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人と鳥の文化誌 細川博昭

鳥食文化

1 鳥の狩猟とジビエ

 

◆人間と鳥食

 人間はこれまで、羽毛を中心にさまざまな形で鳥を利用してきた。
 鳥の肉やその卵を食べる「鳥食」という行為も、厳密には次回(連載最終回)の「鳥の利用」に含まれるテーマなのだが、鳥食や、そのための鳥の家畜化(=家禽化)には、人類(ホモ・サピエンス)が現在まで生き延びてきたことにおいて、とても大きな意味があったことから、独立したテーマとして扱いたいと思う。

 人類が誕生して以降、文字どおり鳥は、人間に「その身」を与え続けてきた。そしてそれは、途切れることなく、今も続いている。その事実をあらためて実感できる問いとして、「地上に暮らす脊椎動物の中で、もっとも数の多い種はなにか?」というものがある。
 鳥類の中なら、答えはまちがいなくニワトリ。哺乳類で最大とされるネズミ類のどれか(ドブネズミなど)と比較しても、総数で勝っているかもしれない。
 この瞬間も、全世界で200億羽という数のニワトリが飼育されていて、その恩恵を人間に与え続けている。ちなみに野生種でもっとも数が多い鳥はコウヨウチョウで、約150億羽がアフリカに生息している。

 家禽と呼ばれる鳥たちの筆頭は確かにニワトリだ。だが、食肉や採卵を目的に品種の改良が行われ、人間の身近に暮らすようになった鳥はニワトリだけではない。
 加えて、人類が文明化する以前から、長く狩猟の対象となってきた鳥もいる。
 そんな鳥たちとの関わりを、少し詳しく紹介していきたい。まずは狩猟鳥から。

 

◆毒のある鳥はごくわずか

 人類の歴史は、「飢え」との戦いの歴史でもある。飢えた人々は、生き延びるために魚介はもちろん、捕獲できる鳥獣も片端から捕らえて食べ、木の実や果実、茸などの菌類も食べてきた。昆虫類も同様である。
 大型の哺乳類と比べて、捕獲時に、より危険が少ない鳥類は、狙いやすい獲物でもあったため、世界各地で捕獲され、重要なタンパク源とされた。
 鳥の肉には人体に有害な成分は含まれておらず、どの鳥を食べても「安全」と信じられてきたことも大きい。古代においては、捕獲しやすいか、肉の量が多いかだけが重要とされた。

 なんと、地球には毒をもつ鳥も存在していた、という予想外の事実が明らかになったのは、20世紀も末の1990~1992年のこと。ニューギニアで、肉および羽毛に、ヤドクガエルがもつバトラコトキシンと同系の毒「ホモバトラコトキシン」をもつ鳥が発見されたのだ。
 『史記』ほかの中国の古記録には、「ちん」という名の毒鳥の羽毛が暗殺に使われたという話があり、その情報は中世~近世の日本にも伝わっていた。しかし、それは単なる伝説であり、実際の暗殺には別種の毒が使われたのだろうと、長いあいだ毒のある鳥の存在を本気で信じる者はいなかった。だが、「ピトフーイ」という名が与えられたニューギニア産の毒鳥グループの発見で、にわかに現実味を帯びることとなる。

 なお、ピトフーイの生息域に暮らす人々は、これらの鳥が食用に適さないことを以前から熟知しており、捕獲もしていなかったという。おそらくそれは、過去に食べて苦しんだ人から教訓として伝えられた生活の知恵だったのだろう。

 といっても、毒のある鳥が生息しているのはアジアの島嶼部のごく一部であり、種類の点でも鳥種全体の0.1パーセント以下に過ぎず、また、アジアの大陸部を含めたほかの地域に棲む鳥にはなんの問題もないことから、この鳥たちが「鳥食文化」に与えた影響は、実際にはきわめて小さい。そのため、毒のある鳥についてはひとまず解説の本筋から切り離して、あらためて人類が食べてきた鳥について眺めていくことにしよう。

 

◆古代の食事の中の鳥

 古代の日本に目を向けるなら、縄文時代に生きた人々が、カモ類、キジ類を中心に、カイツブリ、アホウドリ、カモメ、ウ、アビ、サギ、ツル、カラスなどを食べていたことが、食事後に骨や貝殻を捨てた貝塚などの遺跡からの出土物によって明らかになっている。

 例えば、縄文時代前期の遺跡である富山市の小竹おだけ貝塚からは、キジ類やカモ類、カイツブリの骨が出土し、同じく富山県の朝日町境A遺跡からも、カイツブリ、アホウドリ、カモメ、ヒメウなどの骨が出土している。
 青森県の三内丸山遺跡から出土した食痕のある鳥類の骨においても、その80パーセント以上がハクチョウを含めたガン・カモ類だった。ほかにウやアビ、アホウドリの骨が出土しているが、その数は少数である。茨城県ひたちなか市の三反田蜆塚しいづか貝塚から発掘された鳥の骨の多くも、ガン・カモ類だった。

ハクチョウとカモ

 ガン・カモ類やキジの仲間は一般に体が大きく、そのため小型の鳥に比べて肉が多くとれた。特にカモ類については、秋になると決まったルートで多数が日本に渡ってきていて、その習性を把握していれば比較的捕獲がしやすかったことなどから、多くが食料となった。
 なおこれは、古代の日本に限ったことではなく、世界の多くの地域に共通することでもある。

 食べることを目的に捕獲した鳥の中には、おせじにも美味しいとはいえない種もあったはずだが、捕獲者は飢えて死ぬよりましと、その肉を食べることを選んだ。
 一方で、エジプトやメソポタミアで文明が興って以降、王や貴族を中心とする社会の上層(=富裕層)は飢えとは基本的に無縁であり、逆に嗜好品の延長として、珍しい鳥獣の肉を求めるようになった。

 ポーラ・ヤング・リーの『ジビエの歴史』(堤理華訳/原書房)によれば、ローマ帝国の人々はフラミンゴやオウム、クジャク、カッコウまで食べた。カッコウを美味と評したのは『博物誌』の著者プリニウスである。アリストテレスはタカの肉を好んだとされる。

 ジビエ料理の原点のひとつはローマにあるといわれるほど、ローマ人は野生の鳥獣を好んで食べたことがわかっている。

 

◆ジビエのもつ意味

 「ジビエ」というのはもともと、猟をして得た野生の鳥獣の肉を食べることを意味するフランス語だった。これをそのまま日本語に訳すと、「狩猟鳥獣食」となる。
 封建社会のヨーロッパ貴族は、定期的に自身の領地で狩りをした。そこで得た鳥獣を使った料理こそが、ジビエ料理だった。そのため、近世までの「ジビエ料理」は貴族社会の伝統料理であり、庶民が口にすることのできない高級料理という位置づけだった。

 その後、ジビエを味わう行為は庶民層にまで浸透し、「ジビエ」が意味するものは、ハンターによって捕獲された野生動物の肉を食べること、という意味に修正されて今に至っている。今やジビエ肉の愛好家は、世界各地にいる。 

 中世以降、ジビエ肉となった野禽は、マガモを中心としたカモ類、ヤマウズラ、コウライキジや日本産キジを含むキジ類、ライチョウ、ヤマシギ、ハト類、ノガン、ウズラ、オウム・インコ類ほかだが、地域によっては、さらにさまざまな種が食卓に上がってきた。

 日本やヨーロッパ、アメリカで食べられた鳥のうち、いわゆる小鳥サイズのものとしては、ヒバリやツグミの名も挙がる。
 それを象徴するのが、フランス民謡、童謡の「ひばり(Alouette)」という曲だ。
 「ひばり」は18世紀ごろから伝わるフランスの曲だが、実際にこの曲がつくられたのはカナダのフランス語圏で、それがフランスに逆輸入されたかたちとなっている。
 この曲においてヒバリは、「ひばりさん、羽をむしってあげましょう」という歌詞のもと、子供の手で、頭から嘴まわり、頬や目のまわり、首、背中、翼と、順番に羽毛がむしられていく。

 背景を知らない人からは「怖い曲」というイメージももたれがちだが、タネを明かすと、今夜のごちそうとなる、捕まえたヒバリの羽毛をむしることを母親に命じられた子供が、熱心に指示された仕事をしている歌で、ジビエ料理の準備過程を示したものとされる。
 芋の皮むきや、もやしの鬚根を取るように命じられた子供に準じる作業で、野生の鳥を食べる文化の中で誕生した「子供のお手伝い」の歌なのである。

 なお、この曲からは、そこそこ裕福な家庭と、そこで暮らす子供の姿が透けて見えるが、家の経済状況によっては、わずかな肉しか取れないヒバリ一羽が、その夜の一家の食事内容のすべてであるケースもあったはずだ。
 ポーラ・ヤング・リーは、ポーランドの伝統料理のレシピの紹介を通して、ジビエが進んだのは口が肥えた富裕層が「珍しい味」を求めたことに加えて、貧困層が「とにかく今、食べられるもの」を求めた両面の結果であると指摘する。
 人類の鳥食文化は、飢餓と飽食という両極端の状況における、その両端からのアプローチの結果として誕生し、維持されてきたという主張には、強い説得力がある。

ヒバリ(服部雪齋『華鳥譜』)

 

 

2 食べるための品種改良

 

◆ニワトリとハトの二面性

 人間によって多数が飼育される鳥、家禽。
 現在、家禽と呼ばれるのは、主に肉をとることを目的に飼育されている鳥たちだ。

 家禽の歴史は古く、多くは文字による記録のない時代に始まっていることから、家禽化された時期や経過が正確に把握されていないことも多い。はっきりしているのは、その家禽がどの野生種からつくられたかということと、利用の目的だけである。

 「鳥と暮らす、鳥を飼う」の回でも示したように、鳥が家禽化された目的は、食用として肉や卵を採るため、愛玩飼育をするため、それ以外、の3つに分類することができる。
 ただし、この3つは完全に独立しているわけではなく、2つ以上が並行してあった例もあり、さらには家禽化された後に目的が変化したケースもあった。

  目的が変化した鳥の最たる例がニワトリだろう。今でこそ食用として最大の飼育数を誇るが、ニワトリが人間と暮らすようになった当初は、食用よりも、3番目の目的にあたる神事、「占い」などに活用された。
 さらには、雄鳥(オンドリ)が朝に鳴く性質をもっていたことから、多くの土地で「朝を招くもの」、「魔を払うもの」として大切にされた。ヨーロッパにおいて、家屋の屋根の上に取りつけられた「風見鶏」がニワトリの姿をしているのも、こうした思想によるものである。
 また、護りの存在という見地から、風見の鳥をニワトリにするように最初に指示を出したのはローマ法王で、9世紀のことだという。

 ニワトリは家の庭にいるだけで「守護」の力を発揮すると信じられ、これといって特別な役割を与えられることもなく、庭でつがいが飼育されていた例もある。ただし、その場合も、産み落とされただけで孵化する可能性のない卵が食卓に上がることはあった。

  アンドリュー・ロウラーは、ゾロアスター教徒のペルシア人ほど、ニワトリに大きな役割を与えた古代の人々はいないだろうと指摘する。そして、著作『ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥』(インターシフト/熊井ひろ美訳)において、「雄鳥は悪霊と魔術師に対峙させるために創造された」というゾロアスター教の言い伝えを紹介する。
 さらに、「雄鳥が鳴くと災難の発生が防がれる」、「雄鳥の鳴き声には怠惰の悪霊を追い払う力があるので、雄鳥が鳴くと、人々は夜明け後も続くまどろみから解放される」という宗教的思想を解説する。
 そうした思想を背景に、この鳥を聖なる存在とみなしたゾロアスター教は、信徒に対し、ニワトリを食べることを明確に禁止した事実がある。

 宗教的な聖鳥としてニワトリを食べなかった地域は確かに多い。だが同時に、ニワトリを戦わせることで未来を占ったり、さらには娯楽としての闘鶏を行った地域も実は多い。
 古代から中世の日本においても、ニワトリを戦わせて、その結果をもとにこの先に起こることを占ったり、行動の方向性を決めることがあった。

 ただ、そうした陰で、食用に向けた歩みが着々と進んでいたこともまた事実である。
 アリストテレスの『動物誌』第6巻の1章に、「アドリア海沿岸のニワトリは型は小さいが、毎日(卵を)産む。しかし、気難しくて、しばしばひなを殺す。このニワトリにはあらゆる色がついている」という文章がある。
 現代のニワトリのように毎日卵を産む多産の鳥は、『動物誌』が書かれた紀元前4世紀にはすでにつくられていたことを、この文章は示している。また、同時期に、より羽毛の色が鮮やかになるような品種改良が行われたことも、ここから読み出すことができる。
 このほか、アリストテレスが生きた時代のエジプトでは、堆肥が発する熱を使った鶏卵の人工孵化も行われていた。『動物誌』の第6巻2章に、この事実を伝える記述が見える。

 ニワトリと同じく、古くから人間のそばで暮らしてきたハト。
 カワラバトが改良されて伝書鳩になった経緯については「鳥と暮らす、鳥を飼う」でも触れた。伝書鳩は古代のエジプトやバビロニアで利用されたほか、ローマ帝国では最速の通信手段として領土の維持に活用された。
 一方で、この時期のローマにおいては、伝書鳩として使役されたハトのほかに、食用のために飼育されていたハトもいて、貴族の食卓に上がっていたことがわかっている。

 ハト

 

◆ウズラの家禽化

 ウズラは数多いる家禽の中、唯一日本で家禽化された鳥である。
 飼い鳥が大きなブームになっていた江戸時代、ウズラはウグイスとならぶ飼育鳥の中心的存在であり、ウグイスと同様に鳴き合わせの会も開かれ、声の優劣が競われていた。
 飼育者が愛ウズラを巾着袋に入れて町に連れ出し、友人・知人に自慢するようなことも行われ、そうしたウズラを指す言葉として「巾着鶉きんちゃくうずら」という呼び名も生まれた。このように、「愛玩」が、日本でウズラが家禽化された目的だった。

ウズラ(服部雪齋『華鳥譜』)

 

 実は同じ江戸時代、ウズラは食用にもされている。
 だが、現代人が部屋で飼育するペットのウズラやニワトリを食べたりしないように、この時代の人々も、愛玩しているウズラを食べてはいなかった。食べられたのは、別途、捕獲された野生のウズラである。野生のウズラは鷹狩りの対象にもなっていて、タカが捕らえたウズラや罠で捕まえたものが食用とされた。
 ウズラは鳴禽ではなく、その声質は遺伝的な要素に強く影響される。それゆえに鳴き合わせで勝てる「声のよいウズラの血統」が重宝された。勝てる鳥は高価で取り引きされたこともあり、財産でもあるそんな鳥を食べるなど、考えられないことだったにちがいない。

 明治時代の後半、ニワトリよりもウズラの卵の方が栄誉価に富むことが当時の研究者によって報告されると、多くの卵を産むような改良がウズラに施された。
 声がよいウズラの血統は、維新の荒波の中、幕末から明治の初期に完全に途絶えてしまっていたが、ウズラの飼育自体はその後も細々と続いていたようで、採卵用のウズラはそうしたウズラを母体として大正時代の初期に誕生したことがわかっている。なお、現在、イギリスにも採卵目的で飼育されているウズラがいるが、彼らは日本から運ばれた日本由来の鳥の子孫である。
 一方、アメリカの家禽ウズラはコリンウズラなど北米産のウズラを飼い馴らしてつくられたもので、日本やイギリスのものとは別種となっている。

 ウズラは日本人が家禽化した唯一の鳥という事実は、現在、世界で認められている。だが、それに異論がないわけではない。
 中国の前漢の時代などに、ニワトリの闘鶏のようにウズラを戦わせる闘鶉とうじゅんが幾度か行われていて、闘うウズラを増やす目的で中国で家禽化されたことがあった可能性が指摘されている。ただし、そうであったとしても、そのウズラの血統は短期間で絶滅し、現代に残ってはいない。

 

◆家禽化されたそのほかの鳥

 肉や卵を食べる目的で家禽化された鳥としては、ほかに、ガチョウ、アヒル、バリケン、シチメンチョウ、ホロホロチョウなどの名を挙げることができる。
 多くの場合、より肉の量が増える方向に改良が進められた。もちろん、多くの卵が採れるように行われた改良もあった。
 ただし、より味の良い肉や卵になるような改良や、肉や卵をさらに美味しくするための食餌が研究されるようになったのは、ここ数十年のこと。美食を求めたローマ人がそれを試みた可能性はあるが、その事実を示す十分な証拠は見つかっていない。

 

【ガチョウ】
 ガチョウには、ハイイロガンをもとにエジプトで作出されたガチョウと、サカツラガンをもとに中国で生み出されたシナガチョウの2種がいる。
 ヨーロッパで広く飼育され、高級食材のフォアグラにもされているのはハイイロガンから生み出された方。ともに、家禽化されてから四千年が過ぎている。また、肉だけでなく、羽毛が羽布団やダウンジャケットの材料として使われているのも両者に共通すること。

 ガチョウもよく人に馴れ、家族と見知らぬ人の顔を見わける高い認知能力をもつ。
 そして、見知らぬ相手に対して金属的な響きのある大きな声で警戒音を叫び、さらに嘴で執拗に攻撃する習性もある。そのため、家で飼育されていたガチョウが、番犬のような「番ガチョウ」の役目を担っていた例もあった。

 ガチョウ(写真提供:神吉晃子)

 

【アヒル】
 マガモをもとに生み出されたのがアヒル。アヒルといえば白い鳥がイメージされがちだが、原種に近い色合いの個体もいる。家禽化は中国がもっとも古く、紀元前1000年頃にはつくりだされていたようだ。人間が文明をもつ以前から、マガモを中心としたカモ肉が大量に食されてきたことからも、家禽としてアヒルが誕生したことは必然だったといえる。
 なお、アヒルが飼育されている地域は、基本として、アジアの稲作地帯に重なる。中国南部からタイやラオスを経てバングラデシュにいたる稲作地帯では、いにしえより、田にアヒルを放して雑草や害虫の駆除を行ってきた。アヒルは農業の一部も担ってきたのである。
 マガモやカルガモとアヒルの交配種であるアイガモを田に放して稲作を行う「アイガモ農法」の原型をここに見る。アイガモに、祖先のアヒルと同じことをやらせているのだ。

 ちなみにアヒルは、戦前の日本においても広く飼育されていて、特に関西地域の田の周囲で見かけることが多かったと『鳥と人』(文藝春秋)の中で小松左京が指摘する。
 実際に、「南大阪の都市河川や、水田地帯の用水池や灌漑水路に、白い、いわゆる『大阪種』のアヒルの群れがうかんでいるのを見た記憶がある」と語り、畦道を尻をふりふり歩いてくる光景も見たことがある、と綴る。
 かつての日本では、今よりもアヒルを目にする機会が多かったことを、回想の文章を通して生々しく伝えてくる。作家による、こうした体験からの指摘も、貴重な情報となる。

 アヒル(写真提供:永井陽二郎)

 

【バリケン】
 ガン・カモ類から生み出された鳥としては、ほかにバリケンがいる。原種は中南米に生息するノバリケンとされ、もともとその地で暮らしていた人々の手で家禽化された。日本では主に沖縄県で食用の鳥として飼育され、現地では「観音アヒル」とも呼ばれている。

 

【シチメンチョウ】
 アメリカにおいてクリスマス料理の定番となっているシチメンチョウは、もともと北米原産の鳥で、西洋人が入植する以前の、今から二千年ほど前に、中央アメリカ先住民の手で家禽化された。

 
白シチメンチョウ(改良品種)

 

【ホロホロチョウ】
 ホロホロチョウはアフリカ赤道部から南部にかけて広く分布するキジ目の鳥。最初に食用目的で飼育を始めたのはギリシア・ローマだが、ニワトリのようには広まらず、その飼育はいったん途絶える。
 再家禽化されたのは、16世紀にポルトガル人があらためて西アフリカからヨーロッパに持ち込んだ後のこと。その後、品種改良され、ヨーロッパ人になじみの鳥となっていった。
 ちなみにホロホロチョウの英名は、「Guinea fowl(=ギニアのニワトリ)」。江戸時代の日本にも運ばれて絵師がその姿を記録に残しているが、その鳥たちもアフリカから直に持ち込まれたのではなく、オランダで改良された鳥が運ばれたと考えられている。

 
ホロホロチョウ(写真提供:中曽根ひろ子)

 

【クジャク】
 ローマ帝国やその支配領域において、クジャクは美鳥として鑑賞されただけでなく、食用にもされた。食用の鳥を増やすことが目的だったかどうかははっきりしないが、クジャクの卵をニワトリに抱かせて雛を孵すこともあったことが『動物誌』の中に記されている。他種の鳥を仮親にして雛を孵化させる方法がローマ時代から知られていたことを、とても興味深く思う。

 

 

3 日本の鳥食文化

 

◆弥生時代から奈良時代

 一国の食文化の歴史を、時代を追って語ることはとても難しい。その国の歴史の流れと基礎的な文化を把握したうえで、時代ごとの食材とそれに対する人々の意識を理解することは簡単ではない。
 ここでは、もっとも理解しやすい日本について、少し詳しく見ていきたい。
 とはいえ、日本であっても、古代から中世にかけては不明なことも多く、十分な史料に触れられるのは江戸時代になってからとなる。

 まず、あらためて着目したいのが、日本におけるニワトリのポジションである。
 奈良県田原本町の唐古からこかぎ遺跡から発掘されたニワトリの骨は今から二千年ほど前の弥生時代中期のもので、日本で発掘されたニワトリの骨の中では最古級であることが判明している。
 また、同じ弥生時代の環濠集落跡である、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡からもニワトリの骨が出土していることなどから、日本にニワトリが渡来したのは弥生時代でほぼまちがいないと考えられている。なお、環濠集落とは、周りに濠をめぐらせた集落をいう。

 続く古墳時代には、ニワトリを模した「鶏形埴輪」が、関東圏では埼玉県や栃木県、群馬県、近畿圏では奈良県や大阪府、京都府ほか、各地の古墳から数多く発掘されていることから、相当数のニワトリが、広く国内で飼育されていたことがわかる。

 鶏形埴輪は古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)にはすでに見られ、5世紀、6世紀の古墳からも出土する。見つかる場所は古墳の墳頂部。ここに並べられた埴輪は、古墳がつくられた時代に生きた人々の暮らしを模していたと考えられていることから、古墳時代の人々の生活にニワトリは十分に溶け込んでいたと見なすことができる。

 鳥を模った埴輪には、鶏形のほかにカモなどの水鳥がモデルとなった「水鳥形埴輪」があるが、こちらの出現は鶏形埴輪から1世紀ほど後のこと。さらに、置かれた場所が古墳を取り巻く周濠部であることから、鶏形埴輪とはちがう目的で作られたと考えられている。
 古墳の周濠は、古墳の内と外を隔てる結界のようなものであり、また生者の世界と死者の世界を隔てる結界としての機能もあったとされる。水鳥形埴輪はその一部となっていた。ニワトリと水鳥とでは、明らかに人々の認識がちがっていたことが、ここからもわかる。

 ニワトリは日本においても、その鳴き声に魔を払う力があると信じられていた。そのため、魔からの守護を目的に、個人の屋敷や神社などに置かれ、占いなどの神事にも使われてきた。
 そうした背景からニワトリは、カモなどの水鳥とはちがい、あまり食材にはされなかったと予想されてきた。だが、実際には、弥生時代から古墳時代、飛鳥時代、奈良時代にかけて、カモ類などともに少なからぬ量が食べられていたらしい。天武4年(675年)に出された動物食を禁じる令の中で、ウシ、ウマ、イヌ、サルに加えて、ニワトリを食べることも明確に禁止されたことが、鶏肉が食べられていた確かな証拠とされる。

 6世紀半ばに仏教が公伝し、少しずつ国内に浸透する。その過程で、殺生を禁じる仏教と、穢れを忌避するこの時代の神道が強く結びついた結果、動物の肉を食べることが避けられるようになり、その後、千年に渡ってニワトリも、ほかの鳥類も、食べることに対する忌避感が強まり、結果的に、表立って食卓に上がることがなくなった。といっても、食べることが完全になくなったわけではないことは、はっきりしている。

 

◆平安時代~鎌倉時代

 平安時代の初期(9世紀前半頃)に成立した仏教説話集『日本霊異記にほんりょういき』の中に、鳥の卵を日常的に食べ続けることは人間にあるまじき非道な行為であり、そうした行為を繰り返したなら地獄の炎に焼かれる仏罰を受けると警告する話がある。
 同じ内容の話が三百年ほど時代を下った『今昔物語集』にもあるが、『日本霊異記』は野の鳥を含めた鳥一般の卵としているのに対し、『今昔物語集』では鶏卵と解釈される。
 いずれにしても、「卵を焼いたり煮たりして食べる者は、必ず焦熱地獄に落ちる」という説法が、平安時代を通して行われていたらしい。

 食べることが禁止された一方で、社会上層の者の住居や神社、農家など、広い層においてニワトリの飼育は続いていた。時計のかわりに朝を告げてくれるうえに、そこにいること自体が魔除けになると信じられてもいたからだ。
 それでも、鳥食が禁忌とされた千年のあいだにも飢饉は何度もあり、また年をとったニワトリの処分も行われたはずで、記録には残っていないが、おそらくは相当数が食されただろうと推察されている。ただ、長くともに暮らした生き物には情も湧き、そうした相手を傷つけられなくなるのも人間の性。死ぬまで飼って、その後、埋葬した例は、食されたもの以上に多かった可能性もある。

 鎌倉時代に食べられた鳥類については、当時の住居跡から出土した骨から知ることができる。たとえば、千葉地東遺跡群(鎌倉市)からは、ハクチョウを含む、ガン・カモ類の骨が多く見つかっている。
 また、数は少ないがニワトリの骨も同じ遺跡群から見つかっている。その中には、明らかにニワトリではあるものの、平均的なニワトリよりもかなり大型のものも含まれていた。
 この点について研究者の金子浩昌は、『江戸の食文化』(江戸遺跡研究会編/吉川弘文館)収録の「江戸の動物質食料-江戸の町から出土した動物遺体からみた-」において、「大きな骨はおそらくシャモのような闘鶏用のニワトリだっただろう」と推察している。

 

◆江戸の鳥食文化

ニワトリ(日本に運ばれたヨーロッパ品種)
(『梅園禽譜』) 

 江戸時代は、日本を取り巻く環境や人々の意識など、さまざまなものが大きく変化した時代でもあった。平安時代、鎌倉時代に比べると少し科学も進み、迷信に囚われることも減った。鳥肉を食べようと鳥の卵を食べようと、過去の説話にあった人生を狂わすような事件など起きないことも知るようになった。
 食生活も大きく変化し、料理屋や居酒屋や茶店ができたばかりか、大都市には、「鳥を観る文化」で紹介したような、異国の珍鳥を見ながら茶や酒が飲める店までも登場する。
 江戸市中では、「ももんじ屋」や「けだもの屋」などの名で、動物の肉を食べさせる店の営業も始まった。もちろん、カモをはじめとする鳥肉を専門に販売する店も、江戸や大坂には存在していた。

 そんな、変化していく江戸の人々の日常が、随筆や個人の日記の中にリアルに綴られるようになる。文化・文政期の鳥食文化については、当代の著名な戯作者にして愛鳥家でもあった滝沢馬琴(曲亭馬琴)の日記が詳しい。

 人気の戯作者である馬琴の家は決して貧しくはなかった。平均的な武士と比べて、かなりよい暮らしをしていたようにも見える。そんな滝沢家を訪問する客の多くは、ほんの顔見せ程度であっても、何かの手土産を携えてくるのがふつうだった。贈り物は魚介が多かったが、甘いもの好きの馬琴にあわせて菓子類も多く見られた。

 日記から拾い出すことができる菓子類は、岩おこし、まんじゅう、焼まんじゅう、煎餅、らくがん(落雁)、水飴、鶏卵せんべい、きんつばもち、あべ川もち、かすていら巻、かすていら、などだ。ちなみに、柏餅、月見赤豆団子などは馬琴の家でもつくられており、端午の節句や月見の際に知り合いに届けられていた。

 ここで注目したいのが「かすていら」や「かすていら巻」である。かすていら巻がカステラをなにかで巻いたものなのか、逆に細く切ったカステラを巻いた菓子だったのか正確なところはわからない。はっきりしているのは、今からおよそ二百年前に、馬琴が「カステラ」を食べていたという事実と、カステラが鶏卵を使った菓子である、ということ。
 さらには、その名が示すように、鶏卵せんべいにも鶏卵が使われていたのだろう。

 江戸時代、鶏卵の生産と販売はずっと行われていた。ただ、流通量は多くなかったようで、馬琴の生きた時代においては、鶏卵一個が、かけ蕎麦一杯と同等の値段だったらしい。栄養のある食品だが高価ということで、ふつうの家では現在のように日常的には食べてはおらず、特別な場合にのみ食べるような貴重な食材だったようだ。
 滝沢家でもなにかの際に鶏卵をもらうことがあった。逆に、滝沢家からの「お歳暮」として、塩引き鮭とともに鶏卵を複数の家に届けさせたという記述も日記には残されている。

 

◆馬琴が食べた鳥の肉

 江戸時代、ニワトリの肉も食べられてはいたが、鶏卵やほかの鳥の肉に比べてその量は決して多くはなかった。そのかわりに食べられていたのが、カモやキジ、ヤマドリ、ウズラなどである。なかでもカモ類は、当時の人々にもっともよく食された食材だった。

 文政10年(1827年)1月29日の馬琴の日記には、いろいろ買い物をした後、馬喰町橋の近くで営業していた店で「鴨そば」を食べたという記述がある。さりげない文章から、「鴨そば」という食べ物は馬琴にとって決して珍しいものではなかったことが窺える。
 鴨南蛮という文字を馬琴の日記に見つけることはできないが、喜多村筠庭きたむらいんてい著の『嬉遊笑覧』の解説によると「鴨なんばんは馬喰町橋づめの笹屋など始めなり」ということなので、馬琴が食べた「鴨そば」は「鴨南蛮」だった可能性もある。

 さらに馬琴の日記に着目すると、文政11年の日記の中に、鳥の肉に関して次のような記述を見つけることができる。キジ、ウズラ、カモなどの肉のやりとりがあったようだ。

◎2月13日 娘婿・清右衛門から雉肉を少々もらう。
◎5月28日 松前老公より(病気見舞いに)塩鶉をもらう。
◎11月6日 娘婿・清右衛門に鴨肉一皿をやる。
◎12月4日 松前老公より鴨一羽をもらう。

 前年の文政10年の日記においても、10月24日、11月27日、11月30日、12月1日に、それぞれカモをもらった旨の記述がある。11月5日には、滝沢家からカモを贈っている。なお、松前老公とは、馬琴の長男が以前に出入りの医者をしていた屋敷の主人である。
 馬琴がもらったり贈ったりした鳥肉の多くは、食用の鳥を専門に販売している店で入手したものと考えられる。食用の鳥肉を専門に売る店は、一般に「〆鳥屋しめどりや」と呼ばれ、馬場文耕の『当世武野俗談』(宝暦7年/1757年)などによると、日本橋安針町にあった東国屋が当時もっとも有名だったという。

 このほか将軍や大名が鷹狩り等で捕らえた鳥を家臣に下賜かしする例もあった。さらには、そうした鳥を家来に分けたり、縁者に贈るといったことも行われていた。
 だが、何人もの人の手を経た鳥は、冬場であっても最後の人間の手に渡るころにはすっかり傷んでしまっていることも多かったようだ。事実、馬琴が12月1日に松前老公からもらった大ガモの雌はすでに腐って、匂いがひどく、とても食べられる状態になかったため、植木のこやしとするべく庭の林檎の木の根元に埋められたという。

 

◆大坂の鳥料理の店

 鳥肉料理の店については、『浪華百事談』(作者不詳)の中に興味深い文章がある。
 記述は、『浪華百事談』が書かれた明治には鳥肉を食べさせる店は珍しいものではなくなっていたが、天保のころは極めて少なかったという書き出しに始まり、次のように続く。
「北堀江六丁目(あみだ池南門筋瓶橋の西なり。)に鳥屋ありて、表には小鳥を籠に入てならべ売る店にて、其内にて鷄又はあひるを料理して客に売りしなり」
 この店を、大坂で唯一の鳥料理の店と紹介している。

 なお、大坂の町を文章とイラストで紹介した『摂津名所図会』(寛政8~10年/1796~98刊行)の中に「八百屋町飛禽店」というページがあり、そこでは、店のある部分では愛玩用の鳥を売り、店の別の場所では食肉用のカモと思われる鳥をさばいている様子が描かれていた。
 食べる鳥も飼う鳥も同じ店で扱うというのは江戸ではほとんど見られないことで、大坂ならではといえる。

 「八百屋町飛禽店」(『摂津名所図会』)

 

関連書籍

鳥を識る なぜ鳥と人間は似ているのか

細川博昭著

 

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著者略歴

  1. 細川博昭

    作家。サイエンス・ライター。鳥を中心に、歴史と科学の両面から人間と動物の関係をルポルタージュするほか、先端の科学・技術を紹介する記事も執筆。おもな著作に、『鳥を識る』(春秋社)、『身近な鳥のすごい事典』(イースト・プレス)、『江戸時代に描かれた鳥たち』『知っているようで知らない鳥の話』『鳥の脳力を探る』『身近な鳥のふしぎ』(SBクリエイティブ)、『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)、『うちの鳥の老いじたく』(誠文堂新光社)、などがある。
    日本鳥学会、ヒトと動物の関係学会、生き物文化誌学会ほか所属。

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