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女に産土はいらない 三砂ちづる

「死んだ人」は生きている

 「死んだ人」は、死んでいるけれども、その人のことを覚えている人がいる限り、「生きて」いる。その人のことを覚えている人は、「死んだ人」のことを覚えている限り、その人から影響を受け続けている。死んだ、くらいで影響を与えることを、人はやめないのである。

 今年公開された、ディズニーのアニメーション映画「Coco(邦題は“リメンバー・ミー”)」は、メキシコの「死者の日」をモチーフにした、それはそれはすてきな作品だった。メキシコの方々の「死者の日」への思い入れはとても深く、この「死者の日」にちなんだガイコツのキャラクターはメキシコを代表するお土産品となっている。メキシコのことをほとんど知らない人が見ると、奇妙なガイコツであり、とても良きお土産には見えないのであるが、メキシコに少しでも暮らすと、このガイコツキャラクターの人形とかお土産が、ものすごくかわいらしく思えるのだそうだ。「リメンバー・ミー」は、メキシコを少しでも知る方には、もう、懐かしくてたまらないような「メキシコ、あるある」がふんだんに盛り込まれていて、いかにトランプ大統領が高い壁を作る、などと言っていても、こういう映画を作ることができるところにアメリカの底力が感じられる、というような作品なのであり、子ども向けの映画だが大人の鑑賞にも十分耐えるのだ。

 メキシコの「死者の日」は、日本で言えば、「お盆」のような行事で、その日には、亡くなった人は「あちらの世界」から「こちらの世界」にやってきて、今生きている人たちと、豊かに交歓する、と言われている。亡くなった人の写真を祭壇に飾る。この映画では、「あちらの世界」にいってしまった人は、「死者の日」に「あちらの世界」から「こちらの世界」へ帰ってくるに及び、その世界をつなぐ橋を渡らなければならないのだが、子孫や家族の祭壇に自分の写真がないと、「こちらの世界」を訪問する許可が下りない、という設定だった。つまりは「こちらの世界」で写真も飾ってもらえず、「こちらの世界」で、思い出してくれる人すらいなくなってしまうと、「あちらの世界」で、第2の死、つまり、「本当の消滅」が訪れることになる。誰も覚えていてくれる人がいなくなると、本当の意味で消滅してしまう、というのである。だから、「写真が飾られていない死者」はなんとかして、自分の写真を祭壇に飾ってもらいたい、と努力する、というシーンの出てくる映画なのである。

 

 よその国の話ながら、なんとなく、文化が違う私達も納得してみてしまうのは、「死者との関係」をつなぐ、というのは、宗教の違いとはまた違う次元で、人間が人間であることの本質と関わっているようなところがあるからだと思う。我が家の仏壇を拝みに来てくださる、近所の若いお坊さんは、今年の夏に我が家においでになった時、「お位牌スマホ説」を披露して帰られた。それぞれのお位牌は、スマホなどの端末機器と同じで、あの世とこの世をつなぐホットラインの受信機、のようなものなのだそうだ。父の位牌、夫の位牌、義母の位牌、夫の叔父の位牌、祖父母の位牌、ご先祖様全ての位牌など、我が家の仏壇にはいろいろなお位牌がおさまっている。本当の所を言えば、仏壇を別にしなければいけないのかもしれないけれど、このお坊さんが「いやあ、いいですよ、みなさんご一緒で」と軽くおっしゃったので、ま、いいか、と思っているのである。こう言う供養ごとというか仏事というか、そういうことは素人にはわからない。どうでもいいことにしようと思えば、どうでも良いのであり、おおよその団塊の世代の方には、どうでも良いと思われたことも多いように見えるが、団塊の世代に遅れること10年、ぺんぺん草も生えないと言われたような団塊の世代の通りすぎた荒地を見てきた我々のような1950年代生まれの世代は、結構、仏壇などのことをどうでも良いと思えない人も、少なくないのだ。

 それで、仏壇のことを、ご近所の若いご住職に頼んでいるのである。このご住職は、志あるお坊さまである。いや、別にほかのお坊さま方が、志がない、と言っているわけではないが、世の中の寺の多くは世襲であり、生まれた時から職業が決まっていて、そのままお坊さまになられた方も少なくない。しかし我が家が今お世話になっているお坊さんは、ごく普通のサラリーマン家庭にお生まれになった方である。彼が15歳の時、縁あって、日蓮宗総本山である身延山を訪ねる機会があった。その時、「お前はこのままここで勉強して僧侶になるように」という日蓮コーリング、つまりは、霊的なメッセージを受けられたらしい。そこで15歳の彼は、両親に、「私は高校に進学しません、このまま身延山で修行して僧侶になります」とおっしゃった。普通のサラリーマン家庭の父親と母親の当惑は想像して余りある。ごく常識的に「お前、高校くらいでておきなさい」とおっしゃったらしいが、ご本人の気持ちは変わらず、そのまま仏門に入られたのだという。そのようにして僧侶になられたので、もちろん「後を継ぐ寺」なども、ない。しかし、そこは、コーリングを受けて僧侶になられたほどの方であるから、「僧侶のいるところが寺である」と、決意は固く、アパートの一室にみかん箱を逆さまにして、御本尊を置いて、「寺」を始められたらしい。「檀家制度が寺をダメにした」、とまた、ラディカルなことをおっしゃって、檀家制度を取らず、寺として何が地域に求められているのか、を追求していかれた果てに、今は私の住む地域の多くの人が頼る、立派なお寺が出来上がった。

 そういう方であるから、ついつい、お説教もしっかり聞いてしまうのである。で、お位牌が携帯端末。このお位牌があると、あの世からの言葉を直接受信できる。日蓮宗とか、曹洞宗とか、浄土真宗とかの宗旨は、ドコモとかauとかのプロバイダーと同じことですね、などとおっしゃるのを聞くと、さもありなん、という気がしてくる。サービス次第でプロバイダーを変えるのも、なし、ではないわけだ。そのようにして、我が家には、亡くなった方の携帯端末があり、直接時々話をしている……わけではない、もちろん。しかし、死んだからといって、その人の影響力がなくなるわけではないのだ。死んでなお、その人を記憶する人に影響を与え続ける。

 

 3年前に亡くなった夫は、1947年生まれ、ばりばりの団塊の世代であった。夫婦として一緒に暮らしていたのだから、私はかなりこの人の影響を受けていたが、あまりに、ラディカルに団塊の世代にヘルメットをかぶって(学生運動に学生時代を捧げて)いた人たちの典型のごとく、「資本家は嫌い」、「金持ちはみんな悪い奴」、「偉い人は気に入らない」みたいなことを平気で言うことに、ときどきついていけなかった。いや、団塊の世代でヘルメットをかぶっていても、そこからさっぱりと卒業して、資本家になったり金持ちになったり偉い人になったりした人も、すごくすごく多いのであるが、我が亡き夫はそんな器用なことができない人だったので、結構悩みながら、人生を送っていた。会社員としての生活を続けてはいたが、役付きになることを拒否し、組合を立ち上げ、出版労連とか医書共闘とかの活動をして、あそこに不当解雇された人がいれば支援し、こちらに非正規雇用の女性の不当な扱いがあれば支援し、家の洗濯機で組合の赤い旗を洗ったりしていた。

 そういう人だから、医療保険とかガン保険とか生命保険とか、入っていなかった。いや、そういう人だから、というのは、違うのかもしれない。そういう人でも保険に入る人はいるのかもしれないけれど、夫の考えは、彼の中では少なくとも一貫していて、「医療や福祉に関しては、公的な保険の世話にしかならない」と思っていた人だった。「特別扱い」されることは、ブルジョアジーのように扱われるということであり、自分にそのような扱いを許すわけにはいかない、と思っている人だったのだ。いわゆるプライベートの「医療保険」というのは、要するに入院をした時に、初日から、あるいは3日目くらいから、1日1万円くらいのお金が出る、というものが多い。つまり、普通の病院に入院すると、差額ベッド代のない、4人部屋とか6人部屋とかの相部屋になる。それが嫌だ、という人、入院した時くらい、個室にいたい、という人は入院保険に入り、1日1万円くらいかけて、個室を選ぶことができる。夫はもちろんそういうことを良しとしない人だった。そんな特別扱いはいらないのであり、もし入院することになっても、相部屋で十分だ、と彼は言っていたのだ。

 そんな言い方に、賛成できなかった。少なくとも私自身は、そういうのは嫌だ、と思った。入院する、ということは病気か、怪我で弱っているのである。そういう時に人と一緒に居たくない。せめて一人の時間が欲しい。絶対個室にして欲しい。と常々思っていた。実際には、長い人生(今年還暦)のうちで入院は、3度している。3度しているが、どの入院も1泊しかしていないので、実際には個室だろうが相部屋だろうが関係ないような入院だった。

 

 人生最初の入院は、長男を産んだ時だった。ブラジル北東部セアラ州フォルタレザ、という、ブラジル人が聞いても、おお、なんという辺境の都市か、と思うような、田舎とは言えないまでも、世界の終わりにあるくらい日本から遠い、最果ての街の大学病院である。帝王切開大国と呼ばれるブラジルは、中産階級の女性の9割以上が帝王切開を望んで、望まれた帝王切開を医療適応なしに医者もやってしまうような国だったから、陣痛が来ても逆子であった我が長男を、自動的に帝王切開で産むことになったことに文句を言える筋合いはなかった。で、私はこの大学病院で帝王切開で長男を出産した。全身麻酔ではなく、硬膜外麻酔だったから、お腹が切られる感じも痛くはないものの、ビリビリとよくわかったし、長男がお腹から引っ張り出される感じも、わかった。帝王切開大国のブラジル人産科医の帝王切開術技は卓越しており、帝王切開大国であると同時に、死ぬまで女性はビキニを着るビキニ大国であるブラジルでは、ビキニラインに影響しないような手術跡しか残してはいけないのである。恥骨の上ギリギリに横に切ってある私の長男を産んだ傷跡は、もう、ほとんどどこにあるかわからないくらいだ。ともあれ、長男は午後に帝王切開で生まれた。

 私は病室に運ばれ、生まれたばかりの長男を脇に置き、一晩眠った。帝王切開大国であるブラジルであるが、母乳哺育推進にかけては、30年前から筋金入りの根性の入った国であったから、帝王切開であろうが、自然出産であろうが、生まれた子どもは必ず、産んだ母親の隣にいて、生まれたすぐ後からおっぱいを含むことができるようになっているので、私の息子も、新生児室などに入ることなく、ずっと私の横にいたのだ。痛み止めを処方されていたのであろう、私は別に傷跡が痛かったりはしなかったが、次の朝目覚めたら、「はい、起きて。立ち上がって自分でシャワー浴びに行って」と言われたのに、ショックを受けた。帝王切開程度の手術では、術後次の日から、起きて歩くことになっている。そして、清潔にするためにシャワーも浴びるんだそうである。そんな……。昨日帝王切開でお腹開けたのに、今日シャワーなんか浴びたら「水が入るんじゃないか」と気が気ではない。しかもセアラ州フォルタレザでは、お金持ちも含め、お湯でシャワーを浴びる習慣がない。熱帯地方なので、「ぬるい水」は、体に熱が入るから、体に悪い、と考えられており、シャワーは必ず「冷たい水」なのである。そんな……。帝王切開でお腹開いて子どもを産んだ次の朝に、冷たい水でシャワーを浴びるようなことは、温帯でお風呂に親しんできた日本人にはできない。私はシャワーを断り、そして、まあ、どちらにせよ、「院内感染も多いから、退院した方がいいよ」と言われ、なんとそのまま、自宅に帰った。帝王切開したけど、入院は一泊だけであった。今思ったらなんだか、とんでもないことのように思うが、私も息子も生き延びている。

 2度目の入院は、長男を産んで2年後、次男をロンドンで産んだ時だった。揺り籠から墓場まで、と言われたイギリスの福祉政策は破綻しているとか、イギリスの医療制度、NHS(National Health Service)はおしまいだ、とかいろいろに言われていた1992年であったが、まだ出産のシステムに関しては、よく機能していて妊娠中と産前産後、すべて無料であった。ロンドンの真ん中、ブルームスベリーに住んでいて、そこで割り当てられた病院は、これまた大学病院で、当時の産科医はVバックと呼ばれる「一人目帝王切開でも二人目は下から産む」ことについて寛容であったため、次男は帝王切開ではなく、経腟分娩となった。ともあれ結構長時間かかって次男を産んだのは、夕方のこと、そのまま数え切れないくらいベッドの並んでいる大部屋に運ばれた。ここでも母乳哺育推進のため、もちろん次男は隣にいる。そして、スタッフがやってきて「はい、産んだからもう帰ってね」という。当時、イギリスではお産で入院したりする習慣はなく、特に変わったことがなければ、産んだらすぐ帰る、ということになっていたらしい。いくらなんでも、はあ?このまま帰されるの?と私は思ったが、その後スタッフが来て「赤ちゃんがまだおしっこしてないから、今晩は様子を見るから泊まって」という。なんとか病院の大部屋で、一晩は泊まれることになった。次男は、ぽん、と隣に寝かされていて、スタッフが預かったり面倒見てくれたりするわけでもない。なんといっても2人目の子どもなので私は慣れているから、泣けばおっぱいを含ませ、ベッドで生まれたばかりの次男を横に置いて、彼の人生最初の夜をロンドンの病院で過ごした。そして次の朝は、早々に、退院した。これが2回目の入院。

 三度めは、15年に及ぶブラジルとかイギリスとかでの海外生活を終えて、日本に帰国し、仕事をし始めてほどない頃であった。夜中にひどい腹痛と嘔吐を起こし、人生最初の救急車に乗せられた。今も何が原因だったのかわからない。久々に日本に帰国して日本で仕事を始めたストレスだったのか。東京都板橋区にある救急病院に搬送され、隣のおじさんがずーっとうめき続けているような狭い混合病棟で、一晩寝かされ、次の朝には、痛みも嘔吐もなくなっているので、早々に退院させてもらった。それが3度目の入院、こちらも1泊だけである。

 

 というわけで人生に3度それぞれ1泊ずつ入院しているが、どれも「緊急入院」に近い入院の仕方で、あっという間に出てきてしまった。だから、個室だろうが大部屋だろうが、関係がなかった。しかし、今後、入院することがあれば、絶対、個室がいいな、と、私は思い、入院保険に入ったのだ。夫がそんなものいらない、というが、私は、入院するなら差額ベッド代が欲しい、個室に入りたい、と思ったのだ。しかし、幸いにも、その後、私は入院することはないまま、還暦を迎えた。夫はもういない。3年前にガンで死んだのだ。だからもう生きていない。しかし、彼が生きている時には、私は影響されずに医療保険に入っていたというのに、死んだ今になって、彼の強い影響力の元、私は今、このプライベートの医療保険をやめようか、と思っているのだ。

 世間の常識からすれば、ここまで医療保険に入っておいて、ここからやめるなんて、ないだろう、具合が悪くなるのは、年を取っていくこれからではないか、と言われるのであろう。しかし、夫の死に様を見て、そしてそれからしみじみと考えて、なんと私は、この国の公的な保険、すなわち公的な健康保険制度と、介護保険制度で、十分ではないか、これ以上、差額ベッド代の出るプライベートな医療保険などいらない、そんなお金を月々払い続けるくらいなら、積み立てNISAでもやった方がマシなんじゃないか、と思い始めているのである。(夫は生きていたら、積み立てNISAには賛成してくれないと思うが。)日本の健康保険制度も介護保険制度も、様々な問題があることは、私が言わなくてもみなさんがいくらでも指摘しておられる。財政的な危機にもあって社会保障費が大きな問題になっていることも知っている。しかし、この国がこの半世紀で作り上げてきたこの健康保険制度と介護保険制度は、基本的によく機能しており、これ以上プライベートな保険がなくても、なんとかなるんじゃないか、と夫の介護をしながら、実は、感心するに至ったのだ。財政的には今後、なんとか破綻させずにやっていただくことを、もう、祈るしかないのだが。

 

 夫は、家で死にたい、と望んで、家で死んだ。他の病気のことはわからないが、こと、ガン、に関しては、在宅で死ぬことはそんなにむずかしいことではなくなりつつある。ガンの患者さんは、死ぬ数日前まで寝付かず、頭もしっかりしていて、自分のことを自分でできる人が多い、と、経験豊かな在宅診療医はおっしゃるので、我が夫のみが特別なケースでもないのであろう。中咽頭がん、頸部リンパ節転移、という病名で亡くなった夫は、死ぬ当日まで、実にしっかりしていた。もちろん、ものすごく痩せていたし、口から物は食べられなくなっていたが、最後の日まで立ち上がることができた。最後の日まで立ち上がることができた、ということは最後の日までおむつなどのお世話になることもなく、便器のお世話になることもなく、トイレかポータブルトイレを使うことができたのである。最後の排泄も、ポータブルトイレで済ませた。死ぬ日の午前中まで、家に来てくれた甥や姪とにこやかに言葉をかわすことができていた。

 自宅で使える痛み止めで痛みはよくコントロールされていたし、延命ほどの量とは言えないが、高カロリー輸液も使い、酸素吸入器も使っていた。近所の在宅診療の先生の診察を頻繁に受け、在宅看護師さんの手厚いケアもあり、介護保険は目一杯使って、ヘルパーさんに来てもらったり、介護ベッドを借りたりしていた。高額医療支給制度があるから、一定額以上の医療費は払わないで済んだ。我が家ではだいたい、最高でも月々5〜6万といったところであった。介護保険の方は、最高レベルの要介護5でも、こちらは元々限度額が決まっているから自己負担は2万円台である。両方使って、最も医療費、介護保険量がかかった時でも自宅に居れば8万程度であった。これを高いと見るか、そうでもないと見るか、はもちろん人によるのであるが、これも払えないなら、また、違う方法もあると思う。普通の勤め人である私にとっては、8万円で自宅で療養が受けられる制度は、悪くない、と思えた。自宅にいるなら、差額ベッド代など、いらない。

 夫は,ガンの診断を受ける3年前、脳動脈奇形による脳出血を起こして、入院、緊急手術をしたことがあったが、そんな大病をすると、ERのような緊急集中治療を行うところに入られてしまうので、もとより、差額ベッド代など必要がない。術後、一般病棟に移ってからは、私の出産経験ほどではないにせよ、今どきの病院は、「なるべく早く退院させる」という方向だから、そんなに長いこと入院できるわけでもない。

 もちろん、世の中、脳出血とガン以外にも入院することになる場合は数え切れないくらいあると思うが、どんな場合でも「入院はなるべく短期間」になりつつあるように思うし、「できるだけ自宅に帰る」ことができるシステムが整いつつあることも、かなりの勢いで増えつつある在宅診療医の皆様と若い医師たちのこの分野への興味関心から、うかがい知ることができる。

 

 夫が生きている間は、ちっとも思わなかったことなのに、亡くなって3年、彼のずっと言っていた「公的保険だけでいい」という方針に、あらためて、影響されている、と感じるのだ。「死んだ」人は、生きている。生きて、影響を及ぼし続ける。その人を覚えている人がいる限り。

 

 

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著者略歴

  1. 三砂ちづる

    1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。作家、疫学者。津田塾大学教授。著書に『オニババ化する女たち』『月の小屋』『不機嫌な夫婦』『女たちが、なにか、おかしい』『死にゆく人のかたわらで』など多数。

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