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人と鳥の文化誌 細川博昭

鳥を観る文化

1 権力の象徴でもあった鳥獣

 

◆鳥獣入手は自身のため、権力を示すため

 いつの時代もそうであるともいえるが、特に古代から近世においては、ほしいものを手に入れられる財力と、周囲に自分の意志を押し通す力をもっていた王や皇帝などの支配者には、したいことをする自由や、望むものを手に入れる自由があった。
 だれも手にしたことのない「もの」を手に入れることは、彼らの満足感と矜持を大いに満たした。力強さの象徴とされたライオンや、色鮮やかな大型の鳥なども、そうしたもののひとつだった。

 もともと美麗な鳥が好きで、熱心に蒐集していた者は、鳥の美しさがより映えるような庭園をつくり、その姿を長く維持するために必要な飼育知識をもった世話役を置いた。
 宮殿や大きな屋敷における「造園」という文化にも、古代から連綿と続く鳥獣の飼養が大きな影響を与えたことはいうまでもない。もちろんそこには、財力を含む強い権力の存在を周囲に見せつける目的もあった。

 隷属を誓った周辺国の王や、よい関係を築くことを願った遠地、異邦の支配層が、忠誠や友好の証として、飼い馴らすことの困難な猛獣や自国の美鳥・珍鳥、自身が手に入れた麗しい鳥を献上することもあった。それが貴重なものであればあるほど、贈られた者を喜ばせ、大切に飼養されることとなった。
 そうした鳥獣が収容された施設は、飼育される鳥や獣が増えるにつれて、動物園的な色彩も帯びるようになっていく。

 

 

2 動物園的施設のはじまり

 

◆古代メソポタミア、エジプトの動物コレクション

  古代のメソポタミアやエジプト、聖書の舞台でもある両地域のあいだのパレスチナ(東地中海沿岸諸国)、少し時代を下ったローマ(共和国、帝国)や古代の中国において、ミニ動物園的な動物コレクション施設がつくられていたことがわかっている。
 最古はやはりメソポタミアで、そこに文明を築いたシュメール人やアッカド人が、当時、まだその地に生息していたライオンなどを中心に、ゾウやサイを集めた事実があった。

 古代エジプトの王(ファラオ)も動物を集めた。その庭園では、アフリカやメソポタミアの哺乳動物のほか、ツル、コウノトリ、ハト、トキ、ハヤブサなどの鳥が飼育されていた。動物園史家グスタフ・ロアセルの『Historie des Ménageries』(1921年出版)によれば、紀元前13世紀ごろにエジプトを治めたラムセス2世はダチョウも飼育していたという。
 エジプトではここに挙げたように、異邦の鳥だけでなく、神としてこの地の神話に登場する鳥が数多く飼育されていた事実があった。そうした状況を、とても興味深く感じる。

 なお、パレスチナの地において、紀元前1000年ごろに栄華を究めた古代イスラエルの王ソロモンも、広く動物を集めたコレクションをもっていたことを、旧約聖書の「列王記」から知ることができる。

 

◆古代ギリシアからアレクサンドロス帝国へ

  『動物園の文化史』(溝井裕一著/勉誠出版)によれば、古代ギリシア、アイトリアのメアグロス神殿ではホロホロチョウが飼育され、サモスのヘラ神殿ではインドクジャクが飼われていたらしい。
 アテネでインドクジャクを展示していた者が、鑑賞を目的に訪れた者から入場料を取っていた事実もあった。これが、動物園的施設で最初に徴収された入場料だという。

 複数のポリス(都市国家)において、輸入されたツルやヤツガシラ、フラミンゴなどを飼育した人がいたこともわかっている。この時期のギリシアでは、サルをペットとして飼うことも珍しくはなかった。ただし、幾種もの珍しい鳥や動物を集めて展示した動物園のような施設が、この時期のギリシアにあったかどうかはよくわかっていない。

 その後、ギリシア地域では、アレクサンドロス大王がマケドニアの王となり、エジプトからメソポタミアを越えてインドに至る広大な帝国を築くことになる。それでも、以後も、その領土となったエジプトやメソポタミアにおいて、禽獣を飼育する施設は維持されていたことがわかっている。 

 アレクサンドロス帝国の後継者としてエジプトの王となったプトレマイオス1世は、ナイル川河口のアレクサンドリアを首都に定める。プトレマイオス1世はそこに巨大な動物コレクション施設を建設した。さらに、その子のプトレマイオス2世がこれを拡充する。
 プトレマイオス2世の動物コレクションが非常に規模の大きなものだったことを、豊穣と酒(ワイン)の神であるディオニュソスを祝す大祭において行われた”終わりが見えない”「動物パレード」からも知ることができる。

 プトレマイオス2世がアレクサンドリアの人々の前で行った動物たちを引き連れたパレードは、「明けの明星が空に現れる時刻に始まり、宵の明星が輝く時間に終わる」というほどの驚くべき規模だったと史料は語る。
 先頭は手綱を付けられた16羽のダチョウ。そのあとを、彼が手に入れたあらゆる鳥が、木製のとまり木の上や籠に入れられた状態で進む。
 鳥を運んだ人間は約150人。パレードには、オウムやキジはもちろん、ホロホロチョウやキジ、「エチオピアの鳥」と記された鳥などがいたという。
 さらに、ライオンやヒョウなどを含む猛獣、ゾウやラクダ、サイなどが続いた。この規模の動物パレードは、ギリシアやローマはもちろん、現在でも見られることはなく、文字どおり「史上最大のパレード」だったようである。

 プトレマイオス王朝はローマ(共和国)によって滅ぼされ、その支配下に入る。さらに7世紀に、エジプトはイスラムの支配を受けるようになるが、首都における動物コレクションはその後も維持されたことがわかっている。

 

◆ギリシアとローマのちがい

  現在まで、動物園的な施設は遺跡のかたちでも文献上でも見つかっていないことから、古代ギリシアにおいては、大衆に向けた動物展示施設はほとんどつくられず、生態や行動などに関して、「観察して、個々の知的好奇心を満たす」ことを目的に、個人個人が動物を集めていたとする説が有力である。
 一方、古代ローマの貴族も、インドクジャクや、ヨウム、ホンセイインコなどのインコ類ほか、ニワトリ、その他のキジ類、ホロホロチョウ、ツル、フラミンゴ、ハクチョウなど、さまざまな鳥を飼っていたことがわかっている。だがこちらは、単純に眺めて楽しむ「娯楽」が主目的で、その生態など科学的な興味が探求されることはあまりなかった、というのが専門家の見解である。この点において、ギリシアとは対極的といえた。

 ローマの貴族は自宅、あるいは別荘に、自分好みの私的な小動物園をつくり、そこに声や姿の美しい鳥を集めては、そのふるまいを堪能した。
 中世ヨーロッパでも盛んに飼育が行われたクロウタドリやサヨナキドリ(ナイチンゲール)などの美声を堪能したほか、ヨウムなどのインコ・オウム類だけでなく、ホシムクドリに言葉を教えた例もあった。『博物誌』を書いたプリニウスにも影響を与えた人物と評される、マルクス・テレンティウス・ヴァーロなどもそうした鳥飼いの一人だったようだ。

 

◆古代の中国の様相

  『詩経』などの史料から、中国の王都にも、周王朝以降、哺乳類や鳥類を集めた動物コレクションが置かれていたことが判明している。おそらくは、周以前の王朝である殷や夏の時代から、すでにそうした施設は存在しただろうとも推察されている。 

 漢の武帝の時代には、メソポタミアから中国に至る広いエリアに生息する各種動物のほか、ハクチョウや多くのカモ類、シギ類のほか、サカツラガンを改良してつくられたシナガチョウや、マガモを家禽化したアヒルなどが多数飼育されたことが確認されている。 

 もちろん中国でも、支配層による動物の収集は長く続いた。モンゴル人の王朝である元を訪れたマルコ・ポーロの『東方見聞録』には、フビライ・ハンのもとに存在した鷹狩りのタカを中心とした動物の飼育施設の様子も、見たままに詳しく記されている。

 

 

3 メナージェリーの概念とその始まり

 

◆中世から近世のヨーロッパ

  中世ヨーロッパでも、王侯貴族によって動物は飼育され続けた。
 動物コレクションを所有していた君主としては、神聖ローマ帝国皇帝となったフランク王国国王シャルルマーニュ(カール大帝)、同帝国の後の皇帝であるフリードリヒ2世やルドルフ2世、イングランドの歴代の王、ハプスプルグ家出身の各国の王など、枚挙に暇がない。

 ハプスプルグ家出身の皇帝ルドルフ2世は首都をプラハに移転し、そこに巨大な動物施設をつくる。ルーラント・サーフェリーやヤコブ・ヘフナゲルといったお抱えの宮廷画家たちが、仕えていた時期はもちろん、解任され、少し時間を経った後にも、ルドルフ2世の動物コレクションの鳥の絵を描いた。彼らが描き残した絵から、この施設に生きたドードーがいたのは事実と考えられている。

サーフェリー 『鳥のいる風景』(1628年、ウィーン美術史美術館蔵)

 

サーフェリー 『ドードー』(1626年、ロンドン自然史博物館蔵)

 

 海外進出の時代、いわゆる大航海時代の始まりは、ヨーロッパに新たな知識と展望をもたらした。スペイン、ポルトガルのアジア、アフリカ、新大陸への進出、続くオランダやイギリスの海外進出によって、ヨーロッパ人は多くの未知の動植物を目にすることとなる。
 持ち帰られた異邦の鳥や動物は王や貴族のもとに運ばれ、そのコレクションを爆発的に拡充させた。ヨーロッパ人未踏の地で新たに発見された珍しい鳥は、ほぼすべてヨーロッパに運ばれたと言っても過言ではない。

 時期を等しくする江戸時代の日本――大きな「飼い鳥文化」が花開いていた――にも、アジアに生息するものを中心に、さまざまな鳥が運ばれたが、鳥を扱うヨーロッパの商人たちは、これは本国向け、これは日本向けといったような「仕分け」を行い、船に積み込んだのだろう。なかにはヨーロッパにおいて過剰になった種を、新たな供給地である日本に運びなおしたものもあったにちがいない。

 この時期のヨーロッパへの鳥獣の輸送を見ていくにつれ、17世紀から19世紀の日本の鳥獣貿易は、日本の要望に応じたものと単純に考えるべきではないことがわかってくる。
 ヨーロッパ諸国の王侯が私的な動物園的施設を作るべく、世界を航行する商人たちに鳥を集めて運ぶことを求めた事実がまずあり、各地において動物の収集を行った商人たちは、バランスを取りながら必要分、あるいは余剰分を日本にまわしたと考えるのがより自然であるように思える。

 

◆最大の施設はフランスに

  1600年代以降のヨーロッパで、特に大きな「動物園」的施設がフランスに存在した。施設は、パリの南西、およそ20キロメートルの距離にあるヴェルサイユと、パリの北、およそ40キロメートルの距離にあるシャンティイにあった。
 シャンティイはモンモランシ家の居城があった土地で、動物を集めた施設としては、ヴェルサイユよりも古かったことがわかっている。

 いわゆるヴェルサイユ宮殿は、1668年に着工し1682年に完成したが、それ以前のこの土地には動植物の豊かな森と湿地が広がっていて、王室の狩猟場となっていた。
 そこには狩猟のための小屋があったが、やがて野生動物を飼養するための施設がつくられ、1624年になると、さらにそこに海外からフランス王家に贈られた鳥獣を収容するための専用の小屋もつくられるようになる。こうしてできた動物施設は、次第に肥大化していき、やがて「ヴェルサイユ動物園」とも評される様相も見せるようになった。

 ヴェルサイユ新宮殿の設計とともに、周囲の庭園の再造営も行われ、パリから宮殿が移された際には、あらたな動物コレクション施設もできあがっていた。もちろん、そこにはとても大きな鳥専門の禽舎も置かれた。
 ロアセルによれば、南北アメリカ大陸のハチドリ類やコンドル、ホウカンチョウ科やフウキンチョウ科の鳥、ニューギニアのフウチョウ類などがはじめてヨーロッパに運ばれ、ヴェルサイユを訪れた人々の目を驚かせたという。

 

◆近現代とは異なる近世以前の施設

  これまで挙げた、古代から近世にかけての例は、動物コレクションという点では「動物園」と認められるものである一方、収容された動物の偏りは大きく、動物の生態などについて学術的な研究が行われることもほとんどなかったため、近代的な動物園とは一線を画すものと認識されている。 

 「近代的動物園」を意味する「zoo」という言葉は、実はとても新しい。
 動物収集と繁殖を含んだ学術研究も園の大きな軸として掲げたロンドン動物園が1828年にスタートした際、そこを「zoological garden」と称したことに始まるからである。
 「動物園」=「zoo」もここから来た名であり、19世紀以降、世界に定着。上野に始まる日本の近代動物園も、ロンドン動物園が範となったものである。

 先に挙げたヴェルサイユのほか、中世から近世の王侯貴族の城郭などにつくられた動物展示施設は、かねてより「メナージェリー(Menagerie)」と呼ばれていた。
 それは数百年に渡って使われ続けた名称で、「動物園」が定着するまでは、王侯が個人的な楽しみのためにつくった庭園の一部をなす動物施設も、他人に見せるためにつくりあげた動物展示施設もみな、メナージェリーと呼ばれていたことがわかっている。

 メナージェリーにはさらに広い意味もあり、「見世物」として行われた移動動物園なども同じ名称で呼ばれたが、その国の権力者が王城や領地につくるメナージェリーは設園者とまわりの貴族たちのものであり、庶民が中の鳥獣を見られるようなものではなかった。

 

4 江戸の動物見世物と花鳥茶屋

 

◆鳥を見せる施設の源流は江戸時代

  日本における動物展示についても、少し詳しく語ってみたい。
 日本の社会の上層が、ユーラシア、アフリカ、南北アメリカなど、大陸の位置関係を含む、この世界の構成についての科学的な情報を得て、世界は広く、世界の各地には日本人の知らない珍しい鳥や動物がいることをはっきりと理解したのは江戸時代になってからである。

 飛鳥・奈良時代から平安時代にかけて、大陸諸国から贈られた鳥獣や、日本人がそこから持ち帰った鳥獣を、貴族が宮廷内や宮廷近くに置かれた施設で目にすることはあった。だが、”個人が積極的に海外の鳥獣を輸入した記録”は、ほとんど見つけられない。
 天皇家にしても、周囲の貴族にしても、それぞれの趣味・楽しみとして鳥獣を入手することはあっても、その多くは国内のものであり、またそれも私邸の屋内や禽舎で眺めたくらいで、他者に見せることを目的とした「動物展示施設」がつくられたことはなかった。
 室町時代も、そうした状況が続く。

 江戸時代になると、鳥好きの大名や本草学を学んだ旗本などが積極的に海外の鳥を求め、城や屋敷で飼育するようになった。
 ヒクイドリや、クジャクなどの大型のキジ目の鳥が広い城の庭で放し飼いにされ、屋敷内でも多種の異国の小鳥が飼育されたが、それも、ほとんどが姿やさえずりを自身の目や耳で楽しむためのものであり、描く絵の素材とするべく集められたものだった。

 日本において、庶民を含めた一般向けの、”鳥を見せること”を目的とした展示は、まず「動物見世物」として始まり、次いで孔雀茶屋くじゃくぢゃやや花鳥茶屋といった飲食と組み合わせた施設ができた。いずれも有料の展示であったが、江戸時代人の人気を集め、大きなにぎわいを見せた。

 

◆江戸時代の見世物

 

ラクダ
堤它山つつみたざん橐駝考たくだこう』)

 

 江戸時代の見世物は、大きくは、細工物さいくもの、曲芸や演芸、異邦の禽獣やその奇形、人間の見世物の4種に分類された。
 菊人形、からくりなどを見せたのが細工物。曲芸や演芸では、手品や軽業、演舞などが披露された。動物見世物の目玉となったのは、ゾウやラクダ、トラやヒクイドリなど、日本人が初めて目にする鳥獣である。人権というものが浸透する以前の時代でもあり、他者と異なる姿で生まれてきた人間も見世物の一部となった。

 なかには、「おおいたち」と称して「大鼬」を期待して見に来た者に、大きな板の全面に血液を塗りつけたものを見せ、「大板・血」と胸を張るなど、ほとんど「いかさま」といえるものもあった。当然、怒る者もいたわけだが、それでもウケれば興行主の「勝ち」として、見世物として認められていたようである。

 大道芸として行われた興行など、見世物的なものはもちろん江戸時代以前にも存在した。だが、こうしたものが「見世物」という名で総括されるようになったのは江戸時代からである。なお、見世物はまず大坂や京で行われ、1~数年後に江戸で披露される江戸下りの「流れ」があったことがわかっている。

 京の代表的な見世物小屋は四条河原のほか北野天満宮などにあり、大坂は道頓堀や難波新地にあった。江戸では、両国(西両国広小路)や浅草、上野広小路、江戸境(元吉原)にあった。名古屋は大須につくられ、それぞれが幕末までにぎわいをみせた。四条河原で行われた見世物の様子については、「四条河原遊楽図」などから知ることができる。

 

◆鳥の見世物

  動物見世物において、ゾウなどとともに人気を博したのは、異邦の珍鳥である。
 クジャクは千年にも渡って日本に運ばれ、時の権力者たちの目を楽しませてきたが、江戸時代になるまで庶民がその姿を間近で見る機会はあまりなかった。初めて広く庶民にその機会を提供したのが見世物だった。
 数多の鳥の中でも知名度が高く、存在感のあるクジャク成鳥のオスが鳥類として最初に見世物になったのは、ある意味、必然でもあったのだろう。この時期、日本で育雛いくすうするクジャクもいたことで、取り引きされる数が増えたことも影響したのかもしれない。

マクジャク
(牧野貞幹『鳥類写生図』)

 京では寛永年間(1624~1644年)に、四条河原の見世物にクジャクが登場する。江戸では明暦4年(1658年)、江戸境町(現在の日本橋人形町)において、クジャク、インコ、オウムが見世物になったことが確認されている。

 なお、見世物においてクジャクは、ただそこに佇むだけでなく、仕込まれた「芸」を披露してみせた。寛永20年出版の書籍『油加須あぶらかす』によれば、クジャクを操る者は「孔雀遣い」と呼ばれたという。
 この芸の内容はよくわかっていないが、孔雀遣いが合図を送ると、それに合わせて、目玉模様が映えるクジャクの象徴でもある尾羽の上の上尾筒じょうびとうという羽毛を、客のいる正面に向けて大きく開かせるといったことを行ったのではないかと推察する。
 体の大きなクジャクは、小鳥のように機敏に飛んだり跳ねたりするような性質ももたない。ゆったりした動きが基本のクジャクで最大の演出効果を狙うとしたら、そうした芸がもっとも自然で無理のないかたちになるだろう。

 日本の見世物研究の先駆者である朝倉無声は、著作『見世物研究』(1928年)において、「当時既に孔雀遣いといふものがあって、それが孔雀に種々の曲芸を仕込んで、見世物にしたものと思はれる」と記しているが、「孔雀に種々の曲芸を仕込んだ」というのは朝倉無声の推測であり、事実は少し異なるように思う。
 それというのも、キジ科の鳥を飼育した経験がある者ならわかるとおり、ニワトリ、キジ、ウズラなども人間の意図を理解して、ある程度の指示には従ってくれるが、彼らに複数の曲芸をしこむ、ということはかなり困難であるためだ。

 

◆インコ・オウムの芸とツルの芸

  江戸時代でも、人間以外の生き物が人の言葉を話すことに関心をもつ者は多く、鳥の見世物においては、オウムやインコ、キュウカンチョウなど、言葉を話す鳥がもてはやされた。
 古くから「おうむ返し」という言葉が知られていたように、日本にインコ・オウム類が初めて渡来してからおよそ千年が経ち、一度も姿を見たことはない人々にも、その存在や習性はよく認知されていた。そのため、「鳥が話すところを見たい!」と熱望した人々が押し寄せたのだ。 

 オウムの見世物に高い集金力・集客力があったことを示す興味深い情報もある。
 浜松歌国の『摂陽年鑑』(天保4年/1833年)によれば、大坂瓦町の小鳥屋、竹中平兵衛は1羽のオウムを手代に持たせて全国で見世物をさせていたが、その稼ぎは、それだけで一家を養えるほどだったという。

 クジャクやオウムが盛んに見世物に登場したのは、要望が高かったことに加えて、業者が買い取るのに十分な数が輸入されて価格も下がり、一般の商人でも鳥屋などを通して手に入れやすくなっていたためでもある。
 また、大型の鳥や珍しい鳥を何十羽、何百羽と集めて愛玩していた城主が没した後、城内の鳥たちを持て余した家族が、不用品として鳥屋にまとめて売却した例もあり、そうした出自の鳥も買われて、見世物になっていたようである。

 見世物では、日本産のツル(おそらくはタンチョウ)を使った芸もあった。詳細はわからないが、国立国会図書館収蔵の史料には「鶴の一こゑ」という記述も残っていることから、雌雄のツルが求愛の際に鳴き交わすように、人間の合図で、大きく鳴き声を上げる姿を見せたのかもしれない。
 ただ、何点か存在する、この情報の出典である『天和笑委集てんなしょういしゅう』には、写本された際にミスがあったのか、「鶴の一こゑ」ではなく「鶴の一飛び」となっているものもある。この書籍の文章を引用している朝倉無声の『見世物研究』には、後者が記されている。
 だが、「鶴の一飛び」だったとしても、見世物小屋には空間的に高く飛ばせる余裕もなかったはずで、やはりツルの求愛のダンスのような小ジャンプを客に披露して見せたと推測する。

 なお、芸をさせた記録はないが、ハイイロペリカン(ガラン鳥)や、主に北海道に飛来するオジロワシまたはオオワシも見世物とされた記録がある。ハイイロペリカンは小石川の水戸藩屋敷に飛び込んでくるなど、江戸時代おいて、迷鳥としての飛来記録も多数残っている。意外に手に入る鳥だったのかもしれない。

 このほか、芸をする鳥として古来より知られてきたヤマガラの芸が芝居小屋で披露されることもあった。浅草の花屋敷において、昭和の半ば過ぎまでヤマガラの芸を見ることができたが、それも江戸時代からの流れがあってのことだろう。

ハイイロペリカン
(牧野貞幹『鳥類写生図』)

 

◆動物見世物がもっていた、もう1つの側面

  インド産のゾウが両国広小路で見世物になったのは、文久3年(1863年)のこと。
 ゾウのほか、ヒョウやラクダなど、日本に初めて来た動物を見ることには無病息災や悪霊を払う御利益があると喧伝されたことも、動物見世物に通う人間を増やすこととなった。
 興行主は「この動物を見たなら、疱瘡(天然痘)などの病気をも退けることができる」と言って、見世物に誘った。また、動物の錦絵を手許に置くことにも御利益があると主張する者もいた。そのせいもあって、特にゾウについては錦絵も飛ぶように売れたという。

 大坂では寛政2年(1790年)に、前年日本に渡来したヒクイドリが見世物になっている。その案内のチラシ(引札)の絵には駝鳥(ダチョウ)と解説が書かれていたが、引札の絵も、輸入の際に長崎で描かれた絵も、まちがいなくヒクイドリである。この鳥は翌年、江戸に移され、境河岸において見世物になっている。
 当然のように、ヒクイドリの見世物においても御利益がうたわれた。ヒクイドリを目にすること自体に大きな御利益があるが、さらに抜けた羽毛にも強い「祓い」の力があり、「疱瘡麻疹疫疹」のまじないになると説明があった。おそらく見世物小屋において、来客に羽毛を触れさせるなどの行為も行われていたのだろう。

 川添裕は、著作『江戸の見世物』の中で、ヒクイドリの羽毛が販売された可能性を指摘する。
 鳥は毎年、全身の羽毛が生えかわる「換羽」をする。抜けた羽毛は通常なら捨てるだけだが、それを売ってしまえば廃棄物が片づくうえに、儲けもでる。同様に御利益があるとされた見世物動物のラクダにおいては、その「おしっこ」まで霊薬とされたほどである。ヒクイドリの羽毛を売らずに捨てたとは確かに考えにくい。
 もとより日本では、ウの羽毛が安産のお守りとなっていたくらいなので、売る方も買う方も抵抗なく受け入れたと考えてよさそうである。


ヒクイドリ(『薩摩鳥譜図巻』)

 

 余談になるが、寺島良安の『和漢三才図会ずえ』のヒクイドリの項には、「足は2つで指にするどい爪があり、よく人の腹を傷つけ死にいたらしめる」という解説があった。
 渡来からしばらく、なりは大きいが「しょせん鳥は鳥」と侮った人間の不幸な事故が続いたことから、こういう記述がなされることになったと推察している。

 

◆孔雀茶屋と花鳥茶屋

  寛政年間(1789~1801年)に入ると、鳥を中心とした生き物を人々に見せるための新たな動物展示が始まる。「孔雀茶屋」に代表される、鳥を見ながら茶が飲める茶屋がそれである。
 見世物は仮設の狭い小屋が興行の基本で、期間も定められていた。それに対し、新たな展示施設は、定地の広い敷地の中で、柵や屋根に囲まれた空間に鳥獣を置いて、人々がいつでも気軽に見に行けるようにしたことが斬新だった。

 クジャクやキンケイなどの大型の鳥や、インコなどの中小の鳥、哺乳類のシカなどを園内に展示し、お茶を飲みながら鳥や動物の挙動をゆったりと観るタイプの施設が相次いで大坂、京都、江戸、名古屋につくられる。そうした茶屋・茶店は、中心となる展示動物をもとに「孔雀茶屋」や「鹿茶屋」という名がつけられた。
 この施設についても大坂が早く、寛政8年(1796年)6月には開設され、少し遅れて江戸にもつくられたと考えられている。だが、江戸の孔雀茶屋の開始時期がはっきりしないため、本当のところはどうなのかはっきりしない。いずれにしても、遺された史料から、孔雀茶屋の開設において、上方と江戸で時間のひらきはあまりなかったように感じられる。

 人気の見世物は小屋の観客密度が高く、ゆっくり対象が見られないこともあった。だからといって何度も小屋に入り直しては、料金(=木戸銭)もかさむ。広い場所で、落ち着いて、時間の制限なくゆっくり見たいという観客の希望を実現するかたちで「孔雀茶屋」などがつくられたことは想像に難くない。 

 朝倉無声の『見世物研究』ほかから、寛政年代には、江戸の浅草と両国、京の祇園や清水寺の前、大坂の下寺町、名古屋の若宮八幡前に孔雀茶屋があったことがわかっている。
 ちなみに享和2年に京阪を旅した滝沢馬琴も、旅の途中で京の孔雀茶屋に立ち寄っている。馬琴の京阪の旅については『羇旅漫録きりょまんろく』(享和2年/1802年)に詳細が綴られているが、名古屋の孔雀茶屋所在地の情報源もこの書籍である。

 大坂の孔雀茶屋については、『摂津名所図会』(巻之二)にその絵図が残されている。摂津名所図会には詳しい場所は記されていないが、『浪華百事談なにわひゃくじだん』によると、孔雀茶屋は「下寺町筋御蔵跡町の通りの北西角、則ち万福寺という寺院の西対」にあったという。

『摂津名所図会』の孔雀茶屋

 

 江戸の孔雀茶屋は、文化・文政期に「花鳥茶屋」と名を改め、敷地を拡充するとともに屋内施設も設けて、雨天の際も客にサービスできるようにした。そこでは、奇形の4足のニワトリ(信濃産)を見せたり、キュウカンチョウやオウム、インコなどにしゃべらせる「芸」が行われるなど、常設の見世物小屋的な機能ももっていたようだ。


ショウジョウインコとダルマインコ
(菅せいき『奇観名話』)

 

 ときに「名鳥茶屋」とも呼ばれた花鳥茶屋は、下谷広徳寺前、上野、浅草に存在していた。また、花鳥茶屋の屋内施設では酒を供したり、落語の高座が設けられるなど、鳥を見ることから枠を広げた総合エンターテインメント施設となっていたことが大坂との大きな違いだった。

 孔雀茶屋や花鳥茶屋は近代的な動物園の定義に沿うようなものではなく、今の動物園に直接つながるものではなかったが、先駆的なその存在は、広い意味での動物(禽獣)展示施設であり、今の花鳥園などに雰囲気を伝えるものだったことは明らかである。浅草にあった花鳥茶屋が、今の花屋敷(開設は嘉永6年/1853年)の前身ともいうべき存在であったことも事実である。

 

 

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著者略歴

  1. 細川博昭

    作家。サイエンス・ライター。鳥を中心に、歴史と科学の両面から人間と動物の関係をルポルタージュするほか、先端の科学・技術を紹介する記事も執筆。おもな著作に、『鳥を識る』(春秋社)、『身近な鳥のすごい事典』(イースト・プレス)、『江戸時代に描かれた鳥たち』『知っているようで知らない鳥の話』『鳥の脳力を探る』『身近な鳥のふしぎ』(SBクリエイティブ)、『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)、『うちの鳥の老いじたく』(誠文堂新光社)、などがある。
    日本鳥学会、ヒトと動物の関係学会、生き物文化誌学会ほか所属。

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