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GEIJUTSU論――藝術2.0をさぐる思考の旅 熊倉敬聡

アズワンネットワーク、あるいは〈中空=円〉の可能性

(1)あるセミナーに参加して

 秋の澄んだ夕日に映え、金色こんじきにきらめく、庭の葉叢。そのきらめきと響きあうように、こちら、暮れなずむ部屋のうちに円座する人たちの沈黙が、きらめく。そのきらめきを、皆、静かに味わい、深めている。一人が、言葉を発しはじめる。しかし、その言葉、心の奥底から発せられる言葉は、沈黙を乱すどころか、さらにそれを豊かに、神々しいものにさえしていく。そう、〈円〉の只中に、漠としているが、何か〈聖なるもの〉が降臨するかのよう。でも、あくまで沈黙として、沈黙のきらめきとして、ひしひしと満たしにくるにすぎない。

 三重県鈴鹿。昨日まで、F1の命がけの爆音が、彼方で響きわたっていた。そんななか、ある古びた一軒家で、五泊六日のセミナーがひっそりと営まれていた。「アズワンセミナー」。私も参加者の一人として、「探究」を深めていた。

 このセミナーで、探求で、何をしていたのだろう。ただ円く座り、語りあい、聴きあっていたにすぎない。それは、「サイエンズメソッド」という方法に則り、行われる。

 

サイエンズ(ScienZ) は、Scientific Investigation of Essential Nature(本質の科学的探究)の頭文字 SCIEN と Zero(零・無・空・・・)の Z によるものです。

「科学的本質の探究」をやさしく言うと、どこまでも「分かった」、「できた」等、結論づけない営みとも言えます。

人の言動や、あらゆる事象について、固定・停滞なく、ゼロから、その背景や元にある内面・真相・原理を知ろうとする考え方を「サイエンズ」と呼んでいます。

サイエンズは、人間の知能を最大に活かして、科学的に本質を探究しながら、実現をはかる考え方を表しています。

人間を知り、人間らしく生きる営みとも言えます註1

 

 そして、サイエンズメソッドによる探究は、「知識、経験はあるが、それをそうだとキメつけたり、前提と考えないで、ゼロから『実際はどうだろう』」と考える類の探究だ。

 セミナーで、探究はまず、「視る」「聴く」という感覚・認知のそれから始まる。灰色のグラデーションの中に浮かぶ二つのやはり灰色の円を「視る」。明らかに一方が濃く、他方が薄く見える。そこに、二つの丸い穴の開いた白い紙を重ね、再度視る。すると、全く同じ濃さの灰色に見える。次には、テレビのワイドショーの録画・音を「聴く」。聴き取ったと思しきアナウンサーの発言を紙に書き留める。二度三度と同じ発言を書き留める。しかし、皆の書き留めたものは、どれ一つとして同じではない。自分で書き留めたものですら、毎度微妙に異なる。この作業で、「視る」「聴く」という感覚・認知がふだんいかに無意識的な「決めつけ」で成り立っているかに気づく。そう気づいた時、「実際」の感覚・認知がどのように変わるかを、語りあいながら探っていく。

 続いて、日を追うごとに、「嫌い」「怒り」「正しい」「所有」「自分」「モノ」「幸せ」というテーマをめぐって、各自具体的な出来事・場面を想い浮かべつつ、「実際に起こったこと」と「自分の中で起こったこと」に振り分け、自分に問い、他人ひとに問いながら、やはり「決めつけ」がどこにあり、それを外していった時、「実際」に何が起こっているかを探究していく。

 たとえば、三日目の「正しい」を例にとってみよう。まず、ファシリテーターは「これは正しい、これは間違っている」というお題を出す。それについて参加者は各自、自分の内に問い、探究していく。そして、問い、探究した末にとりあえず見出した「これは正しい、これは間違っている」の「これ」に当たるものを、配られた小さなホワイトボードに書いていく。私は、「人を殺さない。うそをつかない」を自分にとって「正しい」こととして書いた。そして各自が発表していき、さらに「正しい」「間違い」をめぐり、語りあい聴きあいながら、探っていく。

 次に、ファシリテーターは「絶対にそうだと言えるだろうか?」と問う。同じように、各自、しばしの間、自分の内に問い、ホワイトボードに書く。私は、「人を殺さない」について、「自分あるいは最愛の人が殺されそうな時、あるいは戦争の前線に立たざるをえない時」には絶対にそうだと言い切れないかもしれない、と答えた。「うそをつかない」に関しては、そもそも「うそ」とは何だろう?と自分に問うた結果、もしかすると「うそ」には二種類あって、「現実に起こったことと異なることを言うこと」と「現実に起こったことをあえて言わないこと」があるならば、後者は何度か自分もしたことがあると発言した。

 続いてファシリテーターは、「正しい、間違いは何を根拠にしているか?」と問う。私は「人を殺さない」に関し、その根拠を「人間として生きる可能性を奪うから」と言い、「うそをつかない」に関しては、「うそをつくと、自分が苦しくなる。言っていることとやっていることとの“分裂”が起きる。結果的に、相手に疑いを起こさせ、募らせ、苦しませることになる」からと答えた。

 最後にファシリテーターは、「決めつけとは? どういう状態か?」と問うた。私は四象限の図を描き、「決めつけ」には、「個人的で意識的」「個人的で無意識的」「社会的で意識的」「社会的で無意識的」の四種類が(それぞれ混じり合ってはいるが)あるのではないかと答えた。説明するのに、私は「男である」という例を挙げ、まず私は自分が個人的に「男である」と意識している(決めつけている)。だが、もしかすると、私の無意識の中には「女性性」が潜んでいるかもしれないが、私は通常自分が「男である」として何気なく振舞っている。しかし、ふと気づいてみると、過去、ダンス・料理・ヨガなどの教室・ワークショップで、女性たちに紛れて自分が一人だけ男性であるケースが多かった。そうした個人的な「男である」決めつけは、概ね社会的で意識的な決めつけ、たとえばトイレの「男/女」、服の「男=青/女=ピンク」等々、社会制度的な、いわゆるジェンダーの二元性に負っているのではないか。さらに、より深いレベルでは、たとえば心理学者のユングが言うような「元型」が集合的無意識を形成していて、その在り様に本人も知らないところで規定されているのではないかと、述べた。

 他の参加者も各々「決めつけ」とはどういう状態か、自分に問うた時のとりあえずの見解を述べるが、先に見たように「探究」は「どこまでも『分かった』、『できた』等、結論づけない営み」であるので、自分への、そして互いへの問いかけは(時間的制約がなければ)果てしなく続いていく類のものだ。

 もう一つ「探究」の例をとってみよう。四日目の「モノ」を巡る探究だ。ファシリテーターは問う。目の前の「カップはいくらか?」。各々が思いつくまま値段をだす。次に彼は「自分がこのカップを作るとしたら、どんな工程で、いくらかかるか?」と問う。各々、自分がカップを作る工程を思い浮かべ、ボードに記していく。私が、陶芸家の友人を頼りに簡略な工程と、非常に低い費用(100円)を挙げたのに対し、残りの人たちは、文字通りゼロから自分一人で作る工程を想像し(たとえば土や釉薬の原料を見つけたり、作陶の技術を習得することから始まって)相応の(かなり高い)費用を算出した。

 次いでファシリテーターは問う。「どこまでが自分の力か?(自分の力と他人の力を分ける)」。すると、各々(私を除き)自分一人で作っていたはずが、たとえば土を探しに(仮に徒歩で)行ったとしても、そこまでは他人が作った道路を歩かねばならないし、裸で行くわけにもいかないので、他人が作った服を着、靴をはかなくてはならない……と考えていくと、「自分の力」でできると思ったことのほとんどが「他人の力」に依存していることに気づく。そこにファシリテーターは、先般の「自分とは何か?」という問いを重ねあわせる。すると、「自分」ですら単独で存在しているのではなく、父親・母親という二人の他人が交わったからこそ、この世に誕生したのだし、以降も、他の家族や学校の先生、友人など、数え切れないほどの他人と出会い、多くを学んだからこそ、今こうして自分が存在しえていることに気づく。

 そこで、ある女性が言った(私の記憶は正確ではないが)。結局、すべてのモノ、「自分」すらも、この世界に存在する、存在してきた無数の人々、モノたちの共同作業で成っていて、このカップ、この「自分」も、今たまたま、そうした共同作業がこうした形をとっているにすぎない。今までも、頭では同様のことを理解していたが、今実感として腑に落ちた。だから、このカップ、この「自分」がとても愛おしいものに思える、と。

 サイエンズメソッドによる探究は、こうして六日間にわたり、先述のように「視る・聴く」から始まって、「幸せ」に至るまで、たえず円く座りながら、自分の中で、各々の“間”で、掘り下げられていった。

 この間、私自身も多くの発見があった。とりわけ大きかったものを二つ挙げよう。

 (1)私は20歳代、日本やフランスで文学や思想の研究をしていたせいで、極度に「頭」に偏った生活を送っていた。そのためもあってか、「体」が荒廃し、強度の喘息など多くの病を患い、「廃墟」寸前ともいえる状態だった。その後、30歳代になり、たまたま出会ったコンテンポラリー・ダンスのワークショップ(勅使河原三郎率いるKARAS)に、そうした体を引きずりながら、結局8年ほど通うことによって、「体」「感覚」そしてなによりも健康を取り戻していった。今回のセミナーは、そうして取り戻していった「頭」と「体」の“調和”の中で、自らもほとんど気づかぬまま長年置き去りにしていた「心」、いや、ある家族との確執から封印を余儀なくされ、硬い鎧を纏わざるをえなかった「心」を再発見することになった。参加者一人一人の発する言葉に籠められた「心」の波動が、私の“鎧”に幾条もの“ひび”を生じさせ、そこから「心」がわずかながらも溶け出す思いがした註2

 (2)「頭」への偏向は、「体」と新たな“調和”を奏でるようになったが、いかんせんそれまで培ってきた「哲学」的思考の仕方から容易に抜け出ることは難しく、ややもすると「自分とは?」「実際とは?」「正しいとは?」という「哲学」的ないし「倫理学」的問いの立て方も手伝って、自動的に「哲学」的思考のパターンのスイッチが入ってしまい、それを自分自身への問いかけと取り違えることが、特にセミナーの前半起こりやすかったように思う。

 こうした気づきを、少なくとも私は得ながら、五泊六日の「アズワンセミナー」を終えた。何よりも心に残ったのは、六日間の探究の末、円座する参加者の沈黙そのものが満ち、きらめく、その神々しさだった。

 

(2)「アズワン」とは?

 

 このセミナーを主催するのは、「アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティ」である。「アズワン」とはどういう意味か?

 

アズワン(as one)とは、「一つの世界」を意味しています。

ジョン・レノンが"Imagine"の中で、「The world will be as one」「国境も所有もない」と歌っているように、世界は元々、囲いも隔てもない、すべてが「一つの世界」でしょう。

私たち人間も、その世界に生きている存在です。自然界の中で全てのものと調和しながら生きていくこと、そして、人間同士も、世界中の人と親しく、共に繁栄していくことが本来の姿でしょう。

それは、すべてと調和する「争いのない幸せな世界」。

誰もが心の底で願っている世界ではないでしょうか?

それを空想に終わらせないで、この世に創り出すことが、アズワンネットワークの目的です3

 

 この「一つの世界」は、たとえばかつて共産主義が目指し、結局は全体主義にしか行き着かなかったような理想社会像ではなかろう。むしろ、セミナーでもその片鱗を体験できたような、「本心」どうしの波動が奏でる間主観的「きらめき」が、いわば華厳経でいう「重々無尽の縁起」の如く、地球に張りめぐらされていく「ネットワーク」なのだろう。コミュニティのメンバーの一人は言う。「人類は宇宙と名づけられた全体世界の一部分です。その世界の本質は、分けようが無いことと常に変化をしていることです。たとえば日本文化を代表する12世紀の随筆『方丈記』にも「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とうたわれているように。人間は、時間と空間に限定された、生命の乗り物とでもいうような、一つの現れです。ですから、人類は本来、すべての存在と一つに繋がり、柔軟に平和に生きられる存在であることは明らかです。4

 「一つの世界=ネットワーク」の実現・実践は、まず何よりも「決めつけ」、人類が自らの内に拵えあげた(なかんずく資本主義的な)「フィクション」からの解放に始まるという。彼らは、しばしばその解放を、アインシュタインの以下の名言を引用して説明する。

 

人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。 わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。

この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛り付けるのだ。

わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。 それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。 実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう註5

 

 この「錯覚」「牢獄」から人類が自らを解放し、誰もが心の底から幸せで生きられる、しかも人間たちだけでなく、「ガイア」全体が持続可能で「共感」する「一つの世界=ネットワーク」を実現することこそ、アズワンネットワークの願いであろう。

 アズワンネットワークは、2000年、ヤマギシ会という、もう一つの理想社会を目指し、だが数々の問題も孕んでいたコミュニティの限界を悟り、そこから脱した有志たちが、新たに鈴鹿に参集し、ゼロから自分たちが真に願うコミュニティを立ち上げようとしたことから始まった6

 このコミュニティは「コミュニティ」と自ら冠しているが、その実、非常に特異なコミュニティだ。たとえば多くのエコヴィレッジ型コミュニティが、都市生活から隔たった自然環境の中に集住するタイプであるのに対し、アズワンのメンバーたちは鈴鹿という一地方都市の只中に互いに程よい距離を置きながら分散して暮らしている。だから、外見からは「コミュニティ」としてのまとまりをもっているようには見えない。また、往々にしてこの種のコミュニティは宗教的ないし精神的カリスマへの帰依で成り立つことが多いが、ここにそのようなカリスマはいない。しかも、コミュニティを維持・運営していくための規則・規定もない。実は、都市に分散し、関与度もまちまちであることから、「メンバー」の範囲・実数も定かでない。さらに、メンバーたちが立ち上げる組織や会社は、やりたい人が手を挙げ、賛同者が集まり営まれるが、元々の動機・欲望が失せれば容易に解体されるという。まさに、諸行無常、融通無碍を地でいく、「実態」「正体」がいたって捉えがたいコミュニティなのである。

 だが、「組織化」が全くなされていないわけではない。「誰もが本心で生きられるコミュニティを実現する試み」であるアズワンネットワーク鈴鹿コミュニティ、「本質を探究し、人と社会の本来の姿を明らかにする」サイエンズ研究所、そして「人としての成長をサポートし、自己を生かし発揮する」サイエンズスクールが、三つ巴となって、全体が営まれている。実は、この三つ巴に、このコミュニティが持続可能である特異な鍵がある。

 メンバーは、コミュニティ内で各々仕事や生活の「現場」(会社や家庭など)をもち、そこで人間関係や人生の悩みを抱くであろう。そうした時、通常の社会であれば、何とかその「現場」で悩みを解消するために苦闘するか(かえってこじらせてしまう場合も多い)、飲酒等でストレスを解消するか、友人やカウンセラーに悩みを聞いてもらうしかないだろう。しかし、アズワンには、「スクール」があり、各種の探究の「コース」が用意されていて(「アズワンセミナー」「自分を知るためのコース」「自分を見るためのコース」「内観コース」「人生を知るためのコース」「人を聴くためのコース」「社会を知るためのコース」)、望めば「現場」からしばし離れて、現在の自分の状態を人と共に探究し、種々の「決めつけ」に気づき解放され、「本心」に立ち戻る機会が与えられている。そうして「現場」の人間関係のしがらみ、自分自身の心の「決めつけ」から解き放たれた状態で再び「現場」に返り咲くことができるのである。しかも、メンバー全員がそうした機会に常に恵まれている。

 さらに、その「スクール」における「コース」の運営方法、思想的・理論的裏付けも、たえずサイエンズ研究所で自己批判的に見直され、更新されていく。この「コミュニティ/スクール/研究所」の三つ巴が織りなす螺旋状の探究・実践が、このアズワンという特異な共同体の鍵、(コミュニティ論でいうところの)「グルー(接着剤)」になっているといえるだろう。

 アズワンが特異な点はもう一つある。コアメンバー(2018年現在63人らしい)の「財布」が一つなのである(あるいは「財布」を一つにしている人たちが「コアメンバー」と言える)。彼らは、自らの財産や収入を共有し、個人・世帯の必要に応じて互いに融通しあう。そこに合議も審査もない。コミュニティ・ハブと呼ばれる係に「相談」するだけでいいのだ。

 しかも彼らは、日用品を、買うのではなく、“贈られる”「店」をもっている。その名もJOYという、お金のいらない、ギフトエコノミー・贈りあいの「店」だ。メンバーが運営する農場(SUZUKA FARM)から贈られる野菜や米、弁当屋(おふくろさん弁当)から贈られる惣菜、そして町中の商店で共同購入した品々が、コンビニの如く、棚に並んでいる。違いは、それらを「買う」のではなく、「贈られる」点だ。

 こうして、一つの大きな「家族」のように、コミュニティ内部ではお金に依存しない経済が営まれている。各々の活動は、「賃労働」から解放され、自己の欲望、創造性を純粋に発揮・実現できる行為と化す。しかも、メンバーは、この「家計」=「財布」に参加してもいいし、しなくてもいい、という自由度も合わせもつ。何事にも「強制」がなく、各自の自由意志に任されているのだ。

 こうした真に融通無碍なアズワンネットワークは鈴鹿を拠点にしているが、国内のここかしこへと、さらに国外にも(今のところ主に韓国とブラジル)、その網の目を広げつつある。今の課題の一つは、このコミュニティ作りの手法と思想が、鈴鹿に集うメンバーや賛同者だけに意味をもつ「特殊」なものなのか、それとも作る主体やその社会的・自然的環境が異なっても、活用でき根づくことのできる、一種の「汎用性」を持ちうるのかどうか、という点だろう。そこにこそ、「ネットワーク」が「一つの世界」へと成長していけるかどうかの鍵が隠されている。しかも、繰り返しになるが、その「一つの世界」が、政治的ないし宗教的「理想社会」の実現ではなく、あくまで「本心」が交響する「きらめき」の重々無尽のネットワークであるかどうかにかかっている。

 

(3)〈円〉の可能性、そして藝術2.0

 

 円く座り、語りあい、聴きあう。セミナーにおいて、活動はそれだけだ。しかし、探究を深めていくと、途上、〈円〉のうちで互いの心の波動がさざめき、きらめき、渦巻き、満ちていき、貴い、愛おしい、神々しくさえもある〈何か〉がもたらされることがある。この〈何か〉とは、何なのだろう。

 先にも名前を出した、ユングは、マンダラについて、こう語っている。

 

マンダラは円を意味している。いま述べたモチーフには多くの種類があるが、しかしいずれをとっても円の四分割を基礎にしている。それらの基本的モチーフは人格の中心・いわばこころゼーレの奥底にある中心的な場所・の予感である。そこにすべてが関係づけられ、それによってすべてが秩序づけられ、それは同時にエネルギーの源泉である。中心点のエネルギーは、押し止めがたい勢いをもって現われてきて、その人本来の姿になろうとする。〔…〕この中心は、自我としてではなく、もしそう言ってよければ、自己として感じられ考えられる。この中心は一方では最深部の点であるが、他方ではそれは周辺ないし周囲であり、自己に属するすべてのものがそのなかに含まれる7

 

 私たちは、セミナーで訥々と言葉を発しあい、丹念に聴きあい、黙しあいながら、いわば「マンダラ」を描いていたのではないだろうか。そして、その〈円〉の「中心」に向けて、互いの「自己」を深めあいながら、その深めあいの波動を交わして、そこにしか立ち現れないであろう一つの大いなる〈自己〉を探究していたのではないだろうか。

 この大いなる「中心」について、今度は宗教学者ミルチャ・エリアーデは言う。「どんな小宇宙も、どんな人の住まう場所でも《中心》と呼びうるもの、すなわち特別の聖域をもっている。聖なるものが、——《未開》な人々におけるように(たとえばトーテム的な中心とかチュリンガが埋められる穴など)——原基的な聖体示現ヒエロファニーというかたちであれ、伝承的文明におけるように、神々の直接的な神体顕現エピファニーというより進んだかたちであれ、全体的な仕方で顕現するのはまさしくこの中心においてなのである8」。

 そして、この《中心》においては、いわば垂直的に三つの「宇宙界」が接合する。「三つの宇宙界——天上界、地上界、地下界——という考え方を知っている文化においては、《中心》がこれら諸界の接合点を構成する9」。その宇宙の《中心》の軸が、世界のいたるところの神話で、「宇宙山」「宇宙木」「宇宙柱」等々として形象化されている。私たちもまた、セミナーで円く座りながら、「宇宙柱」を建立し、聖体示現の儀式を執り行っていたのだろうか。だが、かつてユング研究所でも学んだ心理学者・河合隼雄は、「否」と言う。日本人の〈円〉の中心は「空っぽ」なのだと言う。有名な「中空構造」論だ。

 河合は、日本の神話『古事記』を読み解き、このパンテオンの構造の中に「日本人を基礎づける根底を見る想い10」がすると言い、それが「中空性」だと言う。

 河合は、日本の創生神話において、イザナキが生んだアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三神のうち、月神であるツクヨミに関する記述が(日本人が情緒的に太陽よりも月を重視するにもかかわらず)皆無であるのが不思議だという。しかも、三神のうちの中心に当たる神が無為なのは、ツクヨミに限らず、やはり三神の中心にいる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、また火須勢理命(ほすせりのみこと)も同様に無為であり、記述がないという。そして、河合は、この『古事記』神話における中空性こそ、以後発展してきた「日本人の思想、宗教、社会構造などのプロトタイプ11」になっていると主張する。

 河合はさらに、西洋的な弁証法の論理では正・反・合という止揚の過程を通して、「合」といういわば「中心」が析出されてくるのに対し、日本の神話、そして心の論理においては、「正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。あくまでも、正と反の変化が続くのである。〔…〕日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられる12」と説く。

 私たちの心はだから、中心に屹立するような「宇宙山」や「宇宙木」を擁していない。中心には「空」しかないのだ。私たちは、その「中空」の周りを、正と反の間でたえずたゆたいながら巡回するしかないのだ。「筆者が日本神話の(従って日本人の心の)構造として心に描くものは、中空の球の表面に、互いに適切な関係をもちつつバランスをとって配置されている神々の姿である。ただ、人間がこの中空の球状マンダラをそのまま把握し、意識化することは極めて困難であり、それはしばしば、二次元平面に投影された円として意識される。つまり、それは投影される平面に応じて何らかの中心をもつことになる。しかし、その中心は絶対的ではなく投影面が変れば(状況が変れば)、中心も変るのである13」。

 この、「中空」の周りをたえず仮初めの「中心」が転変していく中空巡回構造は、単に日本人の精神構造のみならず、社会、共同体の構造をも統べている、と河合は言う。それが「短所」として現れると、責任の所在・中心が曖昧に経巡ってしまう「無責任体制」になる。「その〔日本の中空構造の〕短所のほうを指摘するならば、その中空性が文字どおりの虚、あるいは無として作用するときは、極めて危険であるという事実である。たとえば、最近、敦賀の原子力発電所における事故にまつわるその無責任体制が明らかにされたことなどは、その典型例であると言えるだろう。最も近代的な組織の運営において、欧米諸国から見ればまったく不可解としか思えないような、統合性のない、誰が中心において責任を有しているのかが不明確な体制がとられていたのである14」。

 しかし、翻って見るに、この、河合が日本人の心・社会に特有とみる中空巡回構造は、場合によっては「長所」としても現出しうるのではなかろうか。たとえば、枯山水の庭。あるいは、茶室の佇まい、しつらえ。そして何よりも、それらの中空巡回的「現れ」を可能にした禅的精神性。そこでの「中空」は、単なる無為や(無責任といった)精神的空虚ではなく、むしろ「空」それ自体の充実、深まり、探究なのではなかろうか。不在の中心で、空が漲り、渦巻き、きらめきわたるような中空なのではあるまいか。私がアズワンセミナーの円座の中空で感じた〈何か〉も、それだったのではないか。空の充溢としての神々。その神々が、ここ鈴鹿だけでなく、日本、世界、さらにはガイアへと「巡回」していくような「アズワンネットワーク」(の一般名詞化?)。

 しかし、それは物事を切断・分離し、合理的に再構成する「父性」が暴走した西洋文明に対する、東洋文明のすべてを抱擁する「母性」の復権というような単純な二元論的文明論に収まるものでもなかろう。日本は、アジア、アフリカ諸国で、唯一西洋近代文明の取り入れに成功したが、その移植は半端にしか根づかなかったがゆえに、日本は西洋的父性を取り入れつつも、東洋的母性も保ちつづけた、父性と母性の微妙なバランスに拠った特異な「中間的」文化・社会を形成してきた。河合は言う。「日本は母性優位と言うよりは、父性と母性のバランスの上に築かれていると言うほうがより妥当のように思われる。欧米との比較において、日本はむしろ母性社会と言うべきであるが、アジア、アフリカの諸国なども考慮にいれるとき、日本は不思議な中間状態にあると言うべきである15」。

 アズワンネットワークがめざす「一つの世界」も、この「中性」的とも言える、充溢せる中空=〈円〉が、ここかしこ、次々と起こり、連なっていくような星座のきらめきのごとき「世界」ではないだろうか。

 ところで、私も個人的に、これまでの人生において、そのような〈中空=円〉の連なりを体験してきたのではなかったか。今回のアズワンセミナーより前、やはりアズワンコミュニティの何人か、そして二人の大学教員と私が運営に携わり、持続可能な社会の作り方を学ぶユネスコ認証の教育プログラム「ガイア・エデュケーション」でも、サイエンズメソッドにもとづく探究が持続的に行われ、〈中空=円〉の貴さを幾度となく経験した。そしてまた、その7年前にも、橋本久仁彦がファシリテートする「非構成エンカウンター」(七泊八日)で、やはり〈中空=円〉の充溢せる神々しさを、まざまざと、おそらく人生で初めて実感した。ただ、ある場所にある時間集合し、解散する場所・時間しか決まっていない、その間は原則すべてが「非構成」な出会いしかないという、そのワークショップとも言い難いワークショップで、ファシリテーターとも言い難いファシリテーターである橋本は、開始時間が来たら、円く座る参加者たちに向けて、ただ「始めましょう」とだけ言った。それからは、本来、誰がいつ何を言ってもいいはずの場でありながら、誰も何もずっと言わず、ただ押し殺したような、居心地の悪い沈黙が1時間半にわたって続いた。それは、今考えれば、誰もその「中空」の場の、仮初めの「中心」になることすら厭う一種の「無責任体制」の無言状態だったように思う。おそらく同様の事態の場数を踏んでいるであろう橋本は、あえてその「無責任体制」に介入することなく、ただ待っている。待ち続けている。ようやく、亀虫と思しき一匹の虫が一人の女性に迫り、その女性が小さな悲鳴をあげて、沈黙が解かれた。

 その後三日間は、人間関係で悩み、心に大きな問題を抱えた主に女性たちが、その胸の内を、時折嗚咽を交えながら語ることが多かった。場の空気は(少なくとも私には)次第に重苦しくなり、長時間座りつづけることにも苦痛を覚えはじめた。三日目の夜、橋本が「コンタクト・インプロヴィゼーション」と呼ぶ、二人ペアで常時体の一部を接触させつつ即興的に踊るボディワークのファシリテーションもできることを知っていた私は、彼と皆に明日の朝それをやってみないかと提案し、実施することになった。翌朝、皆が橋本に導かれるまま、ペアで踊り出した。ぎこちなく、あるいは巧みに、皆踊り、再び円座に戻った時、場の空気は一変した。前日までの重苦しさが晴れ、それからはそれまであまり発言しなかった(私を含めた)何人かも言葉を発するようになり、深刻な中にも時折笑いが混じる、互いが心でも舞いあうような場を作りだしていった。私がおそらく人生で初めて、円座の中空の漲る神々しさを体感したのは、その場だったように思う。

 以降も気がつけば、よく〈中空=円〉に臨んでいた。真円ではないが、小山田徹の「ウィークエンド・カフェ」も〈火〉というたえず揺らぐ中心を囲むものであったし、そして近年、私自身が随所で開いている「ギフトサークル」というギフトエコノミーのワークショップも、言葉と沈黙の代わりに、モノやサービスや思いを円座の中で贈りあっている。また、やはり私が運営に携わっている「ヨガ・オブ・ボイス」というワークショップでも、円く座り、言葉の代わりに、(歌ではなく)「声」そのものを発しあいながら、互いの声の潜在力を目覚めさせ、解き放つ。すると、〈中空〉は文字通り、声の波動で漲り、いつしか〈聖なるもの〉が降臨してくるのを全員がまざまざと体感する。〈中空〉が〈中空〉のまま、大地から天へとせり上がり、天から大地へと雪崩れ落ちるような、〈中空〉の宇宙軸がせせり立つような感すら覚える。

 〈円〉で座り、〈中空〉を支えあい、頭と心と体のエネルギー=気を込めあいながら、かけがえのない、その時その場でその人たちでしか生み出すことのできない、生のきらめき、神々しさ。そこにもまた、藝術2.0の可能性が宿っているように、私には思われるのである。

 

 

註1 アズワンネットワーク「サイエンズメソッド〜理念と方法:サイエンズとは」(http://as-one.main.jp/HP/scienz_method.html)。

註2 とはいえ、アズワンセミナー、そしておそらくサイエンズメソッドそれ自体は、逆に「心」にフォーカスするあまり、「体」あるいは「感覚」の探究がおろそかにされているようにも感じた。セミナー中、探究はずっと畳に座椅子で座りながら行うが、10時間も座り続けると、皆姿勢もだらしなくなりがちで、体・健康にも良くないように感じた。メソッドとして今のところ「心」の探究に重点が置かれているが、人間はやはり「心」とともに「体」でもできているので、「心」と同時に「体」の探究も含み込んだよりホリスティックなプログラムを開発することが今後の課題とも思えた。

註3 アズワンネットワークHP(http://as-one.main.jp/HP/index.html)から。

註4 片山弘子「都市における一つの家計経済」(http://as-one.main.jp/sb/log/eid958.html)。「方丈記」は13世紀に記されたとされているが、原文をそのまま引用した。

註5 アズワンネットワーク「サイエンズメソッド〜理念と方法:サイエンズとは」(http://as-one.main.jp/HP/scienz_method.html)。

註6 アズワンとヤマギシ会との関係についての考察は、別の機会に譲りたい。

註7 C・G・ユング『個性化とマンダラ』、林道義訳、1991年、みすず書房、179頁。

註8 ミルチャ・エリアーデ『イメージとシンボル』、前田耕作訳、1971年、せりか書房、54頁。

註9 同書、55頁。

註10 河合隼雄『中空構造日本の深層』、1999年、中央公論新社、34頁。

註11 同書、41頁。

註12 同書、46-47頁。

註13 同書、48頁。

註14 同書、61-62頁。

註15 同書、58頁。

 

 

 

 

 

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著者略歴

  1. 熊倉敬聡

    1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours

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