web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史 畑中三応子

食生活の55年体制

 敗戦後の食糧難は、戦中を上回った。

 1945年は、全国的に雪が多くて寒い冬にはじまり、夏もまれに見る冷夏だった。秋は2回、大型台風に襲われて全国で水害が起こった。そもそも農村の働き手は牛馬を含めて戦争に取られ、農機具の補充もできず、肥料は不足し、土は痩せて耕地は荒廃していた。そこに自然災害のダブルパンチで、大凶作に見舞われたのである。米の収穫量は、例年の6割程度しかなかった。

 重要な供給地だった朝鮮と台湾からの移入米を失ったうえ、海外にいた民間人と軍人がいっせいに帰ってきた。引き揚げ者と復員軍人の数は、47年までになんと約624万人。人口が急激にふくれあがっていくのに、食べるものがない。

 戦争に負け、待っていたのは、いまだかつてない飢餓。泣きっ面に蜂とはこのことだ。

餓死が、いまそこにある危機に

 米の配給量は、2合3勺(330グラム)から、2合1勺(300グラム)に減った。しかも米が3、雑穀(イモ類を含む)が7の配合で、配給が遅れたり、なくなったりが相次いだ。

 300グラムのコメを炊くと、だいたいご飯茶碗4、5杯なので、現代人の感覚では十分だが、副食用食料の配給も乏しいため、主食で必要なカロリーの大半を摂る必要がある。だが、300グラムの米から摂れる熱量は、たったの1100キロカロリー弱。それだけでは働く体力も気力も出るわけがなく、都市に暮らすだれもが、生き延びるためにヤミ市や、農村への買い出しで食いつながねばならなかった。

 1946年の「国民栄養調査」によると、都市部住民の1日1人当たりの摂取熱量は、1510~2000キロカロリーだが、配給の食料では1500キロカロリーがやっと。実際はもっと低く、1200キロカロリー程度だったといわれ、東京の場合、配給だけでは775キロカロリーしか摂れなかったという恐ろしいデータもある。

「栄養失調」という新しい言葉が流行語になったが、実際に都市部では栄養失調による餓死者が続出した。東京では上野駅付近の餓死者が1日平均2.5人、大阪では1ヶ月で60人以上が亡くなった。このままでは1000万人が餓死するという説が流れたほどだ。

アメリカに拒否された食糧輸入

 GHQの放出残飯が、「栄養シチュウ」の名前でヤミ市や食堂で飛ぶように売れ、空前絶後のブームになった。アニメーション映画『この世界の片隅に』で、主人公のすずがラッキーストライクの包み紙が浮いた謎の煮込みを食べて「うめー」と呻くシーンがある。あれである。

 醤油も塩も、ヤミでさえ手に入らなかったのに、このシチュウには小さいながら肉も入って、油気も香料も十分きいていた。このあいだまで鬼畜米英だったのに、米兵の残飯とわかっていても、ひもじさは敗北感や屈辱を脇に追いやった。「欲しがりません勝つまでは」の末路が、これだった。

 かわいそうだったのは戦中・戦後に成長期を過ごした児童で、身長・体重ともに、それ以前よりずっと小さくなってしまった。それでも、焼け跡を走る進駐軍のジープにむらがってお菓子をせがむ子どもたちの表情は、むちゃくちゃ明るい。チョコレートやガムのおいしさは、アメリカの印象を一新させただろう。

 政府は1945年10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に、食糧の輸入を申請したが、アメリカ政府に拒否された。当時は日本だけでなく、世界的に食糧が不足していたのと、中国、朝鮮、フィリピンなど、解放地域の食糧確保が優先されたことなどが理由だった。植民地と占領地の食糧危機を招いた日本が、なにをいまさらの自己責任論である。

復活メーデーのスローガンは「働けるだけ食わせろ」

 食糧難の社会不安は、政治運動に発展した。46年に入ると各地に「米よこせ大会」が広がった。5月1日に皇居前広場で11年ぶりに開催された復活メーデーのスローガンは、「働けるだけ食わせろ」。続く19日の「飯米獲得人民大会(食糧メーデー)」には25万人の市民が集まり、欠配米の即時配給、学童への給食復活、食糧の人民管理、社会党と共産党を中心とする民主政府樹立などを訴えた。

 GHQは「暴民デモ許さず」の声明を出す一方で、小麦などを緊急放出して急場をしのいだ。ようやく食糧輸入の必要性が認められ、アメリカからの正式援助がはじまったのは7月。そのまま放置されていたら、さらに大規模な運動が起こり、日本の体制は変わっていただろうか。だが、だれが政権を取ろうと食糧が絶対的に足りないことは変わらない。日本人の生殺与奪は、アメリカに委ねられていた。

輸入食糧を無駄なく上手に食べましょう

 こうして戦後の食は、輸入にすがるしかないところからスタートした。

 輸入食糧は小麦粉を中心に、トウモロコシ粉など各種の粉類、なぜか缶詰や砂糖なども混じり、主食としてどうやって食べるかが大問題になった。ときにはコンビーフが何日も続き、大量の砂糖が配給されたときは、カルメ焼きにして腹に押し込む、といった具合だった。

 1947年に「輸入食糧指導者講習会」が開催され、指導された調理法をもとに、各都道府県で講習会や展覧会、移動展示会が行われて、合理的な食べ方を指導した。

 49年に輸入食糧調理指導委員会篇、農林省・厚生省・食糧配給公団監修のパンフレット『輸入食糧の上手な食べ方』が、全国粉食普及会から発行されている。序文から、まだまだ主食が足りない様子がわかる。

「昭和二十三年から二合七勺の配給が行われるようになりましたが、国内食糧による自給自足はまだまだ困難です。敗戦で朝鮮、台湾、満州からの食糧が入らなくなったことと、海外からの多くの引揚者で人口が増加し、食糧の輸入は昭和二十一年には七〇万トン、同二十二年には一九〇万トン、同二十三年には二〇〇万トン、と年々増加する一方です。こういうわけで輸入食糧が配給主食に占める割合は、当分二割から二割五分を下ることはないといわれています。しかも輸入食糧のうちにはわたくし達に親しみのうすいものもあるので、この貴重な食糧を無駄なく生かして食べていただくために、ここにその調理法のテキストを刊行いたしました。広く御活用するよう御願いいたします」

 全32ページに、小麦粉、トウモロコシ粉(コーンミール)、コーンスターチ(トウモロコシ澱粉)、脱脂落花生粉、澱粉(甘藷、馬鈴薯、サゴヤシ)、大麦粉、グリンピース、マイロ(コーリャン)の粒と粉のレシピがぎっしり載っている。小麦粉のパン、うどんは別として、どの粉も練って団子、すいとん、葛餅、お焼き風にして食べたようだ。ただ炊けばよいだけの米と違って手間がかかり、あまりおいしくなさそう。慣れない粉の調理に苦労した人々は、あらためて米の主食としての優秀さを実感しただろう。

押しつけられたアメリカの余剰農産物

 戦後の食の変化で、パンをはじめとする小麦食品の消費が増えたことが、特徴として挙げられる。背景には、日本に余剰農産物を受け入れさせようとするアメリカの食糧政策があった。

 これが「アメリカ小麦戦略」と呼ばれ、そのために日本の食生活は急激に洋風化させられ、米離れが進み、自給率が下がってしまったと、あたかも日本がアメリカの餌食になったかのように語られる言説。陰謀論めいているが、たしかに1954年の「日米相互防衛援助協定(MSA)」と、55年からの「余剰農産物協定(PL480)」を重要な契機として、アメリカの穀物への依存度を深めていった。

 日本はMSAで、5000万ドルの小麦をアメリカから購入し、代金の8割は在日米軍の駐留費用に、残りの2割は見返りとして日本に贈られて、自衛隊の発足と再軍備化に使われた。PL480では、通常輸入量の上乗せで、協定で決められた小麦、大麦、トウモロコシなどの飼料穀物、カリフォルニア米、葉タバコ、綿花を購入しなければならなくなった。

 その前から、すでに日本はアメリカの農産物輸入量で世界第1位だったから、飛び抜けたお得意様になったわけだ。

粉食キャンペーンと国産マカロニの誕生

 輸入総額に占める食糧の割合は、1946年55.6%、47年56.3%、48年46.3%、49年40.1%、50年42.2%、51年25.2%、52年30.5%、53年25.9%と順調に減っていったが、MSAの54年は27.3%と上昇、PL480の55年は25.3%だった。

 PL480はドルではなく円での支払いが認められ、日本政府は資金を借款として、電源開発、農業用水建設、土地改良事業などのインフラ整備に利用したが、一部を必ず「アメリカ農産物の日本市場開拓」に使うことが義務づけられていたのがミソ。その一貫で、キッチンカーが全国を巡回して小麦粉の使い方を実演指導したり、プロ向けの製パン技術講習会を開いたりの粉食キャンペーンが大々的に行われた。また、代金の25%は学校給食事業に贈られ、パン給食の普及拡大に寄与した。パン食が浸透するのに、学校給食が果たした役割は大きい。

 こんなエピソードもある。大量の輸入小麦を消費するため、小麦粉に輸入外米の屑米粉を1割程度混ぜてこね、米の形に加工した「人造米」が開発された。小麦粉を米粒化するなんて、日本人しか思いつかなそうなアイデアだ。話題にはなったが、特有の臭いが嫌われて、すぐに消えてなくなった。だが、加工用にイタリアから輸入したパスタ製造機を使い、1955年に国産初のマカロニが発売されて、あっというまに人気商品になった。パスタ普及の原点は、アメリカの余剰農産物処理にあったのである。

放棄された増産計画と自給への道

 アメリカから「買え」といわれたら、断れない立場とはいえ、払った代償は大きかった。MSA以来、輸入を減らすことができないという枠がはめられ、農業政策を転換せざるをえなくなった。

 政府の弱腰に対する批判の声は大きかったが、資金は借款として土地改良事業などに有効利用できるうえ、輸入するのは足りない作物だけだから、日本の農業を圧迫することはないと、政府は弁明した。

 だが、サンフランシスコ講和条約後、自給割合の引き上げを目標に立てられた食糧増産計画が、なしくずし的にしぼんでいった。国家予算のなかで農林予算の占める割合が、51年10.6%、52年8.8%、53年7.9%、54年7.8%、55年6.0%と、年を追うごとに縮小した。減らしたぶんは再軍備費にまわされて、防衛関係予算が増加していった。陰謀でもなんでもなく、日本はわかっていて選んだ道なのである。日米の経済協力と軍事協力は車の両輪になった。

 90年代後半、粗食がブームになったことがある。きっかけを作ったのが、95年発売の『粗食のすすめ』。昭和30年(1955)以降、急速に欧米化し、食事に占めるたんぱく質と脂質が増えたことを「食生活の五五年体制」と呼んで否定し、伝統食(といっても飯・汁・漬物が主体で、おかずは少しだった戦前までのスタイル)の復活を説いて、堂々150万部の大ベストセラーになった健康本だ。

 93年の細川内閣誕生で、与党一党支配が崩壊した記憶も新しいころだったから、この呼び名も妙な説得力があったが、55年はMSAの年だと思うと、絶妙なネーミングだった。

 ふたつの協定によって、自給を放棄し、米以外の穀物はアメリカから買うという、いまに続く方向性が固められた。これ以降、米麦二毛作はすたれ、農地に麦を見ることが少なくなった。その一方で、小麦が食生活の基本に組み込まれるようになった。

栄養改善で新しい国づくりに燃えた人々

 アメリカの小麦が余りはじめたのは記録的大豊作の1952年からで、MSAの締結は1954年、1回目のPL480は翌55年だった。

 敗戦直後は米を輸入したくても輸出してくれる国はなく、粉食の奨励は、まず生き延びるための策だった。MSAの前から小麦粉を使ったラーメンがヤミ市や大衆食堂の花形メニューになり、日本人の嗜好を根本的に変えたのは周知の通り。49年は豊作で、50年からは外米の輸入量が増え、やっと待望の銀シャリ(白いご飯)にありつく機会も増えていく。それまでは茶色い半搗き米で、しかもイモを混ぜたりして増量した「かて飯」が中心だった。

 米ばかり偏愛し、大食する従来の食習慣を反省し、戦後まっさきに主食の改善を志したのは、日本の栄養学者や栄養士、家政学者や料理家たちだった。

 肉食と洋食がかなり普及していたとはいっても、戦前までは総カロリーの8割から9割を主食の米で摂り、たんぱく質と脂質が極端に欠乏したアンバランスな食生活だった。栄養不良が原因で脳溢血や脚気、結核にかかる人が多く、平均寿命が男女とも50歳に届かない短命国だったのである。

「わが国の家庭料理ほど、栄養的にも、美味の点からも、貧弱【まずしい】ものは外国にも少ないようである。千遍一律な味噌汁とたくあんが常にわれわれにつきまとっている」(『栄養料理事典』誠文堂新光社、1949)と、厳しいことを書く小田静枝は、日本栄養士会理事の栄養生理学者。飯・汁・香の物を組み合わせた和食の伝統セットを、ばっさり切っている。

 占領期、GHQの指導のもと、主食の比率を減らし、副食で動物性たんぱく質、油脂、ビタミンやミネラル類の量を増やす栄養改善運動が始まった。日本の専門家にとっても、欧米の食生活は手本にすべき理想型だった。日本人の健康増進と体位向上をめざして、栄養面からの新しい国づくりに燃える彼らにとって、米がないという状況は、むしろ好機だったといえる。

 大正時代に日本人女性としてはじめてパリの名門料理学校「ル・コルドン・ブルー」に留学した日本女子大教授、料理研究家の重鎮だった東佐與子は、こんな過激なことを書いている。

「この民族の飢餓を克服するのみならず、積極的に生活水準を高めるために、食糧を増産し、その消費法(即ち調理法と食べ方)の懸命な研究と、食体系の根本的な革命こそは、新日本建設のため、絶対の必要事であろう。もはや私たちは米にだけは頼ってはおられぬのである」(『世界の馬鈴薯料理集』中央公論社、1949)

 こうした懸命な栄養教育の成果もあって、「食生活の五五年体制」が確立していった。次回は、高度成長期からの変化を追う。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 畑中三応子

    1958年生まれ。編集者・ライター。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。『シェフ・シリーズ』と『暮らしの設計』(ともに中央公論新社)編集長を経て、プロ向けの専門技術書から超初心者向けのレシピブックまで幅広く料理本を手がけるかたわら、近現代の流行食を研究・執筆。著書に『カリスマフード――肉・乳・米と日本人』(春秋社)、『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか』(ベスト新書)、『ミュージアム・レストランガイド』(朝日新聞出版)、「七福神巡り――東京ご利益散歩」(平凡社)、『おやじレシピ』(オフィスSNOW名義、平凡社)、共著に『東京バスの旅』(文春新書)がある。第3回食生活ジャーナリスト大賞(ジャーナリズム部門)受賞。

キーワードから探す

お知らせ

ランキング

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる