web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

女に産土はいらない 三砂ちづる

アフリカの水

 若い友人が理科系単科大学の文科系教師になろうとしている。どういうことかというと、ある理科系の専門分野の先生ばかりいる大学で、いわゆる教養科目である語学とか、哲学とか、文学という、専門ではない科目を教える文科系の専任教員になる、ということで、同じ分野の同僚もおらず、自分の分野を専門として勉強していくような学生が出る可能性もない、というところの教師になる、ということである。それでも、専任で、任期無し、つまり終身雇用のポストだから、魅力がある。すべて首尾よく進み、その大学の教員として新学期を迎えて欲しいものだ。学生にとっては、そういう「専門外の先生の存在」は、とても重要だ、と思うからである。

 

 今どき、大学の教員のポストにつく、というのは、なかなかに難しい。しかも、2000年以降、「任期付教員」といって1年、2年、長くて5年などの期限付きの教員となっている人が少なくない。日本の大学は、もともとはそういうところ、つまり、期限付き教員がたくさんいるようなところではなかった。おおよその教員は、おおよその日本の会社員がそうであったように、終身雇用の人が多かったのである。ある意味、そのように定年まで身分が保証されている研究者というのは、短期間でなんとしても無理やり業績を上げていくことに血道をあげる必要がなく、ゆっくり、じっくり時間をかけて研究に取り組むことができた。日本の基礎的な科学研究は、こういう体制にこそ支えられていたのだ、と今となっては懐古する人も少なくないが、おそらく、懐かしんでも、もう、遅い。

 今は日本の先端科学の分野でも、プロジェクト型雇用の任期付の研究者が多く、短い期間で多くの業績を残さないと次の仕事につながっていかないので、無理をして業績を上げようとする。そのために、必要以上のストレスがかかったり、倫理的な面で問題が出てきたり、長い目で研究者を育てることがやりにくくなったりしている、という話は、新聞などでご存知ではないだろうか。

 私は1990年代、イギリスの大学で研究員として働いていたのだが、私の職場であったロンドン大学熱帯衛生医学校では、当時すでに、任期付ではない終身雇用の教員は、ほんの少ししかいなかったように記憶している。多くは、ソフトファンディングと呼ばれる外部資金による任期付の教員、研究員であった。もちろん私自身もそうで、当初はWHO(世界保健機構)の、小児における急性呼吸器系疾患のプログラムに、半年だけ給料をもらって仕事をしていた。半年お金をもらっている間に、その半年の期間の後の、別の外部資金提供先を探す。具体的には、短い間に研究計画書を書いて、研究に必要な費用はもとより、そこに自分の大学における給料も計上し、申請総額の40%に及ぶような大学へのオーバーヘッド(手数料)も含めて、資金を取りに行くのである。総額は、給料とオーバーヘッド込みなのだから、結果としてかなりの高額の申請になってしまう。期間は2年とか3年とかが多い。私は最初の研究計画書で、当時のイギリスODA(現在の DFID: Department for International Development)から5年間の研究資金を得たが、我々の業界では「5年というのは、限りなく“永遠”に近い」(くらい長期間のプロジェクトだ)と言われていた。

 そのようなソフトファンディングのスタッフは、契約の期間中、しかも契約の初期に、とにかくたくさんの業績を上げていかないと次のプロジェクト申請をすることができない。だから、がむしゃらに論文を書くしかない状況に陥る。そもそも大学の様子も大してわからず、ソフトファンディングという制度自体を知らなかったので、そういうものなのか、と大変驚いたものだが、2000年以降、日本に帰ってきたら、日本もそういう国になり始めていて、二度、驚いた。今や、この国でも、大学の教員や研究者は、まず、期限付き雇用、という形が普通になりつつあるのだ。

 その昔は、旧帝大系、とりわけ東京大学とか京都大学とかを出て、大学院まで行ってさえいれば、贅沢さえ言わなければそれなりの大学の終身雇用のポストくらいはあったらしい。現在の職場である小さな私立の女子大などは、今でこそ大変オープンな公募で教員を募集しているが、2004年に私がこの大学に就職した頃に、同僚であった長老級の先輩教員たちは、自分の大学院時代の指導教官がそこの大学に行きなさい、と言ったから、実際に大学を見に行くこともなく、この大学に赴任することになり、就職が決まった、などとおっしゃっている方もあった。まことにのどかな時代であったのであろう。1990年代あたりから当時の文部省の方針で大学院生が一挙に増えるようになり、結果として博士を取得する人も増えるようになり、それに比べて大学のポストは少子化とともにそんなに増えなくなり、大学の教員ポストを得ることはどんどん難しくなっていき、期限付きの教員も増えていったのである。

 

 そもそも、大学教員は普通の企業のように「新入社員を募集します」と言って一定数を募集するようなものではなくて、「空席公募」である。当該分野の教員がいなくなるたびに募集する、といったものなので、いったい自分の専門とする分野の空席がいつ出るか、さっぱりわからない。今は、自分の専門分野の公募が出たら教えてくれるようなインターネットサイトも存在するものの、なかなか自分の求めるような公募は出ないことが多いから、応募要項が出て、少しでも自分の分野と重なるところがあれば、応募していくことになる。一つの公募に対して少なくとも50から100の応募があることはごく普通だと思う。

 もちろん、多くの研究者は、自分の専門の分野の人がたくさんいる学部や学科のある大学への就職を望むものだ。その方が、研究もしやすいし、自分と専門分野の近い学生たちに教育することもまた、自分にとって望むところであろうから。有名な大学で、しかも、自分と専門を同じくする人たちに囲まれて切磋琢磨することは、誰もが望むことだろう。しかし、自分の専門の人が一人もいないような、まったく別の分野の学科や学部で、一人だけで仕事をすることは、いわゆる研究エリート街道からは外れていくことなのかもしれないが、学生との出会い、という意味において、あるいは、総合的な知の世界で鍛えられる、という点で、悪くないのではないか。専門の先生ばかりの大学で、専門外の先生からの一言で、学生に新たな道が開かれることもあるし、多くの示唆を受けることもあるだろうから。

 

 アフリカの水を飲んだものは、アフリカに戻る、と言う。一度あの人類発祥の地である大地に足を踏み入れると、必ず戻らずにはいられない。そしてまた、アフリカを通じて紡がれる人間関係もまた、一度踏み込むと、どこかでまた戻らずにはいられない。近年は、「アフリカ」、という一括りの言い方自体がふさわしくない、それぞれの国や地域によってとても違うのだから、「アフリカ」と言わず、タンザニアが、とか、ボツワナが、とか、カメルーンが、とかいう言い方をした方が良い、という若い研究者の方々もおられ、それはもう、まったく、その通りなのであるが、「アフリカの水を飲んだものは・・・」という言い方は、やはり、まだ、していたいような気がする。アフリカ大陸の底知れぬ魅力に引き込まれる、という意味で。私は、薬学の単科大学に通っていた時に、アフリカに出会い、そのあとアフリカの水を飲み、今も、アフリカに戻っている。私をアフリカに引き込んだのは、というか、アフリカという世界を開いてくださったのは、薬科大学の歴史の先生、すなわち、理科系単科大学の文科系の先生だった。

 薬学部の中で落ちこぼれ、どうしたらいいかわからなくなった時、まったく専門外だった先生の存在は、救いだったのだ。薬学部の学生だった私が、卒業後、薬剤師をやりながら、再度大学の夜間部に編入し直して経済学を学び、アフリカでのボランティア活動を経て、公衆衛生や疫学といった分野に出会い、研究者となり、ものを書き始めたり、現在、リベラルアーツカレッジで働くようになったりしているのも、その先生との出会いがきっかけになっている。だから、冒頭の若い友人が、自分の専門分野の人は一人もいないような、理科系単科大学の文科系教師になろうとしていることは、ぜひ、ぜひ応援したいと思ったのだ。彼女の存在によって、新しい道が開かれる学生が、いつか、きっと出てくると思うから。

 

 薬学部は基本的に薬剤師を養成しているところ、と言って大きな間違いはない。とりわけ私立の薬学の単科大学では、ほぼ全員が薬剤師国家試験を受ける。2006年以降、薬学部を出て薬剤師になろうとすると、6年かかるのだが、以前は4年間で薬剤師養成をやっていた。今でもおそらくそんなに変わらないと思うのだが、薬学部に限らず、医療系の学部はとにかく講義と実習が多くて、大学とはいえ、専門学校並みのびっしりのスケジュールに追われることが多い。私も薬学部では毎週、月曜から土曜まで朝から晩まで講義と実習に追われ、他大の文科系学部に進んだ友人たちが、「講義を選択する」という話を聞いて、「文系では講義は自分で選べるものなのか」と感心したくらい、薬学の単科大学の時間割には、ほぼ、選択の余地がなかった。必修として、やるべきことが多すぎた。薬学部の最終年次、すなわち、当時の薬学部の四年目では、卒業研究のために、それぞれが専門性の高い研究室に所属して、一年間、実験を行うことになっていた。

 どのような研究室を選ぶか、ということは卒業後の進路をある程度決めることにもなる。それぞれの研究室の先生方が、企業や医療機関などとつながりを持っていて、卒業する学生たちにいろいろな情報を提供してくれる、といった、他の理科系学部と変わらない構造が薬学部にもある。薬学部の四年次、私が選んだのは応用薬理学という研究室。薬理学というのは、薬物治療の基盤を確立する分野のひとつで、体の外から入ってきた薬物とからだの相互作用について、さまざまなレベルで研究する学問である。応用薬理だから実際の薬物がどのように疾病治療に使われるのかについて、具体的な動物実験を行っている研究室だった。今でこそ、胃潰瘍は薬で治る病気になっているが、1970年代には胃潰瘍は手術しないと治らないと言われていた。70年代終わりになって、さまざまな胃潰瘍の飲み薬が出てくるようになり、応用薬理学研究室では、それらの「胃潰瘍を飲み薬で治す」ための準備段階として、いろいろな薬の動物実験を行っていた。

 最終的には人間の胃潰瘍の治療に使うことができる薬を開発するのであるから、まずは、動物実験で胃潰瘍が治るかどうかを示していかねばならない。動物の胃潰瘍が治るかどうかを調べるためには、実験的に「胃潰瘍のできた動物」を作る必要があり、ビーグル犬やモルモットもいたものの、最も数多く使われていた実験動物はラットであった。要するに、白い、大きなネズミ、である。このラットを大量に使って、胃潰瘍のモデルを作り、薬の効果を試していくのだ。胃潰瘍の最大の原因はストレスである。強いストレスが起こると、あっという間に胃潰瘍ができてしまう。ラットたちに実験的に胃潰瘍の状態を作るために、ラットを一晩、水に漬ける。死なないように、首から上だけは水面に出していた。一晩中水に浸けられることがどれほどのストレスか、想像できよう。一晩ラットを水に漬けると、翌日には、胃の中が出血するほどの胃潰瘍ができている。このモデルを使って、胃潰瘍の薬を投与し、効果があるかどうかを調べるのだ。

 胃の中が出血するほどの胃潰瘍ができているか、また、薬を与えたラットでは胃潰瘍が治っているか、そういうことを調べるためには、ラットを外から観察していてもわからない。ラットのお腹を開けて、胃の状態を調べなければならない。ラットのお腹を開けて調べるために、ラットは、殺す。ラット自体が必要なのではなく、ラットのお腹にできた胃潰瘍のモデルが必要なのだから。実験動物であるモルモットは尻尾がないから首の下を棒で殴って撲殺するが、ラットには尻尾があるので、尻尾の静脈から塩化カリウムを注射して、一気に殺し、お腹を開けて胃の状態を調べる。胃の状態を観察して、記録した後、死んだラットは、ビニールの袋に捨てる。

 こういうことを残酷だとか、ひどい、とか、言ってもらうまい。人間に安全な薬を提供するために、どの薬理学研究室でも、似たり寄ったりの動物実験を行い、私たちはその恩恵を受けている。実際にこのとき実験していた胃潰瘍の薬は、臨床薬として認可され、今や、世界中で使われていて、多くの人がその恩恵を受け、手術をしないで、胃潰瘍を治している。ストレスの多い現代社会で必要とされる、実に重要な薬の登場だったのである。

 薬理学研究室の新米学生の仕事は、まず、実験動物の世話であり、毎朝、毎晩、「おしめ替え」と言ってラットのケージのフンをきれいにし、餌を与え、面倒を見ることなのであった。実験動物を育て、そして、実験して、殺す。それらがデータとして積み重ねられて、薬の薬効や安全性が確立されていくのだ。そのような仕事を日々、行っている人がいるからこそ、薬物治療というものが成り立っている。それを続ける人たちへの敬意や、犠牲になってくれた動物たちへの感謝は、ゆめゆめ忘れられるべきではない。忘れるわけにはいかない。

 薬理学の研究室に入ったのだから、そういうことを続けることが仕事なのだが、私は続けられなかった。自分で選んで入った研究室だというのに、ラットを殺し続けているうちに、大学に行けなくなってしまったのである。今はそういうふうに、大学に行けなくて下宿から出ていけないことに「登校拒否」である、とか「ひきこもり」である、とかいう言葉が存在するが、当時は、なかった。私はとにかくあの研究室に行かねばならない、と思うと、下宿を出ることができなくなった。薬理学研究室の学生であることに、見事に落ちこぼれたのだ。

 大学に行けなくなった私に声をかけて、大学に行き始めるきっかけをくださったのが「理科系単科大学の文科系教師」である、薬科大学で歴史学を教えていた大沢基という先生だった。「ネズミを殺せなくなったのは、仕方ない。もう、やめてもいいと思う」と言ってもらい、本当に救われた。最終的には卒業実験は、応用薬理学教室の近所の生化学の研究室に拾ってもらって、検量線など書きながら、卒業研究を終えることになるのだが、大学に行けるようになるきっかけは、大沢先生の部屋に行くことができるようになったことだった。大沢基先生は、差別史の研究家で、当時まだ平然とアフリカで行われていたアパルトヘイトに反対する、日本国内のNGO(当時、思えばNGOという言葉もあったのかどうか、怪しい)、アフリカ行動委員会に関わっている人で、イリイチも、フレイレも、彼の部屋にあった本から知った。彼に連れて行ってもらった京都の丸善書店で、内田義彦の本にも出会った。ネズミが殺せなくなっても世界は終わりではないこと、そして、開かれるべき世界は他にもあることを、彼に教えてもらった。1970年代、日本人はすでに海外に自由に出かけるようになっていたが、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど、当時開発途上国と言われていた国々に渡航する人は、まだ多くなかった。大沢先生は、長期休みごとに学生たちをアフリカやアジアに連れて行っていた。スタディツアーなどという言葉もまた、まだ、なかった頃のことである。

 薬理学の研究室にいれば、製薬会社の研究所に就職することが多いのだが、ネズミが殺せなくなった私に、製薬会社の研究所への就職ができるはずもなく、就職戦線にも落ちこぼれる。近所の大学病院の薬剤部での研修に応募し、半年弱、研修を受けた後、どこかの病院か薬局で働くことを考えていた。その研修を終えた後、就職する前に、大沢先生に連れられてケニアを訪れることになる。

 生まれてはじめて出て行った外国は、パキスタン航空に乗って、マニラ、バンコク、カラチをトランジットで経由して、向かったケニアのナイロビであった。経由地のカラチのトランジットで食べたものが悪かったのか、ナイロビに着くなり、3日間、ずっと下痢を繰り返し、吐き、苦しかった。なぜアフリカなどに来てしまったのか、ほとほと、後悔した。別にそれはアフリカが悪いのではなくて、経由地で食べたものが問題だっただけなのだが、生まれて初めて降り立ったアフリカの洗礼を受けている、とひしひしと感じた。

 到着後3日目の朝、ようやく外に出て歩けるほどに回復し、バスに乗って出かけたところ、所持金をすべてすられた。停留所につき、バスの座席から扉に向かうその間に、ウエストポーチからお金を抜かれたのである。思えば、これは私が悪い。ウエストポーチのような「ここに大事なものが入っています」と言わんばかりの目立つものを、存在だけで目立つ日本人の若い女の子が身につけて、ナイロビの路線バスに乗るなんて、お金をとってもいいよ、と言わんばかりの格好だったのである。そういうことにも気づかないくらい、私は何もわかっていなかったし、しかも、3日間下痢して、ふらふらだったのだ。3日間下痢はする、表に出たら、所持金はみんな、すられる。何でこんなところに来てしまったのだろう。再度、ほとほと、後悔した。

 最初からそんな目にあったというのに、大沢先生と訪ねたケニア山の麓、キャラガナ村の人たち、真っ赤な土、子ども達のくりくりした瞳、モンバサ、マリンディ、ラム島。インド洋の街。23歳の私は数週間かけて、アフリカの水を飲んでしまったのだ。もう、戻る道はない。私は勝手にアフリカから強烈なラブコールを受け、すっかりそれに参ってしまい、もう、生涯アフリカに関わりたい、と思うようになる。ラットたちとの出会いと別れのおかげで、アフリカの水を飲むことになったのだ、と思う。

 

 ケニア訪問から数年後に、南部アフリカの国、ザンビアで薬剤助手を養成する学校のボランティアとして1年暮らし、それからまた数年後、30歳になった時に、アフリカの角、ソマリアでの仕事のオファーを受け、さあ、またアフリカに行くぞ、今度こそちゃんと給料もらう仕事をするぞ、と思ったのだが、時は1988年、ソマリア内戦勃発の年に重なり、私は最初の国際的な仕事を、あっという間に失ってしまう。

 それからはアフリカよりもラテンアメリカへのご縁が深くなり、ブラジルで10年暮らしたりしているうちに、あれよあれよと30年近くが過ぎ、はっと気づけば、ずっとアフリカに行っていなかったことに気づいた。マダガスカルには仕事に行ったことがあったが、マレーシア人の末裔がすみ、水田の広がるインド洋の国、マダガスカルは、アフリカというより、アジアの端、といった趣の国だった。ブラックアフリカに再度ご縁をもらう頃には、還暦が目前になっていた。

京都大学の霊長類研究者のグループに誘ってもらって、コンゴDRC(Democratic Republic of Congo)とタンザニアに出かけた。30年近く訪れていなかったアフリカに「30年経ったからって忘れているはずないだろう、ずっとずっと好きだった」と、勝手に言われているような、おめでたい気持ちになった。

 アフリカの水を飲んだ私は、アフリカに戻るしかないのだ。来週から、西アフリカ、コートジボアールに行く。首都アビジャンの国立病院における、妊産婦と新生児に優しいケアをどうやって定着させるか、という国際協力プロジェクトの立ち上げシンポジウムを行うのである。「出産のヒューマニゼーション」と呼ばれる一連のプロジェクトの一環である。アフリカの水を飲み、アフリカに帰ることになり、アフリカという布に、ささやかながらも織り込まれていく幸せは、理科系単科大学の文科系教師に頂いたものである。冒頭の、若い友人の活躍を祈るばかりだ。

 

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

キーワードから探す

お知らせ

ランキング

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる