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〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史 畑中三応子

添加物恨み節

 2000年代に食の安全を揺るがす事件がたびたび起こり、「国産なら安心安全」という意識とメイド・イン・ジャパン志向が高まっていったことは2回目に書いた。

 だが、高度経済成長期から1970年代にかけての食品公害は、それよりはるかにひどかった。食と農の工業化が進み、大量投与された農薬、化学肥料、食品添加物などの化学物質が、国民にさまざまな健康被害をもたらしたのである。

 食料自給率が年々低下する一方で、メイド・イン・ジャパンの食べ物は問題だらけだった。

 

乱用された危険な食品添加物

 

 戦後の欠乏期、日本の食品には化学物質が野放図に乱用された。なにしろ、覚醒剤のヒロポン(メタアンフェタミン)が薬局で普通に買える市販薬だったくらいで、食べ物は推して知るべしだ。

 1946年、使用が許可された人工甘味料のズルチンは、砂糖の250倍の甘味を有するが、栄養はゼロ。摂取しても砂糖のようなエネルギーにならないばかりか、毒性が非常に強く、早くも47年、5グラムをなめた幼児が死亡する事故が起こっている。それでも、48年制定の食品衛生法で食品添加物として認可され、業務用だけでなく、家庭料理にも広く使われた。

 甘いものにだれより飢えていたのは、化学物質の影響を受けやすい、育ち盛りの子どもたちだ。学校給食の脱脂粉乳にも、自転車で売りに来るアイスキャンデーにも、ズルチンは大活躍したが、それ以降も死亡事故が何件か起こり、発がん性があることも判明して、69年に使用が全面禁止された。その時点で、ズルチンが認可されていたのは、世界で日本だけだった。

 同じ年、やはり発がん性と催奇形性の疑いから禁止されたチクロは、56年に認可されてから人工甘味料の花形として、あらゆる食品、なかでも子ども用のお菓子に大量に使われた。当時、チクロ菓子を食べたことのない子どもは、ほぼ皆無だったから、小学生のあいだでも大ショックの出来事だった。

 

「おそるべき食物」の氾濫

 

 日本で最初に食品添加物の害を説いた啓蒙書、『五色の毒――主婦の食品手帖』が世に出たのは、53年。「添加物」という言葉を一般に知らしめたのは、55年に起きた森永ヒ素ミルク事件だった。

 著者の食品衛生学者・農学博士の天野慶之が、56年8月に筑摩書房から出した『おそるべき食物』は、ぎょっとするような有害食品のオンパレードだ。発売直後から話題になり、たったの2ヶ月で7版を重ね、9月には『週刊朝日』が本書をもとに9ページの特集記事を巻頭に掲載している。

 ヒ素に関しては、粉ミルクがあまりにも有名だが、本書は同じ55年、山口県・宇部市で起こったヒ素醤油の中毒事件も解説している。

 戦時中にカイコの蛹の搾り粕で醤油を造ったことを前に書いたが、戦後10年が経ったこのころでも完全に天然醸造の醤油はごくわずかで、なんらかの原料を化学的に分解したアミノ酸液を使った醤油が大半だった。アミノ酸製造に使用される酸およびアルカリが、相当量のヒ素を含む可能性がある工業用だったことが原因である。森永ヒ素ミルクも同様、コストを下げるために工業用の第二リン酸ソーダを使ったために起こった。

 粉ミルクはおろか、醤油にもヒ素だなんて、なにを信用したらよいのか!? だったんだろう。おかげで私は、牛乳で哺育された。牛乳の成分は人乳とだいぶん違って、脳の発育に必要な乳糖が足りないので、親心だったとはいえ残念。

 天野が結びで「国情の相違もあり、必ずしも国際的な動きに同調する必要はないが、多くの国々が添加物についてその使用を抑制しようという方向にあるとき、ひとり、それに逆行する行き方がどんなものか、吟味されてよいことであろう」と書いているように、食品添加物規制の議論が活発に行われていた欧米にくらべ、日本はたっぷり10年遅れていた。

 

真っ黄色のタクアン、真っ白いパン

 

 食中毒で大勢の人が死んだ時代だから、食品の腐敗や酸化を防ぎ、品質を保つ防腐剤や保存料、酸化防止剤、防カビ剤、殺菌剤、殺虫剤などは、認可された種類を、定められた基準量で用いれば、リスクを低減してくれる救世主にもなった。

 問題は、復興が進む1950年ごろから目立つようになった、見た目をおいしそうにするために使われた添加物である。

 もっとも多かったのが、食用には禁止されている紙・皮革・繊維用の有害色素で色づけた事例だ。たとえば、オーラミン(黄色染料)で真っ黄色に染めたタクアン、ローダミンB(赤色染料)で鮮やかな牡丹色にした和菓子や梅干、マラカイトグリーン(青緑色染料)染めの緑茶やワカメ、クリソイジン(赤褐色染料)でつや出しした煎餅……。中毒のおそれがある食品が、無数に作られていた。いまの「中国毒食品」なんて目じゃない。

 認可された色素にくらべ、値段が安く、染まりやすく、長く変色しないのが、違法染料のメリットで、危険性には目が向けられなかった。業者の法令遵守意識はきわめて低く、科学的な知識が乏しい業者も多かった。

 着色とは逆に、漂白も盛んに行われた。代表格が小麦粉だ。戦後すぐは、ふすまつきの全粒粉だったが、やがてふすまが除かれ、さらに二酸化窒素と過酸化ベンゾイルで漂白されるようになった。いまの感覚では、パンもうどんも少しクリーム色がかっているほうが自然で、おいしそうに思えるが、当時は真っ白いのが喜ばれたのである。

 色が抜けるだけならよいが、一緒にビタミン類も減少し、発がん性などの悪影響が疑われることから、主婦連合会(主婦連)が熱心に抗議運動を行った結果、68年から学校給食用のパンの小麦粉が無漂白に切り替わった。77年には製粉会社が漂白剤の使用を中止し、それ以降は無漂白小麦粉が主流になっている。

 消費者運動に勢いがあり、その成果が着実に上がっていったのも、この時代の特徴だ。なかでも、しゃもじ形のプラカードにスローガンを書いて行進した「おしゃもじデモ」で有名な主婦連の影響力は、内閣も企業も無視できないほど強かった。

 

日本人の食の美意識はいずこに?

 

 食料事情が少しずつ改善され、腹を満たすだけでなく、見栄えを気にするゆとりが持てるようになった。それで、着色と漂白が流行したわけだが、当時はびこっていたけばけばしい極彩色と、不自然なまでの純白は、和食のイメージとはかけ離れている。

 ユネスコ無形文化遺産登録のとき、和食の特徴として定義されたのが、「自然の美しさの表現」だったが、自然を尊重する美意識が昔の日本人にあったとしても、敗戦で失われたとしか思えない。

 主婦連がオーラミン入りタクアンを発見したことをきっかけに、有害色素に反対する消費者運動が各地に広がり、厚生省も取り締まりを強化したが、食品を扱う業者は全国で130万社もあり、しかも零細業者が多かったので、撲滅は不可能に近かった。また、本来の糠漬けタクアンより、着色料と人工甘味料を使ったタクアンを好む消費者のほうが、たしかに多かった。消費者心理は、味と安全より見た目のよさに傾いていたのである。

『おそるべき食物』は、原料と調味料を吟味して、いっさい着色しない製品を作っても、客に見向きもされないと嘆く業者の声をいくつか拾っている。いまでも、発色剤と着色料を使わない自然な肉色、つまりくすんだ薄茶色のロースハムより、鮮やかなピンク色のロースハムのほうが好まれるように、感覚はあまり変わっていない。

 

食品公害を糾弾するジャーナリズム

 

 1948年、食品衛生法で最初に認可された食品添加物は61種類。経済成長に伴って種類が増え、57年は194種、69年には358種に達し、日本は世界有数の食品添加物使用国になった。数字からは、食品加工業が急速に発達していった様子がわかる。

 この間、55年には富山県でカドミウム汚染が原因のイタイイタイ病が、翌56年には熊本県でメチル水銀中毒による水俣病の発生が確認され、64年からは新潟水俣病が発生。68年には米ぬか油に混入したPCB(ポリ塩化ビフェニル)とダイオキシンが中毒を引き起こし、被害者が1万4000に上ったカネミ油症事件が起こった。

 有害物質で汚染された食べ物による奇病が各地で発生し、発がん性の疑いから欧米では使用禁止になった食品添加物が、日本では依然として使われる。こうした現状に対し、学者や消費者団体、ジャーナリストからの批判の声が強まり、日本の食品は化学物質漬けになっていると、メディアが激しく糾弾するようになったのは、60年代後半からだ。「食品公害」という言葉も一般化した。

「食卓の恐怖・加工食品の毒」(『宝石』1966年7月号)、「自然な食品がほしい」(『朝日ジャーナル』1968年4月7日号)、「チクロほか有害添加物入り食品一覧」(『週刊現代』196911月6日号)、「注目!危険食品を総点検する」(『週刊言論』19691120日号)、「有害食品を告発する」(『月刊ペン』196912月号)……雑誌はセンセーショナルな見出しで報道し、朝日新聞は69年夏、「食品公害を考える」という連載記事を35回掲載した。

 日本初の台所用合成洗剤が発売されたのは、1956年。付着した回虫(当時、日本人の3~4割が感染していた寄生虫)の卵が落とせると、嬉々として野菜を洗剤で洗っていたお母さんたちの意識もがらりと変わった。実際、都会の河川は家庭からの生活排水で泡だらけになっていたのである。

 

流行語になった「複合汚染」

 

「化学物質=危険」という図式が社会に広く共有されるダメ押しになったのが、有吉佐和子の『複合汚染』だ。7410月から朝日新聞に連載された小説で、上下巻の単行本は、75年のベストセラーランキングで第2位。反響は絶大で、「複合汚染」が流行語になったほどだった。

 小説とはいってもノンフィクションに近く、農地は化学肥料と除草剤、作物は農薬、河川は工場廃液や合成洗剤、加工食品は食品添加物でそれぞれ汚染され、これらが体内で複合して毒性が相乗的に影響しあい、健康がむしばまれていくことを告発するこわい物語だ。

「あなたのお家では合成洗剤で洗濯していらっしゃいませんか。あなたは合成洗剤が農薬と同質の毒だということをご存知ですか」「五大汚染のうち、日本人の主食である米には、何と何が入っているか。厳密に言えば、全部入っている」

 こんな感じで、過激なことをいっていても、専門用語が多くても、さすがストーリーテリングの名手だけあってスルスルと読ませる。この小説で、人々はあらためて日本の食品が添加物漬け、農薬漬けになっている事実を認識し、国民の健康を守らない政治家と、安全より利益を追求する企業に憤った。なお、五大汚染とは、水銀、カドミウム、鉛、DDT、PCBの5つを指す。

 本書を含め、このころのジャーナリズムは化学物質ならすべて危険と決めつけ、ことさらに有害性を強調した。そのメディアバイアスは、現在も続いている。たしかに公害は、化学物質を敵視せざるをえないほど人道に反する被害を残した。だが、食品添加物がなかったら生まれなかった新しい加工食品や、化学肥料と農薬の使用で多収・周年栽培できるようになった野菜や果物を喜んで享受していたのも、高度成長期の日本人なのである。

 

「自然食」で公害に勝つ!

 

 ジャーナリズムの有害食品批判が目立つようになった1968年前後から、「自然食」の第1次ブームがはじまった。

 自然食というのは、曖昧な呼び名で、いまだに正確な定義はない。化学物質にまみれた食べ物は、短命のもと。人工的な添加物の入っていない食品で公害に打ち勝ち、健康になろうというのが、当初の発想だった。同時期に起こった漢方薬ブームも同様、サリドマイド事件などの薬害による新薬不信がきっかけだ。

 自然食品の販売店は、68年からの10年間で全国2500軒に増え、売上は71年の100億円から75年の450億円に急成長している。まだ法的規制も表示ルールもなく、68年末に東京都消費者センターが都内で購入した60点をテストしたところ、ズルチンとチクロが味噌から検出されるなど、3分の1が食品添加物入りの「不自然食品」だったことが発覚した。自然食品は通常より2割は高く売れるので、流行に乗じた悪徳業者も多かった。

 70年代の自然食を大きく分けると、主食は玄米、おかずは野菜の伝統食派と、ニンニク、シイタケ、梅干、サルノコシカケなど、健康によいとされる食品を重点的に摂取する効能派の二派があり、ともに東洋医学的だった。自然食は、戦後の食の西洋化の対抗運動という側面も強かった。

 戦後の栄養行政は、アメリカの食生活を手本に、動物性たんぱく質と油脂の摂取を増やせと唱え続けてきた。教えに従って、日本人はがんばって肉を食べ、パン食を取り入れ、料理に油を使った。そのために、アメリカから小麦と飼料用穀物、油糧種子をせっせと買った。

 その結果、70年代の食事は、主食のご飯に動物質の主菜、野菜の副菜、牛乳・乳製品と果物が適度に組み合わされて、摂取する総エネルギー量に対するPFCバランス(たんぱく質:脂肪:炭水化物)が、戦後もっとも理想的な数値になった。おかずの内容も、和風と洋風と中華風が混じり合って、バラエティー豊かだった。

 食には問題が山積みだったが、専業主婦が増加した高度成長期は、いまだかつてないほど家庭料理が充実した時代でもあった。新型の加工食品は、家事労働の軽減より、むしろ主婦のレパートリーを増やすのに貢献したといえる。

 60年にカロリーベースで79パーセントあった食料自給率は、その後の10年間で激減して70年は60パーセント、それからはゆるやかな低下で79年は54パーセントだった。このあたりで食い止めておけばよかったのである。ところが、次にやって来たのは「飽食の時代」だった。

 

 

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著者略歴

  1. 畑中三応子

    1958年生まれ。編集者・ライター。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。『シェフ・シリーズ』と『暮らしの設計』(ともに中央公論新社)編集長を経て、プロ向けの専門技術書から超初心者向けのレシピブックまで幅広く料理本を手がけるかたわら、近現代の流行食を研究・執筆。著書に『カリスマフード――肉・乳・米と日本人』(春秋社)、『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか』(ベスト新書)、『ミュージアム・レストランガイド』(朝日新聞出版)、「七福神巡り――東京ご利益散歩」(平凡社)、『おやじレシピ』(オフィスSNOW名義、平凡社)、共著に『東京バスの旅』(文春新書)がある。第3回食生活ジャーナリスト大賞(ジャーナリズム部門)受賞。

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