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〈メイド・イン・ジャパン〉の食文化史 畑中三応子

「食えるものは食え」のこころ――明治から太平洋戦争まで

 鎖国していた江戸時代は、貴重品の砂糖など、わずかの例外を除いて食料の輸入がなかったため、当然ながら国内自給率は100%だった。足りないぶんを輸入で補えないから、飢饉のたびに大勢の死者が出た。口減らしのために間引きも行われた。

 江戸中期からは、庶民がアクセスできる通俗情報としての料理書が人気を集めたが、非常時のため日頃からの食物備蓄の重要性を説いたり、代用食になる植物の選び方や調理の仕方を手引きしたり、さまざまな混ぜものをした「かて飯」のレシピを解説したりする「救荒書〔きゅうこうしょ〕」もひとつのジャンルとして確立し、数多く出版されている。

 救荒食物(非常食・代用食)として推奨されている草や木には、現代人にとってもおいしいものが多いという。もう異常と感じられなくなった異常気象、頻発する自然災害、低迷する食料自給率……飢饉は遠い過去の出来事ではない。いまこそ江戸人の知恵に学ぶべきときだ。

 明治時代にはじまっていた穀物輸入依存体質

 近年まで摂取カロリーの大半を穀物に頼っていた日本人にとって、もっとも自給されるべきは、米だった。日本の食文化の基礎だから、米ばっかりはずっと自給できていたと思ったら、大間違い。やっと完全自給を達成できたのは、生産量が戦後ピークの1445万トンを記録した1967年だった。

 米は明治時代の初期には外貨を稼ぐ重要な輸出品だったが、急激な人口増加で国産では需要を満たせなくなって、20世紀のはじめ、明治30年代から輸入がはじまった。

 産業革命で工業化が進展し、資本主義が確立したこの時代、都市部だけでなく、農村部の主食も雑穀主体から米の割合が増え、1人当たりの消費量が急ピッチで上昇していったこともある。日本全体に白いご飯志向が広がっていったのである。

 明治期は、おもに仏領インドシナ、タイ、ビルマ、中国、アジアだけでなくカリフォルニアからも輸入した。1895年に台湾を植民地化してからは、水田を開発して国産のジャポニカ種に近い品種の増産が進められた。また、1910年に植民地化した朝鮮の米は、もともとジャポニカ種だったために食味が好まれ、日本へ移入(植民地は国内扱いで、輸入ではなく移入と呼んだ)するために朝鮮国内への供給量が減った。その結果、朝鮮では1人当たりの消費量が減り、摂取カロリー全体を著しく減少させた。

 朝鮮の併合から太平洋戦争で食料事情が悪化するまで、日本人1人当たりの年間消費量はコンスタントに150キロを超えていた。だいたい、三食とも茶碗3杯ずつの勘定だ。植民地から取り立てた米で、日本人はご飯をたっぷり食べていたのである。日露戦争開戦の1904年の米自給率は90%あったが、日米開戦の1941年には69%に低下していた。日本の穀物輸入依存体質は、はるか昔にはじまっていた。

 外米に嘆く大正時代のプロレタリアート

 朝鮮米と台湾米以外の輸入米は、粒が細長いインディカ種。粘り気がなくパサパサして日本人の舌に合わないが、値段が安かったため、貧しい労働者や農民の主食になった。

 インディカ種は、外米、南京米と呼ばれ、国産米より味が劣るだけでなく、食べ応えがないことでも悪評高かった。このころの雑誌には、それを嘆いた記事がよく見られる。

「外米を食えと政府は言う。併し下層社會の経験によれば、その不味いのは我慢するとして、外米の腹にこたえないこと夥だしい。胃袋の分量は三杯か四杯と定まっている。外米をそれだけ食って、昼にならぬ内にペコペコになっては、到底仕事が出来ぬ。おまけに外米は不味いから、どうしてもお菜が沢山いる。お菜を沢山喰べるのは、高い米以上に損である」(「米を中心とせる生活の叫び」『財政経済日報』1918年9月1日号)

 外米では力が出ない、国産米を食べないと働けないと、不満を募らせる労働者の実感は、国産米信仰の原点という感じだ。不味いのはともかく、腹持ちが悪いのは、インディカ種がたんぱく質の含有量が多く、そのぶんジャポニカ種より糖質が少ないからかもしれない。

 すでに人口密度世界一の食料輸入大国だった

 この1918年は、米価が暴騰し、民衆による抗議行動が全国に広がった「米騒動」の年。論壇誌や経済誌には、栄養学に基づいて主食を改善すべきだとか、政府による米価調節が手ぬるいだとか、食料問題に関する論考が多数掲載されている。

 そのほとんどが、国産米でないと満足しないのは困った悪癖であり、今後は外米だけでなく南北アメリカやロシアで産する小麦など、世界各地で産する食物を消費する習慣を作るべきだと説いている。足りなかったら、外国から買えばいいという発想が、論壇の主流だった。

『経済往来』1929年1月号によると、総耕地面積に対する人口密度では、1920年時点で日本がダントツで世界一。「此の如く人口の密度の高い日本、それだけ自給自足に困難なる日本は、年々食糧の生産に従事せざる人口、乃ち消費側の人口がどしどし増加してそれが都市に集中せらるるのみならず、農作地は宅地工場等に変わってゆく」と、戦後の高度経済成長期と同じような状況だった。

「人口食糧問題管見」と題したこの記事で、筆者の下村宏(下村海南。ジャーナリスト・政治家。鈴木貫太郎内閣の国務大臣・情報局総裁として玉音放送の実現に尽力)は「土地の面積に限りがあり人口の増加に限りなしとすれば、ここ五十年百年は何んとか凌ぎがつくとしても悠久なる人類なり地球の長い将来を達観すれば必ずやそこにある行詰まりに到達せずにはおかない」と、書いている。さすがに日本の人口減少までは想像もつかなかっただろうが、下村の予言は世界規模で、見事に的中しているではないか。

 1930年における内地人口は、6445万人。明治初年の約3000万人から倍増し、毎年の増加率は世界一。人口密度はイギリス、ベルギーよりは低かったが、両国とも広大な属領と植民地を擁していたので、実質的には日本が世界一。国土は小さく、耕地面積はさらに全面積の7分の1と狭く、天然資源が乏しい国だから、国民の生活物資は不足を続け、すでに外国からの輸入に頼らざるをえなくなっていた。

 先述したように、まず主食の米が不足。麦、豆、砂糖、鶏卵の輸入は3億円に達し、水産物などの輸出を差し引いてもなお1億円以上の赤字。また、国内での食料生産に使われる肥料の輸入は1億5000万円に上った。

 文明開化から60余年、脱亜入欧で工業による近代化を進めた結果の食料不足である。もう少しうまい農政はなかったのかと思う。これから日本は中国と南洋をターゲットに、戦争に突き進んでいく。

自給確保をめざす新興食糧開発計画

 戦時下の国内食料自給率を向上しようという努力には、涙ぐましいものがあった。

 軍隊食の開発・製造・補給を担っていた陸軍糧秣廠〔りょうまつしょう〕の主計少将兼、外郭団体である「糧友会」の代表だった丸本彰造という軍人がいる。

 兵站を軽視して無謀な作戦を敢行し、兵士に大量の餓死者を出した日本軍のイメージとは異なり、丸本は非科学的な精神主義には批判的で、兵食の改善に取り組んだ人。また、国民栄養の向上を目的に、1926年2月から1945年1月まで糧友会が刊行していた『糧友』は、科学的視点と合理的な食生活の提案が画期的な料理雑誌だった。

 食糧のプロ中のプロで、中国の羊肉料理を研究したり、ライ麦パンやもやし普及のキャンペーンに努めたりと、いつでも先見の明がありすぎる丸本の論文を読むのが、実は私は好きだったりする。

 その丸本が、日米開戦直前の『文藝春秋』1941年11月号で、きわめて具体的な「新興食糧」開発のすすめを発表している。臨戦食がどのようなものだったかがリアルに見えてきて、その後の戦況の悪化が招く壮絶な食糧難を予感するような内容だ。箇条書きで紹介してみよう。

1、頭をめぐらし山海を探ってみると、これまで顧みられなかった山野草、海藻の類がある。これらを新食糧資源として活用する。

2、これまで肥料や飼料として用いられた魚類・魚粕・脱脂糠・蚕蛹の類を食糧化する。

3、生鮮品として取り扱われているサツマイモ、ジャガイモその他野菜類を乾燥加工して貯蔵性を付与し、重量と容積の軽減によって従来の貯蔵・輸送・配給中の腐敗を防止し、廃棄量を救済する。

4、新たな工夫、技術加工によって、栄養率を高度化できる食糧、たとえば生大豆粉、新興米、興亜パン、栄養粉、麺類その他の栄養配合食によって食糧価値を増大させ、消費量を節約する。

5、地方に偏在または潜在して、腐敗と浪費にまかせられている食糧を、困窮している地方に流用する糧道を講じる。

 つまり、いままで食べ物として認めていなかったものにくまなく目をつけ、食えるものは食えということである。なお、この年の4月、米の配給制が6大都市からはじまり、全国に広がった。配給量は成人1人1日当たり2合3勺(330グラム)。1年間だと120キロになり、それまでの150キロ超えから2割も減らされたことになる。

 食文化の改変を迫った国家総動員法

 具体的に説明すると、たとえば魚類・魚粕の食糧化とは、肥料や家畜飼料としてだけ利用されていた魚油の搾り粕を食用魚粉に加工し、パンや麺類に配合すれば、全国民に最小限度の動物性たんぱく質を補給できるという案。実際に、「興亜パン」の名で製品化された。

「興亜建国パン」とも呼ばれ、小麦粉に大豆粉(または砕米粉、麦こがし、ライ麦粉、きな粉)、トウモロコシ粉(またはそば粉、コーリャン粉、ジャガイモ粉、サツマイモ粉)、魚粉か海藻粉、野菜を混ぜたパンで、家庭ではイーストをふくらし粉で代用し、蒸すよう指導された。いまでは生地にチーズやクルミ、コーンなどの固形物を練り込んだパンはいろんなバラエティーがあるが、当時としては斬新なアイデアである。だが、魚粉がそうとう生臭かったらしい。主食と副食を兼ねる完全栄養の節米代用食として評判になったものの、普及しなかった。

 全国の女子学生を秋のイナゴ獲りに、東北と北海道の学徒を山蕗採りに動員する等々、国家総動員法で義務づけられた学生の勤労奉仕隊に、未開発の食用資源の蒐集に当たらせれば「その効果頗る大なるべきこと明らか」と、もう、大本営発表とはあまりにも差のあるみみっちさに驚く。と同時に、総力戦とは、これほど食生活の改変を迫るものかと愕然とする。いちばんすごいのは、醤油と味噌だ。

カイコの蛹で純国産醤油を作りましょう

 醤油と味噌ともに主要原料のひとつが大豆だが、大豆は国内消費の7割が満州大豆に依存しており、供給が逼迫するようになっていた。そこで大豆のかわりに提唱された原料が、カイコの蛹から油を採取したあとの搾り粕と、海藻類だった。

 生糸製造の副産物である蛹は、貴重なたんぱく源として食用にする地域があり、実際に栄養価も高いが、もっぱら家畜や養殖魚の飼料か畑の肥料だった。特有の臭みをやわらげるため、蛹は醤油で煮て佃煮にするのが一般的だが、その醤油を蛹で、しかも搾り粕で作れというのである。

「これならば国産品であり、これまで利用されなかったものだから原料的に事欠かず、生産費は低廉」というが、なんとも凄まじいメイド・イン・ジャパン醤油である。

 丸本は最悪の事態を想定したのかもしれないが、本当に蛹や海草から醤油が作られるようになった。また、醸造の工程を省き、アミノ酸液に味つけしただけの化学的な醤油も出回り、戦後に醤油が本来の味を取り戻すまで、長い時間がかかった。食料自給という名分で、米や醤油や味噌だけでなく、食の文化や習慣のすべてが壊滅的な打撃を受けた。

「云うまでもなく、食糧の確保と国民体力の増強を要求すること、今日より甚大にして急迫なるはない。各家庭は台所に生ずる残菜、残飯、魚骨、根菜の切屑、空閑地利用生産物の余剰品、何にても乾燥して粉とし、常用し、貯蔵せよ。而して一方には、芋類、野菜類の粉、山野草海藻の粉、魚類の粉、蛹類、米糠等の加工製造業が新興し、家庭貯蔵と相俟ってこれ等新興食糧品が国内に充実して一大国防貯蔵を形成するよう、吾等の切望に堪えない」

 丸本はこう結んでいる。こうしたキャンペーンがあらゆるメディアを通して繰り広げられて、日本人は自給率アップと食品ロス削減に邁進したのだった。

 高度成長期以降の食料自給率低下を書くつもりだったが、変更した。次回は、戦後の変遷を追っていく。

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著者略歴

  1. 畑中三応子

    1958年生まれ。編集者・ライター。編集プロダクション「オフィスSNOW」代表。『シェフ・シリーズ』と『暮らしの設計』(ともに中央公論新社)編集長を経て、プロ向けの専門技術書から超初心者向けのレシピブックまで幅広く料理本を手がけるかたわら、近現代の流行食を研究・執筆。著書に『カリスマフード――肉・乳・米と日本人』(春秋社)、『ファッションフード、あります。――はやりの食べ物クロニクル』(ちくま文庫)、『体にいい食べ物はなぜコロコロと変わるのか』(ベスト新書)、『ミュージアム・レストランガイド』(朝日新聞出版)、「七福神巡り――東京ご利益散歩」(平凡社)、『おやじレシピ』(オフィスSNOW名義、平凡社)、共著に『東京バスの旅』(文春新書)がある。第3回食生活ジャーナリスト大賞(ジャーナリズム部門)受賞。

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