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植物考 藤原辰史

「植物性」について

植物と人間の違い

 多くの人間は植物を自分よりも下に見ている。

 植物は人間を食べないが、人間は植物を食べる。たしかに、ハエトリグサは、小さな昆虫を甘い蜜で誘い、トラップにかけたあと、それを溶かしてエキスを吸うことができるし、大きなウツボカズラは養分の貧弱な土地でもトラップに入り込んだ小動物を溶かし、足りない養分を吸収することはできる。だが、人間はまだ食べられたことがないし、そのときの恐怖感は尋常ではないだろうと想像はできるが、今後、食べられる見込みは薄い。

 植物は人間を組み立てて住むことはできないが、人間は植物を組み立てて住むことができる。たとえば、人間は木を切り倒して木材を作り、茅を刈って屋根を葺き、家を建ててきた。

 植物は人間の髪の毛を使って自分の衣服を織ることはできないが、人間は植物を引き裂いてできた繊維を織り込んだ布を着ることができる。人間は、麻、亜麻、綿花の食物繊維を利用して糸を紡ぎ、それを織って布を仕立ててきた。

 植物は人間を育てることはできないが、人間は植物に水や肥料を与えて育てることができる。育てた植物の一部をむしり取ったり、茹でたり、炙ったり、切り刻んだりして食べるという料理行為は、人類にしかできない根源的な行為であり、人類史の普遍的かつ中心的位置を占めてきた。

 植物は人間を愛でることができないが、人間は植物を愛でることができる。サクラにせよ、チューリップにせよ、人間の視覚や嗅覚を刺激する花を、人間はわざわざ育ててケアをし、室内や室外に飾り、土手や公園に植えて愛でてきたが、サクラやチューリップが人間を可愛がり、それを育て、家に飾ることができる社会は一度も達成されたことはない。

 そもそも、植物は人間を名づけ分類することはできないが、人間は植物を名づけ分類することができる。

 だから、以上のようなサイエンス・フィクションの具現化や、あるいは未知の惑星の存在を、地球の住人は誰も望まないだろう。植物がある種類の人間だけを温室で育て、水をやり、肥料を与えて、成長させてそれを愛でつつ、他方である種類の人間を農場に囲い込み、適度の運動と餌と水を与えて、太らせた上で体液を吸収する。植物が人間の体毛を編んで織られた服を着て、寒さをしのぐ。いうまでもなく、そんなホラー映画のようなシーンは現実には起こったことがない。

 それゆえに、人間は植物よりも高等な生命なのだ、ということは少なからぬ人びとが感じている。植物は人間に隷属すべき低い地位にあることを密かに思っている。むしり放題、切り放題、食べ放題、除草剤も殺虫剤もドレッシングもかけ放題だ。植物よりは動物が高等生物である、ということも、ついでにどこかで信じている。たしかに、植物は脳を持たない。走り回ったり、泳いだり、飛び跳ねたりできない。

 だが、本当に人間は植物よりも高等だと言えるのだろうか。考えれば考えるほど、確信的な答えが遠のいて行くような感覚に襲われる。植物は人間がいなくても生存できるが、人間は植物なしでは生存できない。どうして私たちは、これまで述べてきた人間の文化の基本的な行為、すなわち、食べること、住むこと、着ること、育てること、名づけることを、植物が「できない」と表現してきたのだろうか。「する必要がない」ではなくて。

 私がこの連載で試みようとしているのは、かつて鉱物や植物や動物の真理を究明することも、演劇や音楽を論じるのと同様に人文学の営みであった時代を、過去のものにしないことである。別の言い方をすれば、鉱物や植物や動物の真理を究明することが自然科学者だけの営みになった現代社会を例外とみなすことである。そうして、人文学の視点から植物とは何か、植物と人間とはこれまでどのような関係にあり、また関係を作りえるのかについて、歴史学や文学や哲学などを横断しつつ、考えることである。

 人間は、太陽光と二酸化炭素を取り込んでエネルギー源であるブドウ糖を生産し、動植物の生命活動に必須の酸素を大気中に放出することができないが、ほとんどすべての植物にはそれができる。人間は細胞に葉緑体を持たないので、いくら日光浴をしても腹は膨れず、わざわざ他の生物を捕獲して、火と水と刃物を使って料理して食べなければならない。植物がもしも感情を持っていたら、緑色の肌を持たずにあくせくして食べものを探し回る人間を下等な生物だと思うかもしれない。

 人間は地中の栄養分、とくに体の構成要素として重要な窒素分を吸い上げる器官を持たないが、多くの植物は根を持っている。根は単細胞である根毛を持ち、土の粒子の狭いところまで入り込んで巧みに養分を取り込む。しかも根は、葉が光を浴びて生産したブドウ糖を蓄えることもできるし、植物を支えることができる。コケ植物の根は仮根〔かこん〕と呼ばれるが、これは養分を吸い取るのではなく、みずからを支えるために存在する。植物にもしも心があるとすれば、自由に動き回れる人間を羨ましいと思うだろうか。実はにわかに決めがたい。むしろ、地面に根を張ることができない人間を不憫だと憐れむかもしれない。

 植物は、テレビの台風中継で流されるヘルメットをかぶり雨具を着た哀れなアナウンサーと対照的に、そのしなやかな形態によって、かなりの程度まで風雨に耐えることができるが、根がなく、体温が奪われる人間には難しいので、雨ざらしの空間で眠ることを避けたがる。洞窟から高層マンションまで屋根と壁を必要として生きてきたおかげで、人間は建築技術をここまで発展させてきた。だが、植物は、動物がどれほど自分の細胞に装備したいと思っても装備できない細胞壁を有している。硬化した細胞壁は樹木を覆い、世界一の図体を誇る生きものの体を支えることさえできる。木ほどの大きさを持つ動物は世の中に存在しない。脊椎動物は骨、昆虫は殻を持ち、それで体を支えるが、植物の細胞壁ほどの強靭さはない。

植物性

 私は植物学者ではない。園芸家でもない。ただ、歴史に登場する食料に関心を抱いてしまったばかりに、私はずっと植物の大群に追い回され続けてきた。コムギ、ライムギ、ルタバガ、イネ(ジャポニカ種もインディカ種も)、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモなどの主食はもちろん、ダイオウ、ダイズ、タンポポ、リンゴ、バナナ、レタス、土中を肥やしてくれるクローバーやレンゲに、その時代を生きた人間と同じくらい思いを馳せてきた。植物が、まるで、「私を歴史の表舞台にあげて」と懇願しているように感じたことさえ、一度や二度ではない。

 あるいは、植物をめぐる人間の態度についても私は問題にしてきた。農学者の態度である。生命を愛する農学者たちが、人間の暴力に加担した事例は、中東欧のゲルマン化に関わったナチ時代の農学者にせよ、満州移民の必要性を喧伝した日本の農学者にせよ、私の歴史研究ではもはや定番である。一軒家の庭ではなく、マンションのベランダで園芸に勤しむ「ベランダー」でありまた「植物主義者」を自称する日本の作家いとうせいこうは、こんなことを述べている。「どんなに冷たい人間も凶暴な輩も等しく植物を育てる。いい加減で自己中心的な人間も、まめで思いやりにあふれた人間もやはり等しく咲いた花に目を細める」[1]。「昔から植物を愛好する人には悪者はいないといわれている」[2]と言ったのは、植物学の父である牧野富太郎だが、歴史学的には「ベランダー」のいとうせいこうに軍配を上げねばならない。

 しかも、農学者たちは、ほとんどの場合「植物」を「作物」として考えてきた。私たちは、植物は「育つもの」であるというよりもむしろ「生産するもの」として、つまり人間の主体的行為によって「作る」ものとしてとらえがちであった。人間に有用なものである作物ばかりに私の志向もまた偏っていた。作物が植物であるという当たり前のことをどこまで自分の思考に課してこられたのか。人間が動物であるということを忘れることなくして人間など論じられないというのに。作物だって呼吸をして生きている。にもかかわらず、植物それ自体についてあまりにも無知であり、思考を費やす時間に吝〔やぶさ〕かであったことは大いに反省せねばならない。

 そこで、これまで述べてきたような植物の性質を「植物性」といい、その形容詞を「植物的」と定義してみることにした。あくまで人文学の立場からそれらの概念について考えてみたい。さらに、やや悪ノリの感は否めないが、こうした植物的な世界観をもとに、現存する世界を分析して批判し、そうではない世界観を構想しようとする思想を「植物主義」、それの思想を自身の行動の指針の一つとして持つ人間を「植物主義者」と呼んでみたい。とは言っても「植物主義者」を名乗る人はいとうせいこうを除いてほとんどいないだろう。ただ、そうしておけば、この国の植物性はあまりにもゆゆしき状態に陥っている、とか、この思想家はその植物性の深みという点で特異な存在である、とか、この時代はそれまでの時代と異なり植物的な時代と言えるだろう、というふうに用いることもできて、各学問を接続していく運動の少なくとも邪魔にはならないだろう。あるいは、だいたいあなたの植物性のなさが気に食わない、という喧嘩の捨て台詞にも効果テキメンだ。植物性とは、植物以外のことにも、いや、そういうところでこそ、応用が有効な概念である。

 そして何より、いとうせいこうと、いとうせいこうの精神的な師であるチェコの作家カレル・チャペック[3]のおかげで、私がこの思想の射程のポテンシャルと魅力を感じたことを、ここで示しておきたい。植物主義の『資本論』は『園芸家の一年』であり、植物主義のマルクスはチャペックである。明らかに高い異常値を示す二人の植物的思考の深度は、植物に取り憑かれたものの特質と社会批判力を遺憾なく発揮している。二人の狂乱ぶりにははるかに及ばないけれども、玄関に置いた鉢植えの植物の育ち具合に一喜一憂し、しばしば枯らしては自分の無能を呪い、たまに美しい花ばなが咲き溢れる姿を見ては自惚れ、雑草を抜いては蚊に刺され、悪態をつき、けれども緑色のものを構っていないと落ち着かない私にも、植物主義のかけらのようなものが存在することは否めない。

 ただ、あらかじめ誤解を防ぐために付け加えなくてはならないのは、植物主義とは一方で危険性を孕んだ概念でもある、ということである。この類の話をするときには、繰り返し自己警告を発しなくてはならない。人間世界を植物世界に安易に喩えるならば、不必要な人間は「雑草」になり、植物を食い荒らす害虫は、合成農薬がかけられ「除去」されるべきだ、ということにさえつながりかねない。あらゆる思想がそうであるように、植物主義という言葉にも毒気は必ず含まれる。問題はその毒気をどう解毒するか、ではなく、毒気とどう付き合いながら、思想を紡いでいくかである。「植物主義」もきっとそうに違いない。

 以上の概念が頭に浮かんだのは、たんに私たち人間が生きる世界であまりにも植物がないがしろにされているという背景があるだけではない。植物的な振る舞いを哲学者や思想家や歴史学者がもっと摂取することで、人間界の根源的な宿痾〔しゅくあ〕を分析し、その処方を考察することができると思うからだ。

植物は動かないのか

 植物性について、それぞれもう少し先まで考えてみたい。

 植物性という概念を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、「根が生えている」「動かない」「動じない」という言葉群であろう。たしかに、この世の生きものは動物と植物にほぼ分けられるから、動物の「動」の字にある「動く」というイメージに反する植物は、やはり「静物」と考えられがちだろう。英語の「アニマル」も、生命を吹き込み活性化するという「アニメイト」という動詞や、「アニメーション」という名詞と同源であって、日本語ほどではないにせよ、どこかダイナミックな動きを彷彿させる言葉である。具体的にいえば、太古の時代を生きてきた原始林の「動じなさ」に、人間はずっと魅力を感じてきた。鎮守の森は、その近くの村落を「変わらず」見守ってきたからこそ、大切にされる。

 しかしながら、植物は本当に動かない・・・・のだろうか。

 よく知られているとおり、植物もまた動物に負けず劣らず動くのである。種によっては、成長速度は動物よりも速い。我が家の玄関の朝顔は朝咲いて、昼には萎む。光の向きに応じて向きを自在に葉の角度を変えられるし、蔓植物の場合は自分の体を支えてくれるものを見つけると成長が速くなる。根は地中で伸び、養分を取り込む。体内では葉で作られたブドウ糖が師管を通って下へ、根が吸収した養分は導管を通って上へと運ばれる。植物は意外にアクティブなのである。

 沖縄などに生息するガジュマルの木は「歩く植物」と言われている。気根と呼ばれる根を枝からぶら下げ、それが地面に着くと根を張り出す。幾年か経つと、その新しい入植地が宗主国になる。つまり、気根によって「歩いた」場所の方が、それまでの場所よりも太くなるわけだ(以下図)。おきなわワールドの案内人がそう教えてくれたとき、植物が歩くという言葉に、宮沢賢治のような響きを感じたのだった。

  

 図作成:編集部

 風が強く吹けば、植物は動物よりも激しく動き、暴れ、音を立てる。動かされている、という見方もできるが、むしろ動くような形態を保つことで、風にしなやかに対応して、総合的には大きな移動を免れているとも言える。環境の変化に対し、動物よりも不利な立場にあるとは必ずしも言えないのである。

 つまり、植物は動く、植物は動物よりも動かない、というのは正確な観察ではない。では、なぜ人間は、動物の方がより動いているように錯覚するのだろうか。それは観察者が遅い動きを動きとみる訓練を受けておらず、素早い動きのみを捉えがちであるからだ。そして、反復される微小な動きではなく、一回性の大きな動きに目を奪われるからでもある。それは、歴史学者の性癖でもある。大きな事件、有名な人物、強い国、そんなものを追っかけているうちに、小さくて、弱くて、わずかで、小刻みな動きを動きとは見なくなってしまうのである。とにかく歴史学者には植物性が欠けがちである。

 二つ目に、植物をめぐるイメージとして誤解されやすいのは、その「優しさ」や「マイルドさ」である。たとえば、「植物由来」をうたったシャンプーやコンディショナーはその激しさではなく、優しさを消費者にアピールしたように、動物と比べてマイルドな印象を得る。それは、草食動物が肉食動物よりもおとなしい、というイメージとも連動するかもしれない。植物油脂が動物油脂よりも胃にもたれないことも、私たちは知っている。

 だが、植物由来のシャンプーやサラダ油の原材料の多くが、東南アジアの熱帯林を切り開いて築かれた大規模なアブラヤシプランテーションの過酷な労働から生まれたことを思い出してもよい。単純なイメージ戦略に引っかかってはならない。いささか怒気を込めていえば、万国の消費者は、広告の緑色に騙され過ぎである。緑色はエコロジーの象徴だが、アブラヤシやバナナのプランテーションもまた緑色である。そもそも植物は厳しく、ワイルドで、危険である。別の植物を殺すし、毒も産出する。

 三つ目に、植物性は農業の性質と重なる部分も多いが、異なる部分も多い、ということである。別の言い方をすれば、農本主義と植物主義は異なる。農本主義は、植物に働きかけ、何かを生産しようとする人間の勤勉さを主に重視する。だが、植物主義は必ずしもそうではない。「都会の植物主義者」を名乗るいとうせいこうは自分の行為についてこう限定的に述べる。「繰り返し続ける植物の生命のほんの一瞬の戯れ」[4]。完璧ではない。ほどほどに、雑に、ムラを消すことなく植物と付き合い続ける。作物として商品化される前の植物の裸性を味わう。いとうせいこうは植物主義の三つの重要な論点を掲げている。

「植物主義は幻想を許さない」。「植物たちを通して社会的現実を凝視し、自らの立場を鮮明にし続ける」。「空を共有する世界の労働者諸君と連帯している」。これはつまり、「ガーデン」を家に持たなくとも、空が頭上に広がるかぎり植物を育てようとする人びとの現実性、道路を「不法占拠」してでも玄関前に植物を増やしていく人びとの現実性に、植物主義者は依拠しているのである。

炸裂

 動かないこと。マイルドであること。農本主義的であること。これまで述べてきたように、これらの性質は、植物性と動物性とを泰然と分ける本源的な性質ではない。植物学者のダニエル・チャモヴィッツは、植物は目を持っているかのように光を、触覚があるかのように接触を、聴覚があるかのように音を、嗅覚があるかのように匂いを「感じる」だけではなく、人間が手に触れたときの感触や、重力の方向も「知っている」と述べている[5]。もちろん、「感じる」や「知る」という概念を中立的にできるだけ広く考えたときにそう言えるのであって、植物に脳や神経系があるわけではない。植物と波長を合わせて古代の記憶と交信する、というようなスピリチュアリズムともチャモヴィッツは無縁である。こうしたことは全て科学の手続きを経て得られた知識だけで説明されている。植物が人間に隷属している、という曇った目が、植物に「お前たちはこれができない」という烙印をマシンガンのように撃ち続けた結果が、人類の植物への無知を生んだとさえ、チャモヴィッツの本は伝えているように思える。

 こうして私たちは道に迷う。ますます植物性とは何かわからない。何がいったい植物的なのだろうか。

 道に迷ったときに役立つのは地図だが、心が迷ったときに役立つのは聖書であり仏典である。植物主義の聖書であり仏典であるのはチャペックの『園芸家の一年』である。

 

 春は芽ぶきの時期だ、とわたしたちは言う。現実には、芽ぶきの時期は秋だ。自然を眺めているかぎり、たしかに、秋は一年の終わりと言える。しかし、むしろ、秋は一年の始まり、と言ったほうが、もっと当たっている。

 秋には葉が落ちる、というのは一般的な意見だ。それは、実際、否定できない。ただわたしは、もっと深い意味で、秋は、じつは葉が出てくる時期だと言いたい。葉が枯れるのは、冬がやってくるからだ。だが、葉が枯れるのは、また、春がやってくるからでもある。早くも、花火のかんしゃく・・・・・玉のような新しい小さな芽ができているからで、そんな、かんしゃく ・・・・・玉の中から、春が炸裂〔さくれつ〕する。

 秋に木や灌木がはだかになるというのは、目の錯覚である。それらは、春になると衣を脱いでのびてくる、あらゆるものでちりばめられているのだ。秋になると花が姿を消すのは、たんなる目の錯覚である。なぜなら、実際に花が生まれているのだから[6]

 

 私はこの文章の中に、植物性の根と幹が描かれていると思う。

「炸裂」である。どうやら、チャペックが惹かれている植物の性質は、秋と冬のあいだに凝集されエネルギーを蓄えていく始まりのエッセンスが、まるで金剛砂と火薬を混ぜたものを紙につめた玩具のように、春にポンと破裂することなのである。夏の夜空を染めぬく花火が植物に喩えられるのは、それゆえ当然といえば当然だ。生と死。凝集と破裂。芽が吹く、というとき、つぼみが弾ける、というとき、それはチャペックにとってみれば爆発である。凝縮は枯葉舞う秋と冬の季節に、沈黙の中で人知れず進んでいる。比較的温度の高い土の中で、植物は死んだふりをして健気に生命を蓄えている。植物は、それを静かに小出しにするというケチくさいことをしない。炸裂させるのだ。「植物からの優しい贈り物」「肌が喜ぶ植物性」のような広告文句に踊らされてはならない。植物は意外と激しく、荒い。

 よって、繰り返すが、植物性とは動かないことを意味しない。受動的、というよくある形容詞もそれほど的確ではない。小さいところで動きつづけ、全体としては動じない。何日も何時間もかかってゆっくりと動いたり、太陽の動きに応じて動いたり、地下に根を張ったり、環境の異変が激しいときにはそれに身を任せたり、調整を人知れず進めること。最終的には出発点からあまり動いていない状態に着地すること。ただし、その着地点は出発点からズレが生じている。植物はたんに反復しているのではない。炸裂によって絶え間なく差異を生み出している。その反復と差異が、生命の営みである。

人間の根と葉

 人間は、航空機を用いて地球の表面を動き回ることができるが、そんな世界を股にかける人であっても、髪の毛を伸ばして地中から養分を吸い取ることが不可能なように、地球の生命維持基盤から離れて生きていくことはできない。宇宙船も小さな地球を詰め込むことでしか、人間を乗せることができない。銀河系のスケールから鑑みれば、人間の動きなど、植物の動きとほとんど変わらない。葉の角度を変えることと、朝出勤して夜帰宅することと、大きな違いはない。お前たちは動きが鈍いと植物や自分以外の人間を軽蔑する人間たちだって、所詮、井の中の蛙にすぎない。動いているようにみえて、そういった人間たちも意外と動けていない。どれほど、リニアモーターカーや宇宙エレベーターのように、もっとスピードのある乗り物を開発したとしても、人類は、植物を、あるいは植物を食べた動物を食べなければ、生きていけない。二酸化炭素と光でブドウ糖を合成できる人間が生まれないかぎり、植物の生存条件はそのまま人間の生存条件である。

 根を張り、葉を開く。

 めまぐるしく世の中が動く、とよく言われる。だが、どれほどめまぐるしく動いていようが、体内の調整ほどめまぐるしくはない。呼吸、体内の管による物質の運搬、濾過、排出。温度調節、圧力調節、水分調節。外敵の退治。人間と植物に共通するこれらの機能こそ、めまぐるしいという形容詞に相応しいのであって、プライベートジェットに乗って世界を歩きわたるビジネスパーソンのめまぐるしさは、植物のめまぐるしさには、もっといえば、ビジネスパーソンの体内の細胞のめまぐるしさにさえも、はるかに及ばない。

 ならば、植物の動きから私たちはもっと学ぶべきことがあるだろう。人類の祖先が葉と根を捨てたときの痕跡を自分のうちに探る。そんな思考実験によって、自己を相対化してみることも、こんな時代だからこそ無益ではないだろう。

 まず、根について。

 人間の根について考えることで、ようやく人間は、歴史の中で、とりわけ現代史の中で、一部の権力者たちの取引や戦争によって強制的に移動を迫られ、命の危険に晒されながら故郷から離れ、別の土地に根を生やしてきた人たちのことを知る、とば口に立てるのではないだろうか。

「根」を退化させることで、経済活動の活性化を図ってきた近代社会は、住み慣れるという感覚、根っこを抜かれる感覚、場所を移動することの恐怖、新しく根を張ることの勇気を忘れようとしてきた。そうして、根の記憶の痕跡を抹消し、動き続けることこそが、経済的にも、社会的にも、思想的にも、トレンドとなってきた。そのトレンドの背景にはもちろん、ナチスが、ユダヤ人やシンティ・ロマの人びとを「根なし草」だとレッテルを貼り、強制収容所に隔離して、文字通り根絶やしにしたごく最近の苦い記憶が存在する。自己の領域を侵犯する流浪の民を差別する口実として、「根」というとっくのむかしに別れを告げた器官が思い起こされ、差別感情の増幅に利用されたのである。少なくともこうした現代史の事実を無視して植物性を議論することは、あまりにも安易である

 ただ、あの悲劇は、人間とはたとえ短期間でも滞在した場所に根を張り、葉を茂らそうとする生きものであることを前提に考えなければ、現在の高みに立った目線から過去の事象として消化されてしまう。せっかく伸ばしていた根を、銃を突きつけられて引っこ抜かれることが、いや、外部からの力によって自分の根を自分で引き抜くことが、どれほど残酷で切ない行為であるのか、その感覚がなければ、あの悲劇の悲劇性には迫れない。

 つぎに葉について。

 植物も人間も、光を感じる。チャモヴィッツはこう述べている。

 

驚くことに、植物と動物の視覚機構は数十億年かけて別々に進化してきたにもかかわらず、どちらもクリプトクロムという青色光受容体を有するという共通点がある。クリプトクロムは[……]植物の体内時計を調整するなど生長に必要な役割をいくつか果たしている。動物と同じく植物にも体内時計のしくみが備わっていて、昼と夜の周期を調整している。/[……]ところで、植物にも葉の動きや光合成などを統制するための概日リズムがある。植物の昼夜周期を人工的に変えれば植物も時差ボケを起こし、ヒトのように不機嫌にこそならないものの、再調整するのに数日を要する。たとえば、葉が午後遅くに閉じて朝開くという周期になっている植物があるとする。明暗の時間を人工的に逆転させると、その植物は最初のうち、暗いとき(それまで朝だった時間)に葉を開き、明るいとき(それまで夜だった時間)に葉を閉じる。しかし数日たつと、人工的な明暗周期に合わせて葉を開閉するようになる。/[……]進化の観点からすれば、クリプトクロムの機能がこうして保たれていることにさほどの驚きはない。概日リズムは単細胞生物の進化において早くから、つまり動物と植物が枝分かれするより前から発達していたからだ。原初の生き物の「時計」はおそらく紫外線によるダメージから身を守る作用をしていたものと思われる。原初クリプトクロムは周囲の光を監視して、細胞を夜間に分裂させるよう促していたのだろう[7]

 

 人間も、植物と同様に光を通じて昼夜の長さを測ってきたが、近代産業社会は、昼夜のリズムを崩すことでその成長を遂げてきた。地球上に無数の夜型人間を生み出してきた。夜間に工場を止めないために、夜に人間を働かせる、ということも今では普通に行われている。病院は、看護師も医者も昼夜交代制で入院患者を看る。コンビニエンスストアは、夜も眠らない。

 人間は、ガス灯や電灯など、人工的な光を手に入れることで、「葉」を閉じる時間と開く時間を自在に管理できるようになった反面、昼と夜を感じる力も退化させてきた。

 とともに、根も葉もない世界に人間はすっかり疲弊している。居場所がない。落ち着く場所がない。昼は眠くて、夜は眠れない。植物工場では、太陽の代わりにLEDが光を植物に放つ。

「移動の自由」は近代社会の根源にある。近代国家で定められる不可侵の人間の権利である。しかし、近代社会はむしろ、移動せよ、動け、休むな、と人間に要請し続けてきた。移動という監獄の中でもがいているとも言えるかもしれない。土地に縛り付けられる時代にはもちろん戻れない。縛り付けられるのではなく、動き続けるのでもない、土地や太陽との付き合い方はないのだろうか。ひょっとすれば、動きすぎることもなく、止まり続けることもなく、風と光と土を直接に感じ取る植物の振る舞いに、それを探るための鍵が隠されているかもしれない。

「植物性」について考えてみたいと私が思ったのは、さしあたり、以上のような雑駁な予感からである。

 

[1] いとうせいこう『ボタニカル・ライフ——植物生活』新潮文庫、2004年、10頁。

[2] 牧野富太郎「心の緑化」『牧野富太郎選集 1』東京美術、1970年、87頁。

[3] カレル・チャペック『園芸家の一年』(飯島周訳、2015年)の思想的ポテンシャルについては、藤原辰史『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019年)で論じたことがある。

[4] いとう『ボタニカル・ライフ』、14頁。

[5] ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている——感覚に満ちた世界に生きる植物たち』矢野真千子訳、河出文庫、2017年。

[6] チャペック『園芸家の一年』、196頁。

[7] チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』、33-35頁。

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著者略歴

  1. 藤原辰史

    1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『分解の哲学』ほか著書多数。


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