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精進料理のこころ 吉村昇洋

第11回 坐禅堂での食事作法(上)

応量器

 

 応量器は、曹洞宗の僧侶が食事を摂る際の自前の食器で、6つの入れ子状になった漆塗りの重ね器から成っている。大きい順に、頭鉢(ずはつ)・4つの鐼子(くんす)<頭鐼(ずくん)・第二鐼・第三鐼・第四鐼>・鉢揲(はってつ)とあり、ほとんど深さのない6つ目の鉢揲は、頭鉢を直置きしないための台座として使用する。

 この頭鉢。一説によると、釈尊の頭蓋骨を意味することから“頭鉢”と称するというが、そもそも僧侶が托鉢に使用する器を鉢と呼んだ。これが頭蓋骨をひっくり返した姿と似ていることから、頭のことを鉢と言うようになり、いつしか、武士のかぶる烏帽子の縁を巻いた布のことを「鉢巻き」、また出会い頭に頭がぶつかりそうになることを「鉢合わせ」と表現するようになった。となると、頭鉢や頭鐼の“頭”の字は、“最初の”という意味であり、仮に頭鉢が“釈尊の”頭蓋骨を表すのであれば、それは信仰の印として“鉢”の文字にその意味を付与したのであろう。

 さて、これらの応量器、実際に料理を盛る器として利用するのは、頭鉢から第四鐼までの5つということになる。これらの器は食事の際に、匙(さじ)と筯(はし)、食後の洗鉢時に用いる鉢刷(はっせつ)とともに、漆を塗った紙である鉢単(はったん)の上に、作法に則って広げられる。

 では何を盛るのかというと、まず頭鉢は、小食ではお粥、中食ではご飯で、少量のものしか口にできない薬石では使用しない。次に頭鐼は、小食では沢庵、中食では汁物、薬石では頭鉢に代わってご飯が入る。第二鐼は、小食では胡麻塩、中食では沢庵、薬石では汁物。第三鐼は、薬石で沢庵が盛られる以外は、第二鐼の台座として使われ、第四鐼に到っては、一日を通して台座としてしか使用されない。

  小食 中食 薬石
頭鉢 お粥 ご飯 ×
頭鐼 沢庵 汁物 ご飯
第二鐼 胡麻塩 沢庵 汁物
第三鐼 第二鐼の台座 第二鐼の台座 沢庵
第四鐼 台座

 


小食の様子

 応量器の語源は、「釈尊が制定された器の製法に応じて作ること」や「人によって必要な食事の量が異なることから、各自の量に応じた大きさの食器を用いること」など、諸説あるが、はっきりとしたことは分かっていない。そもそも「応量器」という名称自体、曹洞宗の呼び方であり、同じ禅宗でも臨済宗では持鉢(じはつ)、黄檗宗(おうばくしゅう)では自鉢(じはつ)と言う。

 

威儀(いいぎ)を正す

 

 食事をする際の格好はどのようなものが好ましいのか。『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』には次のような記述がある。

「(食事の合図の鐘や太鼓が鳴ったなら)壁に面して坐禅していた者は身を転じて正面に向き直る。僧堂の外にいた者はすぐにやっていたことの手を止め、手をきれいに洗う。威儀を整えて正しい姿で僧堂に赴くようにする」(拙訳)

 ここに、「威儀を整えて正しい姿で……」とあるが、まず威儀とは行・住・坐・臥の四威儀を指し、僧侶として正しい立ち居振る舞いのことを言う。道元禅師はこの威儀を重視しており、著述の中に出家者が日常の修行生活において行うべき行儀作法を詳細に述べた『大比丘三千威儀経』からの引用が多数見られる。ちなみに威儀には、身のこなしだけではなく、服装などの外的な自分の状態も含むので、それらも整った正しい姿であることを求められる。

 では、食事をする際の“正しい姿”とはどんなものか。実際の修行僧達がどのような格好をして坐禅堂で食事をするかというと、まず、壊色(えしき:地味な色合い)の衣の上に直綴(じきとつ:黒い衣)を纏い、その上からお袈裟(七条袈裟)を身につける。これは、曹洞宗の僧が坐禅をする際の格好と同じである。ゆえに、裸足で坐禅と同様に足を組んで(両足をあげる結跏趺坐や、片足をあげる半跏趺坐)食事に向き合う。

 つまり、食事をとるときも正装で臨むわけだが、このこと一つをとってみても、食事をいただくこと自体が仏道修行であることの証左となるであろう。

 このように、坐禅に限らず行・住・坐・臥の全ての行いを実践するとき、修行僧は威儀を正すことが求められる。それはもう神経質なほど、襟元や裾の乱れを気にするのだ。しかし、言葉で読むとなんとなく理解できそうな気がするだろうが、実践となると話は違ってくる。何かしらの行動をとるということは、しばらくはその行為に集中することでもあり、そんな中、自己の威儀に意識を向けるのは、なかなか至難の業なのである。

 道元禅では「威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし)」といって、日常の正しい規律のある生活を送ることそのものが仏法であるとする。決められた作法に則った立ち居振る舞いをし、服装を整え、何事にも丁寧に向き合っていく。食事のときも同様だ。「威儀の乱れは、心の乱れ」は修行生活の間、何度も聞かされるフレーズであるが、そこに意識を置き続け、自己を律し続けることが、まさに禅の修行の厳しいところなのである。

 

音を立ててはいけない坐禅堂

 

 同じ禅宗でも、臨済宗や黄檗宗の場合、食事をとる場所は食堂(じきどう)や齊堂(さいどう)だが、曹洞宗では坐禅堂で食事をとる。坐禅堂は、東司(とうす:トイレ)と浴室と並んで、三黙(さんもく)道場の一つに数えられ、決められたお唱えごと以外、声を発したり、不必要な音を立てたりしてはならない場所である。

 では、食事の最中に全く音がしないかというと、そうではない。坐禅堂に修行僧を集めるために叩かれる梆(ほう:魚の形をした木製の彫り物)、僧堂内での献膳に合わせて鳴らされる太鼓、修行僧がお唱えごとをする際に用いられる戒尺(かいしゃく:拍子木)や槌砧(ついちん:八角柱の砧の天辺を小槌で打ち叩いて音を出すもの)など、実に多くの「鳴らし物」の音色が響きわたる。

 修行僧は、生活の全体を、鳴らし物の種類やタイミングにより、自分が今何をすればよいのかを知る。食事中も例外ではない。

 坐禅堂に入って、牀(しょう:坐禅を行う一段高い場所)に上がり、応量器を展(ひろ)げ、浄人より料理を受け取り、丁寧にいただく。食べ終わったら洗鉢し、応量器を収め、坐禅堂から退堂する。この間、修行僧たちは、お唱えごとをする以外、一切の動作を作法に則って行い、音を立てないように気をつける。

 ゆえに、ただでさえ音の鳴り響きやすい静寂に包まれた堂内では、箸や器を扱う音が際立ちやすくなるので、どうすれば音を立てずに済むか、修行僧は各自で工夫をするようになる。音を立てずに自然に食事が出来るようになるには、もちろん人にもよるが、だいたい3〜4ヶ月の時間と経験を必要とする。

 結果的に、音を立てずに食事をすることは、箸や器の上げ下ろしなどの一つひとつの動作を丁寧に行うということでもある。丁寧に行うためには、坐禅で重視される“今、この瞬間”の体験として、手元に意識を置き続けなければならない。ここに、坐禅が禅修行全体の基本となっている様子がうかがえるのである。

 さて、自己が音を立てないと、環境音や自然音がよく聞こえる。普段も聞こえているはずだが、普段よりもくっきりとクリアに聞こえる。堂内が静かであるがゆえに感じられる現象であるが、まるでお堂と自己が一体になったような印象すら受ける。堂内が静かに感じられるのは、自己が静かであればこそ。堂内外に修行僧たちが100人近くいるにも関わらず、自己と環境に一体感を覚えるという非日常的な体験ができるのは、やはり現代的な生活にはない「静けさ」を重視する禅の価値観が根付いているからであろう。

 

献膳と生飯(さば)

 

 坐禅堂の中心に鎮座しておられる聖僧(しょうそう:文殊菩薩)さまへの献膳も、修行僧の食事のタイミングに合わせて行われる。もちろん、修行僧への給仕よりも早く聖僧さまに献じられ、道元禅師のおられた鎌倉時代から現代に至るまで、神仏に敬意を払う姿は今もなお変わらず見られる。

 こうした儀礼は聖僧さまに限ったことではなく、承陽殿という御真廟では、永平寺開祖の道元禅師から五世の義雲禅師までの五人と総持寺の瑩山禅師の尊像をお祀りし、食事の時間には、必ずこれらの尊像に献膳を行っている。

 さらにもう一つ、食事作法の中に、神仏へのお供えものに近い「生飯」という概念がある。

 

<生飯の偈>

「汝等鬼神衆 我今施汝供 此食偏十方 一切鬼神供」

(じてんきじんしゅう ごきんすじきゅう すじへんじほう いしきじんきゅう)

 

 この偈文の意味は、「我は今から、この世界の一切の鬼神や供養されない亡者(餓鬼)に、自分の食事を施す」となり、これを唱えながら、各修行僧が鉢刷の先端を香汁(汁物)で濡らし、お米を七粒ほど置くのである。大乗版『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』によると、<釈尊が荒野を歩いていたとき、衰弱して死にそうな鬼と出会った。この鬼は、ある時仏教で重視される戒律「不殺生戒」(生き物を殺さないという自己ルール)を守ろうと決意したため、飢死寸前になっていた。そこで釈尊は、弟子たちに命じて、今後仏教のあるところでは必ず食事のたびに生飯を施させると約束した>という。そして、この逸話が「生飯」の儀礼に繋がっていったのであるが、要は餓鬼に施して、その功徳を三界万霊に回向する施食(施餓鬼)を意味しており、多くの仏教諸宗派の食事儀礼として今も実践されている。

 僧堂内での食事の際、音を立てないようにすることを先に述べた。仏教学者・菅原研州氏の指摘で知ったのだが、北宋で撰述された『禅苑清規(ぜんねんしんぎ)』「巻十巻・百丈規縄頌」に、「食せん時は匙筯(しじょ:さじと箸)をもて鉢を刮(こそ)げて声を作すことを得ざれ。その無福鬼神を動かして飢渇の想を生ぜしめん。罪量るべからず。切に宜しく低細にすべし」とあり、食事中に音を立てると、無福鬼神が腹を空かせるので、気をつけよと書いてある。この無福鬼神とは「無財餓鬼」のことで、食べることが全くできず、飲食しようとすると燃えてしまうが、施餓鬼供養されたものだけは食することができる餓鬼のことを言う。ただ、道元禅師は、『赴粥飯法』を記す際に『禅苑清規』から多くを引用しているものの、無福鬼神については全く触れておらず、引用がなかった意図については分からない。ただ、弟子達に『禅苑清規』をよく読んで参考にせよとも語っているので、この話は頭の片隅に入れておいても良いだろう。ちなみに、仏教的な餓鬼の特性として「音を嫌がる」とされるので、それとも関係があるかも知れない。

 さて、一人ひとりの修行僧から集められた生飯は、坐禅堂脇に設置された石造りの生飯台に置かれ、鳥や虫などの自然界の生き物に供養される。これは禅宗に限ったことではなく、多くの宗派で行われていることも知っておきたい。

 

食事のスピード

 

 食事のスピードを考えるときに、前提となる“配膳の型”を見る必要がある。ここでいう配膳の型とは「時系列型」と「平面展開型」の二つで、時系列型は、現在のフランス料理のように時間を追って料理が順に運ばれてくるスタイル、そして平面展開型は、お膳のように料理が最初から個人の目の前に置かれた膳に並べられるスタイルをそれぞれ指す。

 では、僧堂飯台(坐禅堂での食事)はどうかというと、給仕自体は坐禅堂内に運ばれる順になされるので時系列的ではあるが、料理が全て揃ってから食べるので平面展開型となる。平面展開型では、食べ終わるスピードがまばらになりやすく、早く食べ終えた者が遅い者を待ってイライラしかねないが、僧堂飯台の場合、実を言うとそうはならない。というのも、同じ空間に一緒にいる最長老のスピードに皆が合わせることがルール化されているからである。

 坐禅堂にいる誰もが、周りの動きを意識しながら、食事のスピードを合わせる。飛び抜けて早食いの者もいないし、飛び抜けて遅食いの者もいない。最長老がペースメーカーとなって、全体のスピードを調整するのである。

 部派仏教の律では、托鉢から戻ってきた者から順に食事をとることになっているため、基本的にバラバラの食事である。だが、「別衆食」といって、托鉢によらず在家信者に招待をされて食事を行う場合もあり、その際は長老がペースメーカーとなる。ただし、「長老は一切の人が飯を受け終わらない間に食べてはならない」や「長老は一切の人が食し終わらないうちに洗鉢用の水を受けてはならない」といった具合に、周りが長老に合わせるというよりも、長老が周りの動きに注意する形となっているが、食事次第のキーマンが長老であることに変わりはない。

 さて、咀嚼中は箸を置いているので、作法通りに食事をすれば、ある程度時間を必要とし、早食いになることはない。しかし、一般の方からするとそれでも早く感じるかも知れない。そこには、単純に食事作法に慣れているか否かという話と、修行僧としての自覚の深浅の問題があると言える。作法に慣れれば当然無駄な動きがなくなるので、スマートかつスピーディーに食事を進められる。また、修行僧が我欲に溺れ、仏道としての食事を蔑ろにし、早食いを旨とするようであれば、それは単純に浅はかと言わざるを得ない。

 どの世界のマナーでも、一緒に食事をしている人達の食べるスピードに合わせることが良しとされる。この背景に、自己よりも他者を尊重する姿勢があるわけだが、そのような意識で食事と向き合っていくことも、仏道として食事を頂く際のポイントとなるのである。

 

 

 

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著者略歴

  1. 吉村昇洋

    1977年生まれ。曹洞宗八屋山普門寺副住職。臨床心理士。相愛大学非常勤講師。曹洞宗大本山永平寺での2年2ヶ月間の修行経験をベースに、禅仏教や臨床心理学、精進料理、仏教マンガについての講演、本や雑誌、新聞にて執筆活動を行う。NHK 総合『ごごナマ』やNHK Eテレ『きょうの料理』の講師として人気を博すほか、地元広島の情報番組RCC『イマなまっ!』にてコメンテーターを務める。また、地方紙『中国新聞』にて宗教コラムの連載「放てば手にみてり」を担当。近著に『禅に学ぶくらしの整え方』(オレンジページ)のほか、『心が疲れたらお粥を食べなさい』『気にしない生き方』(いずれも幻冬舎)、『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)など著書多数。

    曹洞宗八屋山普門寺 http://www.zen-fumonji.com/

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