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精進料理のこころ 吉村昇洋

第12回 坐禅堂での食事作法(下)

食中の作法

 

 禅の精進料理は、この連載で述べてきたとおり、一般的に理解されている「僧侶の食べそうな野菜料理」という表面的な意味を超え、「仏道修行として頂く料理」という側面が重視される。

 では、仏道修行として食事を頂くというのは、具体的にはどういうことか。それを理解するためには、「認知面」と「行動面」の2つの視点から見ていく必要がある。まず認知面に関しては、連載7回目に詳細を述べた「五観の偈」に記された内容に則して食事というものを見据え、謙虚な気持ちで目の前の料理と向き合うこと。また、行動面では、禅の修行道場で実践されている食事作法に則って料理を食べることを指す。

 禅の食事作法とは、食事をする坐禅堂への入り方に始まり、食べる際の姿勢を整え、小食・中食・薬石のそれぞれに対応して応量器を展(ひろ)げ、決められたやり方で食べ、食べ終えた器を熱いお茶や湯で洗って拭いて収め、坐禅堂から退堂するところまでの一連の流れを言う。さらに、浄人と言って、給仕の任にあたった際には、僧堂飯台における料理ごとの給仕のタイミング、具体的な給仕作法等、これまた多くのことを覚えなければならない。

 このように全体を見れば、一挙手一投足全てにルールがあるため、数えきれないほどの作法が複合的に絡んでいるが、一般家庭でも実践できる食中の作法としては、連載11回目で言及した「食事中にしゃべらない、音を立てない」以外では、次の2点が挙げられる。

  ・箸や器を扱うときには、必ず両手を用いる

  ・食べ物の咀嚼中は、必ず手を膝の上に置く

 では、1つ目の「箸や器を扱うときには、必ず両手を用いる」だが、その前に、器や箸の置き場所を説明しておきたい。

 テーブルにランチョンマットを広げたとして、向かって左手前から右に向かって香飯(きょうはん:ご飯)、香汁(きょうじゅ:汁物)、香菜(きょうさい:漬物)の順に並べ、別菜(べっさい:おかず)は修行道場では香菜の右側に手前に主菜、奥に副菜という順に置く。別菜に関して言うと、文献的に統一見解があるわけではないので、ランチョンマットに全てのせても良く、その場合には、香飯の奥に主菜、香汁の奥に副菜を置くのが自然であろう。

 次に、箸はというと、香汁の入った汁椀の上に、箸先が自分側を向くように斜め45度、例えるならば時計の針が10時20分を示すような角度にして置く。この置き方は、一般的な和食のマナーではタブーとされる「渡し箸」だが、鎌倉時代以来の箸置きを用いない応量器の作法からすると、食事中の衛生面に配慮された合理的な置き方となる。ゆえに、日常でこの作法を取り入れる際は、TPOに合わせて臨機応変に使い分けていただきたい。

 では、この状態からどのように器を扱っていくのかというと、右利きの方の場合、まず右手の中指と薬指、親指で箸の中ほどをつまみ、左手は右手でつまんでいる所のすぐ横に添えて持ち上げる。

そして、左手を返して箸の柄を持ち、箸をスライドさせ、箸の柄に近い部分を右手親指の付け根で挟み込む。

 

すると、両手の指先が自由になるので、両手で器を持ち上げ、左手の親指、人差し指、中指を茶碗の下にくぐらせたら、丁度ホームランの記念ボールのオブジェのように三本指で下から支え安定させ、右手に持つ箸を起こして食べる。一口二口、料理を口に運んだら、箸を右手親指の付け根に返し持ち、指先の空いた両手で静かに器を置いて、箸を汁椀の上に戻し咀嚼する。

 これが、食べる時の一連の流れということになる。器を持つ指について補足をしておくと、薬指と小指は不浄指(ふじょうし)といって、清浄なる食事を扱う際には使用しないことになっている。また、器の外側も、半ばより上が浄、半ばより下が触(そく:不浄)とされ、下から支える三本の浄指も、指先が半ばより上の浄の領域に触れるように持つ。

 さて、こうして料理を口に運んだら、咀嚼中は必ず一度箸を置き、手は膝の上で法界定印(坐禅中の手の組み方で、手のひらを上に向けて右手の上に左手をのせ、親指で輪を作る形)を組む。そして、口の中が空っぽになったら、再び両手で箸を取り、食事を再開していくが、これこそが2つ目の「食べ物の咀嚼中は、必ず手を膝の上に置く」作法である。

 こうした作法を通し、その瞬間の自己が何を感じ、どんなことに気づくか、しっかり観察することこそが、禅的な食事との向き合い方と言えるのである。

 

正座

 

 正座と書いて「しょうざ」と読む。これは、一般的にイメージする両足を折りたたむ座り方のことではなく、禅門では正身端坐(しょうしんたんざ)といって、姿勢を正して端正に坐ることを指す。これは、基本的には坐禅のことだが、意味を広くとれば、“正座(せいざ)”も正座(しょうざ)のひとつと言えよう。

 さて、食事をする際には、必ず正座(しょうざ)をする。坐禅堂での正式な食事である僧堂飯台の際には、結跏趺坐もしくは半跏趺坐といった坐禅の座り方をし、それ以外の場所では正座(せいざ)で食事をいただく。それゆえ、崩れた姿勢で食事をすることは許されず、真っ直ぐに目の前の食事と向き合い、ただただ丁寧な食事を心がけることが肝要となる。

 『赴粥飯法』の中には姿勢のほかに、「頭を掻いて頭垢(ふけ)を鉢や鐼子の中に落としてはいけない。当然、手はそのようなことをして汚すことのないようにする。身体を揺らしたり、膝を抱えたり、立膝(たてひざ)をしたり、欠伸(あくび)をしたり、あるいは鼻をかんで音を立ててはいけない。もし、くしゃみをしそうになったら、手で覆いなさい。また、歯に挟まったものをほじろうとする時は、必ず手で口を覆いなさい」と、食事中にするべきではない態度についても言及されている。

 また、同書では、ご飯を食べる際も、置いた食器に口を持って行って食べるいわゆる“犬食い”について釈尊の「傲慢な態度で食べてはならない。恭しく頂きなさい……」という言葉を引き、他にも「隣の席の鉢の中を覗き見て、不満に思う心を起こしてはいけない。自分の鉢に全心を注いで食べるようにしなさい。(中略)手を振りながら食べてはいけない。臂(ひじ)や膝をつきながら食べてはいけない。手でご飯を取り散らかして食べてはいけない」など、正座が崩れる食べ方を戒めている。

 『赴粥飯法』にはほかにも、「口の音を立てながら食べてはいけない。一度にたくさんの食事を口に入れてはいけない。食事を前に欲にかられて生唾を飲み込んではいけない。果物の種や口からこぼれたものは器の陰に置いて他人に見えない配慮をし、あとで浄人に回収してもらう。鉢の中を汚しながら食べてはいけない。鉢の中でご飯と汁物を混ぜてはいけない。舌打ちやゲップをしながら食べてはいけない。息を吹きかけて冷やしながら食べてはいけない。他人の余らせたものを見て欲しがってはいけない。器を匙や箸でこすって音を立ててはいけない。器の中に唾を吐き出してはいけない」など、多くの禁止事項があり、正座(しょうざ)に繋がる心構えが記されている。

 

洗鉢(せんぱつ)

 

 禅書『無門関』第七則に「趙州洗鉢」という公案がある。

 

 ある時、趙州和尚に一人の雲水が問うた。

 「私は入門早々の雲水です。どうぞお指図を」

 趙州和尚、答えて曰く

 「お粥は食べたか?」

 「はい、お粥は食べました」と雲水。

 「では、鉢を洗いなさい」と趙州和尚。この返答に雲水は大きく気づくことがあった。

 

 この話は、禅の修行道場での出来事なので、当然この雲水も食後に鉢を洗っている。にもかかわらず、“大きく気づくことがあった”というのはどういうことだろうか。それはおそらく、これまで大して意義を見出していなかった洗鉢に関して指摘を受けることで、日常の自己の振る舞いに意識を向けることの重要さに気づけたということなのだろう。

 このように、禅の食事作法では、洗鉢は極めて重視される。

 食後に浄人が香湯(こうとう:熱いほうじ茶)や浄水(熱湯)を配り、一番大きな鉢にそれを受け、鉢刷(はっせつ)を使ってこびりついた米をこそぎ取る。その後、順に他の器に茶湯を移し同様に洗っていくが、味噌汁の醪(もろみ)など、どんなに細かい粒も見逃してはいけない。この時、洗鉢をしつつ、同時並行で洗い終えた食器を自前の浄巾(じょうきん)で拭き、拭いた鉢から重ねていくのだ。

 箸や匙も含めて全部洗い終わるころに、折水(せっすい)桶を持った浄人が回ってくるので、使用した浄水を2/3ほど桶に流し、残りを飲み干す。そして、それを浄巾で拭き終えたら、応量器をきれいに重ね、布で包んで収める。

 現代に生きる我々からすると奇妙な作法に感じるかも知れないが、水が貴重であった時代から続けられてきたことを思えば、衛生管理の上からも必然性の高い作法であったと考えられる。

 実を言うと、この洗鉢は禅に限ったことではなく、諸宗で行われる作法である。もっと言えば、仏教の専売特許でもなく、一般民衆の中でも広く行われたことであった。

 江戸時代頃から昭和初期頃までの一般家庭で見られた「箱膳」の文化がまさにそれである。箱膳とは、銘々の食器が収められた箱で、それがそのままお膳の機能も持っていた。明治時代に発明された「ちゃぶ台」にとって変わられるまでは、全国的に使われたものだ。

 箱の中には、陶器の茶碗、漆塗りのお椀、陶器の平皿、箸といったものが基本的に入れられており、食後はお茶や湯と漬物を用いながら洗うのが一般的であった。これに習い、応量器を用いない精進料理の略作法では、今でも漬物を用いて器を洗う。現在でも、一部のお年寄りの中には、食後にお茶で洗う人が居るのも、その名残といえよう。

 この洗鉢作法を食後に行うのは、貴重な水を食器洗いのために無尽蔵には使えない修行の生活事情があったからだが、現代の日常生活においても多くのメリットが考えられる。まず、後にシンクで全て洗うにしても、一度個々人で洗鉢しておくことで、食器洗いが随分ラクになる。さらに、水や洗剤の使用量も減るので、自然と地球にやさしいエコな生活にもなるだろう。

 また、洗鉢を前提にしておくと、後で洗うときに面倒くさくないような食べ方をするようになることも大きい。つまり、無意識に器をきれいにしながら食べるようになるというわけである。これは、美しい食べ方につながり、洗った水を飲み干し、洗鉢をし終えた真っさらな器を眺めると、全てのいのちをいただききった姿がそこに現れてくる。有り難く食事をいただくことは誰にでも出来るが、“いただききる”ことはなかなかできることではない。

 先ほどの『無門関』に登場した雲水が気づいた大きなことというのも、案外こうしたことだったのかも知れない。

 

 

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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