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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅の入り口――自己流の旅、その源泉

 

 以前、シンガポールから来たコニーという女の子とバンコクで出会ったという話をした(第2回)が、今回はその続きを書いてみたいと思う。

 

 フードコートで話をしていたとき、コニーが何か小さな紙きれを持ち出してきて「ここのこと、何か知っている?」と聞いてきた。

 見るとそれは、道順を示した略地図と、西洋人の女性が絵画教室?みたいなものを受講しているような写真が載った宣伝チラシだった。

「知らない。有名なところなの?どこで見つけたの?」

「私も知らないけど、外国人が住める場所みたい」

「Artist Placeって書いていあるね。何かの教室じゃない?」

「でも宿泊できるみたいなの。明日行ってみようかな。興味ある?」

 

 今にして思えば、コニーはバンコクで長期滞在の可能性も探っていたのかもしれない。そのチラシも、どこかの機関の窓口に置いてあったのを見つけたとかで、外国人が格安で長期滞在できる施設のはず、ということだった。

 地図は簡略過ぎて分かりづらかったが、どうやらチャオプラヤー川の西側にあるらしい。ちなみに、バンコクの観光名所は、ほとんどがチャオプラヤー川の東側にある。暁の寺院として有名なワット・アルンが川の対岸ということで一応は西側にあるが、それより先に何か見どころがあるという話は聞いたことが無かった。

 僕は特に予定もなかったし、コニーも別に寺院めぐりみたいな平凡な観光には興味がないらしく、まだ見ぬバンコクの西側ということもあって「面白そうだね、行ってみようか」の一言で、一緒にその施設を訪ねてみることになったのだった。

 

 翌日、ちょっとした探検気分で出かけてみたものの、とにかくチラシの略地図の分かりづらさには閉口させられた。とりあえずバスに乗って対岸に渡り、地元の人に聞き込みしながら歩き回ったのだが、かなり近くまで来てるはずなのに一向に肝心の施設が見つからない。

「アーティスト・プレイスって書いてるけど、この地図を描いた人はアーティストじゃないわね!」

と文句を言うコニー。

「いや、こんなに分かりづらく描けるなんてピカソみたいなアーティストかも」

 といった調子で、途中で昼飯休憩をとったりしながら探し歩いたが、結局、最後は地元のトゥクトゥク(三輪タクシー)に頼ってようやくたどり着くことができたのだった。

 

 その施設のあるエリアは、ウォンウェイ・ヤイと呼ばれ(同名の鉄道駅もある)、行政区的にはクローンサーンという地区にあたる。

 ウォンウェイ・ヤイには、タークシン王(18世紀にトンブリー王朝を築いた)という英雄の騎馬像を真ん中に置いた大きなロータリーがあって、その周辺にはデパートが立ち並んだり、ちょっと東側には市場もあり、そこそこにぎやかではあった。ただ、王宮がある川の東側、つまりバンコク中心部と比べると規模は小さく、特に市場とチャオプラヤー川の間の地域は、庶民の町というか、ここは葛飾柴又か!と突っ込みたくなるような下町風情を感じさせる町並みになっていた。

 バンコクの街は、だいたいどこも単純な造りになっていて、大通りと、その大通りに交差するソイと呼ばれる細い小道が、まるで葉っぱの葉脈みたいに左右に広がっている、という場合が多い。

 その点、このクローンサーン地区は、バンコク市内でも歴史が古いほうらしく、他とは違って小道が複雑に入り組んでいて風情があった。

 そして、その施設は、外国からの観光客などまったく訪れそうもない、この下町のど真ん中に位置していたのだ。

 

 トゥクトゥクから降りると、そこは小道に沿って伸びる長屋風の二階建て建物の一角で、長屋は小道の奥までずっと、少なくとも20メートルくらい続いていた。ただ、施設として使われているのは手前の三分の一ほどの部分だけで、奥は別の民家のようだった。

 そこだけ壁の色が一部赤く塗られていたり、出入り口のひさし部分を大きく道側に伸ばし、ボックス風に囲っていたり、ひさしの下が木陰になるようブーゲンビリアが植えられていたり、どこから拾ってきたのか、小枝やら空き瓶やらをそのひさし部分に上から垂らして飾りつけていたりと、明らかに隣とは違う空間になっていたのだ。

最初の写真はアーティスト・プレイスの正面。軒下の上はブーゲンビリアで覆われている。次の写真が、そのひさしの下の様子。ガラクタを吊るした装飾で覆われている。ある夏の夜、一本奥の小道の先で映画上映会があった。どこか日本の昭和初期を連想させるような懐かしさを感じさせる庶民的な光景。子供たちが多いのが印象的だった。

 

 「あ、あー、コン、コンニチハ?」

 僕が日本人と分かると、片言の日本語で挨拶して迎えてくれたのはチャーリーという男だった。

 チャーリーはこの施設のオーナーで、自分はアーティストだ、と自己紹介してくれた。ちょっと小太りで、白髪混じりで、口ひげもあり、個性派俳優風というか(後で知ったが、若い頃は実際、少しだけ俳優をしていたという)、言われてみればアーティストっぽい風貌で、年齢的には40台後半くらいに見えた。

 いろいろ説明してもらって分かったのは、この施設は要するにチャーリーの自宅兼アトリエ兼ギャラリー兼ゲストハウスであるということと、アーティストとしての収入だけでは食べていけないのでゲストハウスも併設しているらしい、ということだった。

 最初、チャーリーというのはニックネームかと思っていたが、後で確かめると本名のようで、王宮に仕えた何代か続く芸術家の家系の出らしい。チャーリー自身は、欧州で絵画を学んだことがあるといい、主に水彩画を描いていた。

 

宿主のチャーリー。ときどき市内在住の外国人を相手に絵画教室も開いていた。

 

 当時はまだ、ここのことは、日本のガイドブックにはもちろん、欧米で絶大な人気を誇ったバックパッカー向けガイドブック『トラベルサバイバルキット』にも紹介されていなかった。特に近くに観光物件があるわけでもなく、外国人が泊まる宿が多いエリアというわけでもなかったので、それも当然といえば当然なのだが、それでも僕らが訪れたときにはすでに長期滞在で居ついているゲストが何人かいた。

 一人はオーストラリアから来ていたロブという青年。もう一人は、素行がちょっと不良気味のドイツ人青年のジギー。もう一人は名前を失念してしまったが、オーストラリアから学術的な目的で長期滞在しているという年配の大学教授だった。

 

 一通り建物を案内してもらったあと、コニーは大学教授に聞きたいことがあるとかで教授の部屋のある屋上に行ってなにやら話し込んでいた。僕のほうは単純な好奇心からロブに話しかけてみた。

「ここにはどれくらい居るの?」

「もう半年くらいかな」

「あとどれくらい居るつもり?」

「さあ、分からないな」

「はじめてバンコクに来たときの印象はどうだった?」

「ふーん、て感じかな」

 ロブの受け答えは、どこかひょうひょうとしてとらえどころが無く、あまり感情を表に出さないタイプのようだったが、同時に、いかにも育ちがよさそうな素直なフレンドリーさもあった。

 彼はバンコクに仕事を探しに来たと言っていた。職種的にはデザイナーとかライターとか、その手のクリエイティブ系の仕事を志向していて、後日、彼の部屋を見せてもらったとき、オーストラリアから持ち込んだというマッキントッシュ(たしかクラシック2型)が置いてあったのに驚かされた記憶がある。

ロブが自室でくつろいでいるところ(上)。故国豪州ではグラフィックデザイナーだったとかで、アーティスト・プレイスでも時々絵を描いていた(下)。

 

 当時の写真を見返してみると、ロブは映画のマトリックスに出てくるエージェント役に似ていて、後年、その映画を見てデジャブがあったのはロブのせいだったのだ、と気がついた。

 

 ジギーは、いつも大声で怒鳴るようにしゃべっていた印象があった。英語や片言のタイ語でしゃべっていても、ドイツ語アクセントが強いせいか、はたで聞いていると喧嘩してるように聞こえるのだ。

 いや、実際に素行の悪さをめぐってチャーリーと言い争いになることも多く、チャーリーのジギーに対する口癖は「ヒー・イズ・クレイジー」だった。

 ジギーは当時、ドイツで半年か9ヶ月くらい仕事して、お金がたまるとバンコクに来るというスタイルの生活をしていたようだった。

 オーナーのチャーリーといい、長期滞在してる面々といい、キャラが立っていて個性的で、そのままマンガかなにかの舞台になるくらいユニークで、加えて下町風情の残る周囲の環境も居心地が良さそうで、僕はすっかりこの場所が気に入ってしまった。

 

「どうする?ここに泊まる?」いつの間にかコニーが下に戻ってきて僕にそうたずねた。

 このときは僕は、カオサン通りの安宿に泊まっていた。前回書いたとおり、最初にバンコクに泊まった宿はユースホステルだったわけだが、ある程度旅慣れてくると、嫌でも旅人同士の交流からいろんな情報が入ってくる。そんな中で自分に合ったものを選んでいくうち、結局、主にコスト的な理由からカオサン通りの安宿に泊まるようになっていたのだ。

「うん、気に入ったから、早速荷物ももってきて明日からここに泊ろうかな」

 アーティスト・プレイスの宿泊費は、カオサンのそれと比べると必ずしも安くはなかったが、さすがに常に安さだけで宿を選んでいたというわけでもなかった。

「そう、じゃあ私もいったん帰ってまた来るわね」

 実はコニーはこのとき、親類の紹介とかで、そこそこ中級のホテルに滞在していた。僕みたいにバックパッカーというわけでもなく、泊まっていたエリアもカオサンではなかった。わざわざここに来たのも、あくまでも情報収集が目的だったようで「また来る」というのも、泊まりに来るという意味ではなく、遊びに来るということだった。

 

 アーティスト・プレイスでの滞在は、一言で言うとすばらしい体験だった。

 カオサン通り周辺みたいに深夜まで営業してるバーがあったり、観光客向けのおみやげ物屋があるというわけではなかったが、代わりに地元住民の胃袋を満たす屋台があったり、観光客ずれしていない庶民の生活がそのままあった。

 夕食どきになると、チャーリーと親しい近所の住民が、酒やビールを持ち寄り、おかずやおつまみも屋台から取り寄せ、軒先に集まっては、毎晩ささやかな夕食会というか、酒盛りというか、ちょっとした国際交流が始まるのだ。

 話題はサッカーの試合の結果のこととか、宝くじに当たったとか外れたとか、どうでもいいような、たわいもないことがほとんどだったが、それまで僕は、観光業に従事していない普通のタイ人、それも、どちらかというと中流クラスの庶民の感覚に直接触れることがほとんどなかったので、彼らとの交流は新鮮で面白く感じられた。

 ちなみに、屋台と言っても、タイではそもそも家庭ではそれほど料理をしないらしく、地元民にしてみれば屋台料理がそのまま家庭料理の延長のようなところがある。なので材料も味付けも分量も、好みの注文で作ってもらうのが基本なのだが、地元民が自分たちの酒のつまみに注文してくる料理のうまいことといったら、もしも僕がミシュランの編集者なら迷わず星をひとつ進呈したくなるほどだった。これがカオサンあたりにある料理屋だと、最初から欧州系外国人向けにアレンジされていたり、そもそも旅行者に人気のある、分かりやすい単調なメニューしかなかったりするのだ。

 そんなこんなで、この場所が気に入った僕は、以降、バンコクに来るたびにここに泊まるようになり、いつしか僕にとって常宿といえるような存在になっていった。

 

 商売一辺倒の安宿と違い、ここはチャーリーによる一種の民泊みたいな宿だったから、こちらが暇そうにしてると、自分の絵画の展示会に一緒にこないかと誘ってくれたり、バンド仲間(チャーリーはドラムを演奏していた)を紹介してくれて宿で小ライブをやったりと、滞在中にはなにかしらイベントを用意してくれたし、なによりこの宿に居ると、周囲の下町の、ゆったりした生活感が感じられて、それがなんとも心地よかったのだ。

この当時のメンバーの集合写真。左からチャーリー、ロブ、コニー、ジギー、ティアン。今回ジギーのエピソードは無かったが、粗暴な印象と違って、変わり者だが内面は優しい良いやつだった。ティアンは住み込みで雑用をしていた世話人。

 

 

 人が「何か」を探すとき、普通はその探す「何か」をあらかじめ知っている必要があるのではないだろうか?

 

 たとえば、どこかに無くしてしまった鉛筆を探している、というような場合。その人の心の中には、無くしたその鉛筆のイメージがしっかりとあるはずだ。そして、あらかじめその鉛筆を知っているから、後から見つかったときに、それが確かに自分が探していた鉛筆だと分かるのではないだろうか?

 では、まったく新しいもの、いままで見たことも聞いたこともないもの、あるいは自分でも何かわからないけど、その分からない何かを探している、という場合、人はどうやってそれを探し、どうやって見出したらいいのだろう?

 

 はじめてのインド旅が終わる頃、帰国途中にバンコクに立ち寄った際、とある旅なれた日本人の男に話しかけられたことがあった。

 彼は僕がまだ旅の初心者だとわかると、いろいろと自分の知っていることを親切に教えてくれたのだが、そのなかに中華街近くの安宿のことがあった。

 その安宿とは、当時すでに多くの日本人バックパッカーが居つくようになって、半ば伝説になりつつあったジュライホテルというところだった。なんでも、そのすぐ近くに楽宮ホテルという安宿があって、そこが小説の舞台になったとかで、その地区全体に日本人が多く集まるようになり、いつしか近くにあったこのジュライホテルにも日本人が多く泊まるようになっていったのだという。

 実は東南アジアやインドには、日本人ばかりが多く集まる「日本人宿」というのがいくつかあって、ジュライホテルもそのひとつだったのだ。僕は例によって例のごとく、楽宮ホテルのこともジュライホテルのことも知らなかったので素直にそう言うと、男はあきれたように、日本人なら知っておくべき義務であるとでもいう風に、有名な場所なんだから、とわざわざ案内してくれたのであった。

 

 結論だけ書くと、僕はその宿には泊まらなかった。今となってはどんな宿だったのか、見学しただけなのでその記憶さえもあいまいだ。言われるまま、それなりに興味をもって訪れてはみたのだが、いまひとつ自分の心に響くものがなかったのだ。

 ただ、その見学のあと、すぐ近くの北京飯店というところに連れて行ってもらって食事をしたのはよく覚えている。そこは、スワニーさんというおばさんが一人で切り盛りしていた飯屋で、店名に反して、なぜか丼物とか豆腐、味噌汁といった日本食があり、インド帰りで日本の味に飢えてた僕にはありがたかったのだ。

 

 先に書いた通り、「何か」を探すというような場合、普通は探す「対象」を、心の中にしっかりとイメージしてから探すものだ。ところが、無知な状態のまま、世界に対して驚きのまなざしを向けて、事前のイメージや情報、知識がないままで旅をすることは、何を探しているのか分からないまま何かを探すという行為に近い。

 たとえば僕は最初、バンコクで快適に過ごせる宿を探していたわけではなかった。探そうにもそもそもどういう宿があるのかあまり知らなかったし、何をもって自分にぴったりの「快適さ」なのかが自分でも分かっていなかった。

 金を積めば高級ホテルで快適に過ごせるじゃないか、という人もいるかも知れないが、そういう場所で得られるような快適さを自分が求めていたのかというと、それもまた違う気がするし(求めていたとしても、その当時は先立つものがなかったのだが)、結局、心のどこかで納得できないまま、カオサン通り周辺に泊まるようになっていたわけだ。

 もしも僕がバンコクを訪れる前に、何かの小説でも読んでいて、たとえばジュライホテルや、そこに集まる日本人バックパッカーの生態について知っていたら、そしてそのイメージや世界観に憧れて旅をしていたとしたら……想像するほかないが、おそらく僕はまっすぐにそこを目指し、イメージ通りのスタイルに満足していただろうから、アーティスト・プレイスに出会うことも無かったかもしれない。

 

 あらかじめ余計なイメージを持って探すなら、そのイメージを超えるものに出会うことは難しく、本当に新しい発見をするのも難しいのではないだろうか?

 前もって余計なイメージを持たないという意味で「(特定の対象を)探すことがなく」、何かは分からないけど探求する姿勢は維持する、という意味で「探す」こと。そのような探求の中にこそ、新しいものとの出会いや発見があり、旅が自分だけのオリジナルなものになる源泉があるように思う。

 

 また、以前どこかで、何かの理解を得るには、理解が訪れるのを静かに待つ、あるいは、能動的に探ろうとしてもうまくいかない、と書いたと思うが、そうなると思う理由のひとつ(全部とは言わない)がまさにこれなのだ。

 能動的に理解を探るという場合、普通はあらかじめ求める理解や、答えのイメージが先行していることを意味する。その場合、期待するその先行イメージがまるでフィルターのように作用し、まだ知らない新しい理解の浮上を妨げるように思うのだ。

 ただし、能動的に探ろうとしないといっても、世界に対してまったく関心をもたず、ただ目を閉じて寝転んでいればいい、という意味ではない。深い眠りのなかで意欲も消失しているなら、そこから新しい発見などあるわけがない。

 

 つまり、何かを探ろうとする内なる「活力」というか、意欲のようなものと、その活力が特定のイメージや、限定された「対象」をもつこととは、二つの別々のことなのではないか、ということなのである。

 活力が特定のターゲットを持つことは、関心を向ける方向への「限定」につながる。そしてその「限定」が新しい発見、もしくは自己の内にある源泉への回帰を妨げる、というわけだ。

 

 僕は前回、知らないという状況に身をおくことが旅のはじまりではないか、と書いた。この場合の「知らない」というのは、とりあえず目の前の状況や現実に対しての無知に気が付くことであった。

 しかし、そんな状態で旅を続けていると、単に他国の文化や世界に対して何も知らない、というだけではなく、一時的にせよ、自分自身が何を求めているのかということについても分からなくなっていく、ということがあるように思う。

 すでに何かを知ってる場合は、当然、その知っている「対象」があり、その対象を探したり求めたりすることのなかで、自分が何者で何を求めているのかについても迷うことが無い。

 ところが「知らない」という状況に身を置くことは、その「対象」となる何かを、心の中から拭い去るように作用するため、自分が何者で何を求めるているのか分からなくなっていくわけだ。

 旅のあり方として「放浪の旅」というスタイルがある。何処に行くかは「風まかせ」という言い回しもある。いずれも行き先や旅の目的という「対象」が明確ではないスタイルのときに使う言い回しで、世間ではそのような旅のあり方は、非生産的で、ともするといかがわしい人間がするものだと思われているかもしれない。

 しかし、外面的なスタイルからだけで断言するのは難しいが、「対象」として求める何かが抜き取られてしまえば、後に残るのはいわば「純粋な探求」そのもの、もしくは「探求への活力」そのものになり、その旅への活力としての源泉が、限定なしに世界と直に向き合うとき、おのずとその旅の軌跡を、放浪の風まかせ的なスタイルへと導いていくようになるのではないだろうか?

 そして、そのような探究心、特定の対象を持たないという意味での純粋な探究心だけが、見知らぬ世界の放浪の中で、新しい理解を見出していくように思うのだ。

 

 

 余談だが、アーティスト・プレイスを発見した翌日だったか、翌々日だったか、約束通りコニーが遊びに来てこんなことを言い出した。

「私、バンコクの性産業に従事する女性に関心があるの。同じ女としてどんなことをしているのか興味があるのね。だからパッポン通りのゴーゴーバーとか見に行きたいの」

 な、なんだって~、と内心、ちょっと焦りながら、

「パッポン通りか~。僕は行ったことないんだよ。危ないんじゃない?」と止める方向で話をしようとすると、それを横で聞いていたロブは、顔色ひとつ変えずクールに、

「それなら僕が案内するよ。業界に知り合いもいるし」と言い出した。

「そ、そう? 危険じゃないかな?(おいおい、ロブ…)」

「私、行きたい。どんなことしてるのか見てみたい!」

 ということで、僕自身はパッポン通りの性産業にはまったく興味はなかったかが、これはあくまでも若い女の子の社会見学への同伴であって、別に遊びに行くわけじゃないんだからね、と重い足を引きずりつつ、その見学ツアーに同乗することになったのだった。

 コニーの名誉のために書いておくと、その見学ツアーはロブのアシストで結構きわどい店まで見てきたものの、最後まで文字通りの見学だけに終始した。

 ロブはいつも通り、マトリックスのエージェントみたいにひょうひょうとして、ここがポールダンスやってるところ、ここが○○してるところ、といった具合に冷静に案内役に徹して、僕も護衛役として終始紳士的に振る舞ったことは言うまでもない。

 

 後年、一度だけコニーと連絡を取ったことがあるが、コニーはなかなかの才媛だったらしく、そのころは弁護士になっていて、米国移住を考えてる、この前どんなところか西海岸に下見に行ってきたわ、と話していた。

 あれから、いつの間にか二十年以上の歳月が流れてしまった。

 彼女が今、どこで何をしているのか、僕は知らない。が、この頃のことの思い出は、まるでハーバリウムに閉じ込められた美しい花のように、今でも鮮やかに心の中に残っている。

 

フィルム時代の古い写真をあさったら、パッポン通りに遊びに行ったときのものも出てきた。もっときわどい写真もあったが、典型的なゴーゴーバーの雰囲気は出ていると思う。そして最後がそのパッポンのバーでドリンクを楽しむコニー。場違いなくらい幼く見える。

 

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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