア米、オーストラリア米ならまだしも、粘りの強いジャポニカ種の国産米と、正反対に長細く粘りけの少ないのが特徴のインディカ種のタイ米を混ぜるなんて、だれが思いついたのか、絶対にマッチするわけがない。これで騒動は、もっと大きくなった。

 いちばん気の毒だったのは、タイ米だ。炒飯やカレーには適しているが、和食にはなじみづらいうえ、さまざまな事情から輸出されたのは主食用の一級米ではなく、加工用の米だった。せっかく日本の要請にいち早く応えてくれたのに、「まずい」「臭い」「パサパサする」、はては「ネズミやゴキブリの死骸が入っている」「異物が混入して危険」などと、さんざんなバッシングに遭ったのである。

 一方で、タイ米のおいしさを生かす調理法が、テレビや雑誌でさかんに紹介された。騒動が予想より早く治まって実現しなかったが、私にもレシピ本を作る依頼があった。

 4月になると、米パニックは沈静化し、7月14日、食糧庁は国産米単品販売を解禁した。実際は、通達が出てから小売店が単品販売禁止を守ったのは短期間で、なし崩し的にコシヒカリやササニシキ、あきたこまちの袋が並んだが、国は見て見ぬふりでまったく取り締まらなかった。

 米騒動と呼ばれても、大正時代の米騒動のように、米を買えない貧しい民衆が起こした運動とは本質的に違う。不自由した人は少なく、煽られたのは異常なまでの国産米志向だった。

 安全性や衛生面でのタイ米バッシングは、ほかの外国産米にも広がり、国産なら安全・安心という米のメイド・イン・ジャパン信仰が急激に高揚した。とりわけ人気が集中したコシヒカリは、偽装事件が頻発した。他国の米への悪評や攻撃から、自国の米への愛が深まったなんて、身もふたもないナショナリズムだ。凶作は、日本人のしょーもない姿を思いっきりさらした。

 93年度の自給率は、戦後最低の37パーセントに落ち込んだ。高度経済成長期から右肩下がりだった米の消費量は、あれほど国産米への愛が炸裂した凶作以降も、着実に下がり続けていく。

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著者略歴

  1. 畑中三応子

    1958年生まれ。編集者・ライター。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。『シェフ・シリーズ』と『暮らしの設計』(ともに中央公論新社)編集長を経て、プロ向けの専門技術書から超初心者向けのレシピブックまで幅広く料理本を手がけるかたわら、近現代の流行食を研究・執筆。著書に『カリスマフード――肉・乳・米と日本人』(春秋社)、『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか』(ベスト新書)、『ミュージアム・レストランガイド』(朝日新聞出版)、「七福神巡り――東京ご利益散歩」(平凡社)、『おやじレシピ』(オフィスSNOW名義、平凡社)、共著に『東京バスの旅』(文春新書)がある。第3回食生活ジャーナリスト大賞(ジャーナリズム部門)受賞。

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