web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

女に産土はいらない 三砂ちづる

楽観視

 母はよく、「遠いところの人と結婚するほど、いい子が生まれる」と、言っていた。幼い頃から、なぜかそれを何度も聞いていた。思えば、不思議である。母親というのは、娘はできるだけ遠くに嫁に行かせたくないと思うものではないのか。地元で結婚して、地元に住んで、自分のそばにいてくれればいい、とか、思うものではないのか。その辺りはよくわからない。母はただ、一般論を語っていただけなのかもしれない。

 母は、もともと、私の世代(今年、還暦)の多くの母親たちと同じように、結婚と専業主婦であることに、かなりのルサンチマンを感じながら生きてきた世代の人であった。皆婚時代の日本であったので、だいたいみんな結婚していたが、そしてそれはそれなりに幸せが担保されていた、と思われる制度だったが、もちろん不満も満載であったかと思う。母の世代は、そういうこと、つまりは結婚なんかつまらない、などということを、口に出して言ってもかまわない雰囲気になった最初の世代でもあったので、母は娘に結婚とはいかにつまらないものであり、人生の墓場か、というような刷り込みにおいて、人後に落ちない人であった。いわく。結婚しても何も良いことはない、結婚なんてつまらない、主婦なんて、おもしろくない、自分だってやりたい仕事があった。でも結婚したからできなかった、とずっと言っていた。母は美容師になりたかったそうだし、仕事もしたかったそうだが、父がそれに反対した、というのである。

 言語と行動が一致していなければ、子どもは混乱する。例えば、口ではずっと悪口を言っていても、なんだか妙に夫婦仲が良かったり、逆に、殴り合いをしたりするのに、言葉では甘いことを言っていたりすると、子どもは、言葉の裏にある感情がよくわからなくなってしまったりするもので、生涯しんどい思いをしたりすることも周りに散見されるものだ。しかし、我が母親の行動は、彼女のやりたいことを夫がさせてくれない、自分は大事にされていない、というような言動とよく一致し、夫婦仲は、記憶にある限り、ずっと悪かった。結婚と夫が彼女の不幸せの元凶であったようだから、母は娘にとにかく「手に職を持ちなさい」、「自分で職を持ちなさい」と、言い続けていたのである。

 「自分で仕事をしていれば、結婚なんてする必要ない」、とも言い続けてもいたわけだから、もちろん母から「結婚しなさい」というプレッシャーなど当然一度も受けたことがない。手をつながれて母を遠く見上げるような年齢の頃からそのように言われて育ったので、娘は結婚になんの幻想も期待も抱かずに育ち、とにかくその果てに、自分で稼げるようになったのだから、我が家の教育方針には、敬意を抱くべきである。インテリの家でも裕福な家でもなかったが、本を読みたいと言えば、いくらも買ってもらえて、勉強したいと言えばいくらでもさせてもらえたのは、「手に職を持つ女にしたい」と考えた母親と、学歴コンプレックスの反映として、子どもには教育を受けさせたいと考えていた父親のおかげである。母のおかげで結婚に幻想も期待も抱かなかったがゆえに、結果として娘は何度も結婚してしまうようになるが、まあ、それはともかく。

 結婚に対してそういうクールな姿勢を保ち続けていた母だったのだが、冒頭のように「遠くの人と結婚するといい子が生まれる」だけは、よく言っていて私はよく覚えているのだ。まあ、遺伝子が近くないほうがいい、とは生物学的にも、正しいことなんだろう。よく言われる“血が濃くなる”ことを避けたほうがいい、というのは、人類が歴史から学んできた知恵だったと思われる。どこか遠い人と一緒になって家族を作る、は、だから生存戦略としては正しい。だいたい結婚しなくてもいいよと言う母がなぜそんなことを言っていたのか、本当に今となってはわからない。冒頭に書いたように単なる一般論を繰り返していたのかもしれない。

 

 しかし「言われ続ける」と、何だか人生はそんなふうになってしまう。文字通り、言霊というか、言の葉には現実を動かす力が備わっていて、ずっと言っているとそんなふうになってしまうようだ。「言われ続ける」とその気になるのである。ある若い友人は現在、幼い子どもふたりの母親だが、結婚した相手たる人は、自分に3年半、ずっと愛を告白し続けプロポーズし続けてくれた人なんだそうである。友人はもともと、その人には、気がなかったらしいのだが、彼女のそのような態度にもめげずに、彼はせっせと3年半、大好きだ、愛しています、僕と結婚してくれませんか、を言い続けたらしい。彼女の方はその気はなかったはずなのに、3年半経った頃、ふと、そんなに言ってくれる人なら、そんなに私を求めてくれる人なのなら、この人がいいのかな、と思い始めたらしい。思い始めた時、彼の方も「もう、これで最後です。これで受け入れてくださらないなら諦めます」と最後の愛の告白をする。彼女は、そこで、イエス、と言ったらしい。それからは付き合うまでもなく、さっさと結婚してしまって、今、幸せにしているのである。諦めないで、ずっと3年半、愛の言葉を投げかけ続けた、彼の勝利であった。言葉にすることは、大切なのである。

 で、母に「遠くの人との子どもはいい子」を聞かされ続けた私。結果として、長じて、母となり、子どもが二人おり、子どもの父親はブラジル人である。ブラジルと日本の時差は、ちょうど12時間。大変わかりやすい。日本が朝の6時ならブラジルは夕方の6時、昼の12時ならブラジルは夜中の12時。いろいろ足したり引いたりして考えなくていい。要するに、地球の真裏である。穴を掘って行ったら日本に着いた、といった類のジョークを、ブラジルでは頻繁に聞いた。2015年のブラジルはリオデジャネイロでのオリンピック閉会式で行われた、次のオリンピックの主催国を代表する安倍首相がスーパーマリオの格好をして地球の裏の穴からリオに飛び出してくる、という演出は、いかにもブラジルの人にウケそうなパフォーマンスであったのだ。

 要するに、この国は、日本から一番遠い、地球の裏の国の一つである。ここより遠いと、逆に近くなる。日本と全く反対の国、ブラジル。私は「最も遠くの人と子どもを作った」。母の言う通り、「いい子」が生まれたのか。自分の子どもをいい子です、というとは、親バカも極まれりだが、もうすっかり大人になった二人の息子たちは、親のいい加減さから考えれば、本当によく育ってくれた、私にはもったいないような人たちなのである。世間的に見れば、母としては、まだまだ至らないところばかりなので、よろしくお願いします、というべきで、実際、そうなのだけれども、私としてはあなた方のような人たちの母にならせてもらってありがとう、というしかない。「遠い人と結婚したらいい子が生まれるから」と言っていた母の言葉は本当だったな、と思ってしまうのである。

 

 ブラジルという国は、移民の国なのであって、ネイティブ・ブラジル人、とでも呼べる人たちは、アマゾン森林に住む先住民の方たちくらいであり、他はみんなヨーロッパやアジアやアラブの国やアフリカや……いろいろな国から移民してきた人たちが混ざり合ってできている国である。日系人の人数も世界で最も多く、ブラジル人口の1%が日系と言われている。100人にひとりが日系人、というのはなかなかの割合である。勤勉で正直、働き者の日系人はブラジル社会で信頼され、高い評価を受けていて、それは直接ブラジルの人の日本への印象の良さにもつながっており、ありがたい限りである。そのように日系の方も多いブラジルであるが、我が息子たちの父親、ウォルターは、日系とは何の関係もない。先祖を辿れば、50%イタリア、25%ポルトガル、25%スペインという血筋である。つまりは母方と父方双方の祖母はイタリア系、母方の祖父はスペイン系、父方の祖父はポルトガル系、ということである。我が家の息子たちは、ブラジル50%、日本50%の人たちであるが、ブラジル側の50%の内訳は上記のごときラテン・ミックスなのである。ヨーロッパで暮らしていた彼らのご先祖様は、子孫が極東の国に住まうことを想像もできなかったであろう。まさに地球の裏の、最も遠いところに住み、また、血筋からしてもアジア人である私から見れば、何の関係もないところから来た人なのであった。息子たちは、信じられないようなハイブリッドとしてこの世に誕生してきたのだ。

 距離的に最も遠いだけではなく、ブラジルの人たちの人生観や考え方や暮らし方もまた、ある意味、日本と正反対、と思えるようなところが多かった。この原稿を書いている今は2018年の年末なのだが、今年は本当に天災が多かった。地震、台風、豪雨、が次々と日本列島を襲う。台風に伴う豪雨で、山口県に住まう親戚や、関西に住む家族を心配していたところ、朝起きたら札幌の友人から「無事です」というメッセージが入っていて、あれ、台風、そっちじゃないでしょう?と思ったら、実は北海道で大きな地震だった、という朝も、あった。まったくひっきりなしの災害に見舞われた一年であったのだ。私の実家は1995年の阪神大震災で被災しているが、思えば、ひっきりなしの天災はあの頃から始まったような気もする。これだけ天災が多い国ではどうやったって、国民性というものは悲観的になりやすく、「備えよ常に」でありがちで、今日と同じ明日が続く、と楽天的に考えられなくなるのは仕方がないことである。どうしても今日の幸せを喜ぶことより、明日の心配をしてしまう。

 といいながらも、いったいこういう傾向が、いつからこの国の国民性になったのか、ということ自体、実はよくわからないんじゃないか。もともと日本人がそうだった、などという考えは疑わしいのではないか、と思うのは、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」など読んでいると、前近代の日本人は、災害にあおうが、大火にあおうが、結構楽天的に暮らしていて、家などまた建てれば良いという感じだったようだ、というのも、わかったりするからである。その頃の日本の家は、大変簡素で、しかも、家にものなど少なかったし、西洋人が使うような大仰な家具らしい家具などはない暮らしであったから、潰れてもすぐに復興してしまえる程度の家だったし、持ち物だって少ないし、インフラもシンプルだったということなのであろう。大災害にあって、村が全滅、という悲劇ももちろんあったとは思うのだが、それでも、災害による被害の多くは、今日ではむしろ、この近代的建物の倒壊やインフラの損壊によるものであることを思うと、実は日本人の悲観的傾向の歴史は、実は近代の始まりとともに新しく作られたものであるかもしれないのだ。これはもう少し考察するに値することのように思う。

 ともあれ、現代日本に住まう私どもは、非常に悲観的な視点を持ちつつ日々を暮らしており、日本の高度成長期に生まれ育った私たちの世代も、その悲観的傾向を見事に踏襲しており、なんでもすぐ、悪いことばっかり考えようとし、最も難しい状況について備えようとするのだ。地球の裏の人、つまりはブラジル人である子どもたちの父親と暮らし始めて、距離のみでなく、本当に遠いところの人なんだ、と思ったことの一つが、楽天性であった。ブラジル人の多くが楽天的であろう、とかなりステレオタイプ的に考えられているとも思うが、ウォルターも、そのような人だった。何事につけても、すぐに悲観的に悪いことばかり考えようとし、最悪の状況に備えようとする私に、言った。なぜ一番悪いことばかりいつも考えるのか。それは無駄なのではないか。悪いことが起こったら、どうしたってその時に、全力を挙げて、なんとかそのことに対処しようと考えて、行動するしかない。あらかじめ考えていようがいまいが、起こった時に全力で考えるしかないんだ。どうせ、そうやってその時に全力を挙げて考えなければならないんだから、あらかじめ、エネルギー使って、悪いことのシュミレーションをするのはエネルギーの無駄遣いじゃないのか。悪いことに準備するより、今を楽しむことの方がずっと大切なのではないか。そんなに必死に最悪の状況を考えてばかりいると、結局その最悪の状況を招いてしまうんじゃないかと思う。そう言ったものだ。

 そういう考え方は、再度いうが、この災害列島日本には当てはまりにくいし、私たちは最悪の状況に備えて準備が必要な国に住んでいるのだ。それでもなお、彼の言うことに私は考えさせられた。確かにそうだよなあ。いつも悪いことばかり考えていると、なんだかびくびく生きているような感じになってしまう。天災は天災で、しょうがないところがあるけれど、それでも、今を楽しみ、今をよりよく生きていないで恐れていると、そういう恐れている状況の到来を許してしまうのではないか。

 

 

 お産のことをあれこれ研究してきたので、助産師の友人が多い。彼女たちがいうのだ。「助産師は医療職だからもちろん常にリスクに備えねばならないんだけれど、お産の時、怖いな、とか、びくびくしたりしてはいけない、と先輩に言われてきた。助産婦が怖い、と思っていると本当にそうなったりするから」と。お産が一番うまくいくのは、お産する本人が怖がっていなくてお産くらい平気だ、と思っていることと、助産師自身が不安を持たずゆったり構えている時であるらしい。それはおそらく本当にそうなのだろう。

 まず、本人がお産を怖がったり、嫌なものだと思っていたり、こんなところでお産したくない、と思ったりしたら、お産は進まない。お産の生理学的機序として、女性がリラックスして安心していないと、お産は進まないのである。それは想像すればよくわかる。我々人類の祖先が、サバンナかあるいは森林でお産をしようとしている時、そしてお産をしようとしている時は夜や明け方が多いのであるが、強い陣痛が来て、さあお産をしよう、としている時に、例えば猛獣が近づいてきた、とか、天候が急変した、など何か危険な状況が立ちあらわれたとする。そういう時、そのままお産をしていては危ない。無防備な状況である自分も、生まれてくる赤ん坊も危険にさらされる。だから、お産をしている場合ではなくて、さっさと逃げなくてはならない。強い陣痛が来たままでは逃げられないから、陣痛を微弱にして、逃げられるようにする必要がある。つまり、お産をする女性が強いストレスを感じたり、「今はお産をしている場合ではない」などと感じると、微弱陣痛になりやすいようになっている。人類の進化とともに、お産の機序がそのようになっているのである。

 子どもを産むためには、強い、良い陣痛が来ないと、産めない。微弱陣痛がだらだら続くと、痛いだけで、出産に至らない。病院で、微弱陣痛しか来ないので、陣痛促進剤を打たれる、ということはよくあることである。微弱陣痛の原因はもちろん他にもあるのだとは思いつつも、産婦さんが病院で微弱陣痛しか来ない、ということは、実は「こんなところで産むわけにはいかない」、「この雰囲気の中では産めない」と思っているのではないか、と邪推してみたくもなるのである。病院の環境や、家族と離れて一人でいることや、これからのお産がどうなるかわからないという不安や、医療関係者の態度がなんとなく冷たいことや、そんなことで、産婦さんが「どうもここでは産めない」と思っているとは、言えまいか。まあ、だからそんなことにできるだけならないように、助産師さんたちが優しく女性たちの腰をさすったり、話し相手になったり、優しい言葉掛けをしたりして、リラックスしてもらおうとしてくれるのである。助産師さんたちがとても優しくしてくれるのは、一義的に、とにかく女性がリラックスしないと、お産が進まないから、なのである。

 本人が、怖がらない、お産を嫌なものだと思っていない、というのはとても重要なことなのであろう。お産に対してのイメージが悪く、怖い、怖い、と思っていると、からだはかたまってしまって、もちろんお産がうまく進みにくいことだろう。産婆さんもいない、医療施設もない、という時代の日本の地方で、女性たちが常々「お産は何でもない」、「あんなことなら何人でも産める」と言っていた、という記録が残されているのだが、それは、いざという時に頼る人がいなければいないほど、女性の力を生かし、赤ちゃんの力を生かさないとお産はうまくいかないのだから、できるだけ女性を怖がらせない、ということが、世代を超えて、最も有効なお産を安全にする一つのストラテジーだったのだろう、と思うのである。

 結婚とか妊娠とか出産とか性生活とか。性と生殖に関わることは、かように、その人がその経験をどのように上の世代から聞いてきたか、どのように教えられてきたかによって、次世代の振る舞いが決まってしまう。人間は経験したことがないことは、不安であり、心配である。性と生殖に関わることは、多くの人たちが結果として経験することが多いことではあるけれど、経験するまではとても不安なことである。何もなくても不安なのに、上の世代から否定的な物言いで語られると、その不安は一層増すだけである。今は少子化の時代、子育てが大変な時代、女性が活躍するために、妊娠、出産、子育ては大きなバリアであると言われる時代であるし、そのような言い方は若い女性たちにも広く共有されている。結婚は大変だ、子どもを産む事も大変だ、子育てはもっと大変だ。問題点を指摘して改善する必要はあるとはいえ、このように全て、大変だ、大変だ、と言っていると、誰が、こういう事を積極的に考えられるようになるものか。ストラテジーとして、どうも正しくないような気がする。

 大学で教員をしているのだが、数年前のゼミ生で、アメリカに渡った「戦争花嫁」たちの聞き取りをして卒業論文を書いた人がいた。第二次大戦で負け、少なからぬ日本女性たちが「戦争花嫁」としてアメリカ軍人と結婚してアメリカに渡った。祖国を遠く離れて、文化も違うところで、偏見もあっただろうし、彼女たちはいかに苦労しただろう、と、予想しながらインタビューに赴いたようだが、実際には80歳を超えている彼女たちは、実に元気だった。生き生きとたくましく生きていて、見事にアメリカに適応していた。学生さんは、なぜ、この女性たちが異国での暮らしに踏み出すことができたのか、不安に思わなかったのか、を考察していく。そして、ほぼ皆婚時代であった、当時の状況を知っていく。

 第二次世界大戦の前後、「結婚」は誰でもするものだった。当時は今と違って、妙齢の男女が独身でいると、周りの人たちが放っておかず、本人が少々嫌がったり気が染まなかったりしていても、「結婚はするものだ」と言って、結婚させていたのである。若い人たちは今も昔も早くに結婚したい、と思う人はごく少数で、多くの人たちは、ほおっておいたら、勝手なことをしていたくて、別に結婚はしたくないのだと思う。しかし、昔は、本人がしたくないと言っても周りが「するものです」と言って、結婚をアレンジしていたのである。もちろん、そんな結婚の仕方は嫌だ、好きな人と結婚したい、ということに団塊の世代あたりからなってきて、今や周りがそういうことを口にしようものなら、ハラスメントと言われかねないので、周りはそんなことは言わない。だから結婚しない人が増えたとも言えるのであり、今は、皆婚時代ではないのである。

 「戦争花嫁」がアメリカに渡った時代の日本は、皆婚時代の日本であった。すなわちその頃は、みんなが結婚するのが当たり前だと思っていて、それがそれなりに幸せになれる制度である、という意見が共有されていた。だから「戦争花嫁」も、相手がアメリカ軍人であったり、住むところがアメリカであったりしたけれども、「それなりに幸せになれる制度となっている結婚に身を委ねただけ」のようだ、と聞き取りをした学生さんは論文をまとめたのである。学生さんの論文だから、十分でないところもたくさんあるかもしれないが、彼女がアメリカでの聞き取りから学んだのはそういうことだった。結果として、彼女は、大学卒業後2年ほどで自らも職場の同僚と結婚する。彼女の結婚式に招待されて、お祝いに行ってきたが、「卒業論文でアメリカの戦争花嫁の話を聞いて、“結婚はそこそこ幸せになれる制度だ”と自分でも思ったので、結婚したい人が出てきた時に、全く躊躇がなかった」と言う。

 とりわけ、性と生殖に関わる上の世代の語りは、かくも次世代に影響を及ぼす。言っていることが、大体そのようになってしまったりする。楽観的な語りができることは、それだけで次世代に希望を与えうる。災害多きこの国ではあるものの、くれぐれも次世代に不要な「呪いの言葉」は、吐かないようにしたい、と願いはじめている。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

キーワードから探す

お知らせ

ランキング

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる