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女に産土はいらない 三砂ちづる

模倣

 

 勤務先の女子大のゼミの担当学生が、太宰治がチェーホフから受けた影響について研究していきたい、という発表をしていた。文学のゼミではない。私の専門は国文学でもロシア文学でも比較文学でもない。前回の連載でも、ゼミの学生がアメリカの戦争花嫁についての聞き取りをしたことで、ずいぶん学ぶところが多かった、というようなことを書いたのだが、そういったアメリカへの移民とか、戦争後の人々の暮らし、など、いわゆる社会学系統のことも、私の専門では、ない。一応大学の教師なので、専門は、あることは、あるのだ。私の専門は公衆衛生で、医療系の基礎分野のひとつ、集団としての健康について考える分野で、その中でとりわけ母子保健と言われる女性や子どものことについて研究してきて、その流れで、いわゆる国際保健、と呼ばれる健康格差のある開発途上国における仕事もしてきた。どちらかというと、というか、どちらかと言わなくても、理科系の分野が専門なのであって、およそ、文学とも社会学とも縁遠い分野である。

 それなのに、学部のゼミ生がおおよそ自分の専門とは違うことをテーマにしているのには、理由がある。津田塾は、今の若い人たちにはそんなに知られていないかもしれないけれど、一昔前の学校の教科書にはよく出ていた日本初の女子留学生の一人、津田梅子が1900年に開学した女子英学塾が母体となっている、日本で唯一、「女子大」という名前のつかない女子大である。幼くして政府留学生として渡米した津田梅子は、長じて、アメリカの「セブン・シスターズ」と呼ばれる有名な伝統的七女子大の一つである、ブリンマー・カレッジで学ぶことになる。「セブン・シスターズ」とは、スミス・カレッジ、ブリンマー・カレッジ、ヴァッサー・カレッジ、ラドクリフ・カレッジ、ウェルズリー・カレッジ、バーナード・カレッジ、マウント・ホリヨーク・カレッジであり、今では、ラドクリフがハーバードに統合され、ヴァッサーは共学になっているようだが、他の5つは現在も女子大だそうだ。

 だそうだ……と他人事のように言うのは、私はこれらのセブン・シスターズと呼ばれる大学のどこにも行ったことがないばかりか、だいたい、アメリカ合衆国という国に行ったことがないからである。いや、行ったことがない、というのは正確ではないかもしれない。10年暮らしたブラジルに行く時や、そこから帰る時は、ロサンゼルスに降機していたし、このところは中米エルサルバドルにおける出産に関わるプロジェクトに関わっているので、何度もアメリカ合衆国のシカゴやらヒューストンやらを経由して、アメリカのイミグレの長蛇の列に並んだり、靴まで脱いでの荷物検査を経験したり……ということは、している。シカゴの空港の恐竜の模型を見上げたり、「なんというジャンクフード!」と思いながらも、キャラメルとチーズソースのかかった、山ほどのポップコーンをやっぱり美味しいな、と思ったりも、している。しかし、空港の外に出たことがないので、アメリカに行ったことがある、とは言えまい。

 海外とのご縁は深く、上述のようにブラジルに10年暮らしたし、イギリスにも5年くらいいたし、国際保健の仕事をしているから、ラテンアメリカやらアフリカやらアジアやらいろいろな国に仕事に行った。しかし、アメリカに行ったことはないのだ。行く機会がなかったわけではないが、アメリカに行く、ということは私の人生であまり高いプライオリティーがなかった。機会と時間があるなら、別の国に行きたいと思っていた。幼い頃は、なんとなくの戦勝国への反感があったのだと思うし、長じてからは、みんなが行きたがるところには行きたくない、という若い頃にありがちな発想があったのかもしれない。しかしまあ、あちこちで仕事をしてきたから、アメリカに行ったことはなくても、アメリカ人の友人はいる。そのうちの一人は、医療人類学者で、アトランタのジョンズ・ホプキンスとかニューオーリンズのチュレーンとか、結構、大きな大学でずっと仕事をしてきた人なのであるが、この人に、私が「津田塾大学という、ブリンマー・カレッジの卒業生が作った小さな女子大で働き始める」と言った時、しみじみと、「うらやましいなあ、いいなあ、僕も本当はそういう、セブン・シスターズみたいなリベラル・アーツ・カレッジで働きたいんだよね。もう、大きな大学は、いい。もっと小さなカレッジで教養教育をしたい。僕みたいに思っている人は少なくないよ」と、言ったのだ。

 彼がそんなふうに言った時、はじめ、よく意味がわからなかった。アメリカを知らない私は、「小さなリベラル・アーツ・カレッジ」というもののイメージがわかなかったし、知らなかったのである。大学で働くなら、多くの人は、より規模が大きく、より有名な大学で働きたがるものだろうと思っていたが、十分に有名大学で働いてきた彼は、リベラル・アーツ・カレッジの方がいい、というのだ。これらセブン・シスターズを含むリベラル・アーツ・カレッジは、まず、規模が小さい。学生数も1000人とか2000人くらい。そして、学部教育中心で、大学院を持っていないところも多いという。おのずと少人数教育となり、学部では専門教育、というよりも人文科学、社会科学、自然科学の多くの科目を用意し、学問のやり方を身につけ、いわゆる人間力をつけ、教養人となることを目的としている。アメリカではこういう大学を出てから専門の大学院に進む、という人も少なくないらしい。セブン・シスターズ以外のリベラル・アーツ・カレッジは共学校であるから、元大統領には、そういったところの出身者も少なくない。ヒラリー・クリントン、キャロライン・ケネディらをはじめ、ジャクリーン・ケネディにバーバラ・ブッシュ、ナンシー・レーガンらのファーストレディたちも、セブン・シスターズ出身であるという。

 

 留学先の学校のありようは、留学した人の心に深く残り、生涯影響を与え続ける。日本初の女子留学生、津田梅子の胸には、ブリンマー・カレッジの佇まいがいつも深く残っていたに違いない。津田塾大学は、だから、このようなセブン・シスターズを範とし、模倣しようとしたリベラル・アーツ・カレッジなのである。現在も学生数は2,000人代、少人数の教育を学校の方針としており、学生と教員の距離は近い。近年まで、文字どおり「リベラル・アーツ」を意味する「学芸学部」一学部のみの大学であった。2004年に津田塾大学は、従来からあった学芸学部の英文学科と国際関係学科の学科横断コースとして「多文化・国際協力コース」という新しいコースを作り、私はそのコース担当教員として赴任して15年が過ぎようとしている。

 2004年当時、文系の学科は英文学科と国際関係学科のみであり、その二つの学科横断コースとして作られた「多文化・国際協力コース」は、その名の通り、多文化共生とか国際協力に興味のある人に参加してもらうために作ったコースではあるのだが、結果として、もともと教養教育を基礎とし、少人数教育を行い、自ら学問のやり方を学んでいく、というリベラル・アーツ・カレッジらしい広範で自律的な学びを一層先鋭化したようなコースとなっていった。2年生からの10数人のゼミで同じ教官と同じメンバーで3年間過ごし、必ずどこかでフィールドワークをやって、つまりは、現場に行っていただいて、誰かの話を聞いたり、観察したりしてきていただいて、卒業論文を書く。そして、その卒業論文のテーマは、「基本的になんでもいい」ことになっているのである。自分がテーマである、と思うものを、時間をかけて見つけ、そのテーマに沿って、なんらかのフィールドワークをやって、卒業論文を書き上げる。教員はその手助けをする。

 コースのそれぞれの教員は、皆、専門分野が違うのだが、学生たちには自分の専門の教育をする、というより、このようなリベラル・アーツの学びを助ける、ということになっているから、自分の専門とは何の関係もないようなテーマを選んだ学生に寄り添っていくことになる。もちろん自分の手にあまる時には他の教員の助けを借りたりすることもないわけではないのだが、不思議なことに、自分で自分のテーマを追っていくと、学生たちの学びは、自ずと深まってゆき、なかなかおもしろい卒業論文になっていくのである。私としては、文字通り学生がいろいろな私の知らないテーマを持ってくるのが実に興味深いので、毎回、彼女たちの発表を心から楽しみにしている。アメリカの友人が「リベラルアーツ・カレッジがうらやましい」といったのは、本当のところ、どういう意味だったのか、確認し損ねているが、こういう学生の姿を楽しみにしている自分を観察しながら、こういうことがうらやましがられていたのかもしれない、と勝手に解釈するのである。どんなテーマでもいい、と言っているから、冒頭の「太宰とチェーホフ」などという話が出てくるのだ。公衆衛生を専門とする私のゼミ生がこういうことを発表するのは、ここがリベラル・アーツ・カレッジなればこそ、のことなのであると言える。

 

 太宰も、チェーホフも、好きだ。私の育った昭和の時代、少なからぬ家の応接間には日本文学全集や世界文学全集が並んでいた。インテリの家や、大学卒といった家だけではない。いわゆる庶民の家にも、こういうものが不釣合いにも、並んでいた時代もあったのだ。私の両親、祖父母はもちろん、父方の親戚にも母方の親戚にも大学に行った人はおらず、私は双方の親戚で、初めて大学に進んだ。私の父は中学しか出ていない、当時の普通のサラリーマンで、住んでいた家も、第二次世界大戦後、空襲を受けた兵庫県西宮市のあちこちに残っていた、なけなしの材木を集めて作った、とか言われていた、安普請の家だったし、小さな二階屋に、当初、祖父母と両親と叔父叔母いとこに、遠縁の独身のお姉さんとお兄さんが住んでいて、いったい何人住んでいるのかわからないような、まあ、イメージとしては長屋みたいな家だった。そんな家にも、昭和30年代には、日本文学全集と、日本の歴史シリーズのような本が並んでいたのである。こういうことが、ちょっとした流行りであったと思われ、さまざまな出版社が日本文学全集や世界文学全集を刊行していたようで、それが売れていた当時のことはちょっと、今思うと隔世の感がありすぎるが、それはともかく。

 活字中毒であった私は、家の中にある本を、小・中学生にあまり見られたくはないであろう成人用週刊誌のようなものまで、かたっぱしから舐めるように読み尽くしていたので、日本文学全集の活字の小ささや読みにくさもあまり問題になっていなかった。当時の文学全集はとにかく、字が小さかったので、一冊にかなりの作品を集めることができていて、「人間失格」や「斜陽」をはじめとして、数多の短編小説も文学全集の一冊に詰まっており、ティーンエイジャーになったばかりで、太宰に耽溺する恐ろしさも楽しさも経験できたのは、父のおかげと言わねばならない。

 チェーホフは永遠の憧れである。彼の短編小説の、キレの良いことと、連れて行ってくれる世界の深さ。現実が書かれているようでいて、全く現実からかけ離れた世界にも連れて行ってくれる。とんでもない多作で、いくら読んでも読んでも、チェーホフの短編は、まだ、ある。彼のように書きたい、と思っている物書きがどれほど多いことだろう。まあ、私ごときが思うのとは、レベルが違いすぎるわけだが、太宰もそんなふうにきっとチェーホフに限りなく憧れたのに違いない。チェーホフに憧れ、チェーホフのように書きたかったのだろうということが、冒頭の学生のゼミ発表からも、ひしひしと感じられた。

 彼女は、太宰がチェーホフからどういう影響を受けたのかを知りたいと言い、今は、いわゆる先行研究、つまりは、すでに行われた研究論文や本を読んでいるらしい。しかし、ある作家が、別の作家にどのような影響を受けたのか、ということを論じるのは、そういう専門分野もあるのだとは思うが、それを研究していくのは本当に難しいことだ。専門的にそういうことが学んでいきたいなら、学生には是非、卒業後、文学研究の道に進んでもらいたいが、リベラル・アーツ・カレッジの学部生なので、今はとにかく、「ある作家が別の作家の影響を受ける、ってどういうことだろう」ということ考え、学んでいってもらうことになるのだと思う。先に書いたように、担当しているコースでは「フィールド・ワーク」をやらなければならないことになっているのだが、文学系のフィールド・ワークのイメージがつかないが、まあ、それは研究者に会いに行ったり、津田塾の傍の玉川上水をたどっていけば太宰の入水したところにつながっていたりするので、そういうことをやってもらうことにもなるのだろうか、とぼんやり考えるが、まだ、わからない。

 ある書き手が、誰か別の書き手に影響を受ける、とはどういうことだろう。

 ある作家を好きになると、その作家の書いたものを全部読みたくなる。全部読み尽くす頃には、その作家の文体がまるで乗り移ったかのように自分のものになってくる。そこからその人が書くものは、もちろんその人のオリジナルなものに違いないが、好きだと思って読んだ作家の文体や雰囲気は、消し難く自分の中に残り、自分の書くものに影響を与え続ける。ものを書いている人は、みんなそういう経験があるのではないだろうか。読むと、その人の文体が入ってくる。そのように書きたい、という思いとともに、文体が自分のものになってくる。内容が「うつる」のではなく、文体が「うつる」のである。そして、全部読まなくても、ちらっと読んだだけで、その文章の本質をつかんでしまって、似たようなものを書くことができてしまったりする人もいる。そういう人を、優れた書き手、とか、天才、とか、いうのである。

 昨年2月に90歳で亡くなった、作家、石牟礼道子さんは、そういう天才のひとりであった。水俣病を扱った「苦海浄土」で知られているが、彼女の文章は典雅で、中世的で、日本語の古層から立ち上ってくるような文体である。編集者として、秘書として、死ぬまで彼女を支え続けた思想家の渡辺京二氏は、石牟礼さんは、「本は、ほとんど読んでいない」とおっしゃる。幼い頃から、本を読むような環境にはなかったし、高等教育も受けていない。いろいろな本もお持ちだったが、数ページくらいしか読んでいないのではないか、と言われる。では、いったい、石牟礼さんは、どこからあのような文体を獲得したのか。渡辺さんは「国語の教科書でしょう」とおっしゃるのである。小学校の頃の国語の教科書から、文体というものを得たのではないかと。また幼い頃に聞くことがあった御詠歌や浄瑠璃が、彼女の古典的な文体を作り上げたのではないか、と。石牟礼さんは、俳句も書いておられたし、能も書いておられた。彼女にとっては、ちらっと俳句を見ただけで、ちらっとお能に触れただけで、その本質はすぐに彼女のものとなり、彼女の文体となり、彼女の思いをその上にのせていくことができたのであろう。国語の教科書に、わずかにのっている名文は、それだけで石牟礼道子の本質を喚起し、表現を乗せていくヴィークルになりえたのである。驚くべきことだが、天才とはそういうものである。

 しかし、天才ではなくても、先に書いたように、すべてのものを書く、という行為は、ある意味、模倣、から始まるのだ。何かを読む。天才ならば、ほんの一節に触発されて、その文体を自分のものにするであろう。天才でなくても、自分が好きで、憧れる人の文章を読み続ければ、自ずとその人のスタイルの文体や文章の構成が立ち現れ、自分の表現の形を決めていくのである。初めからオリジナルな文体や、文章や、構成は、ない、ような気がしている。だから、書く人は読む人、である。いや、私はあまり人のものは読んでいない、自分で書き始めた、というような人もいると思うのだが、そのようにして書き始めて、しかも物書きとして大成していくような人は、ある意味、石牟礼さんのような天才なのだと思う。何かちらっと見たこと、ちらっと読んだこと、だけで十分であり、それを模倣とも、なんとも、意識せずに、書き始めたのに違いない。

 文章ならずとも、おおよそ人間がやる文化的なことは、まずは、模倣、ではないのか。誰かがやることを見る。当たり前にやっていることを観察する。観察するまでもなく、ただそこに在る、ことを当たり前と感じる。当たり前と思うから、自分もやってみる。やってみるとうまくできることもあるが、できないこともある。でも続けていけば、おおよその人はだいたいは、できるようになる。まわりがやっていることを、自分のものとしていく力は、文章を読んで、その文体を自分のものにしていくのと同じように、すべてのことに対して存在するのであろう。要するに、上手下手、好き嫌い、はそれぞれの人によって違うけれども、おおよそのことは、周りがやっていることは、自分ができるようになるのである。

 

 近年、女性の身体技法としての「頭上運搬」について、聞き取りをしている。最近は沖永良部島の女性たちの話を聞いた。昭和40年代に水道が整備される前の沖永良部の生活用水の多くは、暗川(くらごう)と呼ばれる洞窟を下っていった地下の水源から確保されていた。狭いところを通って地下に降りていかねばならないから、両手で水桶を持って運ぶことは現実的ではない。頭の上に乗せて水を運ぶことが最も合理的な方法である。女たちの仕事としての水汲みを、幼い頃から始めるから、2019年現在、60代くらいの人まで、中学生くらいまで頭に水桶やバケツを乗せて水を運んでいた記憶がある。なぜ、できるようになったのか、と聞くと、「周りがやっていたから、自分もできるようになった」と言われるのである。もちろん、周りがやっているのを見ていなくて、できる、とも思っていない私たちは、頭にものを乗せて運ぶことなどできない。すべての人がやっているところでは、模倣するしかないし、模倣されていくのである。

 

 リベラル・アーツ・カレッジの話に戻ろう。アメリカのリベラル・アーツ・カレッジは都会の喧騒から離れた自然の豊かな人口数万の地方都市にあることが多く、寮もあって、学生の生活は学内で完結できるようになっていることが多いという。教職員と学生のつながりも深く、同窓生の支援も大きい。さらに、穏やかな環境で人間の歴史を学ぶ環境と、そういうところに子どもを送りたいと思う、それなりの社会階層の家庭からやってくる学生が多いことが相まって、おのずとリベラルな環境が出来上がり、社会的弱者やマイノリティーへのまなざしが深くなるという。

 これは、津田塾そのものではないか。1930年代以降、ずっと東京都小平市という、東京とはとても思えない武蔵野の森の中、大学の周りに喫茶店一つない、という環境で、タヌキやその筋の研究者が調査にお出でになるほど珍しい動植物に囲まれて、学生たちは一日を学内で過ごす。寮の門限は午後11時であるから、1時間半くらいかかる都心の喧騒の中で華やかな学生生活を送るには、まことに不向きであるのだ。寮生ならずとも、いったん大学に来た学生は周りに何もないので、大学生活は学内で結構完結しているのだ。学生たちの社会的弱者やマイノリティーと呼ばれる人たちへの興味は、一貫しており、休みになると、他の大学の学生があまり行かないような、東南アジアやアフリカやラテンアメリカのいわゆる「辺境」に出かけて行ったりするし、そういう学生をまわりが「いいなあ」と称賛したりする雰囲気に満ちている。

 文字どおり、アメリカのリベラル・アーツ・カレッジを模倣した津田塾は、都心キャンパスも持つようになり、教養教育だけではなくなってきているとも言えるが、学科横断の「多文化・国際協力コース」は2019年より、「多文化・国際協力学科」となる。津田梅子の心に芽生えた模倣する力、をさらに磨き上げ、学生の興味に寄り添いたい、とぼんやりと考える。

 

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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