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〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史 畑中三応子

食糧危機ふたたび!? 大豆ショックとオイルショック

 焼け跡から這い上がって、急速な経済成長に突き進んでいった戦後復興は、「日本すごい」論の基本中の基本のよりどころだ。そこで讃えられるのが、日本人の勤勉さや忍耐強さ、意思の強さなどの美質なのだが、それでは飲まず食わずでも根性で戦えると信じた戦争中の精神主義とかわらない。竹槍じゃあ鉄砲には勝てない。復興に向けて先立つものは、お金である。

経済成長の入口に導いた朝鮮戦争特需

 前回から時間を少しさかのぼると、復興の大きな足がかりになったのが、1950年6月に勃発した朝鮮戦争だった。53年7月の休戦協定まで、3年間続いた朝鮮戦争で、国連軍の補給基地になった日本には、ふってわいたような特需景気がやってきた。

 アメリカ軍から軍需物資の生産や修理、輸送、基地の建設や資材などが大量に発注されたおかげで、日本の企業はおおいに潤って、深刻な不況から脱出することができたのである。

 特需は50年の半年間で1億8200万ドル、51年は5億9200万ドル、52年は8億2400万ドルと年々拡大し、55年までの累計は約36億ドルという膨大な額にのぼった。鉱工業生産は、50年10月に戦前水準を超え、国民総生産(GNP)も51年度に戦前水準を回復した。

 かつての植民地を分断する戦争で日本経済が救われ、高度成長と再軍備への道を歩みはじめた一方で、朝鮮半島では、実に人口の2割が犠牲になり、全土が焼け野原となった。太平洋戦争で日本に投下された爆弾の、約4倍を使っての無差別空爆だったという。休戦後の食糧難は、日本を上回ったことだろう。

食を楽しむライフスタイルの復活

 悲惨だった半島情勢をよそに、特需で日本の食料事情は急速に好転していった。

 そのころ、早くも戦後初の健康食ブームが起こっている。毎日飲めば、だれもが5歳は若返って長生きできるとうたわれた「ハウザー食」だ。野菜か果物の生ジュースに、小麦胚芽、ビール酵母、ヨーグルト、脱脂粉乳、糖蜜を混ぜた、いまでいえばスムージーのような栄養ドリンクだった。

 グレタ・ガルボはじめ、ハリウッドスターの御用達だった栄養学者、ゲイロード・ハウザーが提唱した一種の食餌療法で、51年に雄鶏社から翻訳が出版された『若く見え長生きするには』で紹介されてあっという間に広まり、電気ミキサーが爆発的に売れるというおまけつきだった。家電ブームの先駆けである。

 クリスマスケーキにぱっと人気が出たのは、52年の暮れから。以降、クリスマスケーキは洋菓子店のドル箱商品になった。戦前から、クリスマスイブは男たちがキャバレーやダンスホールで馬鹿騒ぎをする夜だった。その風習がすたれはじめて、お父さんが子どものためにケーキとプレゼントを買って、家族で楽しむ日にかわっていった。マイホーム主義の台頭である。

 家庭料理の実用書の出版点数がどっと多くなるのも、51年からだ。『一年中の家庭料理大全集』(婦人生活編集部編、1951)、『経済でおいしいお惣菜料理集』(主婦之友社編、1952)といったように、一冊に基礎から応用までみっちり詰まったレシピ集が目立つ。

 53年2月にNHKテレビ、8月には日本テレビの本放送がスタート。NHKは年末に料理番組の試験放送を実施し、海軍主計一等兵曹として敗戦を迎え、大阪の割烹学院で教えていた土井勝がおせち料理を実演して見せた。戦争で親から子への伝承が途絶えたため、家庭料理はもっぱら家の外で学ぶものになったのである。各地に料理学校や料理教室が次々と開設され、土井をはじめ、飯田深雪、河野貞子、赤堀全子、江上トミなど、戦後第一期の人気料理研究家の活躍がはじまった。

 まだまだ貧しかったが、こうして少しずつ食を楽しむゆとりを持てるようになっていった様子からは、当時の日本経済の好調ぶりがよくわかる。

農村を救うはずだった農業基本法

「日米相互防衛援助協定(MSA)」と「余剰農産物協定(PL480)」をきっかけに農政が転換し、米以外の穀物はアメリカから買う方向性が定まったことを前回書いた。これを法律で決定づけたのが、1961年6月制定の「農業基本法」である。

 特需をバネに、高度経済成長期に入ったのが55年。経済白書に有名なフレーズ、「もはや戦後ではない」が記されたのは、56年だった。

 55年は、日本が史上空前の大豊作を迎えた年でもある。46年から900万トン台を続けていた米の生産量が、一挙に1238万トンを記録し、以降コンスタントに1000~1200万トンをキープした。

 6年続きの豊作だった61年には、すでに将来の米余りが見越され、過剰な農業人口を抱え、他産業とくらべてはるかに所得が低く、ひとり高度成長から取り残されていた日本農業は、曲がり角に来ていた。

 近代化と合理化で農業の発展と農業従事者の地位向上を図り、所得格差を是正するのが、農業基本法の目標だった。おもな骨子は、成長めざましい鉱工業の労働力に、農業人口を移動させる。農業人口を減らしたぶんは、農業技術の向上や土地や水の有効利用、機械化、共同化で生産性を高める。農業だけで自立できる近代的な家族経営農家を育成する。農産物の流通の合理化、加工の増進および需要の増進を図る。農業の近代化を担う人材を養成する。農村地域に工場を導入し、地方経済を促進するなどだった。

スローガンは「畜産3倍、果樹2倍」

 農業基本法でもっとも注目すべきは、「選択的拡大」と表現された生産目標である。農産物を、これから需要が増大するものと減少するものに仕分け、増大するものに生産を切り替えるという政策だ。選ばれたのが、畜産と果樹、次に野菜。「畜産3倍、果樹2倍」がスローガンになった。また、外国産農産物と競争関係にあるものは、生産を合理化する。経済性を重視して、外国産のほうが安いものは輸入すればよい、ということだ。

 社会党は、「生産力の飛躍的拡充で農畜産物の自給度を高める」という基本方針で対抗したが、混乱のなかで政府案が国会を通過して成立、当初は「農業の憲法」と呼ばれたらしい。戦前からの輸入依存体質は、そうそうかわるものではなかった、

 結果といえば、たしかに生産性の向上と農業所得の増大には成功したが、兼業化の進行で自立経営農家の育成は失敗した。1960年にはカロリーベースで79パーセントもあった食料自給率は、右肩下がりで減っていった。農業人口は減りすぎて高齢化が進み、耕地面積は減少し、耕作放棄地が増大した。

 農業の衰退がだれの目にも明らかになっていた99年、農業基本法は廃止され、かわりに施行されたのが「食料・農業・農村基本法」だ。

「高度栄養成長期」でもあった高度経済成長期

 農水省ホームページの「食料・農業・農村基本法のあらまし」を読むと、新しい基本法制定の第一の理由に、食料自給率の低下を挙げている。

「食生活の高度化・多様化が進む中で、我が国農業の基幹的な作物である米の消費が減退し、畜産物、油脂のように大量の輸入農産物を必要とする食料の消費が増加すること等により、食料自給率は一貫して低下してきました。このような食料需要の高度化等に対応した国内の供給体制は未だ十分に確立されていない状況です」

 つまり、自給率低下の最大の原因は、食生活の変化にあるといっているのである。

 経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた1956年、食生活はどうだったかというと、同年の厚生白書には「栄養状態はおおむね戦前に近づいたものと考えてよい」ものの、「熱量、蛋白質はおおむね基準値に近いが、脂肪摂取量は二〇グラム前後に過ぎず当面の目標量と比較して著しく劣っている。さらにこれを欧米諸国とくらべると、熱量は、アメリカ、イギリスの七〇%程度の水準であり、特に動物性蛋白質は、アメリカの二〇%、イギリスやフランスの三〇%程度で、はるかに低水準にある」と、依然として栄養不足が憂えられている。

 ところが、その6年後の62年度版「国民生活白書」では、状況はがらりと変わった。ここで挙げられている食料消費の特色は以下の4つ。

 ①肉・乳・卵類の消費が60年以来、毎月10~20パーセントも前年の同月を上回っていること。それ以前にもかなりの増加を見せていたが、とくに最近の増加は著しい。

 ②いわゆる加工食品を含めて、加工された食品が増加していること。

 ③外食費が増加していること。対前年増加率が8.4パーセントだった59年以外は、いずれの年も10パーセント以上の伸びを見せている。

 ④家庭での米消費が停滞していること。都市世帯においては数年来、米類への支出額が停滞しており、肉・乳・卵類や加工された食品の増加と好対照を見せている。

 食生活の高度化とは、「実質所得水準の上昇にともなって食料消費構成が、容量が多くて比較的美味でない穀類や馬鈴薯から、畜産物、果物、野菜などのより美味、より高価な食料へと移行する」ことと説明されている。

飯食いからおかず食いに、あっさり好みからこってり好みに

 米やジャガイモが美味じゃないって、ずいぶんないいようだが、欧米の食生活をお手本にした栄養改善運動が、ここにきて一気に現実化し、食生活は猛スピードで西洋化・多様化していったのである。家庭料理に中華風のおかずが普及したのも、高度成長期だった。

 住居の寝食分離とダイニングテーブルの導入、家電製品の普及、パン食の浸透、スーパーマーケットの登場など、高度成長期には数多くの食の変化が起こった。なかでも大きかったのは、インスタント食品の台頭だ。

 レトルトと冷凍食品を含め、ラーメン・カレー・コーヒーの三大インスタント食品、味噌汁、スープ、シチューの素、だしの素、つゆの素、すしの素、削り節、パック入り漬物、ドレッシング、お茶漬け海苔、ティーバッグ、ホットケーキミックスやプリン等々、いまに続くインスタント食品のほとんどが出現し、大量生産・大量流通のシステムにのって全国に供給された。

 インスタント食品の利用で、それ以前は難しかった洋風料理や中国料理がかんたんに作れるようになった一方で、それぞれの地域で培われてきた伝統食品はすたれはじめ、全国の食生活が画一化していった。古いものを守ろうという意識は薄く、新しいものばかり歓迎される時代だった。

 60年代後半に小学生だった自分の子ども時代を思い出しても、おかずは魚より肉のほうが嬉しくて、最高のご馳走といえば牛肉。ご飯と味噌汁よりもパンとバターと牛乳の組み合わせのほうが好きだったし、醤油味より、だんぜんケチャップ・ソース・マヨネーズ味だった。肉・卵・乳製品は国産であっても飼料は外国産だし、醤油と味噌にしても、原料の大豆と麦は大半が輸入だ。輸入依存の食生活にどっぷりつかった成長期だった。

 67年、米の生産量は戦後最高の1445万トンを記録し、ついに完全自給を達成した。ところが、1人当たりの年間消費量は62年の118.3キロをピークに、すでに年々減少中だった。さっそく翌68年から米が余るようになり、減反政策が本格的に導入されたのが71年。この時点で、子どもでも「古米」という言葉の意味がわかっていた。

 生活が向上するにつれ、日本人は飯食いからおかず食いに、あっさりよりこってり好きに変わっていった。その延長線上に、いまの食がある。

食糧危機とオイルショックの1973年

 驚くべきスピードで食が高度化した高度経済成長期は、1973年10月からのオイルショックで終焉を迎えた。

 オイルショックは、10月6日に勃発した第四次中東戦争で、OPEC(石油輸出国機構)が原油の供給制限と輸出価格の大幅引き上げを行い、世界経済に打撃を与えた事件。国際原油価格は3ヶ月で約4倍に高騰し、エネルギーの約8割を輸入原油に頼り、ほぼ100パーセントを中東から輸入していた日本では、消費者物価が年に20パーセントも上昇する「狂乱物価」に見舞われた。

 急激なインフレで、74年は戦後初のマイナス成長を経験。「省エネ」が盛んに叫ばれ、NHKテレビの放送は夜11時に終了し、盛り場からはネオンが消えて真っ暗になった。生活を直撃されたから、大人から子どもまで、危機感はくまなく大きかった記憶がある。

 実は、オイルショックの年の夏、「日本を食糧危機が襲う」という報道が世間を震えさせていた。まだ敗戦後の食糧危機を体験した人が多かった時期だけに、「このままでは400万人が餓死する」などと、センセーショナルに書き立てる週刊誌も多かった。

 きっかけは72年、百年来という大凶作だったソ連が、在庫を抱えていたアメリカから、その在庫の半分量の小麦をはじめ、大量の穀物を買い付けたことにはじまる。東西冷戦の真っ只中に、ニクソン米大統領がモスクワを訪れ、ブレジネフ書記長と貿易協定を結んだ事実は、世界をあっといわせた。その結果、世界の穀物相場が急騰し、食糧需給が突如として過剰から不足に転じたのである。

 凶作はソ連だけでなく、世界各地で同時多発した。サハラ以南の西アフリカは、かつてない干ばつ。オーストラリアの小麦生産量は前年度比で35パーセント減り、飼料穀物の大輸出国、アルゼンチンの減少率は40パーセントにのぼった。また、ペルー沖では、アンチョビ(カタクチイワシ)が絶望的な不漁だった。原因は、エル・ニーニョ現象である。アンチョビは、飼料の魚粉の原料になる。魚粉の不足は穀物相場をさらに押し上げ、73年の大豆価格は前年の3倍以上だった。

食料自給率に目覚めさせた「大豆ショック」

 日本はもう食料輸入大国だった。農水省の「食料需給表」によると、1973年の自給率はカロリーベースで55パーセント。いまの数字にくらべれば大分ましだが、小麦、大豆、大麦、トウモロコシなど穀類の自給率はすべて5パーセントを割り、完全自給の米を合わせても、穀物自給率は約40パーセントしかなかった。

 小麦は世界貿易量の1割を、大豆と飼料穀物にいたっては、4分の1を日本が買っていた。工業製品をせっせと輸出しては、農業製品をせっせと輸入し、60年には607万ヘクタールあった耕地面積は、73年では565万ヘクタールに、農業人口は1300万人から848万人に、専業農家はわずか13パーセントに減っていた。

 追い打ちをかけるように、73年6月、アメリカが大豆の輸出禁止措置を発表した。大豆の自給率はたったの3パーセント、残り97パーセントをアメリカ産の大豆に頼っていた日本には衝撃が走り、大豆食品業界はパニックに陥った。

 アメリカの最大の顧客だったはずの日本への突然の仕打ちで、このままでは小麦とトウモロコシも禁輸されるかもしれない、という不信と恐怖が生んだ食糧危機説、400万人餓死説だったのである。実際、73年時点で、食料輸入がストップした場合、敗戦直後よりもっと低いカロリーしか摂れないところまで来ていた。

 結局、大豆輸出禁止措置は9月に解除され、騒ぎはおさまったが、この事件でアメリカの大豆がなければ味噌も醤油も作れず、豆腐も納豆も食べられなくなるというシビアな現実が、人々の胸に刻み込まれた。

 気がつけば、あまりにも低かった食料自給率が、はじめて大きく問題視されたのが、このときだ。大豆ショックとオイルショックは、海の向こうの戦争や異常気象が、自分たちの日常生活に直結していることを人々に実感させただろう。

 食料を海外に依存しすぎることへの危機感が一気に高まり、いまこそ農業政策と食料政策を見直すべきという意見が、論壇誌や週刊誌を賑わせた。だが、いまさら時計の針は巻き戻せない。大豆に関していえば、「アメリカが駄目ならほかの国で作ってもらえばよいじゃん」と、政府が打ち出したリスクヘッジが、供給国の分散だった。

 当時の田中角栄首相が目をつけたのが、ブラジル内陸部に広がる熱帯サバンナ地域の「セラード」。酸性土壌で「不毛の地」と呼ばれたセラードを、日本が資金と技術を提供した共同事業で開発し、ブラジルはアメリカと拮抗する大豆生産国になった。ただし、いまだに輸入はアメリカ産が圧倒的に多い。日本はアメリカの食料の傘から抜け出せないでいる。

 

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著者略歴

  1. 畑中三応子

    1958年生まれ。編集者・ライター。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。『シェフ・シリーズ』と『暮らしの設計』(ともに中央公論新社)編集長を経て、プロ向けの専門技術書から超初心者向けのレシピブックまで幅広く料理本を手がけるかたわら、近現代の流行食を研究・執筆。著書に『カリスマフード――肉・乳・米と日本人』(春秋社)、『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか』(ベスト新書)、『ミュージアム・レストランガイド』(朝日新聞出版)、「七福神巡り――東京ご利益散歩」(平凡社)、『おやじレシピ』(オフィスSNOW名義、平凡社)、共著に『東京バスの旅』(文春新書)がある。第3回食生活ジャーナリスト大賞(ジャーナリズム部門)受賞。

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