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ぼくらはまだ、ほんとうの旅を知らない 久保田耕司

旅の入り口――「知らない」ということの自覚

 

 最初に書いたとおり、僕はもともと「旅」に興味があったわけではなかった。

だから本格的な旅に出る前、最初にインド訪問が決まったときにも、ガイドブックは持って行かなかった。あくまでもそれは一時的な訪問で、あちこち見て回るつもりはなかったからだ(さすがに海外旅行一般の手続きについて書かれた小冊子程度は持って行った)。

 今にして思えば若干無謀ではあったかもしれないが、これが良かったのだと思う。インドに関する余計な知識がほとんどない状態でかの国を訪れたのだ。 

 その後、本格的にインドとその周辺国を旅して回ろうと思ったときにも、特に事前に各地の下調べはせず、同じようにガイドブックの類も持って行かなかった。最初の訪問時の体験がなかなかに強烈だったので、このまま前提知識なしのスタイルで旅したほうが面白そうだと思ったからである(他にも理由はあるのだが、それについては後述する)。

  この当時、僕がどれほど海外旅行というものに関して無知だったのか、単に訪問国について知らなかった、ということだけではなく、旅の流儀というか、旅行術に関してもまったくの素人だったのだが、もしかしたら、バンコクで最初の夜を過ごすことになったときのエピソードを書いてみれば、多少はその程度が伝わるかもかも知れない。

 90年代初頭は、いわゆるLCC(ローコストキャリア)などまだ無かった頃で、「格安航空券」というものが全盛を迎えようという時代だった(この当時の格安航空券とは、団体向けのチケットを代理店経由で個人に安くバラ売りにする、というもの)。そしてタイのバンコクといえば、ドンムアン国際空港(スワンナプーム国際空港もまだ無かった)が、東南アジア周辺国へのハブ空港としての絶対王者的存在感を確立していた時期で、安く旅するならまずはバンコクに出て、そこから別の便に乗り換えて目的地に向かう、というのが普通のルートになっていた。

 このあたりまでの知識は、完全ではないにしろ、さすがにチケットを買わないことには出国できないのである程度は把握していた。といっても確かチケットを購入するときに代理店の人から、オープンチケットにするかどうか聞かれて、そういうものがあったのか!と知った程度だったのだが。

 というわけで僕は、往復のバンコク行きのオープンチケットだけ入手して、インド方面へはバンコクで新たにチケットを購入するつもりで出国したのだ。

 

 ということは当然、その先へのチケット入手のため、バンコクにも何日か滞在する必要があったわけだが、僕はタイにはそれほど思い入れがなく、どちらにしろ旅をするなら、前述した前提知識なしのスタイルがいいと思っていたので、当然のようにタイやバンコクのガイドブックも持って行かなかった。

 おいおい、そんなんで大丈夫なのか?と心配に思われた親切な人も多いかもしれないが、その当時の僕は英語力もたいしたことがなく、どうにか英語をしゃべってみても、タイではそもそも観光業者以外には中学生程度の簡単な英語でさえあまり通じないし、あらかじめ宿の予約もしていなかったので、さすがにそれほど大丈夫な状況とは言えず、現地に着いたとたんにどうすればいいのか、早速、途方にくれることになってしまったのだった。

 当時はまだネットも無かったから、事前に予約するといっても代理店に頼むくらいがせいぜいで、わざわざ日本から予約できそうな高級ホテルに泊まらなくても、現地に行けば安く泊まれる宿くらいはあるだろう、と軽く考えていたのだ。

 もちろん、バンコクに安宿は山ほどある。先に書いた通り、その当時の(今でもだが)バンコクは、世界各国からバックパッカーが集まり、まさに彼らのために用意されたといっていい、独特のスタイルの安宿が腐るほどあったのだ。

 もしもこのとき、僕がなにかのガイドブックを持っていたら、すぐに「カオサン通り」とか「マレーシアホテル周辺」とか「中華街近辺」とか、その当時、すでに安宿街として有名になっていたエリアに直行したことだっただろう。

 だが僕は、その有名な安宿街、特にバックパッカーの間ですでに聖地となりつつあった「カオサン通り」のことすら知らなかった。それどころかバックパッカー向けの安宿というのもがどういうものなのか、そもそも、そういうものが存在する、ということさえ知らなかったのだ。

 

 やっと事態の深刻さに気がついて、僕が空港で必死に考えた末にたどり着いた安宿探しの秘策とは、ユースホステルを探すこと、だった。

 旅なれた人なら、あるいは当時のバンコク滞在事情を知っている人なら、いや、ごく普通の旅行術をわきまえているという程度の人でさえも、これには思わず失笑してしまうところだろうが、安宿といえばユースホステルぐらいしか知らなかった当時の僕は、われながら「名案だ!」と思ったものだ。

 まずは電話帳で、と思ったもののタイ語がわからないのですぐに断念したが、結局その日はこの名案?のおかげで、なんとかタクシーを拾って市内のユースホステルに泊まることに成功した。

 もっとも、そのユースホステルは、自分が思い描いていたものとはまったく違っていて、記憶が確かなら、中庭にプールもある、とても安宿とは思えない結構高級な造りの宿で、値段のほうも一泊三千円するかしないかくらいの普通にホテルと言ってもいいユースホステルだったのだ。それでも、まったく相場観がなかった僕は、東京近郊ならどんな安宿でも一泊六千円くらい(あくまでも90年代初頭の話)はするだろうから、高級な造りが気になったが、まあまあ安く泊まれたな、と満足していた記憶がある。

 それって本当にユースホステルだったの?騙されたんじゃない?という声が聞こえてきそうだが、改めて調べてみると、その高級なユースホステルは今でも健在なようで(リンク)、そこのところは決して騙されていたわけではない。

 そもそもユースホステルは、本国ドイツや欧米など先進国以外では、国際組織に加盟している由緒正しいホステル自体が少なく、東南アジアなどでは安いといっても相対的には高級路線の宿になってしまう傾向があるのだが、この当時の僕はそれすら知らなかったわけだ。

 というわけで、自分で今思い返してみても、われながらあまりの無知さ加減にあきれるほどだが、このまま最初にバンコクをうろちょろしたときの話を、もうちょっとだけ続けてみる。

 

 翌日、早速、僕はバンコク市内の散策を始めた。

 バンコク観光の目玉と言えば、たぶん王宮のワット・プラケオ(仏教寺院)だろう。空港ほか、宿のフロントでも入手できるパンフレットによれば、ちょっと足を延ばせば他にも水上マーケットとかローズガーデンとかいう観光名所があるらしかったが、そもそも僕がこの街に立ち寄った理由は、インド行きの安いチケットを入手することだったし、特に仏教寺院も見たいとも思わなかったので、とりあえず街歩きをはじめたのだった。

 どこをどう歩き回ったか、気が付くと僕は、ラーマ4世通りとシーロム通りが交差するあたりにたどり着いていた。ガイドブックは無かったが、空港で無料配布されていたパンフレットの中には、簡単な市内地図が載ったものもあり、地図さえあれば多少言葉が通じなくても指差しで自分が何処にいるかくらいは教えてもらえることに気がついて(それだけでも苦労はしたが)、地図をたよりに、繁華街へ、特に街の中心部へ、ということでたどり着いた場所がそのあたりだったわけだ。

 ラーマ4世通りは、ファラムポーンという、バンコクの中央駅ともいえる鉄道駅から延びるこの街の幹線道路の一つで、その道をしばらく東へ走ると、ルンピニ公園という広場が左手に見えてくる。そこに南西方向に斜めに交差しているのがシーロム通りだ。

 シーロム通りは、両脇に大手銀行やオフィスビルもある目抜き通りのひとつで、通りに入ってすぐの北西部あたりに、ゴーゴーバーで有名なパッポン通りを擁する、夜の繁華街エリアにも隣接している。東京でいえば歌舞伎町に隣接する新宿の靖国通りみたいなイメージだろうか。

 ルンピニ公園を背にするように靖国通り、じゃなくてシーロム通りに入ると、すぐ右角にロビンソンという外資系のデパートがあって、奥に進むと両脇にオフィスも多いせいか、歩道脇に地元の勤め人向けの屋台や飲食店も多く目に付いた記憶がある。

 もちろん、地元民だけではなく繁華街目当ての観光客も多かったのだが、僕も旅行代理店を探すべく(決して繁華街目当てではなかったです)、両脇の看板を見ながら通りを歩いていくと、偶然、とあるビルの看板にguest houseと書かれているのを見つけてしまった。

 当時はまだ再開発が進む前で(道路上空の高架のスカイトレインもない)、この通りは大通りではあるが、両脇のビル群の中には、たぶん60年代くらいに建てられてから、ろくにメンテナンスもされないまま古くなってしまったビルも少し残っていた。そういう廃墟まではいかないが劣化したビルの2階くらいにguest houseと書かれた看板が掲げられているのを見つけてしまったのである。

 当時の僕がいくら英語が得意でなかったといっても、guest houseが宿泊施設であることぐらいはすぐに分かった。分かったがしかし、こんなところに唐突にぽつんと宿が出現するのは予想外だったし、本当に宿泊施設なの?と、思わずポケット辞書を引いて意味を確かめてしまったほどだった。

 だいたいホテルとか旅館とか宿泊施設といえば、ビル一棟が丸々その施設で、エントランスもそれなりにお客を迎え入れるような造りで、入るとすぐロビーがあったりするものだと思っていたのが、そこにはそれらしい入り口などなく、ビルの上のほうに看板があるだけで、建物自体の入り口も日本でいう雑居ビル風で、エレベーターもなく階段があるだけという造りになっていたのだ。

 本当に泊まれるところなのかな?と半ば疑いながら軽い気持ちでそのビルに入って、僕はそこで生まれて初めて、バックパッカーと呼ばれる人たちが滞在することを想定した「安宿」というものの存在を知ることになったのである。

 そのguest houseが営業しているフロアに上がると、入り口付近の壁やドアには、若者向けのツアー企画らしきものを書いた、チラシ的な宣伝ポスター類がベタベタ貼られていて、中に入るとすぐに小さなデスクとソファが置いてあるだけのフロント兼ロビーのような空間があり、そのまま視線を奥にやると、こげ茶色のベニヤ板のようなもので区切られたロッカースペースみたいなエリアが続いていた。

 チェックアウト時間が終わった昼下がりのせいか、そのフロントにはソファに転がって漫画を読んでいる中学生くらいの少女がいるだけで、他に従業員らしき人物も、宿泊客らしき人影も見かけなかった。

 中に入ると少女は立ち上がってにこやかに迎えてくれたが、明らかに留守番中という風情で、あまり英語も出来ない様子。ただニコニコ笑って挨拶するだけである。

 意を決して恐る恐る、部屋はある?と聞いてみると、少女は何が面白いのか、なぜかそれまで以上の笑顔でうなずいて、奥のロッカーみたいなエリアに僕を案内してくれた。そしてそのまま、いくつか並んだロッカーの一番手前の扉を開けて見せたのだ。

 中を覗くと、そこには簡単に板で壁を作って隣と仕切っただけのスペースがあって、人が一人やっと寝れらる程度のそのスペースには、シーツだけ掛けた、掛け布団も毛布も何もないベッドと、小さい扇風機がぽつんと置かれていたのだった。

 どうも僕が最初、ロッカーと思っていたエリアは、実は宿泊エリアで、このguest houseのあるフロア全体を細かく板で仕切って、それぞれを個室に仕立てて部屋として提供している、ということらしかった。

 さらによく見ると、その仕切りは上部の数十センチと下部の十数センチはスカスカに空いた状態で、脚立でも持ってきて上から覗けば、隣の個室は丸見えになるだろうという状態だったし、そもそも入り口の扉も、掛金を南京錠で留めるだけという簡単な造りであった。

 あらかじめ誰かから、そういう形式の安宿がある、と聞いていれば別だったろうが、生まれて初めてそんな安宿に出会った僕は驚きのあまり、思わず何度も、ここに泊まれるのか?とかトイレはどこ?とか矢継ぎ早に質問した記憶がある(もちろんトイレ・シャワーは共同だった)。満足に英語もしゃべれない中学生くらいの少女が受付だったり、ロッカーみたいにベニヤのような薄い板で区切っただけのスペースを部屋と称して営業したりというだけで十分驚きだったが、僕の驚きがマックスに達するのは、その後、その部屋に泊まるための宿泊費を聞いたときだった。

 「ハウマッチ?」と聞くと、少女はすぐに答えてくれたのだが、数字のところがタイ語らしくて最後のバーツのところしか聞き取れない。不審そうにしてると、少女は奥から電卓をもってきて数字を打って見せてくれた。

 えーと、うん?それって一泊だよね?いや、いくらなんでもそんな安くないよね?思わずそう心の中でつぶやきながら「ドル?バーツ?」と何度か念を押すと、少女はそのたびにバーツと答える。そんな馬鹿な!と驚いた表情を見せると、僕の反応が面白いのか、少女は声を出して笑ってその数字を繰り返したのだった。

 僕が驚いたのも当然で、このとき少女が示してくれたその数字とは、当時の日本円に換算してわずか250円程度のものだったのである。

 何しろ僕は、若者が泊まる安宿といえばユースホステルくらいしか思い浮かばなかった男である。そしてバンコク最初の宿泊がそのユースホステルで、十二分に安いと思って一泊換算三千円くらい支払ったのだ。それがまさか十分の一以下で泊まれる安宿があっただなんて……

 

 あれから30年近く経って、カオサン通り周辺も小奇麗になり、古くて安いだけのゲストハウスが少なくなりつつある昨今、最近のことしか知らない旅人には一周回ってこんな話も新鮮に響くかもしれない。

 いや、当時のバンコクを知っている人でもカオサン通りや中華街ならともかく、シーロム通り(正確にはちょっとだけ横道に入ったところだったが)にこういう安宿が存在したことはあまり知られていないかもしれない(翌年くらいに再訪してみると、ビル自体すでに取り壊しにされていて、このguest houseもなくなってしまっていた)。

 

 思うに「知らない」という状況に身を置くことが旅の始まりではないだろうか?

 そしてその、知らない状況にどう対処するのかというところで「旅」になるのか、それとも単なる「観光」や「訪問」に終わるのかの違いも生まれてくるような気がする。

 先に後述すると書いた、意図的に行き先の下調べもせず、ガイドブックも持っていかなかったことの理由についても、単に面白そうという以上の意図があって、それはこの「知らない」ということの中に隠されているある性質が、この当時自分が求めていた「あるもの」を発見するヒントになるのでは、と思ったからなのだ。 

 ということで説明せねばなるまい。

 

 実は僕が旅に出ようと思った理由のひとつには、この当時の自分、つまり旅に出る前の自分にとって、人生の最大の関心事のひとつに「現実とは何か」という問いがあって、インド訪問時にその「現実」を見つけるヒントが「旅」にあるのでは、と気が付いたということがあったのだ。

 こういう書き方をすると、お前は何を言っているんだ、と突っ込まれそうなので、さらに説明を続けさせてもらおう。

 誰でも、ものごころ付いて以降、ある程度の年齢になると、子供の頃に感じたような生き生きとした新鮮な喜び、とでもいうのだろうか、純粋なものの見方が失われてしまって、特に社会に出て責任ある年齢に達する頃には、日常生活が同じことの繰り返しで退屈に感じられるようになったりする、ということはないだろうか?

 たとえば、日常の範囲内で職場と自宅を行き来するだけの生活を続けていると、いつもの慣れ親しんだ環境しか目に入らないから、あえて周囲の様子に注意を注ぐということもなくなり、いつの間にやら生活の関心事や思い浮かべる心の対象物は、現実から目をそらされた妄想というか、娯楽という名の幻想とでもいうべきものなっていき、やがて自分の存在そのものも、その中に安住するようになっていく。

 TVをみたり、映画をみたり、小説やマンガを読んだり、音楽を聴いたりすることが、退屈を逃れるための最大の楽しみになって(もちろん近年ならネットもこの中に入る)、いつの間にか自分の実際の生活の本当の「現実」は、妄想の中でどこかに消えてしまうのだ。

 日常生活を離れて日本国内で旅に出るような場合でさえも、日本には日本なりの旅の流儀というか常識があるから、初めての土地でもその常識という知識に従えば、特に不便もなく、つつがなく旅をすることが出来てしまう。

 ところが海外旅行となるとさすがにちょっと事情が違ってくる。日本の常識は海外の非常識という言葉もあるように、行き先の国にもよるが、日本で当たり前だった常識が通用しない事態に直面することがよくあるわけだ。

 そして、そういう状況に身を置くと、それまで頼ってきた知識という名の「過去の記憶」やら、常識という名の「幻想」を脱ぎ捨てて、目の前の「現実」にしっかりと目を開かなければならなくなる。

 ここで注意してほしいは、僕の主張の力点が、あくまでも「知らない」という状況が作り出す「現実への刮目」にあって、新しい知識を獲得すること、つまり新たに何かの知識を学ぶことではない、という点にある。

 知識というものは、どの道、どんなにがんばっても現実の代わりにはならない。間違った知識については言うに及ばず、たとえそれが100%正しい知識であったとしても、知識はどこまでいっても知識でしかなく、なんとか「事実」として認定できるということはあるかもしれないが、刻々と移ろいゆく、生きている現実の代わりにはならない。だから知識を通して世界を見ていると、頭の中の固定した知識と、絶えず変化して動いている現実との乖離の中で、自分が生きているという実感まで見失ってしまうように思えるのだ。

 間違った知識も正しい知識も、現実の代わりにならないという点ではまったく同じなのだが、なんとなく正しい知識を獲得すると、その知識に安住して世界について分かったように思ってしまう。そして現実を見ることをやめて自分の知識の殻に閉じこもり退屈を感じ始めるのだ。

 ところが海外などに出て、自分の知識が限定的な範囲でしか通用しないような場面に遭遇すると、現実に対して本当は自分が何も知らない、ということに急に気がついて、その緊急事態が、現実に対する目覚めの感覚を呼び起こすのではないか。

 もしもそうだとすると、旅に出て、あるいは新しい状況に出会って、新しい知識に触れることが喜びをもたらしてくれるのではなく、あくまでも古い知識が役に立たなくなって、いやでも現実に目を開かなくてはならなくなるというその体験が、それによって得られる目覚めの感覚が、子供の頃のような純粋なものの見方を思い出させてくれ、生きる喜びを思い出させてくれる、ということになる。

 たとえば、僕自身はクルマに乗らないのでよく分からないが、カーナビに頼ってばかりいると、いつまで経っても道順がちゃんと頭に入らない、という話をよく聞く。現実の「道」に目を向けなくてもカーナビの示すバーチャル空間を通じて、目指す地点までのたどるべき「道」が示される。自分の頭を使ってどのルートを行けばいいのか考える必要さえ無い。

 カーナビのなかった時代には、少なくとも地図と現実の道とを見比べて、絶えず自分が正しい道にいるのかを確認する必要があった。もちろん、いくつかあるルートのうち、どの道を選ぶかも自分で決める必要があった。

 それがカーナビを使うようになると、現実の道に目を向けなくても、分岐点の目印を覚えておかなくても、どのルートがいいか考えなくても、行き先を入力しさえすれば、簡単にどの道をたどって目的地に行くべきかを教えてくれる。

 確かに便利ではある。便利ではあるが「現実」との接触はそれだけ少なくなる。何も考えなくていいから楽でもある。楽ではあるが、それは娯楽として楽しめる時間を増やすばかりで、現実との邂逅がもたらす目覚めの感覚は遠のき、そのうち退屈に感じる時間が増えただけ、と気が付くようになるのではないだろうか?

 

 ということで、知らない、ということに気がついたとき、知識というフィルターを通さず、直に現実に向き合おうとして、自分の目で直接世界を見ようとし始めることが旅の始まりであるように思う。

 逆に、自分が知らなくても、すでに知っているガイドに連れて行ってもらえばいい、という具合に、誰かから与えられた知識に頼ろうとするのは、別に間違った行為ではないし、観光ではありえるかもしれないが、厳密にはやっぱり旅にはならないように思うのだ。

 もちろん「旅に出なくても現実に出会う方法はあるのでは?」とか「仮に頭の中の知識や、カーナビみたいな文明の利器を頼らなくなっても、人は結局、情報や知識の活用そのものからは逃れようがないじゃないか?」とか「だいたい、地図という情報だって知識だし、それに頼っているなら、ちっとも現実に向き合っているとは言えないだろう」とか「頭の中の過去の記憶としての知識と、現実がもたらす一次情報としての知識とどう違うんだ?どっちも結局は同じ情報じゃないか?」というような反論が山のようにあるだろうことは十分理解している。

 ここは大事なところなので、その手の疑問については、あとで別章を設けてたっぷり解説してみるつもりだが、とりあえずは旅の入り口として、無知の自覚の話からはじめたかったのだ。

 

 ちなみにソクラテスで有名ないわゆる「無知の知」の意味も、世間一般には「多くを知っている人は、さらにまだ知られていないことに気がつくから、知られていないことに対する自覚をもつことが本当の知である」という風に解釈されているようだが、案外、知識というものの持つ本質的限界と、無知の状態で直接現実に触れることの重要性を指し示しているようにも思うのだがどうだろうか。

 最後に、いくら予備知識なしで旅に出るといっても、命にかかわりそうな危険情報や衛生保険関連の知識、あるいは、いわゆる客観的な科学的事実とみなされる知識などに関しては避ける必要がないことは言うまでもない。

 たとえば僕自身、最初のインド訪問時には、現地で案内してくれた人から狂犬病の恐ろしさや生水の危険性などいろいろ教わっていたから、旅に出るときは、その方面の準備はそれなりにして行った。

 とくに狂犬病は、日本では事実上撲滅された状態だが、アジア全般ではまだまだ発症例は多く、犬以外の動物でも(哺乳類ならなんでも)狂犬病ウイルスの感染源になりうるし、いったん発症してしまうとほぼ100%助からないという最強に恐ろしい病気である(最近も欧州からフィリピンへの女性旅行者が亡くなったというニュースがあった)。

 さすがにどんなに気を付けていても、お腹を壊して下痢になったり、ちょっと油断して肝炎に罹って寝込んだりしたことはあったが、最終的になんとか無事に戻ることができ、普通の人はインドから帰って来ると痩せて戻ってくるのに、お前は太って戻ってきた、と言われたのはいい思い出だ。

 というわけで、むちゃな冒険を推奨しているわけではないので念のため。

 

今回は、より街の光景に視点を移した夜のスナップ写真を選んでみた。場所は全部インドのコルカタだ。最初にこの街(その当時はまだカルカッタと呼ばれていた)を訪れたときの第一印象は、ゴミだらけで混沌&雑然としてるし、どこをどう切り取れば絵になるのかと困惑したものだが、いざ、日が落ちたあとの夜の散策に出かけてみると、汚物は闇にまぎれて見えにくくなり、それまで隠されていた不思議な調和と美しさが、ナトリウムランプのオレンジ色に照らされて浮かび上がっていて、昼間とはまったく別の表情にすっかり魅了されてしまった。僕が夜の写真を好んで撮るようになったきっかけの街である。ちなみに1枚目は90年代半ばくらいにフィルムで撮影したもの。当時、感度が低いフィルムで夜の街をカラーで撮るのは難しく、これもISO400を2段増感して、それでも暗くて、手前の欄干を三脚代わりにしてなんとか撮った記憶がある。

 

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著者略歴

  1. 久保田耕司

    1965年静岡県出身。広告代理店の制作部からキャリアをスタート。90年代初頭から約1年ほどインド放浪の旅に出る。帰国後、雑誌や情報誌などエディトリアルなジャンルでフリーランス・フォトグラファーとして独立。その後、ライター業にも手を広げ、1997年からは、実業之日本社の『ブルーガイド わがまま歩き』シリーズのドイツを担当。編集プロダクション(有)クレパ代表。

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